死者蘇生
エリシオンの戦闘空母『プロメテウス』の医務室。
消毒液の匂いが漂う静かな空間で、男と女が一人ずつ。
菊花は真っ白な毛布にくるまり、声を出して泣きじゃくっていた。
「うわああぁぁん……っ!
怖かった……ウチ、ホンマに怖かったんやでぇ……っ!」
普段の男勝りな班長の面影は、そこにはなかった。
極限の恐怖と寒さ、そしてノヴァ・ドミニオンで知ってしまった、あまりにも残酷な真実。
張り詰めていた糸が切れた菊花は、ただの一人の弱い女の子に戻っていた。
「……よく耐えた。もう大丈夫だ」
ベッドの傍らに座るゲイルは、不器用な手つきで、泣き叫ぶ菊花の背中を優しく撫でた。
大きな手から伝わる、無骨だが確かな温もり。
菊花はゲイルの広い胸に顔を埋め、その服をギュッと握りしめる。
((あいつら、死んだソフィの脳みそを……クロトは何も知らんと……))
悲惨な事実を思い出し、再び震えが全身を襲う。
だが……、
今はただ、自分を助けに来てくれたこの男の匂いに包まれていたかった。
「……なぁ、ゲイル」
「なんだ」
「……約束、しいや。
今度、ちゃんとウチのこと……抱いてな」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、菊花は上目遣いで懇願するように言った。
いつ死ぬか分からない、狂った世界。
だからこそ、自分が生きている証を、愛する男に刻みつけてほしかったのだ。
ゲイルは少しだけ目を丸くしたが、すぐにふっと口角を上げ、菊花の頭を抱き寄せた。
「……ああ。約束する」
「ふふ……ホンマやで……」
耳元に響く低く落ち着いた声に、菊花はようやく安心したように微笑んだ。
ゲイルの逞しい腕の中にすっぽりと収まり、菊花は泥のような、深く安らかな眠りへと落ちていった。
………
……
…
同じ頃、プロメテウスのパイロット用個室。
烈火は上半身裸のままベッドに腰掛け、大きく息を吐き出していた。
「ほら、バンザイして。背中も拭くから」
傍らには、濡らした温かいタオルを手にした兎歌が立っている。
兎歌は甲斐甲斐しく、烈火の引き締まった肉体に浮かぶ汗や煤を、丁寧に拭き取っていた。
「子ども扱いすんなよ。自分で拭けるって」
「だーめ。これはお嫁さんのお仕事。
旦那サマなんだから、大人しくお世話されなさい」
兎歌はわざとらしく胸を張り、豊かな双丘をぷるんと揺らす。
そのまま背中に回った兎歌の柔らかい膨らみが、烈火の背中にムギュッと押し付けられた。
「……お前なぁ」
「ふふっ。お疲れ様、烈火。
菊花ちゃんが無事で、本当によかったね」
耳元で囁かれる優しい声に、烈火は肩の力を抜いた。
極限の集中を要したブレイズでの戦闘。
その疲労が、兎歌の温かい手によってゆっくりと溶かされていく。
「ああ。シホとノエルがうまく立ち回ってくれたおかげだ。
あいつら、腕を上げたな」
「特訓の成果だね。
……でも、やっぱり一番かっこよかったのは、わたしの旦那サマだけど」
背中からギュッと抱きついてくる兎歌。
烈火は照れ隠しのように頭を掻き、兎歌の腕に自分の手を重ねた。
その時。
分厚い扉の向こう、遠くの通路や格納庫の方から、大勢の歓声がうっすらと聞こえてきた。
『やったぞ! 菊花班長を奪還した!』
『烈火! ゲイル! 俺たちの英雄バンザーイ!!』
ノヴァの基地から生還し、大切な仲間を連れ帰ってきた二人のエース。
その奇跡のような戦果を讃え、プロメテウスのクルーたちが喜びに沸いているのだ。
「英雄、だってさ」
烈火は苦笑しながら、天井を見上げた。
「俺たちには、似合わねえ言葉だな。
