第一章 不老の呪いと四角い夢
暗いジムの中に、重く鈍い打撃音が響いていた。二人の男が立つその空間にいたのは、世界で唯一無二の異質な存在「ヴァンパイア」であった。本名も戸籍の表記も「ヴァンパイア」。彼が真祖の吸血鬼であり、数百年を生き抜いてきた魔物の類であることは、いまや世間一般に広く知れ渡っていた。昼間は強力な遮光カーテンがなければ皮膚が水膨れとなり火傷のように爛れる体質であることも、本人は隠していない。そんな彼が今、切実に目指しているのは世界の頂点などではなく、目の前にあるデジタル体重計の数値を、あと三キログラム削り落とすことだった。「はぁ……はぁ……! 血だ……! 人間の血を飲ませろ!A型でもB型でも構わん!採血パックの角をハサミで切って、吸わせろ……!」東京郊外にある老舗ボクシングジムの更衣室。床に突っ伏したヴァンパイアは、灼熱の砂漠で水を求める遭難者のように低く呻いていた。汗と脂で湿ったパイプ椅子の脚にすがりつき、鋭い爪を立ててガリガリと切ない音を立てている。その姿には、かつて夜の闇を統べ、無数の人間を恐怖のどん底に陥れた真祖の面影など微塵もなかった。「明日の計量までの我慢じゃ!辛抱しろヴァンパイア!」白髪の会長がバンテージの切れ端でヴァンパイアの口元を力任せに抑えつける。だが、その手元も悲壮感に満ち溢れていた。もしここで飢餓に狂ったヴァンパイアが暴走し、ジムの誰かの首筋に噛み付きでもすれば、即座にプロライセンス剥奪、ひいてはジムの営業停止処分が下ってしまうからだ。「会長……限界だ。舌が張り付き、上顎から剥がれない……。吸血鬼の渇望を、人間の生ぬるい喉の乾きと同列に思わないでいただきたい。脳髄に灼熱の鉄を流し込まれている感覚だ。……たった一滴、赤血球の恵みがあればいい。今すぐジムの前に献血車を手配しろ……」「献血車をそんな用途で呼べるわけがないだろう!試合前日に血を飲めば、その質量で体重が瞬時に一キログラム増えるんだぞ!」「そこをなんとか頼む……。水分の類は一滴たりとも口にしていない。排泄もすべて完璧に済ませた……」
ヴァンパイアの現在の戦場は、プロボクシング・ライトフェザー級(上限五十五・三三八キログラム)である。だが、彼の身長は百八十五センチメートルという驚異的な長身であった。百八十五センチメートルの大柄な男が五十五キログラム台まで身を削ること自体、正気の沙汰ではない。骨組みだけでほぼ許容重量をオーバーしかけている身体から水分と肉を限界まで削ぎ落とし、頬は落ち、目は深く窪み、完全に飢えた怪物の相貌と化していた。血管の走行すら浮かび上がらないほど乾ききった皮膚は、吸血鬼特有の白磁のような美しさを失い、古い羊皮紙のように枯れ果てている。そこへ、本日の練習を終えた後輩のプロボクサー・東がタオルを首にかけながら更衣室に入ってきた。シャワーを浴びたばかりの東からは、ほのかな石鹸の香りと、若い男特有の健康的な血流の生々しい気配が立ち上っている。「お疲れ様です……!ヴァンパイア先輩、またそんな惨状に……。そこまでして血を絶って減量する必要があるのですか?」ヴァンパイアは落ち窪んだ目を怪しくギラつかせ、ゼィゼィと荒い息を吐き出しながら東を見上げた。彼の視線は、東の顔ではなく、その首元に完全に固定されていた。薄い皮膚の下を力強く脈打つ、太い頚動脈。そこを流れる新鮮で温かな液体を想像しただけで、口内にわずかに残った唾液がじわりと滲み出る。「東……お前……首筋の頚動脈が……ドクドクと……いい音を立てているな……。一口……一口だけでいい……」「やめてください、笑えません!ていうか、先輩」 東は表情を曇らせ、床に転がるヴァンパイアを見下ろした。運動後の体温の上昇に伴い、東の皮膚からはかすかに熱気が発せられている。ヴァンパイアにとって、それは極寒の雪山で差し出された焚き火のような壮絶な誘惑であった。「ヴァンパイア先輩は身長百八十五センチメートルあるのですよね。ライトフェザー級の平均身長は百六十八センチメートル前後です。どう見ても二階級以上……ライト級やミドル級まで階級を上げた方が絶対に合理的です。階級を上げれば、そんな死と隣り合わせの絶血減量をせずに済むはずです」
