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できれば教本を携えましょう

 森に一人で住み始め、春香は完全に――――――開き直った。




 以前迄は新しい食材……と云う名の自生の料理を見つける度に、遊びに来た恩恵(たまふ)一行に食べても大丈夫か確認して貰っていたのだが、恩恵(たまふ)達がいない今、態々其の程度で呼び出す訳にもいかず―――――――もういいや、と、春香は見た目を重視する事に決めた。

 此方の世界の食べ物を、春香は正直食べた事が無い。

 其れは、ともすれば、此方の世界の『食べ物』が、春香にとって『食べ物』ではない可能性がある訳だ。そして、本来食べ物ではない物が、春香にとっての食料となっている可能性が、低くは無い。

 そう断じれば、行動は速かった。

 実にあっさりしたものだ。

 どうせ、行動の対価を払うのは己のみ。ならば、飢えるより食べた方が良い。

 開き直りきってみれば、森は実に、自然のコンビニと云っても過言ではなかった。

 食べたい物を食べたい時に食べたい分だけ手に入れる生活。

「此れってなんてスローライフ?」

 絶妙に間違った認識を機嫌よく呟きつつ、春香は本日の獲得物をバッグから取り出し調理台に並べる。

 朝日と共に起きて日の入りと共に寝て。

 ご飯は美味しく、空気は綺麗。

 鬱陶しい人付き合いの必要は無し。

 開き直ってしまえば、此れ以上の環境はない。春香は異世界生活(トリップ・ライフ)を満喫していた。唯一の不満と云えば手持ちの物しか本が無かった事だったが、潔斎(いつき)の書庫……と云うには規格が大きすぎる蔵を解放して貰ってからは其れすら解消してしまい、今や問題なぞ何も無い。

 元の世界に居た時より生き生きしつつ、春香は朝食の用意を始める。

 食パンにバターを塗り塗りトーストにし、付け合せは葉物が中心のサラダ。

 オレンジを絞ってフレッシュジュースを作り、スクランブルエッグにはチーズを混ぜ込む。

 温かいうちに其れ等を縁側に運び、光る川面や澄んだ空眩しい緑に満ちた風景を楽しみながら食事をすれば、気分は最高と云えよう。

「あー……幸せだわー……」

 うっとりと呟く声は、春香の本心だった。

 ご飯を食べ終わったら、本を見に行こう。勿論、あちらの都合が良ければだけれど。

 此の後の予定を考えて、春香はもぐもぐと口を動かす。食べながらしゃべらなくても良いのがなんとも幸せだと、春香ははにゃりと微笑みを浮かべた。最近は食べながら喋る人間が多くて辟易してのだ。此方の世界に来て、そういう煩わしさが無いのが、春香にとっての最大の利点だった。

 食べ終わったら、食器を片づけ、身繕いして几帳を叩く。……暫く待っても小さな影は現れなかった。

 如何やら、あちらは忙しいらしい。

 春香は諦めて森への散策へと行動を切り替えた。瑠璃の花畑があった場所には、今は綺麗な湖が広がっている。花畑自体が恩恵(たまふ)の術であり、恩恵(たまふ)の創造物を欠片と雖も残したくなかった潔斎(いつき)の手によって花畑(それ)が回収された後に生じた清涼な湖は、潔斎(いつき)の手により春香へ渡された物だった。

「ボクの桔梗の無聊を慰めてくれたらしいからね。お礼だよ」

 優しげに微笑んで朗らかに云いながら、目には狂気纏うは殺気。

 如何にも殺したいんだろうなあと怯えつつ、春香が心で冷静に判ずれば、其れが聞こえたかの様に潔斎(いつき)は端正な顔ににいと人を喰らう綺麗な綺麗な笑みを浮かべた。

 そうして、湖は春香の物になった。

 湖であっても術の産物なので、春香の世界の湖とは全く異なる存在なのだと百科に教えられたが、春香にとっては今のところ、普通に辺を歩いたりする風景の一つに過ぎない。のんびり湖畔を歩けば、鳥の声が聞こえたりと心地よい。風も涼やかだ。

 うん、湖畔に行こう。

 切り替えれば早い。春香は手早く散歩用のポシェットを斜にかけ、森に向かう。

 暫くして、誰も居なくなった家の中から几帳から小さな影が慌てた様子で現れた事など、春香は知る由も無かった。

 一人、のんびりと森を行く。

 繁茂する木々は、森の中の空気すら美しい葉の色合いに染め上げ、森と云う世界を完全に閉ざしつつも完成された空間に仕上げていた。森の向こうは、どんな世界か……春香には関係が無いし興味も無い。生きて行ける環境が整っている場所から態々出て行って何かを知ろうなんて自殺行為だと考えた春香は、此れがもっと若ければ家族が恋しくて泣くのだろうかと自分に苦笑する。

 此の年になると、さして肉親に対する執着もないのだなあ。

 春香が特別ないのかもしれないし、別の人間ならたとえ春香より年上でも帰ろうとする者も居るのかもしれない。だが、此の世界に現実に居る春香にとっては、整えられた環境は、金塊の山より貴重で大切で価値がある。そんな訳で、春香は森の外殻へ足を向ける事無く、いつも通りの最奥……小屋の近所を歩き、散歩の仕上げに湖畔を巡る。のんびりのんびり歩けば、昼頃には丁度良く腹もすく塩梅だ。森を散策中に摘み取った飴を口の中で転がしながら、春香は澄んだ湖面を楽しみ歩いていると、ふと、異変に気づいた。

 鳥の唄が、聞こえない。

 小鳥であろう高く澄んだ美しい声は、湖畔の散歩の友だった。だが、いつもなら聞こえる其の友が、今は全く聞こえない。

 風は吹いている。

 心地よい風が。

 春香は足を止め、くるりと辺りを伺った。不穏な気配は感じられない。……そりゃあ、戦乱の世で生きて来た訳ではないが、殺人的な通勤ラッシュで痴漢と云う性犯罪者の気配を察知撃退する女の感、とも云うべき危機回避能力は着実かつ実践的に培われてきたのだ。大体、犯罪者のく癖に断罪されたらお前なんか触るかと開き直って馬鹿にしてくる恥知らずとそれに同調する男共と書いて愚か者共を御する為にどれだけの苦労したのかわかっているのか、舐めるなよ。そんな風に誰ともなく息まいて、春香は平穏極まりない其の風景に気を巡らせた。

 刹那。


 唐突に湖の水が逆巻いて、空中に波濤をぶつけると同時に、其の波を蹴散らして、光の玉が生じて弾けた。


 唖然と見守る春香の眼前で、砕け散った水の珠が降り注ぎ、光の玉が渦を巻いて霧散する。

 次いで、現れたのは。

 光の粒子を払って大地へ立つ、痩身の美少女だった。

 美しい(あかがね)色の巻き毛を豊かに伸ばし、白い肢体に似合いの象牙色した薄手の衣を纏っている。春香の目には、バレエの衣装……ロマッティック・チュチュの様に見える其の衣は、細い肢体を美しく装っている。

