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さあ、実践しましょう

 さて。

 春香は、台所に立って気合を入れた。

 本を貰ってから、地味に様々な物を作ってきた。

 春香の脳裏に其の諸々が映り、思わず目の端に感涙が浮かぶ。


 カレーライス。


 焼きトウモロコシ。


 もやし炒め。


 ……はい、其処の人、ひかないひかない。

 正直申し上げて、料理に心血注がない人間にとって、此処等辺は食べた事があるけど作ったことが無い食べ物に軽くヒットしていく代物ではなかろうか。

 例えば、焼きトウモロコシ。

 あれ、どうやって作っているんでしょうか。

 トウモロコシって、茹でるの?

 焼きながらつけてるあれ何? 生醤油? え!? あれに味醂入れるの!? って云うか、味醂の方が多いの!?

 そんな微笑ましい絶叫を上げながら、焼きトウモロコシは出来上がる訳だ。

 勿論、其れ以外もそう云う末路を辿る。

 ええ!? カレーライスのルーって小麦粉なんだ?! しかも焦がしちゃいけないんだ!?

 ええ!? もやし炒めってもやし其の儘炒めるんだ!?

 そんな微笑ましい叫びを上げながら、春香は本を片手に懐かしい味を再現していく。

 そして。

「うっわー……」

 そんな努力の結晶を、思い切りひきつった顔で指し示すのは、派手だが品の良い整った顔持つ男。

 西洲の最有力者……醇乎(ますみ)だった。

「おっまえ、また何作りやがったんだよ」

 勝手に家に上がり込み、勝手に部屋に上がり込み。

 勝手に寛いだ自称貴人は、眼前の春香に対して些かならぬ失礼な態度で心底嫌そうに指さして言い放った。

 指の先に在るのは―――――――アイスクリームだ。

「なんですか、唐突に」

 憮然としながら、春香は自家製のアイスクリームを口に運ぶ。

 多少しゃりしゃりするものの、まずまずの出来のアイスクリームに満足の表情を浮かべる春香へ、醇乎(ますみ)はお前さあと心底嫌そうに呟いた。

「よくそんな存在(もの)食べようと思うよなあ」

「何を云ってるんですか」

 憮然として、春香は応える。

「牛乳も卵もとれたて! 砂糖だって上等ですよ? 残念ながらバニラが見つからなかったので香り付けは出来ませんでしたが……でも、ちゃんとチョコチップを混ぜ込んだんです! 初めてにしては上等じゃあありませんか!!!」

 そう云ってぐいっと押し出した器には、象牙色の中に茶色の破片を有する物体が鎮座している。

 春香が堂々とアイスです、と言い切る物体は、醇乎(ますみ)にとって……否、此の世界では脅威の代物だ。

「あのな、お前」

 醇乎(ますみ)が此の莫迦と云う様な顔で言葉を紡ぐ。

「卵って何処からとってきたんだよ」

「森に決まってるじゃありませんか」

 前に見つけておいてよかったとなんでも無い様に云う春香へ、醇乎(ますみ)はじゃあと言葉を紡ぐ。

「牛乳は何処にあったんだよ」

「茸を絞ったら出てきましたよ。牛を探さなくていいなんて流石森ですね!」

 砂糖も同様だとなんでも無い様に云い放つ春香へ、じゃあと醇乎(ますみ)は言葉を紡いだ。

「其れをどうやって冷やし固めたんだよ」

「氷に決まってるじゃあないですか」

「その氷は何処にあったんだよ」

「木に生ってました」

「ばっかじゃねえのかお前は!!!!!!!!!!!!!!」

 堪忍袋の緒が切れた、とばかりに醇乎(ますみ)が叫べば、春香はなんですかあと些か怯えた様に縮こまって声を上げる。

「お前さ!? 云ったじゃねえか!? お前の世界で氷ってのは水を冷やすとできるって!!! 何で氷が木に生ってるのを普通に収穫できるんだよ!?」

 ぎゃーすと一気にまくし立てた言葉に、春香はアイスクリームを一匙口に運び……かくんと首を傾げて見せた。

「だって、此処、異世界ですよ?」

 だから何でもアリ、と清々しく言い切る姿へ、再度ばっかじゃねえかと怒鳴りつけ、醇乎(ますみ)は凶悪な表情(ツラ)で春香に迫る。

「お前の知る物と、此の世界の物が同じと思ってんのかよ」

 其の言葉に、春香はやだなあと朗らかに笑う。

「ワタシにとっては同じですから良いんですよ。教えて戴く意味はありません」

 喋るな危険、と笑顔で断絶され、醇乎(ますみ)は呆れた様に天を仰いだ。

「ま、いいや。アイスクリーム(それ)、土産でくれよ」

 云った瞬間。

 どばああっと流れ込んだ奔流が、部屋を横切り醇乎(ますみ)を弾き飛ばす。

 土間の隅まで放り出された醇乎(ますみ)の姿を見て、春香は僅かに呆けた表情で「あ、あげちゃいけないのね」と呟いたのだった。




 そんな扱いを受けている此の美丈夫は、決して位の低い存在でも無力な存在でも無い。

 醇乎(ますみ)、と云う名を聞けば、西洲の大半の有力者は顔をひきつらせ怯え、僅かな有力者は其の首を落とすのは己であると舌舐めずりをするだろう。

 西洲は、此の国有数の外国(とつくに)との玄関口を有する土地だ。

 竜女達から珍しい品物を得、竜女達に此の国特有の物を売りつける。

 商家とやりあってばかりの西洲だが、其の実血生臭さも有数で、醇乎(ますみ)は、其の面も含めて、西洲の棟梁を自称し、ある意味周囲も其れを黙認している状況だった。

 醇乎(ますみ)は、暇ではない。

 だが、機を逸する程愚かでもない。

 森に住まう女……最近では森の竜女、等と云う別称で上位の存在の口の端に上るようになった其の女は、森の奥深くに住んでいて、外界との接点を殆ど持たないと有名だった。

 其の女は稀有な能力を持ち、畏怖すべき存在(もの)を作り出している、と。

 後見は、天子の膝元近く……中、と称される土地に住む稀代の有力者。

 智勇備え持つと呼ばれ天子にも愛された男を上位者(おや)に持ち、其の才を余す事無く受け継いだと呼ばれる美丈夫。其の男の奥が、実質の後見であると云う、(はなし)

 有力者の間に流れる情報(うわさ)は、先ずハズレが無い。当たり前だ。情報戦は、己の生き死にに直結する。

 真の後見たる存在(もの)は、高貴な流れを其の身に有し、稀代の才能と美貌を宿すと有名な姫だった。其の才故に、最早人とは一線を画した存在に成っているとすら云われている。何故か。―――――――森で、己が力を振るう事が出来るからだ。

 森は、此の国の生命線。

 森は、どの様な土地(くに)でも傍らに在り、豊かな恵みを齎す。

 だが。

 森は、どの様な理由があろうとも、人を内包する事は無く。……ましてや、術を己が内で振るう等と云う蛮行を、決して許しはしない。

 しかし。

 稀代の美貌持つ姫は、其れを許される唯一だった。

 そして。

 森の竜女、と呼ばれる女は…………姫以外で、初めて森に許された存在(ニンゲン)だった。

 醇乎(ますみ)とて、最初は信じられなかった。

 噂を集めて精査した報告書には、其の女は森の物を勝手に採取しているとあったのだ。

 まさか。

 醇乎(ますみ)は笑った。

 そんな事、あの森が許すかよ。

 だがしかし。

 馴染みである竜女が持ってきた話を聞いて、醇乎(ますみ)は驚愕で一瞬気が飛んでしまう。

 森に直接入り込んだと云う暴挙はとりあえず脇に置き、湖があったと云うのだ。

 湖。

 水の、塊。

 力の塊。

 意志の、現れ。

 竜女は湖――――水の容赦ない攻撃を受け、瑠璃の式に森を追い出されたと云った。

 優美である姿の其処彼処が欠けているのは、其の際の産物であるらしい。後背をごっそり抉られた其の姿で竜女は笑った。森の竜女は暢気だと。どうやら、此れだけの攻撃に全く気が付いていないらしい。竜女とて誇りがある。負けた姿を晒す訳がない。故に無傷の面のみを見せて接していたら、森の竜女は竜女の異常に最後まで気が付かなかったと云うのだ。

 とりあえず欠けて失われた体が癒えない事には動きようがない。そう云って竜女は醇乎(ますみ)の前から下がった。……其れは治癒が可能なのかと口に出せば、全てが終わりそうな脆さを感じさせて。

 竜女は、去り際にふわりと笑った。そして云った。

 西の王。―――其れが彼女の醇乎(ますみ)に対するいつもの呼びかけ方だ―――西の王。もし、お暇なラ、森ノ竜女を連れてキてクレない?

