第二章 絶血——骨を削る日々
ヴァンパイアの自室は、完全な密室と化していた。窓は隙間テープと重厚な遮光カーテンでぴっちりと塞がれ、夏の夕暮れの光すら一筋も入らない。部屋の中央には、季節外れの石油ストーブが三台、ゴウゴウと音を上げて熱気を吐き出していた。ストーブの天板に置かれた大型のヤカンからは、けたたましい蒸気が吹き出し、室内の湿度を極限まで押し上げている。湿気と灯油の匂い、そして皮膚が焼け焦げるような熱気が充満するその渦中で、ヴァンパイアはサウナスーツを着込み、あぐらをかいて座っていた。「……まだだ……」青白い皮膚から、大粒の汗が滝のように滴り落ちる。視界が白く霞み、頭が割れるように痛む。吸血鬼の代謝機能をもってしても、血を絶った状態でのこの高温環境は命の危険を伴う。本来であれば、体温調節すら血液中の魔力に依存している真祖の身体だ。それを無心で干からびさせようというのだから、拷問以外の何物でもなかった。「もっと……汗を……水分を絞り出さねば……」ガチャリとドアが開いた。後輩のプロボクサー・東が、水分補給用の血清パックを携えて入ってきた。だが、一歩足を踏み入れた瞬間、激しい熱風と湿気に気圧されて息をのむ。部屋の壁紙は湿気で浮き上がり、天井からは雫が滴り落ちていた。
「ヴァンパイア先輩……これは……」
「……入ってくるな、東。熱が逃げる」
ヴァンパイアの声は掠れ、目はうつろだった。だが、その瞳の奥には狂気的なまでの集中力が宿っている。サウナスーツの隙間から覗く首筋の骨が浮き上がり、まるで干し肉のような痛々しさだ。東は壁際に転がる一冊の使い古された本に目を留めた。「あしたのジョー」の単行本。表紙はすり減り、角が丸くなるほど何度も読み返された跡がある。開かれていたのは、力石徹が矢吹丈と戦うために過酷極まりない減量に挑むシーンだった。水も飲めず、部屋にストーブを焚いて汗を絞り出す、あの執念の場面である。
「……力石……ですか」
東の呟きに、ヴァンパイアはゆっくりと顔を上げた。「……そうだ。力石は逃げなかった。環境を言い訳にせず、己の肉体を極限まで追い詰めた。俺もまた、この部屋でこの階級を守り抜く……」かつて自分を滅ぼそうとしたカトリックの聖職者たちの十字架や銀の杭には微動だにしなかった男が、紙に描かれた一人の拳闘士の生き様に心を射抜かれていた。東はその覚悟の深さに、言葉を失うしかなかった。減量はさらに厳しさを増していった。試合まであとわずか。吸血鬼の体からはすでに絞り出せる水分すら底をつき、どれだけ身体を動かしても汗が出なくなっていた。皮膚はカサカサに乾き、爪の先まで白っぽく変色している。ジムの脱衣所。体重計の上に立つヴァンパイア。デジタルメーターの数字を見つめる。
「……くっ、まだ足りない……あと数百グラムが……」
練習中も、ヴァンパイアの動きは明らかに精彩を欠いていた。ミット打ちの音は力なく、シャドーボクシングをすれば足元がフラつき、サンドバッグを叩けばその反動と衝撃で自分の方が後ろへ弾き飛ばされそうになる。通常なら驚異的な動体視力と反射神経で相手のパンチをかわすはずが、ジャブの一発すら見切りづらくなっていた。「ヴァンパイア、今日はそこまでにしろ!」見かねた会長が制止に入るが、ヴァンパイアは荒い息を吐きながら首を振る。膝に手をつき、落ちるはずの汗すら出ない額を拭った。「……大丈夫です……もう少しだ……プロとして……俺は……」フラフラになりながらも、決して練習をやめようとしない。ロープ跳びの縄が足に引っかかり、転びそうになりながらも立ち上がる。異形の存在が、自らの種族の優位性を一切捨て去り、人間と同じルール、人間以上の苦痛を自らに課してリングに立とうとしている。その凄惨なまでの執念に対し、ジムの誰もが嘲笑うことなどできなかった。目の前にいるのは、血に飢えた怪物ではなく、プロボクサーとして真摯に生きようとする一人のアスリートだった。全体の練習時間が終了し、ジムの照明が少しずつ落とされていく。バンテージを解いたヴァンパイアは、弱々しい手つきでサウナスーツを羽織った。
「……ロードワークに行ってくる……」
「おい、待て! 外はまだ完全に日が沈み切っていないぞ!」
会長の制止を振り切り、ヴァンパイアは西の空に残る薄明かりに向かって走り出していった。真っ赤に染まる街並みの中へ、消えていく細長い背中。少しでも日光に当たれば皮膚が焼け焦げるリスクを冒してまで、彼は走ることをやめなかった。ジムに残された者たちは、静まり返る更衣室でただその背中を見送っていた。「……あの身体で、なぜあそこまで追い込める……」東がぽつりと漏らした。会長は深く、重い吐息をつきながら、遠くを見つめるように答えた。「……あいつは、人間としてリングに立ちたいんだよ。不死の怪物としてではなく、限界ある一人のボクサーとしてな……」薄闇の街を、ヴァンパイアは走る。ひび割れた唇の間から漏れ出る荒い吐息の中に、彼の魂の叫びが混じっていた。
(この苦痛……この乾きこそが、俺が人間と同じリングに立っている証だ……)




