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第四章 拳闘の檻、飢餓の檻

 後楽園ホールのボルテージは最高潮に達していた。超満員の観客席から発せられる熱気と声援が、湿った重い空気となって四角いリング上へと立ち込めている。照明の熱線がキャンバスを照らし、空間全体が巨大な蒸し風呂のように熱を帯びていた。青コーナー。対戦相手の鬼塚が入場する。身長百七十センチメートル前後。筋肉の詰まった重厚なフレームをしている。過酷な減量を乗り越え、水分の抜けた研ぎ澄まされた肉体に鋭い眼光を宿し、赤コーナーを睨みつけていた。彼が纏うオーラは、長年愚直に己を叩き上げてきた生粋の拳闘士のそれであった。そして赤コーナー。漆黒のガウンを羽織ったヴァンパイアがゆっくりとリングインする。身長百八十五センチメートル。両者がリング中央に集まり、レフェリーの注意を聞くために向き合う。目線の高さが根本から違う。鬼塚は顎を高く上げて鋭く睨みつけ、ヴァンパイアは遥か上空から静かに見下ろしている。だが、ヴァンパイアの肉体は絶血減量によって干し肉のように削ぎ落とされ、頬は深く落ち、皮膚は病的なまでに青白い。百八十五センチメートルの大型骨格に無理やり限界寸前の肉体を引っかけるという暴挙の代償は、誰の目にも明らかだった。肋骨の浮き出た胸郭、落ちくぼんだ眼腔。しかしその奥に宿る眼光だけは、昏く鋭い青い炎のように静かに燃え上がっていた。実況「さあ、注目の第一ラウンド!絶血の死闘を乗り越えたヴァンパイア、長身と圧倒的なリーチを活かして勝利をつかむか!ゴングです!」



カンッ——!



 試合開始のゴングが館内に高く響き渡る。鬼塚はゴングと同時に低く身をかがめ、弾丸のような踏み込みで鋭い右ストレートを放ってきた。対するヴァンパイアは、左腕を膝の高さまで低く下げ、右拳を顎の横に深くセットする独特のデトロイト・スタイルをとる。長い左腕を鞭のようにしならせ、鬼塚の強打を寸前でかわしながら一方的に距離を支配していく。一発一発のフリッカー・ジャブが風を切る音が、リングサイドまで重く届く。鬼塚(……チッ、リーチが長すぎて懐に入れねぇ……!)鬼塚は低く身を沈めると、強引に頭から飛び込んで接近戦を仕掛けた。ドスッ、バシィッ!ずっしりとしたボディへの打ち合いから、両者の身体が激しく交錯する。ヴァンパイアの長い腕が巻きつき、両者の距離がゼロになった。——クリンチ。ヴァンパイアは長い両腕を回し、飛び込んできた鬼塚の頭部と腕を抱え込んだ。両者の密着距離。ヴァンパイアの顔のすぐ横、わずか数センチメートルの距離に、鬼塚の太い首筋が位置する。(……近い……)ヴァンパイアの思考が、一瞬で緊迫する。(……血管……)密着した鬼塚の灼熱の体温。激しい運動によって高脈拍で打ち打つ頚動脈。過酷な水分制限によって皮膚のすぐ下で波打つ、濃厚な血液の鼓動。クリンチによって重なるふたつの胸から、鬼塚の体内で激しく巡る血液の脈動すら直接伝わってくるようだった。(……くっ……!)喉の奥が焼き切れるように熱くなり、猛烈な乾きが襲う。プロとしての美学、昭和の漫画で学んだスポーツマンシップ。それらの理性を、数千年の野性が叩き起こす猛烈な吸血衝動が激しく揺さぶる。ヴァンパイアの瞳が暗闇の中で怪しい漆黒の光を宿し、犬歯が皮膚を突き破らんばかりにうずく。口元がわずかに開いた。荒い息を吐きながら、吸血本能に引っ張られるように、無意識のうちに鬼塚の首筋へと顔が近付いていく。その瞬間——。鬼塚の全身の毛穴という毛穴が、一斉に逆立った。ボクシングの攻防を超えた、生物として「捕食される」という根本的な死の恐怖が彼を直撃した。鬼塚「……っ!?」鬼塚はなりふり構わずヴァンパイアの胸を両手で力任せに押し飛ばすと、一気にバックステップで距離を取った。実況「おっと……!鬼塚選手、クリンチの体勢から突然自ら大きく距離を取りました! 激しい警戒感を露わにしています!」レフェリーがすかさず試合を一時中断し、大きく距離を取った鬼塚へ視線の送る。レフェリー「鬼塚!どうした、構えろ!」鬼塚「……くっ……!」鬼塚は顔を蒼白にし、全身から汗を噴き出しながら相手を睨み据えた。言葉には出さずとも、目の前にいる男が発した異常な殺気とプレッシャーに、全身の細胞が警戒を発しているのを痛感していた。じりじりと長い足を交差させ、再び距離を詰めてくるヴァンパイア。その表情は冷徹なアスリートそのものだが、その瞳の奥には、飢餓感を乗り越えようとする凄惨な執念が燃え盛っていた。