 羽の様に軽やかな言葉だが、内包される物は重い。

 無理ナラいいノ。私が居なクても、次ガ居ルし?

 そんな言葉に、醇乎(ますみ)から気が向いたらなと気のない言葉が返ると、竜女はふふと笑って去った。

 其の背を見送る事無く送り出し、醇乎(ますみ)は暫く政務をこなすと、前触れ無くふらりと森へ来たのだ。

 臣下には、何一つ云って来なかったが、有能な者が多いから良かろうと暴君らしい横暴さであっさり己の心を納得させ、醇乎(ますみ)は森へ足を踏み入れた。そして、見つけた森の竜女は……叡智を身に有する稀代の愚か者だ。




「てっめえええええ……」

 弾き飛ばされた醇乎(ますみ)は、悪鬼もかくやと云う声音を発する。地の底を這う様な其れに、春香は些か引きつった笑顔で醇乎(ますみ)を見遣った。

「流石、何処も御怪我無く。良かったですねえ」

 気不味そうにアイスクリームを口に運びきり、春香はそっと器を脇に置いてあった丸盆の中に置く。

 ゆるりと部屋に戻る醇乎(ますみ)へなんで戻るのかと云う様に訝しげな視線を投げ、春香はにっこりと愛想笑いを浮かべた。

「ですが西洲の棟梁と云う大事なお体。万が一があっては大変ですから、一度お館へ戻られては?」

 お帰りはあちらです、と云わんばかりの掌の向きに、醇乎(ますみ)は端正な顔に獰猛な笑みを閃かせる。

「ぶっ殺すぞ、てめえ」

「死にたくありませんので遠慮します」

 脊髄反射で返される言葉はやけに強気だ。

 春香の様子に、醇乎(ますみ)はちっと舌打ちする。

 此の態度の根底に在るのは、瑠璃の力有する姫への信頼。

 春香の後見たる姫は、春香に変化を望まなかった。故に、変化を齎しそうな醇乎(ますみ)を嫌い、徹底的に排除の方向で其の力を使っている。

 先程の奔流もそう。

 春香の作り上げた物を不用意に森の外に持ち出そうとすれば、見目麗らかな川の流れは恐ろしくも猛々しい蛇となって其の牙を剥く。

 春香の見えない処にも、(なか)特有の資質が伺える仕掛けが其処彼処に存在するのだが、今の処其れ等は醇乎(ますみ)専用の罠と化していた。

 勿論、醇乎(ますみ)とて名だたる有力者である。西洲と云う決して狭くない土地の棟梁を自称し黙認させるだけの実力を持っている。

 だが、しかし。

 春香の後見たる姫のソレは、何故だか全てを凌駕していた。

 俺の(あれ)も大概だが、中の奥も大概じゃあねえか?!

 醇乎(ますみ)の絶叫は誰の耳にも届かない。

「あ、そうそう」

 ぽんと手を叩いて、春香はごそごそと何処からか何かを取り出した。

 掌大の箱。

 気を使ったらしく一応ラッピングされた其れを、春香は屈託なく、だけれど思慮深く醇乎(ますみ)へ差し出す。

「たま様が、此れならおすそ分けしても大丈夫と仰ってらしたので」

「へえ」

 純粋に驚いて、醇乎(ますみ)は片眉を引き上げた。

 中はなんだと気にはなるが、此の場で開けるのは礼に適っていない。

「んで、中身はなんだよ」

 聞くのはもっと礼に適っていないが其の辺りは綺麗に流し、醇乎(ますみ)が問うと、春香は営業スマイルでさらりと言い放った。

「干し柿です」

 果実を陽の光に晒して干しました。

 いっそ爽やかにさえ感じられる声音で説明された内容に、醇乎(ますみ)の派手な顔から一気に表情(いろ)が抜け落ちる。

「ッいらねえよ馬鹿野郎!!!!!」

 間髪入れず怒鳴りつけ、醇乎(ますみ)は箱をそのまま床に置くと風が吹き抜ける様に去ってしまった。

 箱を見て、春香が呟く。

「たま様の云う通りだったけど……こんなに劇的なら、もっと適した時に使えば良かったなあ……」

 箱の中身を取り出し、かぷりと齧り付く。

 程よい甘みに頬を緩ませ、春香は漸く訪れた静寂に満足げな笑みを浮かべるのだった。






 美しく整えられた、室内。

 磨き上げられた床に座すは、美しい男女。

 並び座る其の目の前にあるのは、品の良い器と其の中に鎮座する物体。

 黒ずみ、干からびた様に見える其れは、良く見れば表面に艶があり、何やら甘い香りも仄かに漂わせていた。

 ふん、と興味なさ気に潔斎(いつき)は其れを一つ手に取った。

 僅かな重みと、粘り。

 黒瞳は怜悧な光を宿し、傍らに在る美しい顔をうっとりと見遣る。

「あの女からの、献上物?」

 潔斎(いつき)の言葉に、恩恵(たまふ)は是と頷き、赤い唇にほんのりとした笑みを乗せた。

「干し柿、と云うのだと」

「へえ……」

 指先で摘み上げる様に目の高さに持ち上げた其れを見分し、潔斎(いつき)はもう一度へえと呟いた。

 楽しげな、声音。

 目に宿るのは感情(いろ)の無い殺気だと云うのに、声は何処までも楽しそうだ。

「柿を、干したのか。……しかも此れ、渋柿じゃあないか」

 くつくつくつ。

 潔斎(いつき)が笑う。

「―――――――正気とは思えないね」

 何処までも何処までも。

 楽しげに呟いて、潔斎(いつき)はねえと恩恵(たまふ)の肩を優美に引き寄せる。

「美味しゅうございますよ」

 さらりと告げて、恩恵(たまふ)はそっと目を細めた。

 黒瞳が見つめ合い、哂う。深く美しい黒の瞳だと云うのに、一つにはどうしようもない殺気が宿り、一つにはどうしようもない空虚が宿っていた。

 摘み上げられた、干し柿。

「食べたのか」

「はい」

 問われ、返し。

 恩恵(たまふ)の言葉に、潔斎(いつき)は小さく笑い声を上げる。

「本当に、桔梗は剛毅だ」

 慈愛に満ち満ちた声音と視線で。

 うっとりと呟く。

「食べる、と云う行為は、なかなかに面白いけれどね、桔梗」

 うっとりとうっとりと。

 白刃の気配を漂わせ、潔斎(いつき)はそっと唇で其の貌を愛でた。

「何が起こるかわからない物を、体内に取り込むのは、感心しないなあ」

 お前の身の内に取り込まれるものは、自分だけで十分だ。

 言外にそんな言葉(ひびき)を漂わせる夫へ、妻は細めた目をゆっくりと向け、僅かに口の端を引き上げる。

「全ては、私の取捨。お忘れですか」

「覚えているとも、ぼくの桔梗」

 輪郭を、目を、鼻を。

 形の良い唇でゆっくりとなぞり愛で、潔斎(いつき)は蕩ける様な声音で囁く。

 其の言葉を耳に落とし、恩恵(たまふ)は重畳ですと小さく呟いた。

 声に、感情(いろ)は無い。

 だが、そんな呟きでも潔斎(いつき)は嬉しげに笑い、愛おしいと叫ぶように其の細い体を抱き締めた。

「で、此れを如何したんだい?」

 たっぷりと堪能した後、恩恵(たまふ)を膝の上に載せ、潔斎(いつき)は其の髪を梳きながら問いかける。されるがままになりながら、恩恵(たまふ)はちろりと上目遣いで~必然的にそうなってしまうだけなのだが、潔斎(いつき)は其の動作に一々歓喜の身悶えをしていた~潔斎(いつき)の顔を見ると、美しい紅唇からほろりと言葉を転げだした。


