蒼火の奮闘記~スラムの野良犬生存記録~
「ここは、旧東武連邦が昔作った、気象観測用の無人施設……らしいぜ。
役目を終えた後も、こうやって迷い込んだ遭難者用に、最低限の設備だけ残してあるんだとよ。
……ま、運が良かったな、お互い」
事も無げに言う烈火を前に、蒼火はギリッと牙を剥くように唇を噛み締めた。
敵だ。セラピナを殺した、憎き赤い悪魔。
殺さなければならない。今すぐ、あの男の首を掻き切って……!
だが、殺意に染まりかけた蒼火の脳内で、スラムを生き抜いてきた「野良犬としての本能」が、けたたましい警鐘を鳴らした。
((……やめろ。ここでやり合えば、どっちかが死に、残った方も確実に凍死する))
外は絶対零度に近い猛吹雪。
機体も失い、重傷を負っている現状。
目の前の男は、丸腰の自分をいつでも殺せたはずなのに、ヒーターの前まで運び、あまつさえ自分の身体を温めてくれた。
ここで生身の殺し合いを始めれば、暖を取る手段を失い、共倒れになるのは火を見るより明らかだった。
「……」
蒼火は唸り声を上げながらも、それ以上は動かず、ドスリとその場に座り込んだ。
その敵意と警戒心に満ちた瞳は、ヒーターの赤い光を反射して、ギラギラと烈火を睨みつけている。
「賢明な判断だ」
烈火はニヤリと笑い、齧りかけの干し肉をぽいっと蒼火の方へ投げ渡した。
「食えよ。腹が減ってちゃ、殺し合いもできねぇだろ?」
足元に転がった干し肉。
蒼火はそれを見下ろし、そして再び烈火を睨みつけた。
蒼火は足元に転がった干し肉を拾い上げ、埃がついているのも気にせず、無言でガリッと噛みちぎった。
固い。だが、噛み締めると微かに塩気と肉の味が滲み出してくる。
空腹の胃の腑に、それが落ちていく。
「……」
無心で咀嚼しながら、蒼火は目の前でヒーターに当たっている烈火を見た。
敵とはいえ、命を救われ、食料まで分けてもらったのは事実だ。
スラムの掟として、恩には報いなければならない。
「……礼を───」
「あー、待て。礼ならいらねぇよ」
蒼火が口を開きかけた瞬間、烈火がひらひらと手を振って遮った。
「そのデケェ乳、揉ませてもらった礼だ」
「…………は?」
蒼火の動きが、ピタリと止まった。
「いやぁ、オーバードーズで心肺停止寸前だったからな。
心臓マッサージのついでにな、ちょっとだけ、な」
烈火は悪びれもせず、あっけらかんと言い放つ。
「あと、リリエルのコックピットにあった携帯食料も一本もらった。
あっちの方が断然美味かったぜ」
数秒の沈黙。
やがて、蒼火の頬がカァッと朱に染まった。
咄嗟に両腕で自らの豊満な胸を抱え込み、信じられないものを見るような目で烈火を睨みつける。
「てめぇ……! アタシの……胸を……!?」
「しょうがねぇだろ、人命救助だ」
「…………感想は?」
蒼火の声が、地を這うように低くなった。
瞳の奥に、本気の殺意が宿る。
「返答次第じゃ、この場でお前の息の根を止める」
「……」
ヒーターの赤い光に照らされた狭い部屋で、一触即発の空気が流れる。
烈火は少し考える素振りを見せた後、真面目な顔で答えた。
「ほどよく弾力があって、兎歌より筋肉質で、悪くなかった」
「…………そうか」
蒼火は一つ頷き、胸を抱えていた腕を下ろした。
褒められたので、許すことにしたらしい。
※スラム育ちゆえの、変なところで価値観がズレている部分であった。
「で、お前もスラム育ちか?」
烈火は話題を変えるように、干し肉の残りを口に放り込みながら尋ねた。
「あの機体の操作、完全に自己流だろ。
それに、埃まみれの肉を躊躇いなく食うあたり、どう見ても温室育ちのお嬢様じゃねぇ」
「……見りゃわかんだろ」
蒼火は鼻を鳴らし、再び干し肉を齧り始めた。
「スラムじゃ、寝首を掻かれるか、犯されるか、飢え死にするのが日常だ。
埃だらけの肉だろうが、ドブ水だろうが、食える時に食わなきゃ生きていけねぇ。
……お前だって、そうだろ?」
「ああ。俺も、同じような掃き溜めで泥水啜って生きてきた」
烈火はヒーターの赤い熱源を見つめながら、ぽつりと応えた。
「……だから、分かるんだよ。
お前からは、俺と同じ『野良犬』の匂いがする」
「……。で、現状はどうなってんだ」
蒼火は干し肉を飲み込むと、周囲を見回しながら端的に尋ねた。
「ヒーターの電力は、外で埋まってるブレイズのプラズマリアクターから有線で引っ張ってきてる。
リアクター自体が完全に凍りつくか、ぶっ壊れない限りは、停電の心配はねぇよ」
烈火はヒーターの裏から伸びる、太いケーブルを顎でしゃくった。
「通信は?」
