第六話 濁った声
「声を戻すには、その声がどれか、残響に分からせる必要がある」
オズワルドは、炉の灰に指で線を引きながら言った。
「残響には、無数の声が鳴っている。『フィオナの声を返せ』では足りん。残響はフィオナが誰か知らん。それらしい声を適当に混ぜて返してくる。狂いだ」
「……だから、彼女の言葉そのものを、詠唱に含める」
老人が、少し眉を上げた。
「早いな」
生前、散々やったことだった。AIに正確なものを返させたいとき、参照させたい元の文章をそのまま与える。想像で埋める余地をなくす。要は、フィオナ本人の言葉を、一字一句、詠唱に含めればいい。
「多ければ多いほど、あの娘の声だけが選ばれる。だが、お前はあの娘の言葉を、どれだけ覚えている」
覚えていなかった。
数日分の会話。「涼さん、本当にすごいですね」「私の声を使ってください」。それだけだ。彼女がこの村で十九年かけて話した言葉のうち、俺が知っているのは砂粒ほどだった。
「……聞いて回ります」
*
村人たちは、俺を見ると目を逸らした。それでも「フィオナ様が最後に言った言葉を教えてほしい」と頼むと、誰も断らなかった。
「『明日、また来ますね』って。うちの婆さんに」
「『この薬草は乾かしてから』って、怒られた」
「『大丈夫、まだ間に合います』——病の子を診てるとき、ずっとそれ言ってた」
一人一人が、少しずつ違うフィオナを覚えていた。俺の知らない、彼女の言葉が集まっていく。
最後に、あの母親の家に行った。
彼女は戸口で腕を組んだまま、しばらく俺を見ていた。それから、家の奥に向かって顎をしゃくった。
「入りな」
囲炉裏の傍で、蛇に噛まれた子供が眠っていた。
「フィオナ様はね。あんたが来る前、うちの子が熱を出すたびに来てた。詠唱は、三回に一回しか効かない。それでも来た。効かなかった日は、朝まで額に手を当ててた。……あんたも、見ただろう」
母親は、子供の髪を撫でた。
「最後に言ったのは、あんたと一緒に村の真ん中に行く前だ。うちの戸口で、『私、声だけは大きいから』って笑った。『届かせてきます』って」
——声だけは大きいから。
俺は、その言葉を胸の中で繰り返した。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。戻しな」
*
夜、寝台の傍に戻って、集めた言葉を並べた。三十ほどの言葉。足りるのか分からなかった。
そのとき、気づいた。
俺が知っているフィオナの言葉の中で、一番多く唱えられた言葉が、まだ入っていない。
「癒やせ……傷を、癒やせ……どうか……」
初めて会った日、俺が心の中で「駆け出しの失敗」と笑った、あの詠唱だ。十五から四年間。何百回、何千回、彼女はあれを唱えてきた。残響の中で一番強く鳴っている「フィオナ」は、間違いなく、あの濁った声だ。
俺が笑ったものが、彼女を戻す鍵だった。
「——フィオナの声を、返してほしい。彼女がこれまでに投げた言葉、その全てを目印に。『癒やせ、傷を、癒やせ、どうか』。『明日、また来ますね』。『大丈夫、まだ間に合います』。『私、声だけは大きいから』。……これらの言葉を唱えた声を、一切変えず、混ぜず、そのまま返してほしい」
手のひらが、熱くなった。
潮騒が来た。だが今夜は違った。潮騒の中から、一つの声が、はっきりと浮かび上がってきた。
——涼さん。……聞こえます。ちゃんと、聞こえます。
「フィオナ!」
——戻れない。手を、掴まれてて。……ここに、もう一人いるんです。若い人。ずっと、同じことを言ってる。
「同じこと?」
——「死にたくない」って。……四百年、ずっと。
声が、遠のいた。
寝台の上で、フィオナの指先が、かすかに動いた気がした。