 第二ラウンド。鬼塚はもはや単なるボクシングではなく、目の前のアブノーマルな脅威を打ち破るための生存闘争へと集中を高めていた。鬼塚(クリンチに持ち込まれたら終わりだ……!近距離の密着を避け、ステップアウトからの鋭い踏み込みで打ち抜くしかない!)鬼塚の動きが鋭さを増す。左右への細かいステップワークを使い、ヴァンパイアの長いジャブの軌道をすんでのところでくぐり抜けながら、遠距離から一気に飛び込んで鋭い左フック、右ストレートを叩き込む。バシィンッ!強烈な右ストレートがヴァンパイアの顎を撃ち抜く。絶血減量で耐久力の落ちているヴァンパイアの脳幹が揺れ、膝がガクりと折れかける。鬼塚(効いた……! いける!)勝機と見た鬼塚が一気に畳み掛ける。ボディ、顔面、ボディ。怒涛の連打がヴァンパイアを襲う。ガードを固めるヴァンパイアの腕に、めり込むような鈍い衝撃が連続して響いた。だが、ヴァンパイアは倒れない。どれだけパンチを浴びても、その瞳は鬼塚から片時も離れなかった。ダメージによって視界がかすみ、脳裏に深い暗闇が広がりそうになりながらも、凄まじい精神力が彼をキャンバスの上に踏み止まらせていた。(強いな……鬼塚……。お前は本物のボクサーだ……)ヴァンパイアの頭の中で、澄み切った思考が静かに紡がれる。(俺は数千年の間、数多くの人間を見てきた。王、騎士、兵士……皆、己の命を守るために、己の誇りのために必死で戦っていた。お前も同じだ。この四角いリングで、己のプライドと生命をかけて戦っている……)ガードの上から鬼塚の重いボディブローが刺さる。みぞおちが激しく痛み、肋骨が悲鳴を上げる。呼吸が詰まり、肺が焼きつくような感覚。(ならば……俺も応えねばならん。異形の怪物としてではなく……一人のプロボクサーとして!)ヴァンパイアの瞳から迷いと吸血の狂気が消え、静かな深い漆黒へと戻った。猛烈な血の飢えを、アスリートとしての純粋な闘志が凌駕した瞬間だった。「……ふっ……!」ヴァンパイアは長い腕をしならせ、空を切るような鋭い右カウンターを放った。すんでのところで首を引いてかわす鬼塚。だが、その頬をかすかに掠めた拳の圧力と風圧に、鬼塚は息を呑んだ。(……なんだ……!?気味が悪いほどの異様な圧迫感が消え、純粋な拳の威圧感に変わった……!?)そこに立っていたのは、ただ飢えに惑わされる怪物ではなかった。過酷な減量を耐え抜き、己の身体の不条理と戦い、純粋に目の前の相手を倒すために拳を振るう、一人の凄絶な拳闘士の姿であった。「……来い、鬼塚。この乾ききった拳で……お前を越えてみせる!」「……望むところだ!」二人の拳が再び激しく交錯した。後楽園ホールの歓声は、真の興奮へと変貌を遂げていた。それぞれの誇りが激突するリングの上で、激闘の火蓋はさらに深く切って落とされたのである。