「西洲の棟梁殿への土産にと」


 静寂。

 訪れた静寂(それ)は、次の瞬間破裂した笑い声に駆逐される。はははと声を上げる潔斎(いつき)の顔を、きょとんとした表情で見つめ上げ、恩恵(たまふ)は僅かに首を傾げた。

 さらり、と黒絹の様な髪が流れる。

 恩恵(たまふ)が此れを土産に勧めたのは、純粋に嫌がらせだ。

 果実は、(まこと)の果て。

 母体たる存在(もの)が其の身に有する力を蓄えた存在(もの)

 純然たる力の塊は、其れだけで大層な存在に成り上がる。特に、柿は実が生る迄に他の果実に比べて時間がかかり……其の分、内包される力も強くなるのだ。

 しかも、其れを春香は干した。

 日に晒して、干した。

 そうして出来上がった其れには、恐ろしい程の力が唸りを上げている。此の力に耐えられるかと、恩恵(たまふ)は純然たる嫌味を示したに過ぎないのだが、潔斎(いつき)はああ楽しいと愛らしい己が妻を抱きしめくつくつと堪え切れない笑い声を漏らす。

 潔斎(いつき)は、己の治める土地(くに)以外にも良く出向く。

 故に知っている。

 こんな強力な力を持って移動など、無理だと。

 森は、どの土地(くに)にもある。何処にでもある唯一の存在。矛盾した二つの性質を内包した稀有なる豊饒の地。だが、土地(くに)の入口全てが己の支配域に近い訳ではない。西洲の場合、入り口は彼の土地に蠢く有力者達の支配域から遠く離れていた。

 森の中ならば此の力の塊を抱えて動いてもまだ大丈夫だろうが、森から出れば、此の暴れ狂う力は周囲に唸りを響かせ存在を主張する事になるだろう。――――――其れは、恐らく其処等中に存在するだろう間者や暗殺者達を呼び寄せる。しかも、醇乎(ますみ)は単独行動。幾ら西洲の棟梁を自称する有力者と雖も、一人で雲霞の如く押し寄せるだろう其れ等を裁くのは至難の業になるだろうし、其処まで苦労して自領へ持ち帰っても、凝縮され濃縮された力は手に負える存在(もの)ではない。……つまり。全く利が無いのだ。

 利に通じ才に長ける西洲の有力者ならば、怒号の一つも発して帰るに違いない。

 純粋に、利になりそうな存在(もの)を扱い切れない己への怒り故に。

「桔梗、流石はぼくの桔梗だよ」

 腕の中の恩恵(たまふ)に頬擦りして、潔斎(いつき)は楽しげに愉しげに笑うのだった。


 さて。


 春香は弾む様な心持で朝日満ちる部屋の中、最早半身と化している本を開いた。

 干し柿は、なかなかの出来で、今も軒下にぶら下がっている。緑茶と一緒に食すのが此処最近の楽しみだ。

 調味料をやり取りする森の民にもお裾分けしようかと思ったのだが、専科と百科に強く諌められてしまい、春香はなんとなく察して頷いた。

 此の食べ物も、此の世界ではアリエナイ代物であるらしい。

 考えてみれば、と春香は思う。

 たま様以外の人が食べてる姿って見た事無いなあ。

 ふむ、と呟き、暫く瞑目した後、春香はまあいいかとあっさり呟いて頁を繰った。

 一人が全く辛くない。

 必要が無ければあっさり思考を断絶・放棄できる。

 知識欲は在り、勤勉でもある。

 此の3つの特性は、殊人付き合いに関して云えばかなりなマイナス要素だが、現状に限定すれば此れ以上無い位有利な特性と化していた。

 此の特性故に恩恵(たまふ)に愛でられ、此の特性故に春香は日常を営んでいける。……普通ならば現状把握と称して此の世界の常識を集め人事不省に陥るだろうところを、春香は尽くスルーして己の常識を推し進めて生きている。

 故に。

 潔斎(いつき)は殺したいと笑いながら手を差し伸べた。

 醇乎(ますみ)は稀代の愚か者と断じながら目を離さない。

 ……春香にとっては、単なる迷惑な現状だが。

 頁を捲り繰り、さて何を作ろうかと考える。

 例え、此の世界にとって此れ等食べ物が驚異の物体であったとしても、春香はまあいいかと腹を据えた。逆に、此方にとっては駄菓子でしかない物を見せた瞬間大騒ぎされると何となく楽しくなってしまうのだ。些か捻くれ者の性を有している春香の思考回路は、御驚く顔を見れる現状をオイシイと判断し始めていた。

「お前、わかってんのか?」

 西洲、と云う場所で権力を振るっているらしい男が云ったなあと文字を追いながら春香は思う。

「此れ。人を殺して土地(くに)を滅ぼすぜ?」

 にまりと嫌な笑い方をする男の言葉に、春香ははあそうですねと頷いたものだ。其の反応に眉を顰めて不満を叫ぶ派手な美形顔に、春香は同様の困った表情を返した。

 だって。

 春香は心中で述懐し、嘆息する。

 そんな事云ってたら、ノーベルさんの二の舞じゃない。

 労働者の負担を軽くする為に、ダイナマイトを開発した異国の偉人。そして、其の偉大な発明は戦争と云う殺し合いに活用され、其の名を血塗れにされてしまった悲劇の偉人。

 自身の与り知らない場所でのやり取りなど、春香の補償の範囲ではなかった。

 それに。

 春香は続ける。

 たま様が、そんな事、許す筈もないし。

 うんうん、と頷いて見せる春香を、男は呆れた様子で見ていた物だ。

 だが、しかし。

 ある意味、春香の意見は正鵠を射ている。

 有力者の妻であろうと、恩恵(たまふ)自身は争いに全く興味が無い。……と、云うより、世俗に興味が、無い。

 此処で春香の存在が公的に露わな存在(もの)となり、春香の価値が知れ渡り、其の作り出される物が出回れば…………漸う得た遊び相手を、恩恵(たまふ)は失う事となってしまう。そんな事は、恩恵(たまふ)は決して許さないだろう。此の場合のだろうは、疑問形や推量ではなく、諦観の断定だ。

 かくして、春香は心のままに森へ入り知的好奇心と探究心を満たし、新しく作った物は恩恵(たまふ)へと献上している。

 紙を繰る音が、春香の心を和ませ、口内の甘味が気持ちを浮き立たせた。

 かろり、と春香の口内で歯に当たり小さな音をたてるのは、どんぐり飴だ。

 蔓草の場所は覚えているので、春香は定期的に飴を採りに行っていた。

 駄菓子は、春香の好物の一つだ。

 麩菓子。

 どんぐり飴。

 スモモの酢漬け。

 大根の酢漬け。

 ガム。

 チューブ入りのゼリー。

 きなこ飴。

「……きなこ飴」

 呟きと同じ文字を見つけ、春香は頁の文字を追った。

 作り方は、とても簡単だ。

 材料も、少ない。

「……よし」

 本を手に、袋を肩にかけて、春香は立ち上がった。

 縁側から外に出て、森へ向かう。

 もちろん、袋の中にはタッパー代わりの蓋付器も忘れない。

 森を行き、春香はきょろりと辺りを見回した。

「さて」

 此方の世界のきなこって、どんな処に在るのかなあ。

 目はきなこを探しつつ、春香の頭には本に載っていたきなこ飴のレシピが浮かんでいる。

 きなこ飴の材料は、二つ。

 一つ、きなこ。

 一つ、水飴(黒蜜も可)。

「……水飴って、砂糖溶かして煮詰めても出来ないんだものねえ」

 なんて意外な真実! 等と歩きながら呟きつつ、春香はきょろきょろと辺りを見回した。

 先ず、最初の目標物はきなこだった。

 此処で春香の春香たる所以は、決して大豆を探している訳では無いと云う点だ。 きなこは大豆からできるのだから、探すのは大豆じゃないのか?と問われれば、春香は胸を張って答えるだろう。

