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第五章 五十五・三三八キログラムの殉教

 試合は刻一刻と苛烈を極めていた。後楽園ホールの天井から降り注ぐ白熱灯の光は、キャンバスの熱気を容赦なく炙り出し、リング上は焦げ付くような静寂と肉体がぶつかり合う鈍い衝撃音に満たされている。第五ラウンドを過ぎた頃から、ヴァンパイアの動きは目に見えて鈍り始めていた。百八十五センチメートルの長身から繰り出されるフリッカー・ジャブはかろうじて威力を保っているものの、序盤に見せていた鋭く滑らかなステップは完全に失われ、ガードが自然と下がる場面が目立ち始めていた。長い腕が疲労で重く垂れ下がり、視界を覆うガードの隙間から鬼塚の鋭い眼光が肉薄してくる。無理もない。吸血鬼の唯一にして最大のエネルギー源である「血液」を完全に絶った状態で、干し肉のように全身の水分と肉を絞り出した極限の身体なのだ。人間で言えば、ガソリンを完全に抜かれたエンジンの金属パーツ同士が、潤滑油なしで無理やり摩擦し合っているのに等しい。第一ラウンドから全開で動き回れば、体内細胞のスタミナは急速に底をつく。一歩踏み出すごとに筋肉の繊維が細かく軋み、酸欠に陥った視界の端から徐々に深い黒い影が侵食してきていた。網膜に映る景色は色を失い、白黒のモノクロームへと褪せていく。



(……くそっ……身体が……鉛のように重い……!)



 ヴァンパイアはロープを背負い、荒い息を吐いた。呼気が喉を焼き、肺が熱せられた鉄くずを詰め込まれたかのように激しく痛む。目の前で、ダメージを耐え抜き息を吹き返した鬼塚が猛然とステップを踏み、勝機を確信した獣のように怒涛のパンチラッシュを仕掛けてくる。踏み込む足音がキャンバスを強く叩く。東「ヴァンパイア先輩! 動いてください! 足を使って! ロープを背負っちゃダメです!」リングサイドの青コーナーから、東が身を乗り出して必死に声を張り上げる。バンデージの切れ端を握りしめた東の手は激しく震えていた。



ドゴォッ!



 鬼塚の重い右フックが、もはやまともに上がらなくなったヴァンパイアのガードを力任せにすり抜け、顎を強烈にかすめた。脳が激しく揺れ、視界がぐにゃりと歪む。鼓膜の中で何かが弾ける音がした。皮膚が裂け、わずかに残っていた赤黒い血がしずくとなって空中に飛び散った。その血の匂いすら、今のヴァンパイアには己を拷問する毒のように喉を刺激する。(限界か……。血を飲まぬまま、人間のルールで戦うのは……ここまでなのか……)膝の力が抜け、ヴァンパイアはキャンバスにひざまずきそうになった。視界が急激に暗転していく。超満員の観客席が発する数千人の喧騒や怒号が、まるで深く冷たい水中に潜ったかのように遠のいていく。激しい耳鳴りの向こう側で、鬼塚が完全な勝機を確信し、腰を落としてとどめの一撃を放とうと力強く踏み込んでくる姿が、スローモーションの残像のように見えた。死の静寂が脳内を支配しようとした、その時。ヴァンパイアの凍りつきかけた脳裏に、あのボロボロになりながらもリングのコーナーで不敵に笑う男の影が鮮明にフラッシュバックした。力石徹。彼は血を吐くような凄惨な減量苦の末、肋骨が浮き出るほど削ぎ落とされた肉体で、最後の最後までプロボクサーとして、一人の男としての意地と美学を貫き通した。白熱するリングの上で、命を燃やし尽くすまで倒れなかった男の姿。(……いや、まだだ。俺はあのアニメの男のように、己の美学を守り抜くと言った。吸血鬼の呪われた力に逃げ、血を求めてリング上で惨めに食い散らかすように崩れ落ちるなど……プロのプライドが許さん!)数千年の時を越えて魂の底で燃え上がる猛烈な吸血本能を、アスリートとしての、そして一人の表現者としての誇りが完全に凌駕した瞬間だった。細胞の隅々で悲鳴を上げていた筋肉が、精神の力だけで強制的に再起動する。「……うおおおおおっ!」ヴァンパイアは己の生命力の最後の一滴を振り絞るように、野性味あふれる咆哮を上げた。人間であれば意識を失っているはずのダメージと疲労を力でねじ伏せ、気合と意地だけで途切れかけた意識を繋ぎ止めると、崩れかけた上体を強引に起こす。鬼塚の必殺の右ストレートが、ヴァンパイアの顔面を完全に捉えようとしたその刹那。ヴァンパイアは長身を小さく丸めるように鋭く身を沈め、鬼塚の視界から一瞬で消えた。そして、死角となった足元から、アッパーカットに近い猛烈な左フックを下から突き上げるように振り抜いた。長いリーチが描く、美しくも残酷な円運動。バガァンッ!!乾いた破裂音が、後楽園ホールの高い天井に重く響き渡った。完璧なタイミングのクリーンヒット。鬼塚の伸びきった顎先を正確無比に打ち抜いた一撃は、彼の脳幹を強烈に揺さぶり、意識を瞬時に刈り取った。 鬼塚の目は焦点を失い、身体は糸の切れた操り人形のように空中で一瞬浮き上がると、そのままキャンバスへ力なく崩れ落ちた。顔面からマットに激突し、ピクリとも動かなくなる。レフェリー「……八……九……十! ノックアウト! 勝者、ヴァンパイア!」



