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第三話 進路希望調査票

 夕食の席で、珍しく早く帰宅した律の父が、ビールの入ったグラスを傾けていた。彼は、八人の弁護士を抱える法律事務所の代表であった。


「学年トップか、悪くないな。……だが進路希望調査票、まだ出してないそうじゃないか」

「……はい。明日には」

「迷う理由なんて、お前にはないだろう」


 律は反論せず、ただ頷いた。顔に前髪の影ができる。父はそれ以上、問い詰めることはなく、新聞に視線を戻した。進路希望調査票など、父親にとっては実質的な問題ではない。出願して、受験して、合格しさえすればそれでよいのだから。けれど律は、まったく自分の意思が反映されてない調査票を出すことをためらっていた。こんなの虚しい抵抗だと分かってはいたけれど――。

 律はまた少し息苦しさを感じた。それをかき消すようにグラスのミネラルウォーターを飲み干す。こうすると呼吸が整うことを、律は自分で学んでいた。そうして、いくらか気持ちを落ち着かせると、中指で眼鏡を押し直した。


「明日、朝早く行くから。朝ごはんはいらない」

「あら、そう」


 母親は特に気にする様子もなく頷いた。

 夕食後、律は自室に戻ると、クローゼットから小型アンプを取り出し、リュックに詰めた。音楽がやりたいのか、ただ受験のストレスから逃れたいのか、それとも父親に反抗したいのか、自分でも理由はよく分からなかった。


(あいつ、ちゃんと来るかな……?)


 翌朝、まだ誰も起き出さないうちに、律はベースケースを担ぎ、リュックを背負い、勉強道具の入ったいつものカバンを手に提げ、家を出た。まだ蝉も一匹しか鳴いていない。

 学校に着くと、普段とは違う校門から入り、旧校舎の裏手へとまわった。人工芝のグラウンドにはサッカー部が数人集まっている。

 昨日、蓮が言っていた通り、裏庭から家庭科室の前へ来た。ドアノブをひねると、ドアが開いた。鍵が壊れているようだった。早朝の教室は涼しかった。家庭科室を通り抜けて、戸を少し開け、頭を廊下に突き出す。左右を見て、誰もいないことを確かめる。薄暗い廊下に一歩踏み出すと、床が鳴った。次第に蝉の鳴き声が増えてくる。

 階段を上がって、三階の音楽室へ向かう。

 音楽室の扉はきちんと閉まっていた。昨日、自分が閉めたのかどうか記憶は定かではない。扉を開けると、ツンとした湿っぽい匂いが鼻を突いた。窓が閉まっている。どうやら毎晩、警備員が見回りに来ているようだ。

 律は少し不安に思ったが、ベースとリュックをピアノの陰にそっと置いて、すぐに音楽室を後にした。

 入ってきたときと同じく家庭科室から外に出て、それから新校舎の玄関へ行った。三階の特進クラスへ向かう間、誰とも会わなかった。それでも教室のドアを開けると、まだ講習の開始時刻にはかなり早かったが、すでにちらほらと生徒が着席していた。律はいつもの席に着き、カバンから夏期講習のテキストを出した。今日やるところの予習でもしようかと読み始める。けれど文字が頭に入ってこなかった。時折、ベースを置いてきた音楽室の光景が脳裏をよぎった。グラウンドを見下ろすと、サッカー部のランニングが始まっていた。

 講習が始まってしまえばそれなりに集中することはできた。カフェテリアで昼食を取り、午後は自習だった。とはいえ自由ではなく、決まった時間まではそこにいなくてはならない。律は京大数学の過去問に取り組んだ。ようやく一年分を解き終えた頃には、集中力はとっくに切れていた。終業時間までじっと座って待つ。律は放課後が待ち遠しかった。放課後に何か楽しみが待っているなんて久しぶりのことだった。それは昨年冬のクリスマスライブ以来かもしれない。

 教室に山城が入ってくると、ほぼ同時にチャイムが鳴った。いつも通りの言葉が続き、解散となる。

 律が荷物をまとめて椅子から立ち上がろうとしたとき、山城が律の前に立った。


「相沢、ちょっといいか」

「……はい」

「進路指導室まで来てくれ」


 律は息が止まりそうになった。音楽室に置いたベースのことか、それとも進路希望調査票のことか。

 すぐに山城が歩き出す。律は、用件が何なのか聞くこともできず、黙って後についていく。力の入らない足を引きずるようにして廊下を進んでいった。

 山城が、進路指導室の鍵を手慣れた動作で開け、二人は中に入った。


「まあ、座りなさい」


 律は手前のパイプ椅子に、ぎこちない動作で座る。山城は机を挟んで向かいの椅子に腰を下ろした。進路指導室に来ることは珍しいことではなかった。この学校は進路のために存在するようなものだから、むしろここは学校生活において主要な部屋のひとつだった。いつもと変わらず、大学案内のパンフレットが書架に並べられている。壁には国立大学と主要な私立大学の位置を示した日本地図が貼られている。