ダチを助けに行っただけなのによ」
「そんなことないよ。
みんなにとって、烈火は間違いなくヒーローだもん」
兎歌は烈火の隣に座り、その肩にコテンと頭を乗せた。
「少なくとも……わたしにとっては、世界で一番のヒーローだよ」
「……バーカ」
烈火は優しく兎歌の桜色の髪を撫で、その肩を抱き寄せた。
遠くで響く歓声と、すぐ傍にある確かな体温。
血なまぐさい戦場を駆け抜けた後にだけ訪れる、束の間の平穏。
世界がどれほど狂気と絶望に染まろうとも、この温もりだけは絶対に守り抜く。
烈火は強く心に誓い、腕の中の小さな『日常』を、静かに抱きしめ続けた。
~~~
それから、数日後。
プロメテウスの艦内にある、防音と電子プロテクトが施された通信用の小部屋。
菊花はデスクの前に座り、空間に投影された青白いホログラム映像と向き合っていた。
『まずは生還おめでとう、菊花。そして、見事な諜報作戦だったよ』
通信越しに響くのは、エリシオンの作戦参謀――ギンの穏やかな声だ。
銀髪の青年はホログラムの中で微笑み、菊花を称えた。
『君が命懸けで送ってくれたデータのおかげでね。
烈火やゲイルの無許可での出撃は、書類上「プラズマリアクター搭載機を擁する基地の機密情報奪取作戦」として、完璧に処理できたよ。
上層部も君の持ち帰った情報に釘付けだ』
「……そりゃ、どうも」
菊花は力なく答え、机に視線を落とした。
機密情報の奪取。
確かに、ノヴァの基地の防衛システムや、新型バイオロイドに関するデータは、戦局を左右するほどの価値があるだろう。
だが、菊花の心は重く沈んでいた。
脳裏にこびりついて離れないのは、あの『バイオロイド・キメラ製造記録』だ。
((クロトは今も、何も知らんと……ソフィの脳みそを入れられた人形を隣に置いて、ウチらを憎んどる……))
あまりにも残酷な真実。
敵とはいえ、かつては同じレザイトの街で笑い合っていた幼なじみだ。
ノヴァの手のひらで踊らされ、復讐という名の狂気に身を焦がすクロトを思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。
『浮かない顔だね。ノヴァの人体実験の様子を知って、思い悩んでいるのかな?』
ギンが、画面越しに菊花の心中を見透かしたように問いかけてきた。
「……あんなもん、知らん方がマシやったわ」
菊花は自嘲気味に笑い、頭を掻きむしった。
「知ったところで、ウチにはどうにもできへん。
クロトに『お前の横におる人形は、本物のソフィやで』って言うたところで、あいつが信じるわけないし……。
信じたとしても、もっと絶望するだけや」
深く、重いため息をつく。
そんな菊花を見て、ホログラムのギンはふっと小さく笑った。
『よく、「人に悩みを打ち明ければ心が軽くなる、解決する」なんて言う大人がいるだろう?』
「……ああ。気休めやろ、そんなん」
『その通り。あんな言葉は、完全な嘘だ。
話したところで、厳しい現実は何一つ変わらないからね』
ギンの冷徹な言葉に、菊花は顔を上げた。
だが、ギンの顔には、いつもの底知れぬ自信に満ちた笑みが浮かんでいた。
『だが、この場合は例外だよ。
君の悩みは解決できるし、すでにこちらには解決の用意がある』
「……用意? なんの用意や?」
『簡単なことだ。要するに……死んだ人間が、生き返ればいいんだろう?』
その言葉を聞いた瞬間。
菊花は息を呑み、目を見開いた。
「し、死んだ人間が生き返る……? アホなこと言うな! そんなこと、できるわけ……」
そこまで言いかけて、菊花はハッとして言葉を飲み込んだ。
((いや……待てよ?))
