第二話 重低音と不協和音
全10回の2回。
律は夕食を終えると、いつも通り自室で勉強した。卓上ライトの青白い光が、手元の『京大入試予想問題集』を照らしている。机の前には整然と並んだ参考書。
律の長い指に挟まれたシャープペンシルが、勢いよく途中式を書いていく。
『……俺にぴったりだろ? 落ち着かない音。どこにも居場所がない感じがさ』
耳の奥で、昼間のあの低い声がして、律は思わず手を止めた。黒髪のウルフカット。薄い唇から漏れた、あざ笑うような、けれど酷く切ない呟き。
シャープペンシルの芯が、紙の上でピタリと止まったまま動かない。
律はこめかみを押さえて目を閉じた。あの音楽室の熱気、蝉の声、そして――手首に残る蓮の指の感触。あれから半日も経っているのに、まだ皮膚の表面にじんわりと熱が残っている気がして、律は自分の手首を見た。それから指先の硬くなったところを見る。
律は頭を振って湧き出てくる記憶を振り払い、無理やり問題集に視線を戻す。けれど、数式が、頭の中でうまく像を結ばない。
律は椅子を引いて立ち上がった。クローゼットの前に行き、ゆっくりと扉を開ける。洋服の奥に、黒いソフトケースに入れたベースが立てかけてある。
律はケースを両手で抱え、ベッドの上にそっと横たえた。ジッパーをつまんで開けようとして、けれど、そこで手を止めた。
「……もう、やめよう」
律は、自分の声がひどく弱々しいのに驚いた。これまでに何度も思ったことだが、初めて声に出してみて、自分の耳で聞いて、途端にやるせない気持ちで胸がいっぱいになった。
律はケースをクローゼットの奥に押し込み、乱暴に扉を閉めた。
翌日、放課後。
律は夏期講習のあと、自習室に残っていた。エアコンの効いた自習室の席はほぼ埋まっている。周りからシャープペンシルの走る音やページをめくる音が迫ってくる。聞き慣れた音のはずなのに、律はそれらに圧倒され、集中できずにいた。
律は諦めてカバンに問題集や文房具をしまい込み、自習室を出た。トイレを通り過ぎ、階段を下り、気づけば連絡通路の黄色いテープの前に来ていた。律は少しの間、先へ行こうかどうか迷って立っていた。が、やがて後ろを振り返って誰もいないのを確認すると、テープをくぐった。
旧校舎の熱気が、律の白いシャツにじっとりとまとわりついてくる。額から汗が吹き出してくる。気がつくと、次第に歩く速度が上がっていた。胸が高鳴っていた。
軋む廊下を進んで、階段を上がり、音楽室の近くまで来る。すると、昨日とは違う音が漏れていた。
ピアノではない。乾いた弦の響き――アコースティックギターだ。
律はそっと音楽室へ近づくと、息を潜め、扉の隙間から中を覗いた。
蓮がピアノの椅子に浅く腰掛けて足を組み、ギターをその膝に乗せている。うつむいた横顔に、長い睫毛。左手の指が、指板を這うように動いている。
紡がれているのは、聴いたことのない旋律だった。コードは不安定に揺れ、解決しそうでしない。迷いながらも前に進もうとする足取りのような、危うくて、それでいて確かな芯のある音。
弦を弾く蓮の指先――爪が少し伸びていて、その先端が弦をこすると微かな雑音が混じる。それすらも、旋律の一部になっている。
時折、上下する喉仏。開いたシャツの襟元から覗く鎖骨に、汗の粒が一つ、光りながら滑り落ちていく。
蓮の指から零れ落ちる音は、雄弁に彼の内面を語っていた。不安定で、不揃いで、歪で……、けれど狂おしいほど綺麗な、彼自身の音楽だった。
律は目を離すことができないでいた。そして、知らないうちに詰めていた息を、細く吐いた。
旋律がふいに止まる。律は思わずじっと固まった。
「……また覗き見か」
顔を上げないまま、蓮が言った。律はビクリと肩を揺らす。
「べ、別に覗いてなんか」
「来ないと思ってたんだけどな。……やっぱり、あのきれいな校舎じゃ息が詰まったか?」
蓮はようやく顔を上げ、律を見た。前髪の隙間から覗く目が、今日はやけに凪いでいる。それが逆に、律の心臓を落ち着かなくさせた。
「今の……お前が作った曲?」
律は思わず尋ねていた。蓮は片方の眉を上げた。少し驚いたような表情だった。それから、ふっと口角だけを上げた。
「そう。まだ途中だけど」
「……悪くなかった」
「悪くない、ね」
蓮は立ち上がって、ギターをそっと椅子に立てかけると、律のほうへゆっくりと歩み寄る。距離を詰められるたび、律の喉が小さく鳴った。
蓮は律のすぐ前で足を止め、少し首を傾げてこちらを覗き込む。至近距離で見る瞳には、昨日と同じ人懐っこさとともに、なにか真剣なものがあった。
「な、なんだよ」
「お前の音が聴きたい。お前のベースの音」
「……」
「昨日の指のタコ、伊達じゃないだろ」
律は断ろうとして口を開いたが、言葉が何も出てこなかった。否定する言葉をすべてど忘れしたようだった。ただ、まっすぐに「お前の音が聴きたい」と言われている――それだけのことが、律の胸の奥で、何かを固く縛っていた紐をゆるく解いていった。
「明日、持ってこいよ」
蓮は右腕を伸ばし、律の頬に軽く指先で触れた。汗ばんだ皮膚をなぞるように、一瞬だけ。
「暑いな、お前」
律はまたじっとするしかできなかったが、今日は怒りも恥ずかしさも湧いてこなかった。それどころか嫌な気持ちすら湧いてこない。律は不思議な思いに包まれ、蓮の顔を見ていた。
蓮は喉の奥で低く笑った。人懐っこいような、それでいてどこか飢えているような笑い方だった。
蓮は椅子に戻って、ギターを黒のハードケースにしまい始めた。
「もう帰るの?」
「ああ。早く帰らないと、見つかったら怒られるんだろ?」
蓮がギターケースを持って、律の脇をすり抜けていく。
「じゃ、明日な。一階の家庭科室から入れるから」
「おい、無理言うな。ベースなんか持って来れるわけないだろ」
蓮は音楽室を出て廊下を歩いていく。そして前を向いたまま右手を顔の横に上げ、ひらひらと振った。
律は、その場に立ち尽くしたまま、頬に残る指の感触を、いつまでも意識していた。