「進路希望調査票、まだ提出してないな」

「……すみません」

「今日までだぞ」

「はい」

「何か悩みでもあるのか」

「いいえ。特にありません」

「じゃあ、なぜ出さないんだ。学校推薦のことがあるから、提出してくれないと推薦してやれないぞ」


 ベースのことではなかった、と律は安堵した。顔を上げると、山城の背後の窓が目に入る。窓の外は急に薄暗くなってきていた。夕方には雨が降りそうだ。 


「あの……」

「ん?」

「実は……、前に持ってきたんですが、その時、濡らしてしまって……」

「進路希望調査票を?」

「はい。なので、汚くなってしまって……、言い出せずに」

「なんだ、そんなことだったのか。そんな神経質になることないぞ」


 山城は笑った。

 律も、照れたように小さく笑った。嘘が通じたようだった。


「中身は、書いてあったんだな?」

「はい」

「ご両親とも相談はしたんだな?」

「はい」

「署名ももらってた?」

「はい」

「そうか、言い辛かったか。で、これまで通り、京大法学部でいいのかな?」

「……あ、はい」

「じゃあ、新しいの渡すから、ここで書いてくれ。第一希望のところだけでいいから。京大法学部と、推薦希望にマルつけてくれ。希望するだろ?」

「……はい」


 山城は引出しを開け、中から新しい進路希望調査票を取り出して机に置いた。


「京大法学部は、学校から一人しか推薦できないからな。直近の模試の成績でいけば、まあ、お前が希望したら、お前を推薦する可能性が高い」


 律の呼吸が浅くなり始めた。言い逃れが通用したと思った直後、この場で、自分で進路を書かねばならぬ羽目に追い詰められてしまった。

 律は、カバンからゆっくりとペンケースを取り出した。


「ボールペンで、いいですか?」

「うん、ボールペンがいいな」


 ボールペンを握る手が汗で濡れている。律はペンをいったん左手に持ち、右手を腿にこすりつけた。

 律は、机の上の、新しい進路希望調査票を見た。もちろんすべて空白だ。けれどその空欄に「京都大学法学部」という父の筆跡が見えてくる。山城が何か話しているが、律の耳には入ってこない。ペンを右手に持ち直したが、その手が少し震えていることに気がついた。


「……TOEFLのスコアは問題ないけれども、もう一回は受けたほうがいいだろうな。そのスケジュールも追々知らせるけども……」

「……はい」


 掠れた声で呟いた。

 律は諦めて、第一希望の欄に文字を書き始めた。「京都大学法学部」と書き終える。けれど、それが自分の筆跡とは思えなかった。どこか書き間違えたかと思って読み返すが、確かに「京都大学法学部」と書いてあった。それから隣の推薦希望をマルで囲んで、最後に、自分の名前とクラスを書き入れた。


「うん、それでいいよ。今からこれコピーしてくるから、いったんそのコピーをもって提出、という形にしておくけども、家に帰って、原本に保護者の署名もらって、またそれを提出してくれ」

「はい」


 山城は、いま書き入れたばかりの進路希望調査票を持って、部屋を出ていった。

 律は、苦痛の混じった思い詰めた表情で空っぽの机を睨みつけていた。ボールペンを握り変え、折れそうなほど強く握る。ペン軸がギリギリと曲がる。そして今にも折れそうだというところでフッと脱力し、大きく息を吐いた。口を開けたまま、虚ろな目で窓の外を見る。唇が少し乾いていた。

 窓の外では、雲が次第に灰色になってきていた。

 山城が戻ってくる。


「はい、じゃあこれ原本な。署名もらってきたら、提出してくれ」

「はい」


 律は調査票とボールペンをカバンにしまい、パイプ椅子から立ち上がった。山城が、律の肩を軽く叩く。


「しっかりな」

「……はい」


 律は山城に頭を下げ、進路指導室を出た。廊下には誰もいない。曲がり角まで歩いて、後ろを振り返る。山城は部屋の中にまだいるようだった。角を曲がると、律はクスクスと笑い出した。カバンの中に二枚の進路希望調査票が入っていることがおかしかった。半ば強制的に自分で書くことになったのは想定外だったが、それでも自分で書き入れたという達成感のようなものがあった。

