極寒の国、ノルヴァルドにて
ヒュルルル……ヒュォオオ───……
猛吹雪。
真っ白な雪が、視界のすべてを塗り潰していた。
風の不気味な咆哮だけが、分厚い装甲越しに鼓膜を叩き続ける。
旧東武連邦・北部寒冷地帯。
雪山の中腹に腰を下ろすようにして待機するのは、炎色の愛機。
『ブレイズ・ザ・ビースト』。
そのコックピット内は、薄暗い計器の光だけが点滅していた。
最低限の生命維持と、アニムスキャナーのアイドリング状態を保つためだ。
「フゥー……ッ」
シートに深く背中を預けた烈火・シュナイダーの呼吸は、規則正しく、そして深い。
ネクスター特有の第六感を周囲の「索敵」に全振りし、肉体は休息の眠りについている状態。
だが、その閉じた瞼の裏側で再生されていたのは───
真っ白な雪原とは対極にある、薄汚れた灰色の過去だった。
………
……
…
───夢の中の空は、いつも淀んだ鉛色をしていた。
廃棄されたコンクリートと、錆びた鉄屑の匂い。
足元には、ドブ水と血が混ざったぬかるみが広がっている。
『よくやった、クソガキ。ほらよ、今日の餌代だ』
チャリン───
下卑た笑い声とともに、薄汚れた硬貨が数枚、投げ捨てられる。
「……」
十歳そこそこの烈火は、泥にまみれたそれを無言で拾い集めた。
その手には、乾いた血がこびりついた、粗末なナイフ。
大戦の空襲で家族を奪われ、文字通り路地裏のゴミとして放り出された日から。
それが烈火の日常だった。
地元のマフィアに飼われる「鉄砲玉」。
自分より体の大きな大人たちを相手に、言われるがまま路地裏に潜み、躊躇いなく喉笛を掻き切って奪う。
飢餓で死なないため。
そして何より、後ろで怯えながら自分の服の裾を強く握りしめている、たった一人の「幼なじみ」を食わせるためだ。
((……この金を全部パンに換えたら、あいつ、笑うかな))
硬貨を握りしめ、二人のねぐらである廃ビルへと急ぐ。
だが───
崩れかけた扉の前に立った瞬間、背筋にゾッとくる感覚。
生来の『野生の勘』が、
「……嫌な匂い?」
ひどく安い酒と、火薬の匂い。
「トウタ!!」
扉を蹴破った烈火の視界に飛び込んできたのは───
ひび割れた床に押し付けらた、兎歌の姿だった。
無惨に引き裂かれた衣服。
全裸にされた幼いながら女らしい身体。
小さな両手で必死に大きな胸を隠し、声にならない悲鳴を上げて涙を流していて。
それを、マフィアの男たちがゲラゲラと笑いながら囲んでいる。
『おっ、帰ってきたか狂犬。ちょうど良かったぜ』
兎歌を押し付けている男が、面倒くさそうに振り返る。
そして、拳銃を烈火へ向けた。
『お前、もう用済みなんだわ。
最近、生意気だしな。
最後にこの女の美味いとこだけ俺らが貰ってから、仲良く天国に送ってやるよ』
男の指が、引き金にかかる。
兎歌が、「にげて」と口を動かした。
絶望に満ちた目だった。
「……」
───その瞬間、烈火の頭の中で、何かが完全に「弾け飛んだ」。
理屈ではない。
人間が本来持つ倫理も、子供が大人に向ける恐怖も、銃弾への恐れも。
すべてが殺意に塗り潰された。
『兎歌を奪われる』
烈火にとって、宇宙の破滅よりも恐ろしい事を前に、生存本能のタガが外れたのだ。
「──────ッ!!」
声にならない獣の咆哮。
男が引き金を引くよりも早く、十歳の小さな身体は、物理法則を無視したかのように地を蹴った。
『超人』としての異常な筋力が、一瞬で男との距離をゼロにする。
ドン───ッ
遅れて銃声が響き、烈火の肩を弾丸が掠めて、血飛沫が舞う。
だが、烈火は止まらない。
痛みなど、疾うに消失していた。
グシャッ
構えた粗末なナイフが、男の顎の下から脳天へと深々と突き刺さる。
『なっ……ガハッ!?』
目を見開き、痙攣して倒れる男。
周囲にいた他のマフィアたちが、事態を飲み込めずに、慌てて銃を抜こうとする。
遅い。あまりにも遅すぎる。
烈火は倒れた男の手から小型銃を奪い取ると、躊躇なく二発。
隣の男の顔面が弾けた。
二番目。
そのまま血だまりを蹴って跳躍。
背中を見せて逃げようとした三番目の男の首に、食らいつくように馬乗りになり───
ナイフを何度も、何度も、突き立てた。
肉が裂け、骨が砕ける音。
血の雨が降る、廃ビルの部屋。
その場のマフィア全員がただの肉塊に変わるまで、三分とかからなかった。
「はぁ……はぁ……」
返り血で全身を真っ赤に染めた烈火は、荒い息を吐きながら、ガタガタと震える兎歌の前に膝をつく。
血に濡れた手で上着を脱ぎ……震える小さな身体に、そっと被せた。
『……れ、っか……』
『……泣くな』
烈火は、血まみれの指で兎歌の涙を拭った。
感情の抜け落ちたような、ひどく冷たく、だがどこまでも熱を帯びた声で呟く。
『もう……誰も、お前を傷つけさせねぇ。俺が、全部ぶっ殺してやる』
