第三章 死線に宿る偶像
公式計量日の午前十時。都内にある後楽園ホールの地下控室は、むせ返るような汗の匂いと、冷気を含んだ緊迫した熱気に包まれていた。蛍光灯の白い光が、剥き出しのコンクリート壁とパイプ椅子を無機質に照らし出している。会場に集まった報道陣のカメラのフラッシュが絶え間なく眩しく焚かれ、スポーツ紙や格闘技専門誌の記者たちが、シャープペンシルの芯を折らんばかりの勢いでメモ帳にペンを走らせていた。シャッターの連続音はまるで鳴り響く虫の羽音のようであり、明日の公式戦に向けた重苦しい空気が充満している。対戦相手である鬼塚は、まさにプロアスリートとも言える完璧な身体を作り上げていた。数ヶ月に及ぶ苛烈なトレーニングと徹底された栄養管理、そして最終段階における絶望的な減量によって、極限まで脂肪を削ぎ落とした肉体は、まるで古代ギリシャの彫刻家がノミで削り出したかのように研ぎ澄まされている。深くカットの入った大胸筋、見事に六つに割れた腹筋。そして何より目を引くのは、過酷な水分制限によって皮膚のすぐ下にくっきりと浮き出た、太い血管の網目模様だった。腕から肩、胸から首筋にかけて、赤黒くうねる太い血管が力強く脈打っている。その血管は、まるで生き物のように鼓動に合わせて収縮を繰り返し、身体の隅々まで新鮮な血流を送り届けていた。まさに仕上がっている状態であった。鬼塚の放つ圧倒的な生命力と肉体美は、集まった報道陣を魅了し、感嘆の吐息を漏らせていた。
だが、その鬼塚の完璧な肉体を、控室の薄暗い隅から穴が開くほど見つめている男がいた。ヴァンパイアである。絶血減量、吸血鬼としての本質的栄養源である血液を一切断ち、人間と同じように発汗と食事制限のみで数キロもの体重を落とすという正気の沙汰ではない行いによって、干し肉のように貧相になったヴァンパイアは、冷たい壁に背をあずけながらゼィゼィと荒い息を吐き出していた。その頬は落ち窪み、目の周囲には濃い隈が刻まれている。しかし、その瞳には、アスリートとしての高潔な緊張感と同時に、荒野で死肉を探し求める飢えた肉食獣特有の異様な光が宿っていた。「はぁ……はぁ……っ……!」「ヴァンパイア先輩……大丈夫ですか!?」セコンドを務める後輩の東が、今にも膝から崩れ落ちそうなヴァンパイアの痩せ細った肩を慌てて支えながら、焦り気味に声をかける。東の手のひらを通して、ヴァンパイアの身体が氷のように冷え切っているのが伝わってきた。ヴァンパイアは小刻みに震える指先をそっと前に伸ばし、前方の一点を指さした。「……あの……血管を見ろ……」「え……血管ですか?」「減量で……極限まで浮き上がった……あの血管を……」ヴァンパイアの視線は、フラッシュの光を浴びてポージングを決める鬼塚の太い腕と、露出した首筋に完全に固定されていた。吸血鬼としての本能が、視覚を超えて相手の生物的スペックを分析しはじめる。「……脂肪という名の不純物が排除され、純粋な生命を運ぶ導管だけが、薄い皮膚のすぐ下に剥き出しになっている……。脈動の力強さから見て、流れる血の鮮度は極上だ……。過酷な水分制限によってミネラル分が凝縮されている……。見事なまでの肉体の仕上がりだ……」「先輩、相手に気を取られないでください!」東は静かに、だが強い力でヴァンパイアの肩を掴み、その視線を遮るように立ち塞がった。「ここは公式計量の会場です。報道陣も一般のカメラも入っています。余計な集中力の乱れは禁物です。明日の試合に影響します!」「……分かっている……だが、あの中を流れる養分があれば、枯れ果てた細胞が一瞬で繋ぎ止められるのもまた事実……」「絶対に耐えてください!ここで理性を失えば、これまでの絶血減量も、力石徹の美学もすべてが無になります!」ヴァンパイアは必死に歯を食いしばり、理性の糸を繋ぎ止めようと耐えた。そうだ。自分は千年の時を生きる真祖の吸血鬼である前に、一人のプロボクサーなのだ。昭和の漫画の金字塔に登場する力石徹のように、過酷な減量を耐え抜き、正々堂々と秤の上に乗って計量をクリアし、リングの上で拳を交えなければならない。それがスポーツマンとしての矜持であり、己に課した鉄の掟であった。「……次、ヴァンパイア選手!スケールへ上がってください!」競技役員からの無機質なアナウンスが控室に響き渡る。「はい、お願いします!」東が返事をし、ヴァンパイアの背中を押す。ヴァンパイアは覚束ない足取りで立ち上がり、一歩一歩、慎重に体重計へと足を進めた。冷たい金属の台の上に両足を乗せる。体内の残存水分すら絞り出すイメージで、全精力を傾けて細く長い息を吐き出し、身体を極限まで軽くする。肺の中の空気を完全に押し出し、横隔膜を限界まで引き上げた。
