第七話 二十九歳の声
「話しかける」
翌朝、俺はオズワルドにそう言った。
「あなたの二十九歳に。フィオナの手を掴んでいるのが、それなら」
老人は、しばらく黙っていた。
「……俺は、隣で聞いている。頼むのはお前だ」
フィオナの枕元。俺は膝をつき、今度はフィオナの言葉ではなく、別のものを目印にした。
「——残響の中で、『死にたくない』と繰り返している声に、問いかける。あなたは誰か。何を望んでいるのか。……返せる範囲で、あなたの言葉で」
潮騒。そして、その底から、声。
——シニタクナイ。
若い男の声だった。平坦で、感情の起伏がない。だが、確かに若い。
——シニタクナイ。ヒトリハ、イヤダ。カエリタイ。
「……帰りたい?」
——カエリタイ。カエレナイ。ダカラ、シネナイ。
隣で、オズワルドが息を呑んだのが分かった。
「名前は」
俺は、聞いた。
——サカキ、ハルト。ニジュウキュウ。
老人の顔から、血の気が引いた。
——サカキ、ハルト。ニジュウキュウ。シニタクナイ。カエリタイ。
「……やめろ」
オズワルドが、掠れた声で言った。俺は詠唱を打ち切った。潮騒が消える。
老人は、椅子に崩れるように座った。手が震えていた。
「……忘れていた」
「名前を、ですか」
「三百年は、忘れていた。誰も呼ばん。呼ぶ者は全員死んだ。……榊、春人。そうだ。そういう名前だった」
彼は自分の手を見た。四百年、老いては戻された手を。
「あいつは、覚えていたのか」
*
「——ハルト」
長い沈黙のあと、俺は言った。老人が顔を上げる。
「あの声は、意識があるわけじゃない。あれは、あなたが四百年前に投げた言葉が、返り続けているだけだ。『死にたくない、帰りたい』——それを、投げた時のまま」
「……分かっている」
「じゃあ、なぜ返り続けるんですか」
老人は答えなかった。俺は、自分で答えた。生前の癖で、条件を一つずつ確かめていく。対象、範囲、副作用の除外。彼は「精密だった」と言った。
「終わりを、言わなかったんですね」
火が、爆ぜた。
「『死なない体をくれ』。対象も範囲も完璧だった。でも、いつまで、を言わなかった。……だから残響は、今も、それを叶え続けている。終わりが来ないから」
生前、何度も見た。指示に終了条件がないと、AIは延々と出力を続ける。止めるまで、止まらない。四百年前、この人は、止め方を言わずに、投げた。
「終わっていないんです。あなたの詠唱は、まだ」
老人は、長いあいだ、火を見ていた。
「……そうか」
それから、初めて、笑った。飄々とした、いつもの笑いではなかった。もっと古い、疲れた笑いだった。
「四百年、返事を待たせていたのか。俺は、俺に」




