第十話 解決しないまま、僕らは
最終話。
九月に入って二学期となり、二週間が過ぎた。
蝉は、騒がしいクマゼミから、ツクツクボウシへと入れ替わっていた。朝夕の空気には、わずかだが涼しさが混じり始めている。それでも、制服はまだ夏服のままだった。
特進Aクラスの時間割は、二学期に入って大きく様変わりしていた。共通テスト対策の演習が週の半分を占めるようになり、京大・阪大・私立、それぞれ志望校別の特別講座も始まっている。休み時間、周囲の生徒たちの会話は、以前にも増して志望校の話題一色になっていた。
特進クラスに限らず、他のクラスの三年生たちも、心なしか張り詰めているように感じられた。夏休み前まで、廊下でたむろしていた生徒たちの姿が見られなくなった。廊下から教室を覗くと、机で自習している生徒が多い。掲示板には、体育祭の実行委員募集のポスターに混じって、進路相談会や模試の日程が、隙間なく貼り出されていた。
午後の授業が終わって、律が帰り支度をしていると、山城が教室に入ってきた。
「相沢、進路指導室まで来てくれ」
山城の顔はほころんでいる。おそらく学校推薦のことだろうと律は思った。
進路指導室は相変わらずだった。壁の日本地図、書架に並んだ大学案内。ただ、ブラインドから差し込む光が、あの真夏の日とは違って、いくらか和らいでいた。
「座りなさい」
律は、パイプ椅子に腰を下ろす。山城は、机を挟んだ向かいに座ると、一枚の書類を取り出した。
「学校推薦、お前に内定したぞ。京大法学部」
「ありがとうございます」
「良かったな。TOEFLとか小論文とかあるけれど、基本的には共通テストをしっかり乗り切るだけだ」
「はい……ちゃんと、自分で決めたことなので。頑張ります」
山城は、一瞬、意外そうな顔をした。眼鏡の奥の目が、律の顔を、じっと見つめる。
「……お前、二学期に入って、顔が引き締まったな」
律は、何と答えていいか分からず、曖昧に微笑んだ。
「その調子で頑張れ」
「はい」
「行っていいぞ。お疲れ」
律は椅子から立ち上がり、一礼して部屋を出た。
廊下に出ると、律は無意識のうちに、連絡通路の方へと足を向けていた。
連絡通路の黄色いテープが、新しく貼り直されている。以前のものより、色が濃い。あれは日焼けして色褪せていたんだ、と気がつく。通路の奥にも、「立入禁止」と大きく書かれた看板が、新たに設置されていた。
律は、その場に立ち止まった。
(もう、終わったんだ)
解体工事が、来年の春に迫っている。あの熱気も、蝉の声も、軋む廊下も、ピアノの音も――もう、二度と、あの場所では鳴らない。
律は、しばらくの間、貼り直されたテープを見つめていた――が、やがて、静かに背を向けた。新校舎の階段を降り、昇降口で靴を履き替える。
校門を出て、坂道を下り、その途中の角を曲がる。先に鳥居が見えている。
律は鳥居をくぐり、境内を進んだ。ご神木以外にも巨木が何本も立っている。ここではまだクマゼミが鳴いていた。
そしてあの日と同じ、拝殿の軒先。律は、そこに腰を下ろした。夕暮れの光が、境内の砂利を、橙色に染めている。あの夕立の日とは違って、空は雲一つなく晴れていた。
律は、カバンからスマホを取り出して、トーク画面を開く。そしてメッセージを入力した。
『とりあえず学校推薦、決まったよ』
送信したあと、しばらくスマホの画面を見つめていた。夕方の風が、境内の木々の葉を、さらさらと揺らしている。
既読がついて、返信があった。
『よかったな』
その直後に、もう一通、メッセージが届いた。リンクが一つ、貼られている。律は、そのリンクをタップした。SoundCloudの画面が開く。
律はイヤホンを取り出し、耳に差し込んで曲を再生した。粗末な録音環境なのだろう、ノイズの混じった音質で、ギター曲が流れ始める。聴いたことのない旋律だった。不安定で、危うくて、だけど芯のある、蓮の音だった。
再生回数は、二桁だった。
曲のコメント欄には、投稿者本人からの短い一文が添えられていた。
『まだ全然、ものになってないけどな』
律は、その一文を、何度も読み返した。そこには、あの夏の日々の諦めの色はなく、前向きな一歩を踏み出したことが感じられた。このコメントが自分に向けて書かれたものだと感じて、律は思わず笑みがこぼれた。
何度も繰り返し、その曲を聴いた。律の頭の中に、夏の記憶が鮮やかに蘇ってくる。旧校舎の音楽室でのセッション。汗ばんだ蓮の横顔。夕立の中を走った坂道。ステージの照明。そして、あの河川敷の――。
律は、目を閉じた。まぶたの裏に、それぞれの光景が、ゆっくりと浮かんでは消えていく。
ギターの余韻。静かなノイズが続いて、曲が終わる。
律は、目を開けた。境内には、夕暮れの光が差し始めている。日没が早くなった。
律は、スマホを握りしめたまま、しばらく、その場に座っていた。
京大法学部への推薦は決まったが、受験生活はまだ続く。もちろん京都大学に入れるかどうかも分からない。そしてその先、自分がどうなっていくかなんて……分からない。蓮と出会うまで、自分の前にはレールが敷かれていて、それに乗っていくしかないのだと諦めていた。けれど、そんなレールなど始めから無かったのだと気がついた。この拝殿から赤い鳥居が見える。そこに向かって、境内に道は作られている。けれど、どこを通ったって、鳥居までたどり着ける。
蓮と、この先どうなるのかも、次にいつ会えるのかも、何も決まっていない。何も。
それでも――。
律は、消えていたスマホの画面を開いた。返信を打ち込んでいく。
『なかなかいいよ。今度、直に聴きたい』
送信ボタンを押す。返信を待たずに、律はスマホをカバンにしまった。拝殿の柱に背をあずけ、大きく息を吸い込んだ。夏の名残と、秋の気配が入り混じった風が、律の伸びた前髪を揺らす。
あの日、雨の中に進路希望調査票を突き出した。大事なベースを蓮に預けた。
肺の奥まで空気が届かないあの感覚を覚えることは、もう無くなっていた。
律はゆっくりと立ち上がった。境内の道をまっすぐに歩いて、鳥居をくぐる。
石段の前で、律は少し立ち止まった。
解決しないまま、僕らは、それぞれの音を、鳴らし続けていく――。
完結。