 インターバル中、青コーナーに腰掛けた鬼塚は荒い息を吐いていた。セコンドが氷袋で首元を冷やし、傷口にワセリンを塗りたくる。セコンド「落ち着け鬼塚!相手のペースに飲まれるな!奴は減量でスカスカだ、ボディを集中的に叩けば絶対に折れる!」鬼塚「わかってる……!だが、あの男の目……減量で限界のはずなのに、生命力の根底にある何かが折れていない!」セコンド「奴のパンチを見てみろ!身体は削れてヨレヨレのはずなのに、軸が全くぶれていない! 奴は本気でお前にボクシングで勝とうとしているんだ!」鬼塚は視線を低く保ったまま、斜め向かいの赤コーナーを見やった。パイプ椅子に腰掛けたヴァンパイアは、セコンドの東から差し出されたボトルを静かに手で制し、ただまっすぐに鬼塚を見つめていた。その姿は、荒野に佇む一匹の孤高の狼のようであり、同時に異世界の殉教者のようでもあった。会長「おいヴァンパイア、一口だけでも水分を取れ!喉を湿らせるだけでも違う! 倒れるぞ!」「……要らん。リングに上がった以上、俺の身体に流れるべきは甘えの水ではない。……俺は力石徹と同じリングに立っているのだ。彼が最後まで水の一滴すら拒み抜いてリングに上がり続けたように、俺もまた、純粋なる拳闘の魂だけであの男と対峙する」東「ヴァンパイア先輩……!」東はボトルの口を握りしめたまま、言葉を失って震えていた。目の前にいる男の凄惨な美学に、圧倒されていた。(……なんなんだ、あの男は……。ハッタリじゃねえ。あの目の奥にあるのは……本物の覚悟だ)鬼塚は固く握り締めた自らのバンデージとグローブを見つめ、低く唸るように言った。「……ハッタリじゃねえ。……よし、次のラウンドで決めてやる!」



カン——!



 場内に第三ラウンド開始のゴングが鳴り渡る。己を昭和の伝説の拳闘士・力石徹に重ね合わせ、不必要なまでの過酷さに自らの魂を燃やすヴァンパイア。そして、その圧倒的な覚悟と真正面から向き合い、ボクサーとして叩き潰そうとする鬼塚。二人の拳闘士は、それぞれの美学と意地を胸に、再びリング中央へと静かに歩み寄っていった。第三ラウンド。ゴングと同時に、鬼塚はインサイトへと鋭く踏み込んだ。一ラウンドや二ラウンドのような手探りの攻防はそこにはなかった。鬼塚は低く潜り込みながら左のダビングから強烈な右ボディストレートを突き立てる。ドスッ!ヴァンパイアのみぞおちを直撃する重痛い音。絶血状態のヴァンパイアの胃が激しく収縮し、口から透明な唾液が飛散した。しかし、ヴァンパイアは退かない。激痛に歪む顔面のまま、すぐさま左のアッパーカットを叩き返す。鬼塚の顎をかすめる鋭い軌道。鬼塚「うおっ……!」紙一重でかわした鬼塚の額に冷や汗が流れる。減量で消耗しきった体幹から、なぜこれほどまでのスピードとキレを持ったパンチが繰り出されるのか。ヴァンパイア(痛むか……? 苦しいか……?当たり前だ。これこそが……人間が感じている生きているという証明なのだから!)ヴァンパイアの脳内で、幾千年の退屈な永劫の時と、今この瞬間の命の爆発が鮮やかに引き写される。吸血鬼としての力を使えば、鬼塚の動きなど止まって見えるだろう。その首を容易くへし折り、喉笛を切り裂くことも造作もない。だが、それでは意味がないのだ。自らの肉体を極限まで削り、人間と同じルール、同じ痛みに身を投じることでしか得られない生の質感が、ここにはあった。左ジャブ、左ジャブ、そして右ストレート。長身から繰り出されるワンツーが、鬼塚のガードの上を連打の嵐となって叩く。鬼塚「くそっ……! 押し込まれるな!押し返せ!」鬼塚も牙をむく。ガードの間隙をぬって放たれた右フックが、ヴァンパイアの左頬を激しく捉えた。バチィンッ!破裂音とともにヴァンパイアの白桃のような皮膚が裂け、わずかに残った赤黒い血が飛び散る。視界が真っ赤に染まる。ヴァンパイアの身体が大きく右に傾き、ロープへと倒れ込んだ。実況「ヒット!鬼塚の右フックがクリーンヒット!ヴァンパイア、大きく揺れた! ロープに背をもたれかけている!鬼塚チャンスだ!」会場から「倒せーっ!鬼塚!一気に決めろーっ!」後楽園ホール全体がグラグラと揺れるような大歓声に包まれる。鬼塚は野獣のような目つきで踏み込み、無防備になったヴァンパイアの顔面へ止めの一撃となる左フックを叩き込もうと腰を回した。その瞬間、ロープに倒れ込んでいたヴァンパイアの口元が、かすかに吊り上がった。(……!?笑って……いる……!?)死の淵に立ちながら、血を流しながら、男は不敵に微笑んでいた。その瞳に映るのは、恐怖でも絶望でもなく、ただ一筋の純粋な歓喜だった。「……見事だ、鬼塚。だが……俺の命の火は、まだ消えてはおらん!」しなるロープの反動を利用し、ヴァンパイアの長身が弾丸のように跳ね返った。鬼塚の左フックの空隙を縫うように、空を切る左フックが鬼塚の側頭部を捉える。ドゴォッ!鬼塚「がはっ……!?」今度は鬼塚の巨体が横に大きく流された。激しい衝撃に足元がつき、両者の距離が再び開く。三ラウンド終了を告げるゴングが、互いの息遣いを切り裂くように激しく打ち鳴らされた。



カンカンカンッ!