 足元には、柔らかな靴。

 潔斎(いつき)が履いていた物と形の違う其れは、春香の目にはバレーシューズと云われる形の靴に酷似している様に見えた。

 ほっそりとした足首に巻きつけられたリボンと同じ薔薇色の靴は、白い肌によく似合う。

 背中に翼さえあれば、天使と錯覚しただろう容貌の美少女の破天荒な到来に、春香は驚愕の表情で呆然と立ち尽くした。

 ふわり、とワンピースの裾を払い、美少女は春香を目に映すとにこりと屈託ない微笑みを向ける。

 一歩、春香へ歩み寄り、珊瑚色の唇がゆっくりと言葉を紡いだ。

「アナタが、森ノ竜女?」

 瞳は、キラキラと輝く煉瓦色。

 ふわふわとスカートの裾を靡かせ、美少女は恐れもなく春香へ一歩二歩と近づいてくる。

 其の童女の様なあどけなさに絆されかけつつも、春香は小さく一歩二歩と後ずさった。

 だって。

 春香は思う。

 明らかに、登場がおかしい。

 春香の尤もな判断に、だが、美少女は気づかない様子でにこにこと笑いながらまた一歩と間を詰める。

「ワタシも、竜女。アナタとイッショね?」

 うふふ。

 笑う様子は本当に幼女の様で。

 だが、春香は持ち前の警戒心で、一定以上近づかないように距離を保つ。

 縮まぬ距離に、美少女は訝しげに小首を傾げ、ふと足を止めた。

「ナンデ、逃げるの?」

 其の声には、僅かに苛立ちも含まれている。

「ドウシテ? 竜女なんでショ? アナタ」

 ならば。

 美少女は憮然と云う。

「ワタシタチ、仲間でショ」

「いやいやいや! 違うでしょう!!!」

 尊大な断言に、堪らず大声で突っ込みを入れると、春香はくるりと踵を返して全力で駆け出した。

「あ、チョット!!!」

 慌てる声にも振り返らず、春香は近くの我が家へ向かって直走る。

 少し走ればすぐに戸口は見えるのだ。体力不足を実感しつつ、全力で走って春香は家の扉を叩き割る勢いで引き開けた。

 其の儘転げるように中に入り、後ろ手に思い切り閉めようとしたその瞬間。


「ヘエ。こんなトコロに住んでいるノ」


 興味深々と云った声音に全身を逆立て、怯えと驚愕の表情で振り向けば―――――――すぐ後ろで、美少女が愉しげに笑って引き戸に手を当てている。

 ふわり、微笑まれた其の恐ろしさに声を上げようとした刹那。

「お引き下さりませ」

「帰還を」

 小さな影達が、春香を庇って立っていた。

「百科……専科……」

 あまりの安堵に崩れ落ちかける春香の声音を背に受けて、小さな影は眼前の美少女をきりと睨み付け微笑(わらい)かけ、無言の圧力で其の痩身を扉より一歩、外へと退かせる。小さな影に、美少女は些か腑に落ちない様子で形の良い眉をすいと顰めて口を開いた。

「アナタ達、有力者のオクサンの(サーバント)、デショう? なんでワタシの邪魔をスルの」

 云いながら、煉瓦色の瞳が春香を見遣る。

「アノ子、竜女なんでショウ?」

「竜女の、様な存在(もの)

「主様の命を受け百科が申し上げます。此の森の希少なる住人は竜女と存在を等しくするものではなく、其の成り立ちが竜女と酷く近しいと云うだけの事でございます」

 小さな影に反論されると、美少女は不思議そうにこくんと首を傾げた。

「チカシイ。ソレはオナジな意味ではないの」

「否」

「全く以て異なりましてございます」

 寸暇を置かずに叩き斬る勢いで言葉を返し、小さな影は更に一歩踏み出した。

 其れに圧されて、美少女は更に一歩森へと退く。


「ワタシが、会いたいから来たのヨ? 意味がワカッテいるのカシラ?」


 美少女の何とも云えぬ暗い響きに、小さい影はだが、負けず劣らずの能面顔で酷く冷たい言葉を吐く。


「私達の主様の御名を御存じの上で、其の言葉を仰っておられますのでしょうか」

「覚悟、おありか」


 春香からは見えない、小さい影の酷薄な表情。

 其の表情に相応しい、人外の気配。

 おろおろとする春香の場違いな暖かさに美少女は小さく微笑み、大げさな仕草で肩を竦めた。

「ベツに、連れて行こうとかカンガエテはいなかったノニ」

 煉瓦色の瞳が、愉しげに眇められる。

「タダ、会いたかったダケよ?」

「其れでは、道理をお通し下さいますよう、お願い申し上げます。此の森は我らが国の重要な場所。不条理に踏み荒らされるは心外にございますので」

「天子の許可を」

 其の言葉に、美少女は(あかがね)色の髪の毛をふわりと宙に舞わせ、天子、と呟いた。

「将軍位なら如何にかなるケレド、其れデハ足りない、と云う事ネ?」

 挑むように美少女が微笑む――――――が、圧される事は無く瑠璃の一対が是と返した不遜な笑みに、美少女は軽く口元を引きつらせ、次いで仕方がないと口の端を引き上げ笑う。

「天子の許可、ネ? トッテきマショウ? 其れでウルサク言われないナラ、お安いゴヨウヨ」

 またネ。

 そう云って春香へ手を振ると、美少女は再び光の玉と化し、霧消した。

 あっけにとられる春香の背を、小さな手がぽんぽんと叩く。其の柔らかな感触にはっと春香が正気に戻ると、幼く同じ顔が二つ、春香を覗き込んでいた。

「百科……専科……」

「はい、春香嬢」

「如何か致しましたでしょうか、春香様」

 いつも通りの表情で、二つの顔が春香を見遣る。

 其の安心感に、春香はふにゃりと膝から土間へと倒れ込んだ。

 慌てる二つの影へ、春香ははあああと思い切り溜息を吐いた後に、漸う顔を上げ、一言問う。

「あれ、何?」

 端的だが至極尤もな問いに、小さな影は困った様に笑って口を開いた。

「主様の御許しを得た百科が申し上げます。本日不躾にも突然春香様の前に現れました彼の者は、異国(とつくに)の人間に御座います」

 室内。

 あれから何とか春香を立たせ室内へ運ぶと、式達は春香へ話を始めた。

 異国(とつくに)

 式の言葉は、其の言語が内包する本質を話すもの。

 ならば、其の言葉は春香の知る言葉と同意だと、安堵しつつ其の続きを聞き進める。

「我が国は、此の広い世界に置きまして特殊な位置に御座います。島国と申しますのが最も概念的に近く、四方を深い海に囲まれております。深い海には害意が無いと判じられました存在(もの)のみが通る事の出来る海路が存在しておりまして、其処を通る事により海の向こうに御座います諸々の異国と諸々の交流を行い、異国(いこく)の方々が接するのは其の土地(くに)の有力者達で御座います」

 中世位の外交状況か、と春香が頷く前で、百科は滔々と言葉を紡いだ。

「海路は深い海の底に存在しておりますので、異国(とつくに)の方々を竜女と便宜上御呼びしております」

 どうりで、何もかもが恩恵(たまふ)達と違った筈だ、と春香は百科の言葉に安堵の頷きを見せる。

「あの人、外国の人なんだ」

「是」

 返る専科の肯定に、春香ははっと何かに気が付いた様に小さく目を見開き……些か笑顔を引きつらせて怖ず怖ずと問う。

「……偉い、人?」

「否」

 春香の言葉を即座に断じたのは、専科。

「主様の御許しを得た百科が申し上げます。本国では多分にかなりの高位と思われますが、我が国此の土地にいらせられましては身分等無きにも等しくあらせられます」

 答えるは、百科。

「強いて申し上げれば、毛色の変わった下衆(しょみん)に御座いましょう」

 にこやかに爽やかに言い放つ姿に、春香は百科の主を思い出す。

 ……此の容赦の無さは、間違いなく主従だ……

 心中深く納得しつつ、春香はでも、と疑問の声を上げた。

「でもあの人、二人に云われて天子に会って来るって云っていたじゃない? 天子って……此の国で一番偉いんじゃないの?」

「是。但し無力」

 専科が云えば、百科がにこにこと笑って付け足していく。

「此の国の実質的な統治者は将軍ですが、其の権威は地に落ちています。此の国の最高権力者は天子様ですが、其の実行力は極限まで削がれています。此の国は、今、各地の有力者達が其々の土地(くに)を収めている形で纏まっているのです」

 もっとも、と小さな手が愛らしく人差し指を振る。

「実行力が無いとは云え、天子様の権威は未だ御健在ですので、そう易々と異国(とつくに)の方がお会いになられるのは難しいかと。天子様を御守りする貴族達が其の様な蛮行、許す筈もございません」