「流石に石臼の持ち合わせは無いもの」

 ……大真面目に、彼女はこう答えるだろう。

 春香は、実践経験は皆無でも、粉は石臼で挽いた方が美味しい、と知識で知っていた。だがしかし、其処で石臼以外でも粉にできるだろうと云う点には全く頭が行っていない。思いついてすらない。知識は多いが経験に乏しい春香は、自分の得意分野ではない場面において、こう云う狭視野的思考をしてしまう事が間々あった。

 きなこが如何云う形態で此の森に自生しているのかわからない春香は、兎に角きなこの色を思い浮かべ、森の隅々を見渡していく。

 散歩道にきなこの色を見た覚えはない。

 春香は思案して、いつもとは違う方向へ足を踏み入れた。

 森は、少し歩く場所を違えれば、驚く程に違う表情を見せた。

 いつも歩く場所は、木々の緑も目に鮮やかな、謂わば森林の遊歩道的な場所だったが、ちょっと木々の脇をすり抜けると、草花の多い空間が広がっていた。

 草花が多いとは云え、やはり主体は木々……高木だったので、感覚としては林、だろうか。

 開けた雰囲気の其処は、木々に絡む蔦など無く~それはそうだろう。日の光が十分な空間で、樹に絡まって迄日の光を追う意味はない~、なんとも爽やか極まりない。

 晴れやかな日の光を全身に受け、春香は楽しげに鼻歌など歌いながら木々の間を歩いた。

 草木を揺らす風は爽やかに冷気を含み、日の光の温かさと相俟って、絶妙な心地よさを醸し出す。

 ふふふ、と、春香は小さく笑った。

 気持ちの良い気候は、心を穏やかにするだけではなく、人を無暗に愉しくさせるのだ。

 足取りも弾み始めた春香の眼前に、其れは突然広がった。


 きなこ色の、花畑。


 小さな花をつけた其の草は、背が低く、春香の知る雑草に良くある小さな花をたくさんつけた草の類に見えた。

 其の花が、きなこ色なのだ。

 草の色は、橙。

 何とも言えない其の色合いの草花に、春香は僅かに頬をひきつらせた。

 とりあえず、と気持ちを持ち直して、春香はそっと其の花に指を伸ばした。

 刹那。

 触れた途端、花は粉と化し、音も無く霧散していく。

 春香の指先には、きなこ色の色彩が残されていた。

 そっと、其の指先を鼻先に持って行けば、きなこ特有の独特な香り。

 舌先を伸ばして少量舐めとれば、明らかにきなこの味がした。

 と、なれば。

 春香は思う。

 此の花が、きなこなのだ。

 花畑は愛らしいの一言で、正直其処を荒らすのは気が引けたが、春香は心を鬼にして~鬼にする位ならやらなければいいと思うのは現物を容易に手に入れられる環境に在る人間だ~花の採取に当たった。

 花の傍に器を寄せ、器の端でそっと花を揺する。

 刹那。

 花は粉と化し、器の中に降り積もった。

 其れを四半時も行えば、きなこは十分な量器の中に貯まっていた。

 花畑も、見た感じ決して減ってはいない。

 ふう、と一息ついて、春香は器の蓋を閉めた。

 しっかり閉まった事を確認して袋に入れ……はて、と悩む。

 水飴を探さないといけないのに、入れ物如何するの。

 如何せ混ぜるだけと云えど、集めたきなこの中に取り立ての水飴を入れるのは些かならぬ抵抗があった。

 ……まあいいか。

 蟠りを残しつつ、春香は歩きはじめる。

 もしかしたら、水飴は持ち運びやすい形状かもしれないし。

 うんうんと頷きながら、希望的観測だよなあと春香の冷静な部分が嘲笑っていた。そんなに都合よく出来るものかよと。

 そして。

 そう云う予感は、当たる物だ。

 目の前の光景に、春香は茫然と立ち尽くした。

 如何しよう、と声なく呟く。

 眼前に広がる、光景。

 其れは―――――――樹木の木肌に生える、てらてらと日の光を返して生えるウツボカズラの様な形状の植物の姿だった。

 もうねー。

 春香は半ば呆れた様子で天を仰いだ。

 きなこの花の時点で予想は出来たが、此処まで斜め上ってあるだろうかと。

 ウツボカズラの様な釣鐘を逆さにした様な植物は、てらりてらりと日の光に輝く半透明な物体だった。

 つん、と指先で突けば、ぺとり、と明らかに付着する粘性の高い透明な物質。

 軽く臭いを嗅いでから、舌先を伸ばせば、明らかな甘味が口内に広がる。

 

 紛う事無く、水飴だった。


 うわあ、と春香は思う。

 しっかりと木肌に根付く様子に目を凝らせば、日の光に透ける其れの中で根元から吸い上げられた何かがゆっくりとゆっくりと本体全体を対流する様が伺える。

 どうやら、水飴(これ)は、樹から吸い上げている何かで本体を形成しているらしい。

 ……ナニカッテナンダ。

 引き攣る頬に無理やり笑みを浮かべ、文字通り寄生植物な水飴の塊を見つめる。

 木肌は乾いていて、特に樹液が染み出る様子はない。

 如何やら樹から水飴を吸い上げている訳では無い様だと断じ、それにしてもと春香は再度其れを見遣る。

 常に摂取して己を形成する植物って、どれだけ貪欲かつ綱渡りなの。

 母体が枯れれば終わりな寄生植物。己の生育と母体の体力を鑑みて、吸い上げは行われているのだろう。

 そして、と春香は思う。

 本格的に、入れ物用意しないと。

 突いて指先に付着した事を考えれば、此の植物が此の環境から離されれば極普通の水飴になってしまうだろう事は容易に想像が出来た。

 寄生植物(みずあめ)の大きさは春香の顔程度。……其れが粘土の高い流動体と化した場合、かなりな量になる事もまた、想像に難くない。

 それに、と春香は小さく息を吐く。

 そんなに大量の水飴、いらないし。

 きょろきょろと辺りを見回すが、手頃な大きさの葉は見当たらず、春香はもう一度来ればいいかと諦めた。

 散歩の新しいルートが確立できたと思えば、其れは其れで楽しみなだけだ。

 歩く事に特化した靴を買うくらいの春香は、此の森をのんびり散策する事が何より愉しい。

 さて帰ろうと元来た道へ踵を返すと……正面に、人が居た。

 さらさらと流れる真っ黒な髪。

 肌理の細かい肌は浅黒い。

 大きい目と上を向いた鼻が愛らしい顔立ちだが……片目の瞳が、無かった。

 ―――――――違う。

 瞳が無いのではない。瞳に在るべき虹彩の色が無いのだ。

 春香の目に、闇色の瞳と、白濁色の瞳が映る。

 不思議だなあと春香がじっと見ている先で、其の人物は横柄にすら見える動きで頤を上げた。

「―――――――女」

 声は男声。年若いらしく、何処となく笛の音の様な響きがあった。

 目の前の人物が動いた事を受け、春香は凝視していた視線を外し、ゆっくり瞬きする。

 広がった視界に映る男は小柄で、纏う服は潔斎(いつき)と同じ形状だった。濃い群青色の衣に、金や赤や橙が軽やかに跳ねている。鮮やかな色使いながら無駄に華美にならない辺り、派手の権化であった醇乎(ますみ)とは明らかに違う感性を持っているだろう事が伺える。

 良い身分(とこ)の子?

