第四話 四百年前の同僚
フィオナは村長の家の寝台に寝かされた。胸は上下している。それだけを何度も確かめながら、俺は寝台の脇に座っていた。
オズワルドは向かいの椅子に腰を下ろしたまま、しばらく何も言わなかった。囲炉裏の火が爆ぜる音だけが、部屋にあった。
「一つ、聞く」
ようやく口を開いた老人は、俺ではなく火を見ていた。
「お前は、あれを何と呼んでいた」
「……あれ、とは」
「村の連中が『狂い』と呼んで怯えているやつだ。頼んでもいないものが、勝手に返ってくる。あれだ」
心臓が跳ねた。この村で、俺はそのことを誰にも話していない。
「……ハルシネーション」
老人は、長く息を吐いた。
「そうか。俺の頃も、そう呼んでいた」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。俺の頃、と彼は言った。この世界の言葉で。だがその単語だけは、この世界の言葉ではなかった。
「天野涼。二十九歳。システムエンジニア」
オズワルドが、初めてこちらを見た。
「コンビニの弁当は、今もレンジで温めると鳴るのか」
「——鳴ります」
自分でも驚くほど、あっさり声が出た。それから、喉の奥が熱くなった。
「そうか」老人は、火に視線を戻した。「四百年ぶりに聞いたな。その音の話は」
*
聞きたいことは山ほどあった。だが最初に口をついて出たのは、たった一つだった。
「いつ、来たんですか」
「この世界の暦で、四百年ほど前だ」
さらりと言われて、頭が追いつかなかった。同じ時代の人間が、四百年前にこの世界に落ちた。俺が転生したのと同じように。ただ、落ちた先の時代が違っただけで。
「俺の話は長い。今夜は、必要なところだけ話す」
老人は火に薪を一本足した。
「残響が何か、お前はもう半分分かっているな。今まで唱えられた言葉が、全部まだ鳴っている。呼びかけると、自分の声と、鳴っている声が混ざって返ってくる」
「……はい」
「一度投げた言葉は、消えない。鳴り続ける。ここまでは、いいな」
「はい」
「来て、しばらくして、俺は一度だけ、投げてはいけない言葉を投げた」
「……何を」
「死なない体をくれ、と」
彼は淡々と言った。条件は精密だった、と。対象、範囲、副作用の除外。当時の自分に組める中で、一番澄んだ声だったと。
「残響は、きちんと叶えた。あれはそういうものだ。正しく頼めば、正しく返す。お前も知っているだろう」
「……どうやって、叶えたんですか」
「俺の声を、鳴らし続けることでだ」
老人は自分の手のひらを見た。
「あの日の俺の声が、今も残響の中で鳴っている。体が壊れると、その声から、俺が戻される。あの日の年齢で。それだけの仕組みだ」
「あの日の……年齢?」
「二十九だった。お前と同じだ」
意味を理解するのに、数秒かかった。理解したあとも、理解したくなかった。
「じゃあ、その姿は……」
「死なない限りは、普通に老いる。老いて、壊れて、二十九に戻される。それを繰り返している。前に戻されてから、五十年ほど経った」
「……何度、死んだんですか」
「覚えていない。十より多い」
火が爆ぜた。
「涼。今夜、残響は『私』と言ったな」
「……はい」
「あれは、俺だ。二十九歳のときの、俺の声だ」
言葉が出なかった。
「四百年、眠らせてきた。だが今夜、お前とあの娘が二人で、あれだけ澄んだ声を、あれだけ深くまで届かせた。お前の声は、俺の声が鳴っている深さまで、届いてしまった。……起こしたんだ」
俺の声が、それを起こした。
「そして起きたそれは、あの娘の声を取った。俺の声がそこにあるのと同じように、あの娘の声も、今、あそこで鳴っている。体は、ここに残されたままだ」
俺は、フィオナの手を握り直した。冷たくはない。だが、握り返してはこない。
「……戻せますか」
老人は、すぐには答えなかった。四百年分の翳りを目に浮かべて、火を見ていた。
「戻せる。ただし、残響に頼む者が要る」
「なら俺が——」
「そうだ。お前が頼め」
その言い方が、引っかかった。お前が、ではなく、お前が頼め。まるで、自分には頼めないと言っているように。
「あなたは、頼まないんですか」
老人は、答えなかった。