 朗らかに笑う百科の隣で、専科は黙したままうんうんと頷いた。

「……お金貰って、中継ぎしちゃうとか」

「無理。死に絶える」

 春香の言葉にさらりと返されたのは、物騒極まりない言葉。

 瞠目する春香へ、百科がさらりさらりと言葉を紡ぐ。

「主様の御許しを得た百科が申し上げます。確かに金銭に困窮する貴族はおりますが、体面が保てるだけの収入はありますので、金銭を対価に交渉は難しいかと思われます。万が一其の様な貴族が存在致しましても、天子様への奏上を画策致しました時点で間違いなく、此の国に居場所は無くなりましょう」

 はあ、と吐息して春香は見開いていた目を僅かに伏せた。

「とりあえず、暫くはあの人来ないって事よね?」

「是」

「おそらくは大丈夫であろうと存じます」

 小さな影の断言に、春香は漸く肩から力を抜いて安堵する。

「やっぱり……」

 気を抜いた状態のまま、春香はポツリと呟いた。

「人って、怖い」

 顔を伏せる春香の頭を、二つの小さな掌がそっと撫でる。

「春香、本」

「春香様、面白い書籍が見つかったと主様の背の君様から御言葉を御預かりしております。宜しければ如何でしょうか?」

「……本」

 顔を伏せ方を落とししゃがみこんでいた春香へかけられた誘いの言葉に、落ち切っていた方がぴくりと動いた。

 ゆるり、と顔が上がる。

「うん……読みに行きたいなあ」

 此処にいる事が、今は怖い。

 そう言外に呟く春香の様子に、式達は気づかぬふりでうんうんと愛らしく頷いて笑った。

「でしたら今すぐご案内致します。さあ、参りましょう」

「春香、此方」

 左右の手を紅葉がそっと引き、几帳へと誘う。

 几帳の絵が靄の様に滲み……春香は一人、蔵の前に立っていた。

 案内の式達が居なくなるのは良くある事なので、気にせず蔵の扉に手を伸ばす。

 手入れが行き届いている蔵の扉は、とても厚いのに音も立てずにすうと開いた。

 ひやり、とした空気が肌を摩る。

 漂う古書の香りにほっと息を吐いた其の時。


「やあ、災難だったね」


 にこやかな笑顔を浮かべた端正な顔が、至極自然に春香の前に立っていた。

 人の気配が無かった其処に現れた蔵の主の麗姿に軽く引きつりながらも、春香は考え得る最上の礼を以て其の姿に対峙した。何故其処まで恭しくするのだと誰かが問うたとしたら、春香は生真面目に真剣に答えたろう、誰だって自分の命は惜しい、と。

 此の美男は、自分の奥の方と知り合いである春香を亡き者にしたくて仕方がないのだから。

 僅かなアラも命取りになる反面、何故か春香に対して興味も持っているらしい此の人物は、何かと便宜を図ってもくれる。

 潔斎(いつき)、と云う名前が、此れ以上に似つかわしくなく、此れ以上に似合いの人物もそう、いまい。

 はんなりとした雰囲気に殺気を織り交ぜて、端正な顔に微笑みを浮かべ、潔斎(いつき)は春香へ優しげに言葉をかける。

「無礼者は暫く天子のお膝元で足止めだろうから、のんびりと楽しむと良いよ」

 其の言葉に、春香はありがとうございますと深く頭を下げた。隠しきれない恐怖心が、小さな震えとなって表れているのを目ざとく見つけ、だが其れを好意的に小さな笑みで不問にすると、潔斎(いつき)はそうそうと愉しげに言を継いだ。

「面白い本を見つけたんだよ。読んでみるかい?」

 ぎい、と書庫の扉を開け、潔斎(いつき)は実に愉しそうに言葉と歩みを重ねる。

「古い文献なんだけれどね、些か読みにくいんだ。と、云うか」

 其の後を必死に、だが見苦しくない程度の足取りでついて歩く春香へ、潔斎(いつき)は顔だけ振り返って、笑う。

「多分、君向けなんだよ」

「ワタシ向け、ですか?」

 思わず呟いた春香へ、潔斎(いつき)はうんそうと愉しげに頷いた。そんな潔斎(いつき)とは対極に、私向けとは如何云う意味かと春香は晴れぬ表情で悩みながらついて行く。蔵を暫く歩き、潔斎(いつき)は奥の奥に在る棚から古い和綴じの本を取り出した。

「此れだよ」

 無造作に、だが品良く差し出され、春香は思わず居住まいを正す。些かびくびくしながらも、考え得る最上級の恭しさで其の本を受け取った春香は表紙を見た後にそっとページを繰った。書かれている文字は変体仮名の様だ。そう判じ、春香は徐に頁を繰り、文字に目を走らせる。其処には、流れるような墨書きで、こう書かれていた。


 カレーライスの作り方


 一瞬自失した春香だったが、いやいやまさかまさかと苦笑して、他のページへも目を走らせる。そして、更なる驚愕が春香の思考を奪った。

 全て、料理の作り方だったのだ。

 しかも、難しいものは一切ない。難しい処か、明らかに調理実習レベルの内容だった。あまりの内容に表情筋を固めたまま、油の切れた機械の様な動きで眼前に立つ麗姿へ目を向ければ、其処には何とも云えない優しい笑顔が存在していた。

「一言、云っておくけれどね」

 形の良い唇が、優美に動いて声音を紡ぐ。

「書いてある物象に関しての認識は、君とボク達とではかなりな隔たりがあるんだよ」

 朗らかに、酷く朗らかに潔斎(いつき)は言葉を吐いた。

「具体的に、聞きたい?」

「聞きたくありません!」

 間髪入れずに深く頭を下げてごめんなさいの姿勢を取った春香の姿に、潔斎(いつき)はそう?とわざとらしく溜息を吐いて見せた。

「残念だね。教えたかったのに」

 仕方が無いね、諦めよう。と笑う声には真剣味は一切無い。傍で此の声を聞いた第三者が居れば先程の問いは単なる揶揄の一端かと軽く断じるだろうが、一度とは云え、潔斎(いつき)に己の生殺与奪の全権を握られた経験のある春香は、正確に危険性を察知していた。

 ……教える気だったな。

 深く腰を折り曲げた姿勢のまま、春香は其の声音に背筋を凍らせる。

 曖昧な言葉で誤魔化そうとしたら、否応無しに事の詳細を教えられていたのだろうと云う確信が、春香にはあったのだ。そして―――――――其れは、正解だろう。

 此の書籍に書かれている料理の材料は、春香が極普通に口にしている食材ばかりだ。もし、此処に書かれている諸々一切の食材の正体を知らされれば……春香は、森で生きて行けなくなるに違いない。

 矜持等かなぐり捨てて保身を図る必要が、人生にはあったんだなあと、春香は伏せた顔に安堵の表情を浮かべてしみじみ思う。

 貰った本を抱きしめて、暇を願うと、潔斎(いつき)は鷹揚に頷いて春香の背を押した。

 瞬間。

 春香の姿は霧と化し、其の場から掻き消えてしまう。

 潔斎(いつき)もまた、用の無くなった蔵から、愛おしい愛おしい女性が住まう部屋へ足を向けた。




 蔵から離れた場所に在る、母屋。

 此の屋敷が堅牢な山城であれば、本丸と云われるような中心部に、その部屋……恩恵(たまふ)の私室は在った。

「そう」

 生じた声は、恩恵(たまふ)

 脇には、小さな二つの影が控えている。

「春香は、無事なの」

 恩恵(たまふ)は鋏を操って、ぱちんと花の茎を断った。

 彼女は、高貴な生まれだ。

 彼女の周囲は常に人で溢れ、彼女の周囲は常に静謐が満ちていた。

 其れが、其れこそが、彼女にとっての普通であり最上だった。

 結婚、と云う物をしろと命じられ……しかも命じたのは親ではない、其の上位に位置する有力者だ。顔も見せずに結婚させるが平常の世界で、上位の有力者はほらお似合いだろうと引き合わせた男児の隣に己を座らせた。そして、云われたのだ。結婚しろと。