カンカンカンカンッ!



 試合終了のゴングがけたたましく鳴り響く。館内は一瞬、何が起きたのかを理解できない静寂に包まれ直後、割れんばかりの大歓声と割れんばかりの拍手が爆発した。地鳴りのような叫びがリングを揺らす。ヴァンパイアはフラフラと足をもつれさせながら、倒れた鬼塚の脇を通り抜け、リングの中央へと歩み寄った。そして、天に向かって両拳を高く突き上げた。 満身創痍。全身は激しい汗と自らの乾いた血で汚れ、両足は生まれたての小鹿のように震えていた。立っていること自体が奇跡のような状態だった。 しかしその仁王立ちする姿は、怪物でも異形でもなく、紛れもなく一人の誇り高きプロボクサーのものだった。



 熱狂に包まれる場内を後にし、控え室に戻ったヴァンパイアは、パイプ椅子に倒れ込むように座り込んだ。金属の脚が鋭い悲鳴を上げる。セコンド陣が歓喜の声を上げる中、ヴァンパイアの全身は激しい疲労と、限界を超えた血の渇きで打ち震えていた。指先は氷のように冷たく、顔面は蒼白を通り越し、死相すら漂っている。呼吸をするたび、胸からズキズキとした激痛が走った。東「先輩……これを受け取ってください。急いで!」東が周囲の目を気にしながら、保冷バッグから静かに取り出したのは、医療用に正規ルートで手配された代替血液のパックだった。ヴァンパイアは震える指先でそれを受け取ると、ストローを乱暴に破り、静かに口へと運んだ。ゴク、ゴクと喉を鳴らして呑み込むたび、干し肉のように干からびていた体内細胞の隅々にまで、生きるための熱い水分と栄養が染み渡っていく。落ちくぼんでいた頬にゆっくりと元の張りが戻り、青白かった皮膚の下を鮮血が巡り始め、人間の健康的な赤みが差し始めていく。視界を覆っていた黒い霧が晴れ、世界の色彩が鮮明に復元されていった。



「……ふぅ……」



 深く荒い息を吐き出しながら、ヴァンパイアはバンデージが痛々しく汚れ、傷ついた己の拳を見つめた。勝利の冷たい余韻と、喉の奥にわずかに残る鉄の味。そこへ、重い足取りで会長が近づいてきた。会長の手には、試合の採点表と、次戦に向けたスケジュールが書かれた一枚の書類が握られていた。会長「よくやった、ヴァンパイア。見事なKO勝利だ。……だが、これが現実だ。一過性の奇跡や気合だけで勝てるほど、プロボクシングの世界は甘くない。次の試合に向け、明日から再び減量に入るぞ」会長の淡々とした、しかし厳しい言葉に、ヴァンパイアはゆっくりと顔を上げた。脳裏を瞬時に駆け巡るのは、あの地獄のような過酷を極めた減量の日々だった。蒸し風呂のように熱気が充満した密室、汗が一滴も出なくなった肉体の恐怖、喉をナイフで削られるかのような強烈な渇き、そして何より、リングの上で理性を失いかけ、対戦相手を食い殺しそうになった恐ろしい飢餓感。肉体的な苦痛だけではない。吸血鬼という異形の存在でありながら、人間のスポーツという厳格な枠組みに無理やり己の肉体を押し込めることの理不尽さと過酷さが、冷徹な事実として重くのしかかる。



