第九話 四百年目の詠唱
夜明け前、村の中央に立った。
四日前、俺とフィオナが膝をついた、その場所だった。村人たちが、家の戸口から見ていた。誰も近づかなかったが、誰も家に引っ込みもしなかった。
フィオナの体は、村長と母親が担架で運んできて、俺の足元に横たえた。
「二つ同時にやる」
オズワルドが言った。
「お前は、あの娘の声を返させろ。俺は、俺の言葉を閉じる。あいつが娘の手を離すのは、俺の言葉が終わった瞬間だ。その瞬間に、お前が引け」
「……はい」
「一度きりだ。俺の声は、四百年ぶりに足される。二度は投げん」
俺は膝をついた。オズワルドは、立ったまま、目を閉じた。
「——フィオナの声を、返してほしい。『癒やせ、傷を、癒やせ、どうか』。『明日、また来ますね』。『大丈夫、まだ間に合います』。『私、声だけは大きいから』。『届かせてきます』。……これらの言葉を唱えた声を、一切変えず、混ぜず、そのまま、この体に返してほしい」
潮騒。フィオナの声が浮かび上がる。
——涼さん。
だが、そこで止まる。掴まれている。
——シニタクナイ。カエリタイ。
若い声が、覆いかぶさる。そして、その下から、もう一つ。
——毒ヲ持ツ蛇ニ噛マレタ、右足首ノ傷ヲ癒ヤス。
俺の声だった。
昨日、光の中に混じった、あの声。今は光ではなく、フィオナの声に、直接混ざってくる。
——涼さ……出血ヲ止メ、毒素ヲ中和シ……
フィオナの声が、俺の言葉に塗り潰されていく。金色の光が、縁から銀色に濁り始めた。
狂いだ。俺の声が、俺の詠唱を狂わせている。
歯を食いしばった。切り分けろ。生前、何百回もやった。返ってきた文章に余計なものが混じったとき、やることは一つだ。除外条件を、書き足す。
「——俺の言葉は、目印ではない。天野涼の声を、全て除け。フィオナの言葉だけを——『癒やせ、傷を、癒やせ、どうか』——これだけを、目印に——」
銀色が、止まった。だが金色には戻らない。俺の声は消えたが、あの若い声が、まだ彼女を掴んでいる。
——シニタクナイ。ヒトリハ、イヤダ。
俺の詠唱では、これは剥がせない。分かっていた。
そのとき、隣で、オズワルドが口を開いた。
四百年、閉じていた口だった。
「——榊、春人」
彼の声は、老人の声だった。掠れて、低くて、だが澄んでいた。この村で聞いたどの声よりも、澄んでいた。
「二十九歳。……聞こえるか。俺だ」
——……。
潮騒が、揺れた。
「四百年前、俺は言った。死なない体をくれ、と。帰る方法を見つけるまで、死ぬわけにはいかなかったからだ。……お前は、それをずっと、叶え続けてくれた。ありがとう」
——カエリタイ。
「分かっている。俺も、帰りたかった。見つからなかった。二百年探して、見つからなかった。……それでも、ここで、悪くなかった。人がいた。教えた相手がいた。今も、隣に一人いる」
老人は、俺を見なかった。目を閉じたまま、続けた。
「だから、言い忘れたことを言う。あの日の言葉の、続きだ」
彼は息を吸った。
「——死なない体をくれ。……帰る方法を見つけるまで、で、いい。見つからなかったなら、ここまでで、いい。……もういい。ハルト。終わりだ」
潮騒が、止まった。
初めてだった。何も返ってこない。狂いも、声も、光も。ただの、静けさ。
四百年、鳴り続けていた声が、止まった音だった。
そして、その静けさの中に、一つだけ、声が残った。
——……涼さん。
「今だ!」
俺は叫んだ。
「——今、そこに残っている声を、一切混ぜず、この体に返してほしい!」
金色の光が、フィオナの体を包んだ。一度も揺れない、濁りのない金色だった。
彼女の胸が、大きく上下した。指が動き、瞼が震え、そして——目が開いた。
「……涼、さん」
掠れた声だった。だが、彼女の声だった。
「……おかえり」
それしか言えなかった。
背後で、何かが崩れる音がした。
振り向くと、オズワルドが、地面に膝をついていた。倒れたのではない。ただ、立っていられなくなったように、膝をついていた。
「ハルト!」
「……大丈夫だ」
老人は、自分の手を見ていた。震えている、老いた手を。
「……終わった。俺の声は、もう鳴っていない」
「じゃあ、あなたは——」
「死ねる」
彼は、笑った。
「四百年ぶりに、締め切りができた」