 時が経ったが、夫も己も育っただけで、さして現状に変化はなかった。

 強いて云えば、夫が当主となった位の事だ。

 そして。

 其の頃、諍いが彼女の親と上位の有力者の間に起こり…………非常に微妙な立場となった彼女の周囲から静謐が去り言葉が満ち満ち。

 嫌になって、彼女は森の最奥部へと出奔したのだった。

 だが、静謐のみの世界と云うのも酷く退屈で。

 騒動の渦中だと云うのに己を引き戻そうとする親や夫にも辟易していた頃に、彼女は春香と出会ったのだった。

 常に人はいるが、常に静謐。

 望みに酷く近い環境になった彼女は、更なる楽しみを見出した。

 異世界人、と己を評した春香の行動が、一々面白い事に気が付いたのだ。

 否、会話すら、面白い。

 言葉が通じるのに、其の意味する処が小さく僅かずつ齟齬が生じている事に、春香は気が付かず、彼女は、気が付いた。

 食べる、と云う言葉。

 此れすら、全く内包する意味は違うと云うのに、春香は気が付かない。

 春香にとって、食べる、とは、口腔から食物を体内に取り込む事らしい。

 食べ物、と称して、彼女は様々な森の産物を並べた。並べて、彼女の前で嬉しそうに、食べた。

 春香の真似をして、彼女も、食べた。

 其の行為は、彼女にとって全く意味は無いのだけれど。

 並びたてられた様々な物を彼女は「料理」と呼んだ。調理とも、云った。

 料理。

 調理。

 其れは彼女も得意とするところであったので、そう告げれば、春香は驚いた様子で云った。


「偉い方の奥方様でも、料理をするんですか」


 意外です、と云った其の表情で、此処でも齟齬がある事に気が付く。

 料理とは、字の通り、(ことわり)(はかる)事だ。

 調理とは、字の通り、(ことわり)調(しらべ)る事だ。

 (ことわり)とは、世の大綱。此の界を制し総べる全て。

 理を料り、理を調べ。

 そうして術を展開する。

 其れは―――――――此の世界では、高位にある者の必須のモノだ。

 例えば、式を作る事も、疑似空間を展開する事も、不可侵の結界を張る事も、此の(すべ)無くしては成しえない。

 夫も其の父親も料理が得意だと春香に教えた時の、あの驚いた顔が忘れられない。

 稀代の腕前だと本当の事を教えると、掠れた声で「凄いですねえ」と呟いていた。

 其れが、その反応が、とても愛らしく……とても、オモシロカッタのだ。

 臆病で慎重だが、何処か豪胆な彼女を形作る存在(もの)はどれも面白くて、彼女は春香に何も教えない事に決めた。

 彼女の希望を訊き、家を建てた。……だが、其処に生じている認識の差異を訂正する事は一切しなかった。

 そうして、住居が定まると、春香は春香のまま、此の世界に根を張り始めた。

 其の現状から決して抜け出そうとしない春香が、此の世界の事柄を学び変節する可能性は、本来ならば酷く低い――――――――――――――本来なら、ば。

「其れで、あなた様」

 ぱちん。

 鋏の音が、部屋に響く。

「其れで終わりでは、ありませんでしょう?」

 呼びかけに笑みを返すのは、端正な黒い影。

 今迄居なかった其処に現れた潔斎(いつき)は、何事も無い様に部屋の中央に優美に座す恩恵(たまふ)の隣へ腰を下ろす。

「勿論だよ、桔梗」

 寄り添う様に座し、潔斎(いつき)はうっとりとした視線で恩恵(たまふ)を見つめて愉しげに頷く。

 何が終わりではないのか、何が勿論なのか。

 判然としない会話のまま、恩恵(たまふ)はひっそりと頤を引いて微笑む。

「其れは……ようございました」

 うふふ、と笑って、潔斎(いつき)恩恵(たまふ)を腕の中に閉じ込める。ああ、可愛いと笑って、閉じ込める。

 恩恵(たまふ)は小さく息を吐いて、邪魔ですと呟いた。




 潔斎(いつき)の蔵書内容は多岐に渡り、私立の図書館と云っても過言ではない量と質を誇っている。其の大半は変体仮名を用いていたが、中には竹簡や漢書、イスラム語の様な洋書も混ざっていた。

 圧倒的な其の蔵の中身を初めて目にした時、春香は其の光景を目に入れた瞬間盛大な歓喜に打ち震え……次いで蒼褪めて慌てた様子で目に映った本を手に取った。適当に取った其の一冊の表紙を捲り、目にした本文が、文字や文法が、言葉同様全く同じだと認めた瞬間、春香は盛大に安堵したものだ。

 本好きが目の前の本が読めないなど、拷問以外の何物でもない。

 毛筆で書かれている事が基本の此方の本は、春香の知識で十分読み解けるものだった。但し、日常にも生活にも関係ないのに趣味で変体仮名やら古文書の読み方やらを覚えていた春香だからこそ読める代物ではあるのだが。

 そんなこんなで、文字を読む事にも問題が無い現状ではあるが、読み解くに易いか如何かはまた別問題。

 ぱくり、と、朝ご飯であるおにぎりを口に運ぶ。

 今日のおかずは塩じゃけに白菜の浅漬け、御みそ汁の具は、油あげだ。

 因みに塩じゃけは蔦にぶら下がって……まるで葡萄の様になっていたし、油あげは葉の様に植物の茎に広がっていた。奇異極まりない光景にも慣れきった春香だが、雑草の如く繁る油揚げの群生は、なかなかに衝撃的な光景として記憶されている。米に至っては、精米された状態が湖畔の一部に砂の如く広がっているのだから、やはり此の森は侮れない。

 食事の卓は膳程の大きさしかないので、其れだけ乗れば隙間は無い。ので、春香は己が座る隣に其の本を置き、其れをおかずに朝食を食べすすめていたのだ。

 本の内容は、簡単な料理の作り方だった。

 カレーライスとか。

 黄粉もちとか。

 アイスキャンディーとか。

 鼈甲飴とか。

 簡単な物ばかりだが、悲しいかな、春香は食べた事はあっても、其れ等を作った事はない。

 鼈甲飴は屋台で買う物だ。お好み焼きも焼きそばもたこ焼きもそうだ。綿あめだってそうだし、じゃがバターだってそうなのだ。

 アイスキャンディーは、コンビニで買う物だ。ポテトチップスもから揚げもジュースもそうだ。

 黄粉もちは……

「町内会の味?」

 ぼそりと呟いて、春香は小さく眉を寄せた。

「黄粉なんか作った事無いもんねえ」

 あれは、スーパーや豆屋さんで買う物だ。

 うんうんと頷きつつ、浅漬けを口に運ぶ。昆布の風味が美味い具合に効いていて美味しい。

 ずずっとみそ汁を啜り、綺麗になったお椀やら小皿やら魚皿やらに手を合わせ、ごちそうさまと挨拶してから、春香は其れ等を片づけた。

 朝の光の中。

 貰った本を手に、春香はのんびり縁側に座り込む。日の光は柔らかく、風も心地よい。

 ぺらり、とページを捲り、のんびり読み進めれば、やはり何とも云えぬ好奇心が湧き出してくる。

 買うばかりだった諸々だが、こんなに簡単に作れるなら、作ってみたいと思うのは人の性だろう。

 環境は整っている。

 材料の大半も既にある。

 無い物は、森に出て探せばいいだけだ。

「……楽しいかも」

 えへら、と知らぬうちに浮かんだ笑みをそのままに、春香はぎゅうと本を抱え込んで縁台から庭に飛び降りた。何も履いていない足の裏が掴む地面が、気持ち良い。

「じゃあ、まず、鼈甲飴から行ってみようか!」

 楽しそうに楽しそうに声を上げ、春香は縁台の下に置いてあった履物に足を押し込んだ。

 鼈甲飴を、御存じだろうか?