 不思議そうに見る春香へ、小さな~とは云っても、瑠璃の式達程小さくはない~男は、横柄な足取りでずんずんと春香に近寄ってきた。

 いつもであれば逃げるだろう他人の接触に、だが春香は動かずにじっと其の姿を見つめた。

 大きな瞳はきらきら輝いていて、好奇心に満ち満ちている。

 子供、と云うには大きいが、大人、と云うには小さい。

 そんな境目の年齢の男に、春香は何となく微笑ましさすら感じていた。

「女、森の民ではあるまい。何故此の様な場所にいる?」

「住んでるから」

 溢れる好奇心を一生懸命押さえて落ち着いた声を作ろうと頑張りつつ横柄に尋ねる男へ、春香は一層の微笑ましさを感じて端的に答えた。

「住んでる」

 ほお、と声を上げて、大きな目を見開く。

 一々動きが大きく芝居がかっているが、其れは男の魅力を最大限に引き出すだけだ。

「そう」

 春香が頷けば、ならばと男は悪童の様な笑みを閃かせた。

「お前が、森の竜女だな」

 刹那、男は春香の腕を鷲掴み、ぐいと引いた。

 距離を縮めた春香の視界に、愛らしいが剣呑な笑みが広がる。

「来い。はわ様のお目にかけねば」

 きっと喜ぶ。

 そう云ってにやりと笑う男へ、春香は眉を寄せて溜息を吐いた。

「行かないよ」

「来い」

 お前の言い分など知らない、と言い放つ男へ、春香は困った様に眉を下げた。

「人の住んでる処は怖いから、行かない」

 特に腕を払うでも無く、声を荒げるでも無い春香の言葉に、男は一瞬力を抜いて……茫然と春香を見上げた。

 大きな瞳が落ちそうだ、と春香は思う。

「怖い、のか」

 突然ぎゅっと顰められた眉に、春香は首を傾げそうだと頷く。

「私は森しか知らないもの。人は……外は、怖いの」

 すると顰められた眉が見る間に解け、再び大きな目は見開かれた。

「外」

「森の、外」

 春香が付け足すと、男はかくんと首を傾げた。

「今、戦はしていない」

「そう云う怖さじゃないの」

 むむ、と眉根を寄せる。

「皆、普通の目だ」

「そんなの貴方見ればわかるでしょ」

 嫌そうに、鼻に皴が寄る。

「こんな目は、己だけだ」

 白濁色の目を指さして居丈高に言い放つ男へ、春香はそうと頷いた。

「……そうだ」

「そうなんだ」

 あっさりした声音に不満そうに繰り返す男へ、春香は更にあっさりと返し、それで、と呟いた。

「結局、如何したかったの」

 問われて男ははっとした様に表情を改め、声を荒げた。

「来い!」

「怖いから嫌」

 むーと睨み付けてくる顔を、春香は可愛いなあと漫然と思い見つめる。

 子供ではない。

 大人ではない。

 絶妙な世代である男は、子供の表情を残したまま、大人になろうと足掻いて居る様にも見えた。

「怖くない!」

「怖い」

 言い返せば、男は大きな目に力を籠め、春香を睨めつけて怒鳴り散らした。

「怖くない怖くない怖くない!!! はわ様が悲しまれるから頑張って平定した!!! 随従(かげ)差添(つかえ)驀進(ゆけ)や皆と頑張ったのだ!!! 伯父殿も協力してくれた!!! 弟も大きくなった!!! 奥も近も北は平和なのだ! 怖くないのだ!!!」

 一息に言い放ち、大きくはないが小さくも無い肩が、荒い息と共に上下する。

 顔は真っ赤に染まり……大きな瞳は、水の膜を張って潤んでいた。

「……そう、か」

 頑張ったんだ、と春香は呟く。

 此の男は、頑張って、平和にしたんだ。


 と。

 云う事は。


 頑張らなくちゃ、平和じゃないんだね? 此の世界。


 目の前の可愛らしい存在に目を落としつつ、春香は穏やかな笑顔の奥でうんと頷いた。

 絶対に、森の外にはいかないぞ、と。

 だって、と春香は述懐する。

 逆説の真実は、確かに在るのだから、と。

 常に其の状態であるならば……過去の状態が払拭されているのであるならば、其れは比較対象の例えとして、出てくる余地が無い筈だ。

 曰く。

「昔は此の会社も風通しが悪かったけど、今は随分良くなったのよ」

 だの、

「前は女子社員は仕事らしい仕事を渡してもらえなかったけど、今はかなり仕事をさせてくれるのよ」

 だの、

「上の人ががんばってくれたおかげで、サービス残業が減ったのよ」

 等々。

 日常よく聞く可能性の高い世間話だが、この中には何ともきな臭い気配が立ち込めている。

 随分、良くなった。

 かなり、させてくれる。

 頑張ったから、減った。

 此れ等の言葉を「ふーん」と流すか「そうなんですか」と笑顔で把握するか……其の辺りに、其の人が会社と云う村社会でどの様に生き残っていけるかの境目が見えよう。

 随分、の裏を考えれば。

 かなり、の内を読めば。

 頑張った、の理由を考えれば。

 ―――――――其れ等が、完全に払拭された訳では無いと云う事が伺いしれようと云う物だ。

 此れ等の言葉をきちんと汲み取らず、今の現状に問題は無いのだなあ等と考えた人間には、まず間違いなく死亡フラグが立つ。ふーんで流した人間は何もかもを流せる鈍感力に特化している可能性が高いのでいっそ労せず生き残れるかもしれない。……そう、春香は思う。

 そして。

 眼前の男は『頑張ったから戦が無い』と云った。

 醇乎(ますみ)の言葉の端々に在る血生臭い気配と繋ぎ合せて考えれば……森の外の現状、推して知るべし。

 春香の口から、小さな溜息が漏れた。

 要らない知識が増えていくのは、何とも業腹だ。

 そう思いながらも、其の心に反して、春香の顔には微笑みが浮かんでいる。

 春香の視界一杯に映る、此の可愛い生き物。

 どんなに新しい知識が忌々しいとは思えども、此の小さな影に対しての害意は春香の内側に欠片も生じてはいなかった。

 頑張ったんだね、と呟いた春香の言葉に、男は音が聞こえそうな勢いで瞬きし、大きな瞳に張った水の膜を打払った。

「森の竜女は、賢い」

 頤を上げ、横柄に云う其の目元に、涙の名残が赤く残っているのがまた愛らしいと春香は思う。

「賢い存在(もの)を、はわ様は好まれる。……はわ様は、(おまえ)に会えばきっと、喜ばれる」

「そう」

 頷いて……だが、春香はきっぱりと拒絶する。

「でも、外は嫌」

 幼い思考に、遠回しな言い方は似合わなかろう、と、春香は醇乎(ますみ)に対するより端的に、はっきりと、言葉を紡いだ。

「貴方から、悪意を感じないし、貴方はとても品が良いから、敬意すら感じる。貴方が会わせようとしてる方は、きっと素晴らしい方」

 のんびりと、ゆっくりと。

 言葉を紡ぐ春香へ男は喜色を刷いて視線を向ける。

 きらきらと輝く瞳を陰らせるのは嫌だなと思いつつ、春香は言を継いだ。

「でも、私は此の森から出る気が無いの。正確には、森の奥から外に足を向ける気が無い」

「中の御方殿がとめているのか」

 中、と云う言葉が潔斎(いつき)の所有する土地(くに)の名称であったと瞬時に頭の中で結びつけ、春香は違うと首を振って明確に否定した。

「たま様は何も。私が勝手に住み着いたのに、たま様は本当に良くして下さっているの。……申し訳ないくらいに」

 ほんと、申し訳ありませんたま様。

 春香は脳裏に浮かんだ稀代の美貌に心中で深く深く頭を下げる。

 好き勝手してるのに何も返せていないです、ごめんなさい。


「そんな事は無いわ」


 不意に。


「春香を望んだのは、(わたくし)