「…………」



 長い沈黙が控え室を支配した。東も息を呑み、静かに二人のやり取りを見守っている。 ヴァンパイアは静かにパイプ椅子から立ち上がると、窓の外に広がる東京の夜景を見つめた。ビル群の灯りが、彼の瞳に冷たく反射する。東「……先輩。……やっぱり、この体格でライトフェザー(スーパーバンタム級)に留まるのは無茶ですよ。階級を上げましょう。ライト級やウェルター級なら、こんな地獄を味わわずに……」東の気遣う声に、ヴァンパイアは静かに首を横に振った。 窓に映る己の顔を見つめる瞳には、甘い情熱や幻想ではなく、地獄を受け入れた男の冷徹な覚悟と凄絶な美学が宿っていた。



「……いや。俺はこの階級ライトフェザーを下りん」



 東「……なっ……!?なぜですか!このままじゃ本当に命を落としますよ!」「己の骨を削り、生命を削ってまで適正階級ではない階級へ身を沈めた。……何のためだ?己の誇りのため、そして宿命のライバルと対峙するためだ。俺がもし苦痛から逃れて逃げ出せば、俺が命を懸けて追い求めたプロボクサーとしての美学は偽物になる。……どれほど肉体が叫ぼうが、血が乾こうが、俺はこの五十五・三三八キログラムの檻の中で戦い抜く。俺は、人間みたいに生きてるんだ。永遠の命なんていらない。今が欲しい」狂気とも言える壮絶な決意。 安易な妥協を拒絶し、あえて自ら死と隣り合わせの地獄を選び続けることで、己の存在証明とボクサーとしての誇りを完遂しようとする気高き執念だった。



 試合から数日が経過した。ジムには再び、重く鋭い打撃音が絶え間なく響き渡っていた。ドガァン!ドガァン!試合後のわずかなリカバリー期間を経て、ヴァンパイアの体躯は再び絞り込まれつつあった。百八十五センチメートルの長身から放たれるフリッカー・ジャブは空気を強く切り裂き、サンドバッグを打ち抜く左フックは、チェーンがちぎれんばかりの衝撃を叩き出している。しかしその頬には、すでにうっすらと落ちくぼんだ影が戻り始めていた。リングの傍らで汗を拭いながら、東はその圧倒的で痛々しいパフォーマンスに見惚れていた。東「……すごい動きだ。だけど……次戦に向けてまたあの絶血減量が始まるんですよね。正気とは思えない……」ヴァンパイアはサンドバッグの揺れを腕で止め、バンデージを慎重に解きながら静かに東を見やった。汗に濡れた髪をかき上げる瞳には、覚悟を決めた者特有の澄み渡った光が宿っていた。「血の渇きは、俺にとっての死だ。だが……その死の淵に立つからこそ、俺はリングの上で生きていると実感できる。過酷な足跡を辿ること……それだけが、異形として数千年の孤独を生きてきた俺に与えられた唯一の救いだ」東「先輩……」「東。俺は途中で倒れたりはせん。絶血の限界を超えたその先で、真の拳闘を見せてやる」そこへ、奥の執務室からゆっくりとした足取りで会長が近づいてきた。会長の手には、スポーツ協会から届いたばかりの真新しいライセンスカードと、次戦の過酷な対戦カードが書かれた書類が握られていた。会長は静かにヴァンパイアの前に立つと、厳格な、しかしどこか温かみのこもった深い眼差しでその顔を見つめた。減量の苦難を自ら選び、命を燃やす覚悟を決めた男の顔を。



「……四回戦デビューおめでとう、ヴァンパイア」



「あ、ああ……」



 ヴァンパイアは一瞬言葉を詰まらせ、それから静かに、重み込めて頷いた。不老不死の血の呪いと、ライトフェザー級という自ら課した死の檻。その双方を背負った男の真の戦いは、今まさに始まったばかりだった。





【エピソード一 完】


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