 律はそこから小走りになって連絡通路へと向かった。

 黄色いテープをくぐる。旧校舎の熱気が身体を包み込む。

 律は新校舎から逃げるように廊下を駆け足で進み、階段を駆け上がった。息があがり、汗が吹き出てくる。

 音楽室が見えたところで、足を止め、ゆっくりと近づいていく。中からギターの音が漏れてきていた。

 扉を開けると、昨日と同じ様に、蓮がピアノの椅子に腰掛けてギターを弾いていた。律の姿を見ると、蓮は手を止め、片方の口角を上げる。


「遅かったな」

「……講習が、長引いた」


 律は肩で息をしながら答えた。こめかみから汗が一粒流れた。爽やかな表情をしていた。


「雨降りそうだな。早くやろうぜ。これ、お前のだろ?」

「うん」

「なんだよ、その顔。何かあったのか」

「……別に。それより、始めよう」


 律はリュックから小型アンプを取り出した。それからベースを取り出し、ストラップを肩にかける。アンプの電源を入れると、微かなノイズの後、静寂が満ちた。

 蓮は何も追及せず、ただ律を見つめていた。それから、ふっと表情を緩める。


「じゃ、合わせてみようぜ」


 蓮は椅子に座って、ギターを構え直す。律は深く息を吸い、指をベースの弦に乗せた。

 蓮が律に向かって微笑みかけ、短いフレーズを弾き始める。不安定に揺れるコード進行。律は耳を澄ませ、そのルート音を探りながら、低い一音を差し込んだ。

 ズン、と重い音が響いた瞬間、蓮の口元がわずかに緩んだのが見えた。

 二つの音が絡み合っていく。蓮のギターが迷うように旋律を探る。律がその足元を支えようと追いかける。ずれては、また噛み合う。危うくて、それでいて確かに繋がっている感覚。

 律は、父の筆跡も、山城の言葉も、自分の書いた「京都大学法学部」

の文字も、指先の震えも――全部を、弦を弾く一音一音に押し込めていく。嫌なことが、ひとつひとつ、消えていくようだった。頭で考えるより先に、身体が音を選んでいく。音が、これほどまでに心地よく聞こえるのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。

 時折、律がルート音を外す。そうすると、蓮は嬉しそうな表情で律を見上げる。律が追いついてきやすいように同じコードを繰り返したかと思うと、突然、変調する。それでいてミスタッチは無い。蓮はいたずらっ子のように笑いながらギターを弾く。

 窓の外が、いつのまにか薄暗くなっている。遠くで低い雷鳴が響いたが、二人とも気に留めなかった――。

 どれくらい弾いていただろうか。蓮がふいに手を止めた。それぞれの余韻がしばらく響いた後、二人の荒い息だけが聞こえていた。


「……良かったよ」


 蓮はそう言うと、ギターを床に置いた。律もアンプの電源を切り、ベースを傍らに置いて床に座る。汗で額に張り付いた前髪を、指でかき上げた。


「僕も、楽しかった」

「ところでさ、お前、名前なんていうの?」


 律は、呆気にとられてポカンと蓮を見た。それから大笑いした。


「なんだよ。俺、変なこと言った?」


 律は腹を抱えて笑いながら、首を横に振る。こんなに大笑いしたのはいつ以来だろう。今日はこんなことばかりだ、と律は思った。

 ようやく笑いが収まってから、律は言った。


「相沢。相沢律」

「相沢……。お前が相沢か、あの秀才の。……そうだったのか」

「そんなんじゃないよ」

「俺は――」

「知ってる。瀬名くんだろ? 瀬名蓮」

「……やっぱ優等生は何でも知ってるんだな。落ちこぼれの名前まで知ってるか」

「別にそんなこと思ってない」


 律はじっと蓮を見つめた。一瞬、蓮の顔に陰りが浮かんだようだったが、すぐにいつもの顔に戻って、口角を上げた。


「いや、今のは俺が悪かった。卑屈だったな。もし、お前が俺をバカにしてるんなら、こうしてベースまで持ってこないよな」


 律は大きく頷く。


「俺に会いに毎日来るなんて変わった奴だと思ってたけど、それがあの優等生の相沢だってわかったら、もっと変な奴だって思うようになったな。お前、変わってるな。おもしろいよ」

「なんだよ、それ。褒め言葉として受け取っておくけど」

「それでいいよ。なあ、早く帰ろうぜ。夕立になるぞ」


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