第一話 旧校舎の音楽室
全10回の第1回。
高校3年男子の青春文学、、、といえばいいのかな。
午後の講習が終わって、進路指導の山城が教壇で話をしていた。特進Aクラスは新校舎の三階にあって、その一番窓側の席に、相沢律がいた。彼の切れ長の目が、そっとグラウンドを見下ろす。真ん中で分けた髪の先端が、ふわりと眼鏡の上に乗る。彼はその細いフレームの眼鏡を中指で押し上げた。
グラウンドの人工芝が、八月の強烈な斜光に焼かれている。あたり一面の無機質な緑のところどころから煙でも立ち昇りそうだ。
教室は、薄寒いほどエアコンが効いていた。
「今回の京大模試。学年トップは相沢だ」
山城が教卓でプリントをトントンと揃える。その声に、律は顔を前に向けた。
周囲の生徒たちから、羨望と納得が混ざり合ったため息が漏れる。
「このままのペースを維持できれば、現役合格はほぼ確実だ」
「ありがとうございます。油断せずに頑張ります」
山城の手元に重ねられた『進路希望調査票』の束が目に入った。律はまだ提出していない。今もカバンの奥底で押し潰されている。第一希望から第三希望まで、すでに父親の達筆な万年筆で「京都大学法学部」とデカデカと書き込まれていた。律が自分で書き入れたのは、クラスと名前だけだった。
「よし、今日の講習はここまで。各自、予備校や自習室でしっかり復習するように」
椅子を引きずる不快な音が教室に響いて、生徒たちが立ち上がる。それぞれ厚い参考書や問題集が詰まったカバンを手に、エレベーターへとぞろぞろ歩き出す。ここは男子校なので、男子生徒ばかりだ。
律は教室がほとんど空になってから、ゆっくりと立ち上がった。それから、一八〇センチある自分の背を少し丸めるようにして、みんなとは逆方向に歩き出す。
(まただ……。また息が浅くなってる)
目を軽く細め、深呼吸をする。けれど、いくら吸い込んでも、肺の深くまで届かない。まるで自分の肺がゼリーのプラスチックの型にでもなったようで、吸った空気がぎこちなく跳ね返ってくる。
エレベーターへ向かう同級生たちの背中から逃げるように離れ、律は階段で二階へと下りていく。新校舎と旧校舎をつなぐ連絡通路の前で足を止めた。
通路には、立入禁止の黄色いテープがバッテンの形に貼られている。この木造の旧校舎は昨年度まで使われていたが、来年の春、律が卒業したあとに完全撤去されることが決まっていた。
後ろを振り返って誰もいないこと確認すると、律は黄色いテープをくぐった。ちょうどそこで新校舎のひんやりした冷気が途切れて、サウナに入ったかのような熱気が、前からモワッと押し寄せてくる。
窓を閉め切った校舎の熱気。木と埃のにおい。時折、床が軋む。数ヶ月前までここで生活していたのが信じられないほど、あっという間に古くなってしまっていた。
窓の外からはクマゼミたちの声がダイレクトに鼓膜を揺らす。新校舎の防音ガラス越しには届かなかった、荒々しい真夏の音がそこにはあった。
律の額に汗が滲んでくる。こめかみから、一雫の汗が頬骨を伝う。律は眼鏡を外し、右腕を上げて半袖シャツでその汗を拭う。細身の身体のラインが露わになる。
ここに来たからといって、進路の悩みが解決するわけではない。ただ、あの無菌室みたいな新校舎と、そこから伸びている決まりきったレールから一瞬でも目を逸らしたい――、律はそう考えていた。
そのとき、澄んだ一つの音が聞こえた。
続いて、コン、コン、と、鍵盤の音が重なっていく。
(……え?)