 瑠璃の蛍火が舞い散り―――――――麗人を、生み出した。


 長い黒髪。

 真白な肌。

 美しい衣は、瑠璃の光を放つよう。

 整った、等と云う形容すら烏滸がましい程の美貌が、木漏れ日の下に唐突に生じる。


「た」

 振り返る必要のない位置に現れた其の美麗極まりない姿に、春香は茫然と愕然と口を開いた。

「た、た、たま様!?」

 名前を紡いだ瞬間、春香は何とも云えぬ嫌な予感に小さな影を目で追った。

 茫然と愕然と。

 春香同様、動揺しきった稚い顔に、緊張が走る。



 刹那。


 白刃が陽光に煌めいた。



 渦巻き吹き付ける殺気に春香が思わず前屈みに倒れかけると、其の体を両方から小さな瑠璃の影が支え、春香の前にほっそりとした嫋やかな影が舞い降りる。

 瑠璃の主従に囲まれ、春香は殺気に充てられた蒼白な顔を何とか引き上げ、現状を把握しようと視線を投げる。

 其処には、美しい男が黒の衣を優美に舞わせ、己より恐ろしく小柄な影を斬り殺さんと刃を振るう光景があった。

「たたたたたたたたたま様!!! とめて、とめてください!!!」

 怯える様に慌てる様に、左右の瑠璃に縋るように其の小さな体躯を抱きしめ、春香は泣き出しそうになりながら必死に声を絞った。

「死んじゃいます! あの子が死んじゃいます!!!」

 春香の言葉に、恩恵(たまふ)は不思議そうに首を傾げた。

「そうかしら」

 なんとも云えぬひやりとした声音に、春香はだってと声を絞りだす。

「あんな小っちゃい子が、たま様の旦那様に勝てる訳がないじゃないですか!!!」

 春香の悲痛な声音に、恩恵(たまふ)と瑠璃の一対はきょとんとした様子で春香を見遣った。

 何云ってるのかしら、此の子。

 三対の視線が、そう語っている。

 そんな対応に、今度は春香が動揺しだす。

 眼前では、無手の小柄な男へ愛用の白刃を容赦の無い様子で奮い続けている潔斎(いつき)の優美な姿があった。

 刃は時折小さな影の衣を裂き、その滑らかな肌に切っ先を滑らせている。

 だが、しかし。

 小さな姿には、一片の変化も見られなかった。

 白刃から小器用に逃れる姿は、先程春香と対峙した時のまま。

 確かに、刃は影を捕らえているのに。

「……え?」

 其処に気づいてきょとんと固まる春香の頭を、恩恵(たまふ)はそっと撫でて指先を離す。

 恩恵(たまふ)の視線が己の式へと向けられると、心得た様に優美に頭を下げ、百科がにこやかに口を開いた。

「主様の御許しを得て百科が申し上げます。主様の背の君様と相対なさっておられるお方は、北の棟梁殿であらせられます。広大な領地を治める有力者どのであらせられますので、間違っても命を落とす事は無いかと存じます」

「北の、棟梁」

「その通り」

 春香の呟きに、何時の間にやら仕合を止めた小柄な影が、ふふんと誇らしそうに胸を張って笑っている。

「己は北の地を総べる存在(もの)ぞ!」

「騒ぐな田舎者。其の首落としてやろうか」

 疑問形ですらない言葉をはんなりと紡ぎ、潔斎(いつき)はうっとりと恩恵(たまふ)を抱きしめた。

 其の様に鼻を鳴らし、男は不敵な笑みを閃かせる。

「奥の姿を見られたからと刃を奮うか。中の男は落ち着きが無い」

「ボクの桔梗を勝手に見た奴は死ねば良いんだよ」

「我儘を云う。見苦しいぞ、中の」

 轟音と共に雷が鳴り響く様な錯覚を起こす言葉の応酬に、春香はぱちくりと瞬きし、現状の説明を小さな瑠璃へ求めた。

「主様の指示を戴きました百科が申し上げます。主様の背の君様と北の棟梁殿は同じ時期に此の世界に生を受けて御出で御座います」

「あの二人、同じ」

 端的な言葉が、春香に突き刺さる。

 同じ時期に、生を受ける。

 同じ。

 ……それは、つまり。

「同い年なの!? あれで!?」

 如何見ても親子か年の離れた兄弟にしか見えない其の光景に、春香は驚愕のままに絶叫した。尤も、絶叫された処で事実は事実だし其れ位で揺らぐ可愛らしい精神構造の持ち主は此の場にいないので、春香の渾身の困惑は驚くほど綺麗に流されるのだが。

 いつもと変わりない優美端正極まりない美男は当然の様に掌中の絶佳中の絶佳を愛で尽さんと全力を注いでいるし、類稀なる絶世の美女は、感情(いろ)の無い顔で傍らの愛と云う名の猛攻を笑えるくらい軽やかに無い物として扱っている。瑠璃の式達は復活した春香を大丈夫と判断した様で大人しく愛らしくそんな主の傍らに控えていた。

 そして。

 春香の眼前には、如何だ偉いだろうと胸を張る小さな影。

 正直。

 正直言えば。

 潔斎(いつき)と同じ年と認識した時点で男を子供と認識する意識は春香の中から一瞬で掻き消されたのだが、綺羅綺羅した大きな瞳が凄い?凄い?凄いだろ?驚いたか?と無邪気極まりない様子で春香を映した瞬間、何とも言えぬ愛らしさを感じて先程と変わらない感情で男に対する春香の認識は上書きされたのだった。

 だって!

 春香は思う。

 だって、何此の可愛い生き物!!!!!!!

 男は、春香のツボを突き過ぎていたのだ。

 大きな目。

 豊かな感情。

 押しが強いのに押し切れない幼さ。

 傲慢に振舞いながらも其れが嫌味にならない品の良さ。

 当に、春香の中で最高位につくだろう良家の子供の姿だった。

「森の竜女」

 反応の無さに眉根を寄せて春香の様子を伺う小さい姿に、春香は小さく笑って凄すぎて驚いたと笑う。

 其の答えに男は嬉しそうに破顔し、そうだろうと云いながらうんうん頷いて見せた。

 稚気に溢れた行動は潔斎(いつき)達の失笑を買うかと一瞬不安に思った春香だが、潔斎(いつき)恩恵(たまふ)に夢中で、恩恵(たまふ)は周囲に対して一切興味を示していないと云う通常運行に良かったなあと胸を撫で下ろす。……良かったのか? と問う声は確かに春香の中に存在したが、良くない訳を100上げてくれと冷徹に反論する己の声に異論を唱えようとしていた声は完全沈黙した。

「ところで」

 男は可愛らしい顔立ちに不審の表情(いろ)を刷いて春香へ問う。

「森の竜女は、何故此処に来たのか」

 問われて、春香はああと手を打った。

「水飴を探していたの」

 云いながら、すぐ傍で着々と樹木からナニカを吸い上げている寄生植物(みずあめ)を指で示せば、男は多少訝しげな表情を浮かべた物の、此れが必要なのかと小首を傾げ、納得したように笑う。

「採るのは簡単だぞ」

「採り方があるの?」

 驚いた様に目を見開く春香へ、男は当たり前だろうと呆れた様に眉を上げた。

「己も勉強不足故全ての事象は知らぬ。だが此れの採取法は知っているぞ」

 どうだ! と胸を張る姿に賛辞を述べ、春香は如何やればいいのと屈託なく問う。

 返された答えは、簡潔だった。

「袋に手を入れ直接もぎ取り、袋を返して保管すればいい」

 ……予想以上に、簡単だった。

 此れを使えと、差し出されたのは何とも滑らかな布で作られた袋だった。

 春香の掌より少し大きめの其れは、袋状なのに縫い目が無い。手触りのあまりの高級感に、春香は此れが古の貴婦人が愛用した絹の靴下かと僅かに戦慄する。お高そうな袋は、薄くしなやかなのに透過性は無く、陽の光を受けて仄暗い玉虫色に輝いていた。