 屋台やら縁日やらに親しい上に、所謂下町と呼ばれる地域に住んでる人間にとっては、此れはもう、屋台の定番たる飴だ。鼈甲色の飴は、大きなものであれば大人の掌ほどもあり、人気のキャラクターを模して造られている……平板な、造作だが。飴の板がクッキー型の様な物でキャラクターの形に成形されている、と云えば解り易いかもしれない。色も様々で、鼈甲色が基本だが、赤に緑に青にピンク……と、子供心をくすぐるが、明らかに体に悪そうな色がこれでもかとばかりに揃えられている。

 春香は、鼈甲飴が好きだった。

 食べきれないとわかっていながら、大きな鼈甲飴の板を買い、親に叱られそうになりながら、必死になって食べきった物だ。……此の辺りの流れは、春香が生まれ育った地域の子供なら一度は通った道と云えよう。

 其れが作れるとなれば、ちょっと心躍る物だろう、と春香は頷きながら森を歩いた。

 作り方は簡単。

 材料は、砂糖と水だけ。

「なんてシンプル」

 感嘆を籠めて、春香は空を仰いで万歳と手を上げた。

 尤も、作り方には少々コツが必要なようだが……と作り方が書いてある頁をぱらぱらと目にしつつ、春香は軽い足取りで木の間を歩いて行く。

 コツと云っても、まあ、砂糖水を煮詰めて軽く色がついたら火からおろすだけ、なのだが。……此の程度でも、春香にとっては一大事なのだ、と云う事だけは明記しておこう。

 砂糖は、既に手持ちであった。

 水は、台所にある。

 では、春香は何をしようと云うのか?

 ……鼈甲飴のレシピには、こうも書いてあったのだ。

 此れを使って、リンゴ飴も出来る、と。

 そう云う訳で。

 春香はリンゴを……正確には姫リンゴを求めて森を散策していたのだった。

 リンゴの木なんて知らない春香だが、此の森でそう云う常識は通用しまいと、春香は単純に考えていた。そして……単純思考と云うモノは、決して悪い選択ではない。

 かくして、リンゴはあった。

「……あったけど……」

 春香の頬が引きつっている。

 眼前には、春香の拳程の大きさのリンゴの実が、たわわに実っていた……木の皮の、内側に。

 木の幹に大きな裂け目があり、其の内側にぎっしりとリンゴが詰まっているのだ。

「……さすがに、ちょっと、キモチワルイなあ……」

 指先でリンゴを(つつ)いてみるが、特に蠢く事は無く、木がざわりと動き出す気配もない。

 はあ、と、溜息。

「まあ、普通に考えちゃいけないよねェ……」

 思い切ったように裂け目に手を突っ込み、指先に触れた実をがっしと掴むと、春香は思い切り引き抜いた。

 そのまま、静止。

 ……風が吹き過ぎる程の時間そのまま立ち尽くしていたが、変化が無い事を確認して、春香はもう一つリンゴを引き抜くと帰路についた。

 一つは、自分に。

 もう一つは、恩恵(たまふ)に。

 食べるか如何かは解らないが、見せるだけでも面白がってくれるだろうと春香は気楽に考えていた。

 ざわりざわりと枝を鳴らす木々の間を鼻歌交じりに過ぎ行き、春香は何事もなく家に着く。

 台所に立って、鍋を用意し、塗れぞうきんやら棒やら使えそうな板を引っ張り出して準備は完了だ。

「クッキー型があればなあ……」

 そうしたら、色々な形が楽しめたのに!

 そう思いながら、戸棚から色のついた粉が入った瓶を何個か取り出した。

 たまたま森の民から手に入れた其の粉は、春香の知識で見れば明らかに色粉としか見えない物だった。食紅、とか食緑、とか、其の手の物だ。

 鼈甲飴のカラーバリエーションを広げる気満々の春香は、水を入れた鍋に砂糖を惜しげもなく入れると、均等に溶かして火にかける。

 暫く火にかけると、ほんのりと色づいてくるから其れを鍋を回す事で色を均一にしてカラメルになるもっともっと前に火から遠ざけ塗れ雑巾の上に下した。

 薄く油を塗った推定・石の板に棒を置き、その上にまあるくなる様に鍋の中身を垂らす。

 其れを何個か作った後、食紅を混ぜて、リンゴの上にかけた。

 リンゴ飴が出来上がり。

 鼈甲飴も出来上がり。

 きらきら光る飴の板達に、春香は楽しみだなあと満足げにニコニコ笑う。

 そんな風に春香が好奇心を見たし平和を満喫している頃、森の一角に、派手派手しい人物が生じていた

「全く!なんなんだよ!」

 下草を踏む音も高らかに。

 長身の男性はぶつぶつと文句を云いつつ森を歩いていた。

 身に着けた衣は、上等の布。

 佩いた大太刀にも、装飾がされている。

 何とも華美だが、品が悪い、と云うところまで落ちていない。そして、其の印象は、男性自身にも云える事だった。

 顔立ちは整っていると云って良いだろう。作りは派手派手しい。

 そして、何より……

「大体なんで此の俺様がこんなところに足踏み入れなくちゃあいけないんだよ! くっそう、拗ねるぞ!」

 ……うるさい。

 ぶつぶつ、と云うより大声で不平不満を怒鳴り散らしつつ、男は森の奥へと進んでいた。

「竜女め……此の俺様を何だと思ってやがる……! 足元見やがって!」

 足元見られているのかよ。

 多分、此処に第三者が居れば呆れ交じりの声でそう云い放つに違いない。偉そうにしている割に、酷く脇の甘い事である。

 男はぎゃーぎゃーと文句を喚きながら、迷う事無く森の奥へ足を運んでいく。

 迷い無く。

 躊躇い、無く。

 其れこそが己の目的であると、其の態度が明確に語っていた。

 此の森は、物騒だ。

 口の端を引き上げて、男は思う。

 此れだけの資源、此れだけの物資。己が手に入れられれば、どれ程戦が楽になるだろう、と。

 だが、此の森の物は男の物にはならない。何一つ。

 だが、此の森の物は誰の物にもならない。何一つ。

 其れこそが、人が此の森から恵みを享受する約定。

 ざわり、ざわり、と周囲から発せられる殺気に忌々しげに舌打ちし、男は解っていると怒鳴り散らした。

「大体な! お前らがニンゲンなんぞを受け入れるからこんな事になるんだよ! 俺だって自分の屋敷で綺麗処を侍らせて楽しみたいっつの!!!」

 どう、と風が吹いた。

 だが、男の姿は全く変わらない。

 癖のある漆黒の髪も。

 三重(みえ)程に重ねられた衣も。

 男は、動き易さを考慮したのか腰から下に別の衣を穿いているが、其れは歩く走るに特化している作りでありながらも、やはりゆったりとした作りだった。

 草木を揺らす突発的な強風に、男は一筋の乱れも見せず、忌々しげに眉を顰めた。

「森と事を構える気は、ねえよ」

 はっきりと吐き出された其れに呼応する様に、森は静寂を取戻し、遠くからチチチ……ピピピ……と愛らしい音が響いてくる。

 ざっと、音をたて、男は不機嫌なままに歩みを再開した。

 暫く歩いただろう。

 とっくに午後と云って良い時間になり、漸く男は目当ての場所に近づいたのだと察した。

 男の眼前に、揺らぎがある。

 其れは、界を結んだ術。

 異界と異界を結び付け、不安定な状態をわざと所持させる事により人の恐怖と云う本能を最大限に刺激し、自覚させぬままに追い払う術。

「……森で此処まで大がかりな術が使える……か」

 対象への森自体の加護の篤さを物語る現実の異常性。其れに気づいた派手派手しい男は乾いた口内を誤魔化すように下唇を舐めて湿らせ、無理やりに口の端を引き上げて哂う。

「大仰じゃねえか。ええ?……中の」

 口調はなかなかに堂の入ったものだが、声音が掠れている辺りに此の男の器が透けて見えよう。

 術を掛けられた境を何処かひきつった笑みで押し通り、男は更に歩を進めた。暫く……歩いただろうか。午後の陽射しに些か色を感じ始める頃合い。男は、前方……此れから行こうとする方向に、尋常ではないナニかを感じ、警戒も露わに目を凝らす。其処には、煌めきが見えた。