 観客席からは地鳴りのような拍手が湧き起こる。誰ひとりとして席を立つ者はいない。ただただ、リング上で繰り広げられる凄惨で気高き魂の削り合いに、言葉を失って見入っていた。第四ラウンド。リング中央で再び対峙した二人の顔は、すでに傷と汗に塗れていた。ヴァンパイアの意識は、すでに半分以上が白濁していた。水分も血液も枯れ果てた肉体は、一歩踏み出すごとに細部から崩壊していくような悲鳴を上げている。視界の端からは漆黒の闇がじわじわと広がり、鬼塚の姿すら二重、三重にブレて見えていた。(……足が……動かん……。視界が……遠のく……)喉の奥は焦げ付いた鉄の味がし、全身の細胞が「血を吸え」「人間を喰らえ」と狂乱の叫びを上げている。だが、ヴァンパイアはその内なる化け物の叫びを、徹底した意思の力で踏みにじり続けた。(黙れ……!俺は吸血鬼としてここにいるのではない。ボクサーとして……ヴァンパイアという名の一人の拳闘士として、ここに立っているのだ……!)鬼塚もまた、限界を迎えていた。相手の脅威的な打耐性と、減量で削られているはずの芯の強さに、スタミナを激しく消耗させられていた。鬼塚(なんだこの野郎は……。なんで倒れねぇ……!?なんでそんな目で俺を見られるんだ……!?)鬼塚の拳が震えていた。それは恐怖ではない。相手に対する深い敬意と、この男を絶対に己の拳で叩き伏せなければならないという、一人のボクサーとしての強烈な使命感だった。鬼塚「……お前が何者だろうと……俺は負けねぇ!このリングで生きてきた俺の歴史を……全部叩き込んでやる!」「……来い……鬼塚!己の全存在を懸けて……俺を撃ち抜いてみろ!」もはや言葉はいらなかった。二人はガードを極限まで下げ、互いの間合いへと同時に踏み込んだ。長いリーチから繰り出される漆黒のフリッカーと、重厚なフレームから放たれる黄金の右ストレート。交錯する二つの拳が、後楽園ホールの中心で、激しく火花を散らした。——ズガアァンッ!鈍く思い破裂音がキャンバスを震わせる。鬼塚の放った剛腕の一撃がヴァンパイアの額を掠め、引き換えにヴァンパイアの振り下ろした左が鬼塚の肩口を痛烈に削り取った。お互いにガードなどすでに崩壊している。肉体と肉体、骨と骨が直接削り合わされる凄惨な音だけが響く。鬼塚「おおおっ!」ヴァンパイア「ぬううっ!」踏み出す足の指先一つにまで力を込め、ヴァンパイアは崩れ落ちそうになる膝を力任せに引き戻す。目の前の空間が歪み、脳漿が沸騰するような痛みが走る。それでも視線だけは、まっすぐに鬼塚の胸元を捉え続けていた。引き下がるという選択肢など、彼の辞書には最初から存在しない。打撃の衝撃波で飛び散る汗と血が、スポットライトに照らされてキラキラと白熱の粒子のように舞う。 二人の距離はわずか数十センチ。荒い呼気が交差し、互いの鼓動が重なり合う。その一瞬、時間が止まったかのような奇跡的な静寂が二人を包み込んだ。



——カンカンカンッ!



 四ラウンド終了のゴングがけたたましく鳴り渡った。観客の叫び、実況の興奮した怒号、セコンドの悲鳴にも似た歓声。そのすべてが津波となって押し寄せる中、二人は至近距離で互いの瞳を見つめ合ったまま、ピクリとも動かなかった。鬼塚の息が荒く上がっている。その胸中で、相手への絶対的な敬意が溢れ出していた。ヴァンパイアの口元が、乾いた血に塗れながらもゆっくりと綻ぶ。(……見事だ、鬼塚。さあ……次で最後だ)誇りと執念、そして命の限りの輝きを乗せた二人の戦いは、いよいよ全ての決着がつく運命の第五ラウンドへと向け、さらなる惨禍と熱狂の渦の中へと突き進んでいくのだった。


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