………
……
…
「……チッ」
アラートの響きに、烈火は舌打ちをして目を覚ました。
額には薄っすらと汗が滲んでいる。
「……嫌な夢だ」
ぼそりと呟きながら、烈火は首元に巻かれたマフラーに手をやる。
それは、エリシオン本国で兎歌が昔……二人が再会した、あの日に……編んでくれた、少し編み目の不揃いな、赤いマフラー。
右端には、狼、左端には、ウサギのワッペン。
分厚いパイロットスーツの上からでも、その小さな温もりが、じんわりと伝わってくる気がする。
ピピッ……
『地形データと照合。前方八百メートル地点に構造物を検知。
旧式の観測小屋と推測されます』
無機質な電子音声が、薄暗いコックピットに響いた。
続けて、レーダー画面の端で、別の警告音が点滅する。
ピピッ……
『未確認のコマンドスーツの反応を検知。機能は完全に停止しています。
シルエットデータから、機体は【リリエル】と推定されます』
「……リリエル、だと?」
烈火は眉をひそめた。
兎歌の今の乗機は、白い鳥型の『リベルタ』だ。
『リリエル』とは、かつてシグマ三本槍との死闘で大破した、兎歌の旧搭乗機のことである。
それがノヴァの手で再建され、『リリエル・ブルー』として現れた。
両断して撃墜したはずだったが、修復され、再び襲い掛かってきた。
そして、ブレイズとリリエルは仲良く、雪の下へと落下したのだった。
「……確認してくるか」
烈火は首元の赤いマフラーをしっかりと巻き直すと、防寒マントを羽織ってブレイズのハッチを開けた。
「ッ……!」
外に出た瞬間、刺すような極寒の風と粉雪が、顔面を容赦なく殴りつけてくる。
だが『超人』である烈火は、意に介さない。
トン───ッ
烈火は猛吹雪の中を跳躍!
雪原に半分埋もれかけている、青い機体へと飛び乗った。
装甲の隙間から、微かに火花を散らすリリエル。
下半身がホバー仕様に換装されているようだが、完全に沈黙している。
烈火は胸部のコックピットハッチへ這い寄った。
外装こそノヴァの技術で弄り回されているが、手動の緊急解放レバーの位置は同じだ。
かつて兎歌が乗っていた、あのリリエルのまま。
「作りは変わってねぇな」
烈火は氷に覆われたレバーを掴み、超人的な膂力で強引に引き上げた。
プシュゥゥ……
くぐもった排気圧の音とともに、重いハッチが持ち上がる。
中にいたのは、気を失ったパイロットだった。
ヘルメットは外れて足元に転がっている。
ショートに切り揃えられた、蒼い髪。
少し男勝りで、凛々しい顔立ち。
そして、分厚い耐Gスーツの上からでもはっきりと主張する、衣服を押し上げるような豊満な双丘───
まごうことなき巨乳だ。
(烈火の脳裏を『巨乳だ』という事実が一瞬だけ駆け抜けたが、今はそれどころではない)
「おい、生きてるか」
烈火はコックピットに身を乗り出し、少女の首筋に指を当てた。
冷え切っているが、微弱な脈はある。
だが、その姿は異常だった。
青白い肌の表面に浮き上がる、不気味なほど青紫色の血管。
鼻を突くのは、鉄の匂いと、ノヴァ特有の、甘ったるい化学薬品の匂い。
「……薬のオーバードーズか。
それに、落下の衝撃で気絶してやがる」
スラムでジャンキーたちを腐るほど見てきた烈火には、一目で分かった。
機体性能を無理やり引き出すための過剰な投薬と、不時着の衝撃。
こんな猛吹雪の中、暖房の切れたコックピットで放っておけば、どうなる?
三十分と持たずに凍死するか、薬のショックで死ぬだろう。
敵だ。
宇宙で自分たちを殺そうとした、ノヴァ・ドミニオンのパイロット。
だが、烈火の脳裏には、先ほど見たばかりの悪夢の光景と、この少女から漂う自分と同じ「スラムの野良犬」の匂いが重なって、どうしても見捨てる気にはなれなかった。
………
……
…
時は数時間前へと遡る。
エリシオンが誇る戦闘空母『プロメテウス』の艦内。
目的地である旧東武連邦・北部の寒冷地帯『ノルヴァルド』へと向かう最中。
薄暗いハンガーには、出撃を待つ二機の機体が鎮座していた。
一機は、炎のような装甲を持つ『ブレイズ・ザ・ビースト』。
もう一機は、白亜の翼を持つ美しい機体『リベルタ・ザ・ターミガン』。
ブレイズのコックピットの中で、烈火は首元の赤いマフラーを弄りながら、通信パネルを見つめていた。
『さて、状況の確認だ。お前ら、起きているな?』
モニター越しに、プロメテウスの艦長、レゴンの渋い声が響く。
「いつでも出れるぜ、艦長」
『……はい! リベルタ、異常ありません』
烈火の気だるげな返答。
続いて、別ウィンドウに映る兎歌が、ピンと背筋を伸ばして元気に答える。
『よろしい。今回の作戦目的は、偵察だ』
レゴンは手元のコンソールを操作し、モニターにノルヴァルド周辺の地形図を表示させた。