律は足を止めた。
誰かがピアノを弾いている。いや、弾いているというよりは、指一本で鍵盤の感触を確かめるように、ポツリ、ポツリと音を置いている感じだった。
(C、E、G#《シー、イー、ジーシャープ》)
音楽の授業で習う音名でいえば、ド、ミ、ソ#。最後のソ#のところで宙吊りにされたまま放置されたような響きとなる。不安定で、不気味なくせに、耳から離れない。
律は吸い寄せられるように、ギシギシ鳴る廊下を奥へと進んだ。階段を上がって音楽室の前に来る。音楽室の扉は、指一本分だけ隙間が空いていた。
律は扉の前で立ち止まった。一音一音確かめるような音が、今度ははっきりと律の耳に届いた。
C、E、G#。
律は扉をそっと押す。古いグランドピアノの前に一人の男子生徒が座っていた。
シャツのボタンをふたつ目まで外し、ダラリとネクタイを緩めた格好。汗ばんだ胸元。少し開いた唇。髪が日差しを受けて茶褐色に透けている。
一学期に転校してきたものの、学校中から落ちこぼれ扱いされている男――瀬名蓮だった。
蓮は、片手で同じ三つの鍵盤を順番に、ときには同時に弾く。開いた窓から流れ込む蝉の声と、その和音が混ざる。
その音が響くたび、古い音楽室の空気が毛羽立つ気がした。解決を拒みながらも、次の音を激しく求める。それでいて、どこへも行けない音。
律は、彼に眼差しを向けたまま、その場に立ち尽くしていた。こめかみから汗が流れ、顎の先で雫となる。暑さだけじゃない、不思議な興奮が律を包みこんでいた。
「……オーギュメント」
思わず呟いていた。余裕のない、硬い声。
鍵盤の上で、蓮の指が止まる。
蓮がゆっくりと振り返った。少し長めの前髪の隙間から覗く、三白眼ぎみの鋭い目元。それは死ぬほど冷ややかで、退屈そうな瞳だった。
律は、何か見てはいけないものを見ているような気がして、それでも彼から目を離すことができないでいた。
「何か?」
蓮は鍵盤から手を離し、椅子に腰掛け直した。首元で、銀のチェーンがシャラリと鳴る。
律は音楽室に足を踏み入れた。窓から背後の扉へ、かろうじて空気が抜けていく。教室には机も椅子も無ければ、かつて壁に飾られていたバッハの肖像もベートーヴェンの肖像も、吹奏楽部の賞状も、何も無い。古いグランドピアノだけがぽつりと残されていて、まるでステージのようだった。
律は何か言わねばならぬと口を開けたが、何も言うことができないでいた。
「立ち入り禁止だぞ、ここ」
蓮は片方の口角を上げて笑うと、再びピアノの鍵盤に視線を落とし、さっきの不気味な三音を同時に鳴らした。
「オーギュメント。お前、なかなか詳しいんだな。俺にぴったりだろ? 落ち着かない音。どこにも居場所がない感じがさ」
「……くだらない。お前も早く出ないと、怒られるぞ」
律は、背を向けてドアノブに手をかけた。
「待てよ」
素早い足音が響いたかと思うと、律の右手首がガシッと強い力で掴まれた。
ハッとして振り返る。すぐ目の前に、蓮の顔があった。律と同じくらいの目線の高さ。汗の匂いと、ほんの微かな煙草の匂い。
「な、なんだよ」
律は振り払おうとするが、蓮は手を離さない。
「せっかくだからさ、俺ともう少し遊んでかない?」
蓮は手をじわじわと下げて、律の手を握りこんだ。そのまま律の右手の指先に触れ、律の首元の匂いでも嗅ぐように顔をゆっくりと近づける。
律は手を振り払い、顔を背けた。
「冗談だよ」
蓮はゲラゲラと笑い出した。
その瞬間、律の顔は耳まで紅潮した。怒りと恥ずかしさが頭の中で暴れまわる。思わず声を荒げたい衝動に駆られたが、それをぐっと我慢した。取り乱せば、さらに蓮を喜ばすだけだと思った。そして、顔が赤いのを蓮に悟られまいと少し俯いて、じっと蓮の笑い声に耐えていた。
ひとしきり笑い終えると蓮が言った。
「お前、ベース弾くだろ」
律はハッと彼を見た。蓮は人懐っこい狼みたいな表情で、じっと律を見つめている。
「その指のタコ。ベースだろ?」
図星だった。
二年生の冬まで、スタジオで知り合った仲間のバンドでベースを弾いていた。受験のために強制的に引退させられた今でも、真夜中、自分の部屋でアンプも通さず、音の出ないスチール弦を指で叩いている。
誰にも知られていないはずの秘密を、出会ったばかりの男にあっさりと嗅ぎ取られた――。
律は何も答えず、黙ったまま蓮の目を見つめ返していた。