ピピッ。
電子音が鳴り、デジタルメーターに青い光とともに表示された数字は五十五・三キログラム。スーパーバンタム級(ライトフェザー級)の上限(五十五・三三八キログラム)ギリギリ、まさにジャスト三十八グラム手前での一発パスであった。「ヴァンパイア選手、パス! 五十五・三キロ!」会場からパチパチと温かい拍手が湧き起こる。ヴァンパイアは「ふぅ……」と長い吐息を漏らした。吸血鬼の超人的な回復力に頼ることなく、血を一切飲まないまま、自らの肉体と発汗のみでこの厳しい階級の数値を叩き出したのだ。プロボクサーとしての意地と誇りが、絶血という名の地獄を打ち破った瞬間であった。東も「やった……!やりましたねヴァンパイアさん!」と胸を撫で下ろしている。計量を無事に終え、すでに経口補水液を飲み干していた鬼塚が、ボトルを置くとスポーツマンシップに則って真剣な面持ちでヴァンパイアの方へと歩み寄ってきた。減量から解放された鬼塚の肌には、早くも血色が戻りつつあった。「いい仕上がりだな、ヴァンパイア。お前がここまで過酷な減量に耐えてくるとは正直思っていなかったよ。明日はお互い、悔いのない最高の試合をしよう」鬼塚は健闘をたたえるように、ポンと軽くヴァンパイアの左肩を叩いた。
その瞬間だった。ヴァンパイアの首筋がかすかに旋回し、その視線がスッと真下へ落ちた。鬼塚の首筋。計量直後で水分を得たことにより、血流が急速に勢いを取り戻し、ドクン、ドクンと力強く拍動を刻む頸動脈が、ヴァンパイアの目の前わずか数十センチの距離に提示されていた。鬼塚の体温、血管の脈動、肌から漂う微かな汗の匂い。それらすべてが、極限状態にあるヴァンパイアの生物的本能を強く刺激する。ヴァンパイアの瞳が怪しく光を宿し、カサカサに乾いた口元がわずかに開いた。喉の奥がゴクリと音を立てて鳴り、乾いた嚥下運動が起きる。「……」鬼塚は突然、背筋に直接冷気が突き刺さったような悪寒を感じた。ボクサーとしての直感を超えた、生物として「捕食される」という原始的かつ本能的な危険信号が全身の細胞を駆け巡る。冷や汗が吹き出し、鬼塚は思わず素早いバックステップで一歩後ろへ飛び退いた。構えこそ取らなかったものの、完全に警戒態勢に入っている。「……お前、今、何を見ていた?」鬼塚が鋭い視線で警戒を露わにして尋ねる。ヴァンパイアはピクリとも表情を変えず、完全なる無表情を維持したまま、静かなトーンで答えた。「……筋肉だ」「筋肉だと……?俺は上までジャージのジッパーを締め上げている。露出しているのは首から上だけだ」「胸鎖乳突筋の発達具合を観察していたのだ」「首の筋肉か……」「そうだ。プロボクサーとして、パンチの衝撃に耐えうる相手の首の強さを測るのは当然の観察であり、戦術的一環に過ぎない」「……なら、なぜ喉を鳴らし、口元を湿らせている?お前の目はアスリートのそれじゃない。獲物を狙う目だ」鬼塚が警戒を強め、緊張感が極限まで高まる。異常な気配を察知した両陣営のセコンドと、日本ボクシングコミッションの現場関係者、そして会長が大急ぎで二人の間に割って入った。「やめろ鬼塚!計量会場で騒ぎを起こすな!」「会長、こいつの目は普通じゃない!試合前の集中力というレベルを超えている!」「ヴァンパイア、お前も下がれ!お前はすでに計量をパスしたんだ!明日のリングまで集中を切らすな!」後輩の東が「すみません、うちの先輩は極限の減量で神経が尖っているんです」と間に入り、ヴァンパイアの肩を抱えるようにして後方へと引き剥がしていく。引き離される最中も、ヴァンパイアは静かにポーカーフェイスを維持していた。微動だにしない顔面、崩れない姿勢。だが、その静寂な瞳の奥に宿る熱量は、人垣の隙間から去っていく鬼塚の首筋を、どこまでもじっと見つめ続けていた。
(待っていろ、鬼塚。明日のリング上で……俺は己のボクシングのすべてをぶつける……)
プロボクサーとしての矜持と美学、そして肉体の底から湧き上がる抑えきれない過酷な飢餓感。ふたつの相反する巨大な要素を胸に抱えたまま、ヴァンパイアはすべてが決する決戦の明日を迎えるのであった。秤の上で血を吐くような苦痛に耐え、己の肉体だけで上限数値をクリアしてみせたその直直たる姿。誘惑と限界の狭間に立たされながらも、一歩も引かずに秤の上に立ち続けた孤高のシルエットは、かつて秤の上で死の影を背負いながら仁王立ちしたあの男の厳格なるプロフェッショナリズムと、どこか重なり合っていた。