「えっと……高価そうなんだけど」

 本当にいいのかと困惑を隠さず問えば、眼前の大きな瞳は何故そんな事を聞くんだと云う様にきょとんとしていた。

 男は、眺望(みはる)と名乗った。

 北と呼ばれる土地(くに)の、実質的な棟梁であると笑った。

 奥だの近だのと眺望(みはる)が口にしていた単語から察するに、かなり広い土地を治めているのだろうな、と春香は推察する。

 そして、そんな立場的にかなりの上位でありそうな人物から何気なく与えられた袋は、紛れも無く最高級品だろうと春香は内心確信する。ちらり、と瑠璃の一対に目を向ければ、百科はにこやかに専科は朗らかにただ静かに佇んでいた。

 当たっている、らしい。

 価格は絶対知りたくないなと心に刻み、春香は教えられた通りに手に袋を被せ、寄生植物(みずあめ)に手を伸ばした。

 必要そうな量だけ考えて、千切る様ににもぎ取ると、寄生植物は暫く千切り取られた形を保っていたが、徐々に端から粘着性のある流動体……水飴に変じていく。慌てて袋をひっくり返して水飴を治めると、袋の中にはぷるんとまあるく纏まった水飴が鎮座していた。

「葛団子みたい……」

 清涼感溢れる其の姿にちょっと感動しつつ、春香が其の表面を指で突くと、明らかにねちゃ、と云う感触で指先に水飴が付着した。

 如何やら、袋の中でだけ、水飴はこういう状態になるらしい。

「なるほど」

 此れなら汚れないものねえと納得し、春香は傍に立つ眺望(みはる)にありがとうと頭を下げた。

「謝辞はいらぬ」

 大きな目がにっと笑みに愛らしく歪む。

「また会った時に、こうしてくれると嬉しい」

 炸裂する愛らしさに、春香は内心相好を崩しきって勿論と頷いた。

 そんな二人を呆れた様に見つつ、潔斎(いつき)は腕の中の恩恵(たまふ)にそっと頬を寄せた。

「さて、桔梗。あれ、如何したい?」

「さして」

 表情(いろ)の無い美貌は、端的に潔斎(いつき)へ言葉を返した。

 感情(ねつ)の無い声音に小さく眉を上げて愉しそうに潔斎(いつき)恩恵(たまふ)を覗きこめば、其の仕草に気が付いた恩恵(たまふ)は視線だけを潔斎(いつき)へ向け、美しい黒瞳に夫の姿を映す。

「西洲の時とは違うね」

「あの方は毒に成り得るので」

 損得が絡んで春香に会いに来た醇乎(ますみ)は、春香の現状を劇的に変えてしまう可能性がある。だが、其の奇矯ともとれる行動は、春香の内に知らず潜み積もる鬱屈や閉塞感を吹き飛ばす起爆剤ともなりうる。……恩恵(たまふ)はそう考えていた。故に、数限り無い嫌がらせと云う名の牽制を施しつつも、彼の存在の来訪を阻害するまではしなかった。

 恩恵(たまふ)さーん、彼女(はるか)、欠片も精神的苦痛(ストレス)感じていませんよー、と、誰か教えてやれば良いのに、と思う事数多だろうが、普通に考えれば、多少なりとも流石に心配するだろう。―――――――春香の、ある意味鞣革以上の強靭な精神は、高位の実力者の直系として伴侶として権謀術数の有力者世界に生きてきた恩恵(たまふ)にも予想しきれるものではなかったのだ。

 だが、眺望(みはる)は違う。そう、恩恵(たまふ)は断じる。

 眺望(みはる)が齎すのは、純粋なる和み。北の棟梁たる男の立ち位置からすれば春香は有益な人物であろうが、嫌がる者を無理矢理連れ去る類の愚かな行動を此の有力者は決して取らないだろう事を、恩恵(たまふ)は確信していた。

 そして、それは、潔斎(いつき)も同じ。

 声は唆す癖に、目に言葉と同種の感情(いろ)が無い。

 眺望(みはる)は、毒にはならない。決して変化を促すまい。其れ処か、心を気持ちを曲げずに、春香に新しい知識を植え付ける事が可能かもしれない。……そう。眺望(みはる)は、春香にとって薬となるかもしれない。

 恩恵(たまふ)の感情の無い美しい顔を十分に堪能しつつ、潔斎(いつき)は己が妻の心をそう読み、把握した。多少の差異はあるかもしれないが、殆ど間違いないだろう。そう、思う。


「春香」


 にこにこと楽しげな雰囲気へ呼びかけ、恩恵(たまふ)は振り返った黒瞳に静かに問うた。

「何を作るの」

「きなこ飴です!」

 春香は問われて嬉しそうに言葉を返した。

 美味しいですよ、とにこにこ笑う春香へ、恩恵(たまふ)はそうと頷いて見せる。

 無表情だ。

 声にも、感情(ねつ)は無い。

 だが、しかし。

 恩恵(たまふ)は此の瞬間、確かに愉しんでいたのだ。

 そんな掌中の珠の様子に不満を滲ませ、軽く殺気を飛ばす潔斎(いつき)の様子に、眉を顰めたのは小柄な影。

 殺気にあてられ色を無くした春香を潔斎(いつき)の視線から庇う様にさり気無く立ち、大きな瞳で呆れたと云い放つ。

「童か」

 眺望(みはる)の何とも云えぬ感情(ひびき)を含んだ揶揄に、潔斎(いつき)ははんなりと哂って綺麗に無視を決め込んだ。


「えっと……」

 記憶から作り方を探り出し、春香は台所で調理用容器(ボール)と皿を取り出し、枝を細く削って作った長めの爪楊枝を調理台に並べた。

 水飴の入った袋と、きなこの入ったタッパーもその並びに置いた。

 自作の木べらを取り出し、よし、と頷く。

「粉が先……じゃない方が良いんだよね」

 多分、と呟きながら、春香は調理用容器(ボール)に袋から水飴を取り出す。一回り大きな調理用容器(ボール)に熱湯を入れ、其の中に水飴を容器ごと入れる。温める、と書いてあったから、多分湯煎でもよかろう、と春香は思いながらゆっくりと水飴を掻き混ぜた。

 強かった粘りがとろりとした物に変わった頃合いを見て湯煎から引き揚げ、其の中にざっぱりときなこを入れる。勿論手粉用に残しているが、結構な量を思い切りよく入れた春香の姿は、料理の腕は、なるほど推して知るべし、と周囲に思わせるに十分なものだ。

 そう。

 周囲には、人が、居た。……正確には、同じ屋根の下に、だが。

「……うわ……」

 飛ばした視覚で春香の様子を見ていた醇乎(ますみ)は、派手な顔を思い切りひきつらせ大仰に目を眇めて「なんだありゃあ」と呟いた。

「あいつは化け物か!」

「此れは剛毅」

 大きな目を愉しげに見開き、眺望(みはる)もまた視覚を飛ばして状況を見遣る。

 此の国有数の実力者の視線に晒されてる等思いもせず、春香は楽しげに調理用容器の中身を木べらでかき回し始めた。

 見る見るうちに色を変え纏まっていく内容物に、醇乎(ますみ)は心底嫌そうな顔をし、眺望(みはる)は楽しげにほうほうと頷いている。

 そして。

 瑠璃の美女と漆黒の美男は、いつもの席で何時もの様に座っていた。

「……桔梗、良いのかい?」

 うっとりと美女を背中越しに腕の中に閉じ込めながら潔斎(いつき)が笑う。

 なにがだ、と云う様に肩越しに視線を向ける恩恵(たまふ)へ、潔斎(いつき)は端正な顔にはんなりとした笑みを浮かべた。

「あれの世界が広がったら、もう桔梗とは遊ばなくなるかもしれないよ?」

 何処までも優しい声音で毒を吐き、潔斎(いつき)は笑みをそのままにだからねと言を継いだ。

「あれを閉じ込めるか……あの莫迦共を滅してしまおうか」

 潔斎(いつき)の言葉の後半を拾った醇乎(ますみ)が熱立つが、全く無い事にされて大いにふてくされている。そんな様子に眺望(みはる)が年甲斐の無いと呆れた様に呟いて、更に醇乎(ますみ)の機嫌は下降していった。

