第三話 残響が応えたもの
異変は、隣村から流れてきた。
「原因不明の病」——最初はそう呼ばれていた。高熱もなく、傷もないのに、日に日に体から力が抜け落ちていく。声がかすれ、動けなくなり、やがて意識すら混濁する。老いも若きも関係なく、命を落とす者が出始めていた。
「涼さん、お願いします……」
助けを求める声は、村を越えて次々と届くようになっていた。俺は一人一人の枕元に行き、丁寧に条件を組み立てて対処した。
「——この者を蝕む病を退ける。体力を奪う要因を取り除き、通常の回復力を取り戻させる。負担のない速度で」
効いた。一時的には。だが数日後には、治したはずの者が再び倒れる。それどころか、病はむしろ範囲を広げていった。
——何かが、おかしい。
普通の病なら、こんなことは起きない。俺の詠唱は間違っていないはずだった。だとすれば、対処しているのは「病そのもの」ではなく、「病の結果」でしかないのかもしれない。根本が、どこか別のところにある。
ハルドの村が、丸ごと倒れかけていた。もう一人一人に対処している時間はなかった。だが、村一つ分に届く声を、俺は持っていない。
「——涼さん、私の声を使ってください」
フィオナが横に並んだ。
「駄目だ。範囲が広すぎる。何が返ってくるか分からない」
「知ってます。だから、言葉は涼さんが組んでください。私は声だけ貸します。涼さんの言葉で、私の声で。二人で唱えれば、届く範囲が変わるかもしれない」
止めるべきだった。だが時間がなかった。目の前で、また一人、意識を失って倒れた。
俺たちは手を取り合い、村の中央で膝をついた。頭の中で、これまで以上に慎重に、言葉を組み立てていく。彼女が、俺の言葉を一拍遅れてなぞる。
「——この地域一帯に広がる原因不明の消耗病を、根本から特定し、退ける。対象は病そのもの。人体、大気、水源、いずれにも余計な影響を及ぼさない範囲で。二人分の声として——」
手のひらが焼けるように熱くなる感覚は、いつもと同じだった。だが、その先が違った。
届いている。今までのどの詠唱よりも、遠く、深くまで。それが分かった。そして、その深さの底で、何かに触れた。
頭の中に、初めて「声」が響いた。
——ソレハ、コタエラレナイ。ソレハ、ワタシダ。
言葉になっていない、言葉のようなもの。地面が唸り、空気そのものが歪んだ。金色だったはずの光が、見たこともない、濁った銀色に変わっていく。
「涼さん……!?」
フィオナの手を握る力が、急に弱くなった。
「フィオナ!?」
振り向いた瞬間、彼女は白目を剥いて崩れ落ちた。銀色の光が彼女の体を一瞬だけ包み、そして、何かを吸い上げるように上へ抜けていった。
その瞬間だった。村中で、咳が止まった。倒れていた者たちの呼吸が、一斉に落ち着いた。
病は、止まった。フィオナが倒れた、まさにその瞬間に。
「フィオナ! おい、フィオナ!」
呼びかけても反応はない。胸はかすかに上下しているが、それだけだった。
——ソレハ、コタエラレナイ。ソレハ、ワタシダ。
頭に残った声が、何度も反響していた。それは生前、嫌というほど見てきた「ハルシネーション」とは、明らかに何かが違っていた。曖昧な指示への雑な応答ではない。まるで——何かが、答えることを拒んだかのような。そして、自分のことを「私」と呼んだ。
意識のない存在に、拒絶という概念があるはずがない。「私」という言葉が、あるはずがない。
だとしたら、あの声は、何だったのか。
それに——響き様は応えなかった。なのに、病は止まった。では、何が止めたのか。
*
塔の主が、村に降り立ったのは、その日の夜だった。
村の誰も、彼が塔を出るところを見たことがなかった。杖もつかず、供も連れず、ただ一人。
「ずいぶん派手に呼びかけたな、涼。塔まで聞こえたぞ」
老人は、まるで隣家から回覧板を届けに来たような調子で言った。俺の名を呼んだが、名乗った覚えはない。
「オズワルド。塔で、暇を持て余している者だ」
そこまでは軽かった。だが彼が倒れたフィオナの傍らに膝をつき、その額に指先を当てた瞬間、その空気が消えた。
「……これは」
彼の声が、揺れた。
「涼、お前……残響に、何を尋ねた」
残響。この老人は、響き様をそう呼んだ。
「原因不明の病の……根本を、退けるように」
「その言葉のまま、か」
オズワルドは黙り込んだ。長い沈黙のあと、彼はフィオナの額から手を離し、ゆっくりと立ち上がって俺を見た。さっきまでの軽さは、もうどこにもなかった。
「涼。よく聞け。残響は、黙らない。答えられなくても、何かしら返す。それが狂いだ。四百年、一度の例外もなかった」
「……はい」
「だが今夜、残響は返さなかった。狂いもせず、拒んだ。そして自分を『私』と呼んだ。意識のないものが、そんなことをすると思うか」
答えられなかった。
オズワルドは、遠くの空——月も出ていない、ただ黒いだけの夜空を見上げた。
「……四百年、眠らせておいたつもりだったが」
その呟きに、続きはなかった。彼は静かに、しかしはっきりと言った。
「涼。お前には、話さなければならないことがある。この世界の——残響の、本当の話だ」
風が止んでいた。村は静まり返り、誰の声もしなかった。
倒れたままのフィオナの手を握りしめながら、俺はただ、これから聞かされる言葉を、恐ろしいと思った。