目の前にいるこの男は、エリシオンの作戦参謀、ギンだ。
菊花は、彼が決して実現不可能な『嘘』を口にしないことを知っている。
そして何より、彼自身が百年の時を生きる『不老不死』の存在であることも、知らされていた。
不老不死の技術を完成させた男。
百年の時をかけて、人類の科学を裏から操ってきた天才。
そんな彼が、「死んだ人間が生き返ればいい」と言っているのだ。
「……ギン。アンタ、まさか……」
菊花の震える声に、ギンはホログラム越しにゆっくりと頷いた。
『ノヴァは、ソフィの脳の言語野や記憶領域を封印して、アイリスという人形に組み込んだ。
だが、脳という物理的な記憶媒体が“生きたまま”残っているのなら。
……オレの技術と、エリシオンの医療設備を使えば、凍結された人格を解凍し、ソフィ本人として完全に蘇生させることは理論上可能だ』
「っ……!!」
菊花の全身に、鳥肌が立った。
それは、神の領域に踏み込むような、恐ろしくも甘美な奇跡の提示。
『もちろん、彼女の身柄を無傷で奪還することが絶対条件になるけれどね。
どうだい、菊花。少しは希望が持てたかな?』
「……ホンマに、ホンマにできるんやな?」
『オレは嘘をつかないよ。キミたちがノヴァを打ち倒し、彼女を連れ帰ってくるなら……
オレが責任を持って、ソフィを生き返らせてみせよう』
暗闇の底に、一筋の強烈な光が差し込んだような気がした。
ソフィが生き返る。
クロトの狂気を、終わらせることができる。
「……上等や」
菊花は顔を上げ、先ほどまでの涙を拭い去った。
その瞳には、メインメカニックとしての、そして同郷の友を救い出すという強い決意の炎が宿っていた。
「絶対連れ帰ったる。ウチと、烈火と、ゲイルの手でな……!」
通信パネルの向こうで、ギンは満足そうに微笑んだ。
ガラスの大地と絶望の底から生還した者たちが、今度は過去の亡霊を打ち砕くための、新たな戦いの準備を始めようとしていた。
プロメテウスの整備班をまとめる班長、菊花・メックロード。
彼女は、口が悪い。
少しでも問題があれば容赦なく怒鳴り散らし、スパナを振り上げてパイロットの無茶を叱りつけることも少なくない。
だが、プロメテウスのクルーは誰もが知っている。
菊花が怒るのは、決まって仲間が危険に晒された時や、命の安全が脅かされた時だけだということを。
その本質は、誰よりも不器用で、誰よりも優しいのだ。
『でも、本当にいいのかい?』
ホログラムのギンが、ふと意地悪な笑みを浮かべて首を傾げた。
『クロト・アスクは、キミを拉致し、冷たい地下牢に監禁した。
……それに、キミの口から機密を吐かせるために、拷問や凌辱の計画を平気で立てていた男だよ?』
ギンの言う通りだ。
もしゲイルの到着が少しでも遅れていたら、菊花の身に何が起きていたか分からない。
クロトは完全に狂気にとらわれており、幼なじみへの情など欠片も持ち合わせていなかった。
それでも助けるのか、と。
ギンは菊花の覚悟を試すように問いかけている。
「……アホか」
菊花は短く吐き捨て、ホログラムの男を真っ直ぐに見据えた。
「あいつがウチにしたことは、一生許さへん。次に会ったら、スパナで頭かち割ったるわ。
……でもな、ソフィのことは別や」
菊花は膝の上で、ギュッと両手を握りしめた。
「ソフィが死にかけたんは、ウチらエリシオンの……ブレイズの戦いに巻き込まれたせいや。
ウチらが、奪ってしもうたんやから」
あの日、リープランドの街で暴走した『赤い悪魔』。
シグマ帝国が街を焼いたとはいえ、烈火のブレイズが放った圧倒的な破壊の余波が、ソフィを瓦礫の下敷きにしたことは紛れもない事実だった。
「戦争や。しゃーないことかもしれん。
エリシオンの攻撃の巻き添えになった民間人は、ソフィだけやない。
世界中にぎょうさんおるはずや」
菊花の脳裏に、ガラス化して消え去った砂漠の光景や、戦火に焼かれた故郷レザイトの景色がよぎる。
自分たちは正義の味方ではない。
平和を守るためとはいえ、巨大な兵器で引き金を引けば、無関係な命を奪うことだってある。
その罪から目を背けることなど、菊花にはできなかった。
「全部の命を救うことなんか、できへん。
失われたもんは、二度と戻らん。
……せやけど」
菊花は力強く顔を上げ、宣言した。
「取り戻せる命が、手の届く場所にあるんやったら。
……ウチは、絶対に諦めへんで」
どんなに理不尽な狂気に満ちた世界でも。
過去の亡霊に囚われた友の魂と、造花にされた少女の命を救い出せる可能性があるのなら、それに賭ける。
それが、エリシオンのメカニックとして、そして同郷の友として、菊花が出した答えだった。
『……立派だ。キミのその強さが、オレたちの計画には必要なんだ』
ホログラムのギンは満足そうに微笑み、深く頷いた。
『期待しているよ、菊花。
クロト・アスクの目を覚まさせ、アイリスを連れ帰る日をね』
「言われんくても、やったるわ!」
菊花は力強く応え、通信コンソールの電源を切った。
青白いホログラムがふっと消え、小部屋に静寂が戻る。
菊花は小さく息を吐き出すと、椅子から立ち上がった。
先ほどまでの涙と恐怖は、もうどこにもない。
いつもの勝気な班長の顔に戻り、菊花はプロメテウスの格納庫へと続く扉を、勢いよく開け放った。
───待っとれよ、クロト。ソフィ。
───ウチらが絶対、その狂った箱庭から連れ出したるからな!
心の中で固く誓い、菊花は仲間たちの待つ、油と鉄の匂いが立ち込める日常へと歩き出した。