「あれが、湖」

 日の光に輝く湖水は凪いでいる。だが、其れに心を許す程男は愚かではなかった。足を止め、注意深く辺りを探れば、湖のほど近く……林程の木々の重なりの向こうに、一軒の四阿が見えた。

 にまり、と笑った男は、気づいていない。

 其の四阿の傍に、清流が流れている事に。

 そして、其れが男の最大の失敗である事に。

 男は、気が付いていなかった。

 一方、迫りくる影にも気が付かず、春香はのんびりと鼈甲飴の出来を見ていた。

「もう固まったかな」

 つんつんと爪の先で突いて見れば、キラキラ光る飴達は爪に喰い付く事もなく硬い感触を春香に返す。一つに指を伸ばし摘み取ると、飴は綺麗に固まり、比の光を透かして飴色の影を落とした。其の様が幼い頃心浮き立たせた飴の姿其の儘で、春香はなんとも嬉しくなり其の儘其れを口内へ放り込んだ。

 広がる甘みは、記憶と違わず。

「うん! 成功!」

 春香は嬉しげに声を上げると飴を入れておく器を探して食器を並べている棚を物色する。

「重なるとくっつくし……蓋が無いと、虫が来たら嫌だし」

 尤も、家の中に入ってくる虫等、春香は此の森に住んでから見た事もないのだが。

 周囲が木に囲まれ草が繁茂していると云うのに、此の家には一切虫が入り込んでこない。動物も入り込んでこない。関係のない草も生えない。少し異常かと思いながらも、春香は、多分たま様がそう云う風に加工して下さったのだと判断し、一層の感謝を心に刻むのだった。

 結局、縁が少しあるものの底が平たく大きめの皿を取り出し、其の上に鍋の蓋を置く事で一応の決着をつけてみる。……リンゴ飴は、口広の瓶の中に入れた。

 飴の入った皿を持って部屋に戻り、春香はごろんと寝転がると譲り受けた本を広げる。

「うーん……次は何作ろうかな……」

 わくわくしながら、本の頁を捲る。

 記憶に在る食べ物の作り方は、料理に明るいとは云えない春香にとって、見ているだけでも面白かった。

 着ている服は巻頭衣の発展形の様な物。当然、寝転がって足を動かせば見える可能性無きにしも非ず……だが、訪れる人もいない我が家だ、と、春香は完全に気を抜いていたのだ。

 がたり。

 不意の音に、思わずびくうと体を震わせ、春香は慌てて音の方を振り向いた。

 土間の向こう。

 家の戸口。

 がたがたと音をたて、木造りの扉が開こうとしている。

「はあ?!」

 驚きと恐怖の声を上げて、春香は思わず腰を上げた。

 あの傍迷惑な異人がまた来たかと春香は思ったが、即座に違うと首を振る。

 潔斎(いつき)が暫く来ないと断言したのだ、ならば、来ない。

 春香はならばと必死に考える。

 獣か。

 否。扉を引き開けようとする獣なんか見た事無い。

 恩恵(たまふ)の使者か。

 否。式達は几帳の回廊を通ってくる。

 ならば。

 春香は、考える。

 あれは、なんだ?

 恐慌状態に陥っている春香の前で、戸はがたんと音を立て完全に開いた。

「くっそ……めんどくせえなあ!」

 がん、と戸口の縁を拳で叩くように完全に戸を開けきり、現れたのは、一人の男。

 三重に重ねた艶やかな朱地の衣には金糸を含む色とりどりの艶やかな糸で刺繍が施されている。

 癖のある黒髪は、肩口程。思うままに宙を舞っているようで、その実計算されている髪型は、派手な作りの整った顔に酷く似合っていた。

 男の赤墨色の瞳が、春香を捕らえる。

「居やがったな」

 にいと笑う男を見て、春香は思った。

 ああ。

 迷惑な人だ、此の人。

 と。

 不思議と恐怖は無かった。正直、潔斎(いつき)と初めて会った時に比べたら、もう、営業スマイルだろうがなんだろうが浮かべる事が可能なくらい心に余裕がある。悪ぶっているらしい男の笑い方も、あの時の潔斎(いつき)の様相に比べれば幼子の笑顔にも等しい。普通に微笑み返せる。

 春香のそんな心中が顔に出たのか、男は訝しげにおいと声を出した。

「何余裕見せてんだよ。俺は、お前に用があってきたんだぞ? 結界破って! 其れも二つもだ! 二つも結界破ってきた侵入者に対してなんだ其の危機感の無さはよ!!!」

「結界」

 其れは、初耳だ。

 春香は驚いた様に呟いたが、其れを取り違えたらしい男は満足げに頷いて笑う。

「おう! 驚いただろう! まあ俺様にかかればあんなもん、簡単に破れんだけどな!!!!」

 僅かに胸を張る様な仕草が、非常に幼い。

 そして、一々声が大きい。

「……とりあえず」

 中腰のまま警戒していた春香はよっこいしょ、と立ち上がり、ぱんぱんと裾を整えると軽く手招きして云った。

「お茶でも如何ですか」

「お茶!?」

 今度は男が驚いた様に叫び、まじまじと春香を見つめる。

「はい。点てますよ」

 のんびりと春香が云えば、男はますます驚いた様に目を見開いて、戦慄いた。

「な」

 指を思い切り突きつけ叫ぶ。

「何考えてやがんだてめえ!!!!!」

 天にも届と云わんばかりの叫びに、春香は思わず耳を塞いだ。

「そんなに驚かなくても……作法は良く知りませんけど、点てることくらいは出来ます」

 実際、高校の授業の一環として華道茶道があったので、点てるだけなら点てられるのだ。

 事も無く云いながら春香は土間に下りて台所に立った。

 恩恵(たまふ)がまだ森に居た頃、茶筅も見よう見真似で其れらしい物を作ったのだが、其の形を見て「此れではないの」と恩恵(たまふ)が茶筅を持って来てくれてから、春香は恩恵(たまふ)が来た時に時々茶を点てて居たのだ。抹茶と思わしき物は以前森から採取しており、作った器に入れてある。恩恵(たまふ)に振る舞う事は無くなったが、おうすは春香の好みでもあった。

 だから、忘れていた。

 認識に齟齬がある事に。

 恩恵(たまふ)の、豪胆さが並では無い事に。

 水を汲み、湯を沸かす其の姿を見る男の様子がおかしい事に、春香はまるで気が付いていない。

 大きな目を毀れんばかりに見開き、男は其の余りの異様さに身を震わせた。

 水を、汲んでいる。

 其れを炉にかけ……熱している。

 其の行動だけでも、狂気の沙汰だ。

 学のある無しに関わらず……幼子だって、下衆(しょみん)だって、こんな真似、しない。

 男の戦慄を余所に、春香は湯沸し専用の鍋で湯を沸かしている間に茶碗を二つ取り出し茶筅をざっと洗う。

 茶筅を見た瞬間男の咽喉から轢き潰された様な喘ぎ声が生じたが、其れはあまりにも小さくて、春香の耳には届かなかった。

 春香が茶壺代わりにしている器から抹茶を匙で取り出し茶碗に入れる。

 其処に湯を入れようとした時、男は堪らず待てと声を上げた。

「お茶、嫌いですか?」

 きょとんと振り返る春香へ、男は派手な顔立ちに僅かな怯えを滲ませて見せる。

「嫌いとかじゃなくて! お前、何をしているのか解ってるのか!?」

 其の慌て様に、春香はきょとんとした顔に納得の色を刷き、困った様に笑って見せた。

「えっと……私、違う世界から来ましたので、此の世界の常識ってあまり知らないんです」

「知らないだあ!?」

 目を剥く男へはいと頷き、だって、と春香は言を継ぐ。


「知ってしまったら、私、此の森で生活できないですから」


 無知故に、生きる道を見出す事が出来るのだと。

 胸を張り言い切る春香の姿に、男は眩暈と吐き気を感じた。眩暈は恣意的な言葉に内包される何者かの意思を感じた為か、吐き気は己の生きる道を愚直な迄に簡略化して求める女の姿に気圧されたからか。男にとって、春香と云う生き物が何とも云えぬ不気味で不可思議な生命体となった瞬間だった。

