第十話 澄んだ声
病は、その朝を境に、二度と戻らなかった。
隣村からも、その隣からも、倒れていた者が次々に起き上がったと報せが来た。原因を知っているのは、ハルドの村の、数人だけだった。
フィオナは、三日寝台で過ごしたあと、自分で歩いて村を回った。彼女が来ると、村人たちは何も言わずに、麦の粥を持ってきた。
「涼さん」
四日目の夕方、彼女は俺のところに来た。
「私、変なんです。……響き様の声が、前より、はっきり聞こえる」
「はっきり?」
「詠唱するとき。今までは、自分の声が濁って返ってくるのが分かってた。でも今は……返ってくる前に、どの声が混ざりそうか、分かるんです。だから、避けられる」
彼女は、手のひらを見た。
「あそこにいたからかもしれません。ずっと、あそこで、ぜんぶの声を聞いていたから」
試しに、彼女は猟師の古傷に手をかざした。
「——右肩の、古い切り傷を癒やす。周りの皮膚に触れず、傷だけ。ゆっくりでいい」
金色の光が、一度も揺れずに、傷を閉じた。
十回に三回だった彼女の声が、一度で決まった。
「……教えてもらう前に、覚えちゃいました」
彼女は、少し申し訳なさそうに笑った。俺は、笑い返した。それから、気づいた。
これで俺は、この村で「一番澄んだ声」ではなくなった。
不思議と、悪い気はしなかった。
*
オズワルドは、塔に戻らなかった。
「戻る理由がない。四百年、聞くためだけに籠っていた。もう聞くものがない」
彼は村長の家の隣の、空き家に住み着いた。村人たちは、塔の主が畑の隅で豆を植えているのを、遠巻きに見ていた。
「あと何年ですか」
聞いたのは、俺だ。彼は指を折った。
「五十年経った体だ。向こうの数え方なら、七十九。……あと十年か、二十年か。分からんのがいい。四百年、分かりすぎていた」
「……弟子は、取らないんですか」
「取っている」
彼は、豆を土に押し込みながら言った。
「同僚だがな」
*
七日目、村の外れに、馬が一頭、止まった。
乗っていたのは、灰色の外套の男だった。胸に、見たことのない紋章。村長が、それを見て顔色を変えた。
「……王都の、詠唱師組合だ」
男は馬を降りず、村を見渡した。
「東方一帯の狂いが、七日前の夜明けを境に、止まった。……この村で、何があった」
誰も答えなかった。男は、俺を見た。フィオナを見た。畑の隅の老人を見た。そして、何も言わず、馬首を返した。
「また来る」
それだけ言って、去った。
「来るな」
オズワルドが、豆を植えながら言った。
「四百年前、あいつらの元を作ったのは俺だ。今の組合の詠唱は、俺が教えたものの、形だけの残りかすだ。……澄んだ声が三人いる村など、放っておくわけがない」
*
その夕方、フィオナが畑に来た。
戻ってきてから、彼女はずっと、何かを言いかけてはやめていた。俺は気づいていたが、待った。彼女が畑の畝の前で足を止めたとき、オズワルドは豆を植える手を止めなかった。
「……中で、聞いたんです」
フィオナは、俺ではなく、老人の背中に向かって言った。
「あの若い人の声。『死にたくない』と『帰りたい』の他に、もう一つ、言ってました」
老人の手が、止まった。
「……何を」
聞いたのは、俺だった。
「『澄んだ声を、連れてきて』」
風が、畑を渡った。
「何度も。……何百年も。ずっと、同じ調子で。私、あそこで、何回聞いたか分かりません」
——レンジが鳴る前に、視界が真っ白になった。
あの光を、思い出した。理由は、考えないようにしていた。過労だと思うことにしていた。
「涼さん」
フィオナが、こちらを見た。
「あなたを呼んだのは、響き様じゃない。……あの人です」
老人は、しゃがんだまま、動かなかった。土の上の手が、ゆっくりと、握られた。
「……二百年前の、あいつも」
「……はい。たぶん」
長い沈黙があった。豆の袋が、風で倒れた。誰も直さなかった。
「……俺が」
オズワルドが、土を見たまま言った。
「俺が、お前を殺したのか」
答えは、すぐには出なかった。生前の俺は、二十九歳で、残業帰りで、誰の役にも立っていなかった。それを終わらせたのは、四百年前の、この人の「一人は嫌だ」という言葉だった。
「……俺は、帰りたくないと言いました」
それだけ、言った。
「あれは、本当です」
老人は、答えなかった。しばらくして、握っていた手を開き、転がった豆を一粒拾って、土に押し込んだ。
それから、次の一粒を。
俺は、隣にしゃがんで、袋を起こした。
*
その夜、俺は一人で、村の中央に立った。
フィオナと膝をついた場所。オズワルドが四百年ぶりに口を開いた場所。
頼みごとは、なかった。ただ、確かめたかった。
「——今、ここにいる自分の声が、残響の中でどう鳴っているか。返せる範囲で、正確に」
潮騒が来た。もう怖くなかった。
その中から、一つの声が、浮かび上がった。
——毒ヲ持ツ蛇ニ噛マレタ、右足首ノ傷ヲ癒ヤス。
俺の声だ。あの日の、俺の言葉。
——痛ミハ、最小限ニ。子供ノ体力ヲ考慮シ、無理ノナイ速度デ。
それが、消えずに鳴っている。この先も、ずっと。
俺は、目を閉じた。
生前、俺の言葉が誰の役に立っているのか、分からなかった。今は分かる。俺の言葉は、消えない。この世界で俺が投げた言葉は、全部、あそこで鳴り続ける。誰かが曖昧に頼んだとき、混ざって返る。
だから、選ぶ。投げる言葉を、一つ一つ。
それが、この世界で、俺の仕事だった。
俺をここに連れてきたのは、四百年前の、一人の男の、一人は嫌だという言葉だった。それが俺を殺し、俺をここに立たせた。
恨むべきなのか、分からなかった。分からないまま、言うことにした。
「——ありがとう。それだけだ。返さなくていい」
潮騒が、静かに引いていった。
家に戻る途中、あの女の子が、戸口から顔を出した。七つくらいの、大人みたいな顔をする子だ。
「涼さん」
「どうした」
「さっき、響き様が喋った」
「……どんなふうに」
女の子は、少し考えてから言った。
「涼さんの声で。『ありがとう』って」
俺は、立ち止まった。
返さなくていい、と言った。返ってこなかった。なのに、届いた。
——俺の声は、もう、あそこで鳴っている。
振り返ると、夜の村は静かだった。潮騒は聞こえない。だが俺は知っている。この静けさの底で、無数の声が鳴っている。その中に、今日から、俺の「ありがとう」も混ざった。
いつか誰かが、曖昧に頼んだとき。あの言葉が、混ざって返るかもしれない。
それなら、悪くない。