「……対等だ……」
「対等……?」
「……ヴァンパイアである俺がこの過酷な減量苦を抱えることで、初めて人間と対等の勝負ができる。俺はライトフェザー級で、人間と同じ条件で戦う。そこには俺が憧れたボクシングがあるんだ……!」
東の投げかけた合理的な疑問に対し、ヴァンパイアの胸中に激しい葛藤が吹き荒れた。 階級を上げる。そうすれば、計量上限までの許容量が劇的に増える。減量末期に血を絶つという地獄の拷問を課さずとも、日常的に必要な血液を摂取した状態でリングに立てるのだ。ミドル級やスーパーミドル級であれば、体調を万全に整え、吸血鬼としての体格と筋力をフルに発揮して戦うことができる。血が飲めるという生理的な欲求と誘惑が、衰弱した脳を強く揺さぶった。しかし次の瞬間。彼は己の原点を思い出した。自分がなぜ、この長身でありながら過酷極まるライトフェザー級を選んだのか。楽をするためか。優雅に勝つためか。断じて違う。己の身体を極限まで削ぎ落とし、血と汗を干上がらせ、魂だけでリングに立った伝説のボクサー。命を懸けて挑んだあの絶望的な減量の美学に心底打ちのめされ、憧れ抜いたからこそ、自分も同じ苦痛の果てにある真の拳を求めてこの階級に身を置いたのだ。ここで楽な階級へと逃げ出せば、己の信じるボクシングの美学も、プロとしてのプライドもすべて偽物になってしまう。彼はガバッと起き上がると、苦悶に満ちた意志を胸に、険しい表情を浮かべた。膝をガクガクと震わせながらもサンドバッグに手を突き、背筋を伸ばす。会長は深いため息をつき、頭を抱えた。「お前なぁ……美学も結構だが、現実を見ろ!」「黙れ会長!暴れているのではない!極限の乾き……この飢餓の深淵にこそ、ボクシングの真理が宿る!」「いいから体重計に乗れ!あと一・五キログラム落ちていなければ、明日の計量は失格だぞ!」「……乗ればいいのだろう、乗れば!」 ヴァンパイアはフラフラの足取りで体重計へと向かった。デジタル表示が点滅し、数値を弾き出す。「五十六・八キログラム……! あと一・四六二キログラム……!」「絶望的な数値だな。ここからの水抜きは命に関わるぞ……」「くそっ……!走る!汗を出せばいいのだろう!汗を!」 ヴァンパイアは必死の形相で叫んだ。「待て! 水分を摂っていない状態で汗をかけば、急性脱水で心停止を起こすぞ!」 トレーナーの制止を振り切り、ヴァンパイアはサウナスーツを羽織ると、ジムの扉を勢いよく開けて外へと飛び出していった。夜の街へと駆け出していくヴァンパイアの痩せこけた背影は、凄惨でありながら、どこか圧倒的なドラマ性を帯びていた。残された更衣室で、東はベンチの脇に置かれたヴァンパイアの私服のジャケットに目が留まった。ポケットから、年季の入った一冊の文庫本サイズの漫画本が覗いている。「ん……? なんだこれは」東が手を伸ばしてジャケットから引き抜くと、そこには使い古された「あしたのジョー」の単行本があった。ページの端は何度も読み返されたように折れ曲がり、開かれたページには、力石徹が過酷極まる減量に耐え抜き、狂気に陥りながらも命を削ってリングへと向かう伝説的な減量シーンが描かれていた。 「あ……」 東は息をのんだ。それを見た会長が、重々しく、静かなため息をひとつ吐き出しながら呟いた。「……あいつはな、力石徹の大ファンなんだ……」ヴァンパイアは、夜の街を走る。ひび割れた頬と割れた唇。減量苦で意識が遠のく中で、ただひとつ、己の求める生への渇望だけが強く胸に渦巻いていた。