 此れを、欲するのか。

 男は受けた仕事と報酬のあまりの釣り合わなさを実感し、忌々しげに舌を打つ。

 割に合わない事、甚だしい。

 派手な男が言葉を無くし、表情を険しくするのを見遣り、春香は如何した物かと此方も眉を顰めて悩んでいた。如何やら、此のおうす……抹茶を点てる、と云う行為は、此の世界にとって非常に危険な事柄であるらしい。だが、此の飲み物は春香の好物だ。春香の日常だ。此処を否定されれば、春香は此の世界の事柄の内で生きて行かねばならなくなる。其れは、春香にとって非常に辛い事だ。今更……そう、今更、此の世界に準じて生きる術を学び直すなど、冗談ではない。春香の心は、此れ以上無い位に固まっていた。

 そして、此の男は、春香にとって迷惑と云う範疇を越える存在に成り得る可能性がある事にも気が付いてしまう。

 此処で……此処で、此の男が、春香が口にしている食べ物に対して一つ一つ講義を始めれば―――――――望まぬままに一方的に齎されるだろういらぬ知識は、春香にとって死に至る猛毒だ。

 ……逃げようかな。

 ちらり、と部屋の向こう……縁側の先を視線で見つめ、春香は思う。

 とりあえず、此の男は春香にとって恐怖の対象にはならないが、此れ以上無い程に危険だと断を下し、そろり、と爪先を動かした刹那。

「何処に行く気だよ」

 男が、今までにない低い声音で呟いた。

 込められたのは、殺気。

 潔斎(いつき)の其れとは比べ物にならないが剣呑な其れを肌で感じ、春香はやっぱり面倒な事になったと寄せた眉を力なく開く。

「俺は、お前をあいつに渡す。そして、対価を得る。其れだけの事だ。其れだけの、事だ」

 悪ぶった笑みを口の端に貼り付け、己を納得させるように呟いた男の言葉に、春香は僅かに首を傾げた。

「あいつ?」

「竜女さ」

 お前、会った事あるだろう?

 そう突き付けられ、春香は一気に戦慄した。

 突然の来訪者。

 害意の無い闖入者。

 そして。

 此方の言葉を何一つ聞こうとしない、暴君。

「貴方は……あの人の、御遣いだったんですか」

 干からび始めた口の中を必死に下で潤して、春香は男を睨めつける。

「商売相手なんだよ、あいつ」

 ゆるり、と男が動く。

 強張っていた四肢を解す様に、ゆっくりと。

「お前を保護してる中の奴に、天子の許可とって来いって追い出されてな。あいつ伝手もないのに貴族に食い込もうとして四苦八苦してやがんだ。んで、俺なら天子の伝手なんぞなくとも堂々と森に入れるし、お前を連れてこれるだろうって云われてな」

「森から出る気は、ないです」

 春香がじりと部屋へ向かえば、男は派手な顔立ちに似合いの大仰な動きで構わないと笑った。

「お前は商品として、俺が森で採取していくだけだからな」

 じり、と、春香の足が動く。

「森の採取で糧を得るには、許可が必要じゃないですか」

 ゆるり、と、男が動く。

「そんなもん」

 楽しげな、声。

「俺が俺に与えりゃあ良いだけじゃねえか」

 手が伸びた。

 春香を捕まえようと。

 僅かな距離だ。

 逃げられない距離だ。

 春香が初めて男から得た恐怖に顔を歪ませ、男が捕ったと確信した瞬間。

 どうと音を立てて奔流が男と春香の間に走った。

 巨大な蛇を思わせる其れに男は舌打ちし、春香は驚いた様子で目を見開いている。どうどうとうねり流れる清流の迸りは、まるで春香を護るように、まるで男を脅かす様に二人の間を空中を流れれていた。

「水だとォ!? こんな量……池があったのかよ!?」

 外から流れ込んで来る奔流に忌々しげに怒鳴った男へ、距離が生じた事で落ち着きを取り戻した春香がいいえと首を振った。

「池は無いですけど、小川はあります」

「川ぁあ!?」

 目を見開いての叫びに、春香ははいと頷いた。

「川があると嬉しいとお話したら、たま様が作って下さいまして」

 さらりと云いながら、春香は水流の此方側であちら側の男を見ながら嬉しげに笑う。

「流石たま様! こうなる事を見通しての小川の設置だったんですね!」

 此の森には、元々川が無かった。

 春香が迷い込んだ時に、せせらぎでも聞こえれば……と願って彷徨っても、水の気配は一切なかったのだ。其れが残念だと話した春香の希望を取り入れ、住居を建てる際に、恩恵(たまふ)は四阿の傍のみを流れる小川を作った。

 川は、唐突に生じ唐突に消えているので何処から生じて何処に流れているのか皆目見当もつかないが、いつも変わらずせせらぎと水気(すいき)を春香に齎してくれている。

「ただの癒しグッズじゃなかったんですね!」

 嬉しげにそう云う春香に向かって、男は声も枯れよとばかりに叫んだ。

「此の現状見て癒しとか云う奴の気はまともじゃねえ!!!」

「そんなの」

 春香はむっとしたように態度を改め、男を意地悪く眇め見た。

「貴方が無体を強いろうとしたのがいけないんじゃないですか。だから、たま様の御心遣いが私を護って下さったんです!」

 堂々と云い切った春香の姿に、男が忌々しげに舌打ちしたのとほぼ同時に水流の先端が春香の顔の横に現れ、蛇が頷くように二度三度其の先端を上下させた。

「あら」

「げ」

 同時に生じた呟きが内包する感情は正反対に近い。

「話が分かるの?」

 どうどうと空を流れる水流は、己が身の内で回流しているらしく、僅かな泡を内包して澄んだ流れを春香達に示していた。其の折り返し地点とでも云うべき先端は、丁度春香の頭程の大きさで、泡立ち逆巻く波を時折表面に現しながらも、蜥蜴の頭の様な形状を保ち、春香の顔の横に静止している。勿論、目も口も鼻もないが、遥かな昔から擬人化文化が花開いていた国の人間らしく、春香は水流の思考をなんとなくだが掴める気がした。

「味方よね?」

 水流の先端……頭が、頷く。

「あの人、敵?」

 端正な顔を派手に引きつらせた男を指さして問えば、水流は小首を傾げる様にして固まった。

 わからない、らしい。

「じゃあ、私を、守ってくれる?」

 水流は、任せろ、と云う様に大きく一つ頷いた。

「そ! じゃあ良かった!」

 其の反応に春香はにっこりと笑みを浮かべると、ちゃっちゃと抹茶を点てて茶碗を部屋へと運び行く。

「おい!!!」

 水流に阻まれた男が慌てた様に呆れた様に声を上げれば、春香は半ば部屋に入った体を捻り、はい何かと訝しげに声を返した。

「何かじゃねえよ! お前どんな神経してやがんだ!」

「お茶の事ですか? 其れとも貴方を放置している事に対してですか?」

「両方だ!!!!!」

 叩きつけるような怒声に春香は肩を竦め、一旦部屋に入り茶碗を置くと、再び三和土まで出てきて男と対峙した。

 其の間も水流はぐるぐると渦を巻き、男と春香の間に明確な壁を作り出している。

「あのですね」

 春香は云う。

「此の……便宜上、水龍と云いましょうか。水龍が守ってくれると云ってくれてるんですから、安全じゃあないですか」

「俺は結界二つ破って来たって云ったよなあ!?」

 歯を剥いて恫喝する男は普通であれば恐怖を感じる怒気を放っていたが、潔斎(いつき)の殺気に晒されまくっている春香にとって、其れは恐怖の対象ではなかった。寧ろ、久方ぶりに腹の底が見える様に感じられる其の態度は、何とも云えず春香を和ませる。