 そんな部屋の様子を全く知らない春香は、纏め上げたきなこと水飴の融合体……きなこ飴の塊を食べやすい形に伸ばすべく、打ち粉用きなこを調理台の上に盛大に振りまく。

 ふわり、ときなこが空中に舞い、大豆の香りが春香の鼻をくすぐった。

 よいしょ、と思い切りよく台の上にきなこ飴の塊を置く。……何処かで恐怖の悲鳴が上がった気がしたが、気のせいと位置づけ、春香はよいしょときなこ飴を転がし始めた。

 ごろごろと転がる度に塊は円柱に近しい形になり、円柱状になり、棒状になっていく。

 途中で打ち粉が少なくなっていくので適宜きなこを打ち、台に飴がへばりつかないように注意して、春香はコロコロとテンポよく成型していった。

 ぐげ、とか、うげ、とか、何処からか小さな呻きが聞こえてくるが、春香は綺麗に無視する。

 ころころころ、と均一の太さの棒状にし、包丁で適当な長さにとんとんと切り落とせば、きなこ飴の完成だ。春香のこだわりとして、一つ一つに爪楊枝を刺し、極小アイスキャンディー状に仕上げていく。

 適度にきなこを振った皿の上に其れ等を転がし、春香は満足げにうんうんと頷いた。

「……なぁに頷いてんだか」

 引き攣った表情で笑い、醇乎(ますみ)は飛ばした視覚を引き戻す。

「満足な出来なのだ。当然であろ」

 冷やかに眇め見て、眺望(みはる)は呆れた様に鼻を鳴らした。

「西洲もたかが知れるの」

 ははん、と嘲りの笑いが文字となって背景を飾るかの如くあからさまな其れに、醇乎(ますみ)は瞬間的に表情を怒気に染める。

「巫山戯るなよ、小僧(がき)。死に滅ぼされてえか」

 怒気の中に悪意を刷き、醇乎(ますみ)は物騒な笑みを向けた。

「あぁ? 地位も無い山賊紛いの土豪(いなかもの)が」

「……天子から賜った役目を満足に勤められぬ莫迦に貶められる己ではないぞ」

 忽ち濃さを増す殺気を目の前に恩恵(たまふ)が冷たい微笑を口元に閃かせた刹那、殺気の元は瑠璃の結晶に封じ込められる。

「お入りなさい」

 そっと恩恵(たまふ)が告げれば、入口に居た春香はへたり込みそうになるのを瑠璃の小さな影二つに支えられながら小さくはいと頷いた。

 殺気にあてられて蒼白だった顔色が僅かに戻る頃に、瑠璃の結晶は淡雪のように消え、バツが悪そうな派手な美男と愛らしい小柄な影が現れる。

 双方が其々らしい言葉で声をかけるのを気にしていないし大丈夫だと寛恕し、春香は大皿を其の場に出した。

 醇乎(ますみ)が思い切り顔を引き攣らせ。

 眺望(みはる)が思い切り瞳を輝かせ。

 潔斎(いつき)が思い切り殺気含みの視線を向け。

 恩恵(たまふ)が―――――――嫋やかに微笑みを向けた、其れ。

 春香にとっては見慣れた駄菓子だが、矢張り何か違う力があるのだなあと、漠然と思いながら春香はいつも通り取り分けて包んでおいたきなこ飴を寄ってきた専科へ渡す。こくりと頷いて手にする専科の隣で、いつも通り百科が小皿にきなこ飴を取分けて恩恵(たまふ)へ献上した。

 優美だが無造作に指先で摘み上げ何処までも上品にきなこ飴を食す恩恵(たまふ)の姿に、潔斎(いつき)がああ可愛いと身悶える。

「……美味しいわ」

 呟けば、春香は良かったと嬉しそうに笑った。

「此れは黒蜜で作っても美味しいんです。今度黒蜜があれば其方でも作ってみますね!」

 召し上がっていただけますか?と遠慮がちに問う声に、恩恵(たまふ)は表情の無い綺麗な顔を僅かに首肯する。

 良かった、と笑う春香へ、眺望(みはる)が興味深々の様子で服の裾を引いた。

「此れが欲しい」

 きらきらきら。

 知的好奇心で煌めいている大きな瞳に無条件に頷きそうになる春香だったが、なんとか踏み止まり視線を恩恵(たまふ)へ向ける。視線に返されたのは、潔斎(いつき)の声音だった。

「……ボクの桔梗を勝手に見るな」

 ひやりとした殺気に瞬間晒されて再び顔色を無くした春香だが、小柄な影が其の前に進み、口の端を引き上げ小さく笑う。

「森の竜女の一存では判断し難き事柄なのだ、中の。邪魔するのならば去ね」

 双方が動こうとした刹那、瑠璃の小さな一対が其の間に立ち、愛らしく微笑んでぱんと手を叩いた。音と同時に瑠璃の蛍火が生じ、双方の周りを一つ二つと仄かに舞い始める。

「……牽制でこんなもん使うのか……」

 うわー、とか、嫌だ嫌だ、とか、勘弁しろよ、等々。そんな言葉が似合う口調で醇乎(ますみ)が呟くのに二つの瑠璃はにっこりと笑い、音も無く元の場所に戻った。

 漂う蛍火に春香が困惑の感情(いろ)を浮かべて醇乎(ますみ)を見るが、其の余りにも「こいつらもう勘弁しやがれよー……」な表情に、なんとなく察して口を閉ざして曖昧な微笑みを浮かべる。

 ……多分此れ、物凄い物騒な代物なんだな……

 自分が作る料理へ向ける感情よりも数倍打ち拉がれ感が増している醇乎(ますみ)の様子から、其の推測が外れてはいないだろうと春香は確信した。

「春香」

 恩恵(たまふ)が、そっと言葉を紡ぐ。

 呼びかけに春香が其の目を見れば、恩恵(たまふ)は表情の無い美貌をまっすぐに向けて、構わないと呟いた。

「……はい!」

 嬉しそうに頷いて、春香は眺望(みはる)へ視線を戻す。

「あげられるみたい。どれくらい欲しいの?」

 良かったねえと目を和ませる春香へ、一瞬虚を突かれた様な表情(かお)を向けて、眺望(みはる)はそうかと嬉しそうに頷いた。

「此の袋に程よく入る程度で構わぬ」

 何処からか幼児の掌程の大きさの小さな玉虫色の巾着袋を取り出して春香に渡せば、春香は適当に見繕い其の袋にきなこ飴を五本ほど入れて返す。

 手渡す時のきらきらした表情は当に癒し。

 眺望(みはる)の表情に春香も嬉しそうに笑っている。

「えー、なら」

 俺にも寄越せよ、と醇乎(ますみ)が続けようとした刹那。


 がばあ。


 窓の外からやってきた怒涛が醇乎(ますみ)を喰らい、其の儘の勢いで自身の定位置に戻っていく。

 当然の事ながら、醇乎(ますみ)の姿は見当たらない。

「……あ、だめだったんだ」

 茫然と呟く春香の声に、眺望(みはる)潔斎(いつき)は小さく笑い、恩恵(たまふ)は静かにきなこ飴を食んでいた。

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