「無理だな。この猛吹雪と磁気嵐じゃ、電波なんて十メートルも飛ばねぇ」
二人は無言で立ち上がり、狭い観測所の中を物色し始めた。
錆びたロッカー、埃を被った無線機、古びた毛布。
しかし、どれも旧東武連邦時代の遺物であり、長年の極寒に晒されて完全に使い物にならなくなっていた。
「チッ、ガラクタばっかりだ」
蒼火がロッカーの扉を蹴飛ばす。
「諦めろ。最低限、風雪を凌げて暖が取れるだけでもマシだと思え」
烈火はそう言うと、手首のパイロットスーツに内蔵された小型端末を操作した。
「おい、ハミット。外の吹雪の状況は?」
『……現在、外部ネットワークとの接続が途絶しているため、正確な気象データの更新は不可能です。
ですが、直前の気圧配置データからの予測演算によれば、数時間以内に一時的な晴れ間が訪れる確率が高いかと』
端末から、少し機械的でありながらも、どこかツンとした少女のような人工音声が響いた。
サポートAI『ハミット』のサブユニットだ。
『それに、プロメテウスの索敵能力と、リベルタのアニムスキャナーを甘く見ないでください。
この程度の吹雪、兎歌様なら必ずあなたを見つけ出します。
……あなたのような粗暴なマスターでも、心配してくれている人がいるんですから、感謝することですね』
「へいへい。相変わらず口の減らねぇAIだ」
烈火は苦笑して通信を切った。
それを見ていた蒼火は、壁に背を預けてズルズルと座り込む。
「……数時間か」
ぽつりと呟いた蒼火の横顔には、疲労と、そして冷たい諦念が浮かんでいた。
「吹雪が止んで、お前の仲間が迎えに来たら……その時は、また敵同士だ。
アタシは丸腰でも、お前の喉笛に食らいついてやる」
「元気なこった」
「本気だ」
蒼火の蒼い瞳が、烈火を鋭く射抜く。
「アタシは、お前を絶対に許さない。
……セラピナ様は、泥水を啜っていたアタシたち孤児に『生きる意味』をくれたんだ。
お前は、アタシの……アタシたちの居場所を、ぶち壊したんだよ!」
その悲痛な叫びとともに、蒼火の脳裏に、かつて大陸の片隅にあるスラムで過ごした日々が鮮明に蘇ってきた。
………
……
…
───記憶の底にこびりついているのは、いつだって飢えと、寒さと、悪意だ。
ノヴァ・ドミニオンの辺境、かつて大戦の傷跡が色濃く残るスラム街。
そこに、六人の孤児たちが寄り添って生きていた。
最年長の蒼火、
少し臆病なガレン、
食いしん坊のコムギ、
いつも笑っていたミオウ、
お調子者のルドラ、
そして一番幼いゼオ。
血の繋がりはない。
だが、親に捨てられ、社会から見放された彼らにとって、互いの存在だけが唯一の「家族」だった。
『……今日はパンが二つある。
ガレン、これをゼオと半分こしろ』
最年長である蒼火は、毎日這いつくばるようにして彼らを養っていた。
地元のギャングの下働き。薬の運び屋、盗み、見張り。
それでも金が足りなくなった時、蒼火は自らの身体を差し出した。
子供たちには絶対に手を出させないという条件で、ギャングの男たちに汚される日々。
処女を失った夜、血の滲むシーツの上で、声を出さずに泣いた。
それでも、ボロボロになった身体でねぐらに帰り、コムギやミオウが無邪気に笑いかけてくれるなら、それでよかった。
私が守る。
私だけが、この子たちの盾なんだ。
───だが、スラムの現実は、そんな蒼火のささやかな覚悟すら容赦なく踏みにじった。
『あお姉ちゃん……ごほっ、ごほっ……』
『ゼオ! しっかりしろ! 今、薬を買ってくるから!』
ある冬の夜。一番幼かったゼオが、流行り病であっけなく息を引き取った。
蒼火が身を削って稼いだ金は、ギャングのピンハネでただの気休め程度の薬にしか化けず、小さな命を繋ぎ止めることはできなかった。
蒼火はさらに頑張った。
もっと稼ぐために、裏切者を殺す仕事にも手を染めた。
自分の手が血と泥で汚れれば汚れるほど、残された四人が生き延びられると信じて。
だが、運命は残酷だった。
ギャング同士の抗争が激化したある日。蒼火が仕事に出ている隙に、ねぐらが襲撃されたのだ。
『やめろォォォッ!!』
駆けつけた蒼火の目の前で、逃げ遅れたミオウが、ギャングたちの「弾除け」として、無惨に撃ち殺された。
『あ、お、姉……ちゃ……』
血だまりの中で、笑うことしか知らなかったミオウの瞳から光が消える。
ガレン、コムギ、ルドラは、恐怖に震えながら泣き叫んでいた。
「……あ、あぁ……アァァァァァァァッ!!」
その瞬間、蒼火の中で何かが壊れた。
理性を失い、獣のように発狂した蒼火は、落ちていた鉄パイプと奪った銃で───
その場にいたギャングたちを、一人残らず惨殺した。