「云いましたね」

「此の俺様の手にかかれば、こんな水流、何の意味もねえってわかってんのかよ!」

 があと吠える男に、春香は困った人だなあとわざとらしく肩を竦め、あのですねえと言葉を紡ぐ。

「そんな事したら、間違いなくたま様に叱られますよ」

 春香の言葉に男は一瞬言葉を無くし……だが次の瞬間なめてんのかと再び吠えはじめた。

「俺が!? 此の俺様が中のの奥に如何して怯まなくちゃいけねえんだよ!!!」

 派手な顔に怒気を刷き、感情のままに柳眉を逆立て怒鳴る姿は、決して見苦しくはないが些か幼い。

「来るなら来やがれってんだよ!!!」

 挑戦的と云って良い叫び声に、瑠璃の光が生まれたのは刹那の事だった。

 瑠璃に輝く光球は水流を巻き込み炸裂し、二つの小柄な影を生み出して蛍火となって散り失せる。


「偉大なる主様の先触れと致しまして百科が参りましてございます」

「主様と、主様の背の君様、御出でです」


 瑠璃の色彩纏う美しい少女達が、銀の鈴を震わせる様な声で言葉を紡ぐ。

 二つの影がすいと跪いたのは、几帳に向かって。

 なんだあ!?と間抜けた声を上げた男の目の前で、几帳の絵は霞が如く形を無くし、美しい瑠璃の光を生み出した。

 瑠璃の光が収束し、人の形と成る。

 黒い衣を纏った男と、瑠璃の衣を纏った女。

 双方端正な顔立ちで、立ち姿も美しく、当に美の一対。雛人形の様な華やかさだ。

 春香がたま様と喜色に満ちた声で呟いた。其の言葉(よびかけ)に男が此れ以上無い驚きを感じた瞬間、ぞっとする様な殺気を感じて其の頬を派手に引きつらせる。殺気を向けられたのは、春香。殺気を感じるや否や春香は表情を恐怖に引きらせ、顔色を失い即座に深く礼を取る。腰を折り曲げ顔を伏せた其の体は、恐怖故か小刻みに震えていた。と、小さな瑠璃の影が重さを感じさせない足取りで春香の傍に立つ。紅葉の手が己の口元に添えられ、春香の耳に二人で何やら囁けば、震えていた春香は恐怖を僅かに薄れさせた様で楽しげな色を含んで笑みを見せた。

 其の一連の様子を驚き驚き見ていた男は、二対の視線を受けて仄かに暖かい其の一角から己が切り分けられたと悟る。

 そう。

 驚愕に彩られた闖入者は、光から現れた雛の一対と対峙していた。

 黒い衣を纏った男の白い面が驚愕に満ちた男の顔を捕らえ、切れ長の目が僅かに細められる。

 其の眼に浮かぶ感情(いろ)は只管冷たい。情に動く事が果してあるのかと、そう思わせる黒瞳を見て、蛇の目だ、と男は思った。人の物であるならば、何処かにもう少し、感情(いろ)と云う物がある筈だと。

 様々な……其れこそ、良くも悪くも名を世に知らしめる此の夫婦は、男にとっては遠くの厄災(たのしみ)であったが、対峙した今、面白がってもいられない。考えてはいたが、現実となれば此れは最悪の状況だった。

「……よう、(なか)の」

 男が、哂う。

 虚勢ではあったが、其れは男の身分に相応しい堂々としたものだった。

「久しく、西洲(にしす)の」

 黒の衣纏う男が、はんなりと微笑(わら)う。

 中の、西洲の、と云うのは、男達の勢力基盤である土地の位置だ。

 有力者、と呼ばれる存在は、土地に根差してその権力を培い、勢力を広げていく。先祖伝来の土地である事もあるし、そうでない事もある。だが、有力者、と呼ばれ尊ばれ畏怖される存在に、根無し草は皆無に等しかった。……例外は、居るが。

 名を呼びあう間柄と云うのは、かなり親しい間柄だ。親しい間柄、と云う関わりは、単に立場を同じくする有力者同士と云うだけでは成立しない。礼儀として、其の有力者が統治する土地を示す言葉を用いて呼ぶのが慣例だった。

 中、と云う位置は、天子の住まう土地に近いと云う事を意味する。

 天子の土地近くに(とち)を持てる有力者は、そう多くはない。潔斎(いつき)は、其のそう多くない有力者の一人だった。

 西州は、天子の住まう土地からはかなり遠くに位置している為、辺境として名高い。洲と云う……天子が住まう土地と地続きでは無い土地であるが故に、洲ではない土地の人間との接点は皆無である事が多く、天子の住まう土地に近い場所に住む者達の中では魔境と揶揄する事すら普通であった。

 故に。

 共に名を知られる存在であったとしても、二人の間に繋がりらしい繋がりは、無い。

「お前が此の竜女の後見ってのは、出鱈目じゃなかった訳か」

 哂う男へ、黒衣を纏う男は、はんなりと頷きながらすいと目を細める様にして笑みを深める。

「後見、とは趣が異なるかな。ボクではなく、桔梗があれを気に入っていてね」

 あれ、と称された瞬間生じた殺気に春香はびくうと体を震わせるが、其れが一瞬で消えた事にほっと胸を撫で下ろしていた。

 ……いや、安心していいのか、お前。

 一瞬とは云え、正真正銘の殺意を叩きつけられたと云うのに、一応収めた、と云わんばかりの其れに安心できるとは……と、男は些か方向の違う、だが間違ってはいない感心を心の内でする。

 そして――――――美女。

 美しく美しい瑠璃の衣纏う女は、闇色の髪を豊かに流し、白い面を隠す事も無く男へと向けていた。

 あまりにも美しい其の容貌に、感情は、無い。

「人形姫かよ」

 其の声に、黒衣の男がふわりと笑った。

「見るなよ、下衆(げす)が」

 刹那、生じた殺気。

 今迄の物とは比べ物にならない其れは、まるで溶岩の様。

 だが、下衆呼ばわりされた男も、今迄の何処か稚気に富んだ様相とは一変して歯を剥いて吠える。

「此の俺様に云ってくれるじゃねえか! 覚悟はできてるんだろうなあ!?」

「ぼくの桔梗に視線を向けて、通り名とは云え勝手に名を呼んだ。其れだけで細切れにしてやる十分な理由だよ」

 相手の怒号等意にも介さず、黒衣の男は端正な容貌にうっすらとした笑みを貼り付かせ、すいと優美に腕を動かした。

 其の手には、抜身の刃がある。

「上等だぁ……お前の顔だけ残して、竜女共に売りつけてやるよ」

 語気も荒く男も腕を翳す。振り抜く様に振るった手には、いつの間にか太刀が握られていた。

 ごん、と空間が震え、周囲を圧する殺気が春香を押しこむ。

 あまりの圧迫感に顔色を無くし、春香は咽喉を手で覆う。息が出来ない。汗が頬を伝う。口の中が干からびる。声を出そうとしても、息を吐く事が出来ない。

 春香の異変に気付いた二つの小さな瑠璃が慌てて其の体に抱き着いた刹那。

「おやめなさい」

 どん、と、ナニかが鳴った。

 刹那、男二人は瑠璃の光に包み込まれ……否、押込められた、が正しいだろう。僅かな身動ぎすらできない圧迫感の中で、男達は銀の鈴を振るう様な声音を聞く羽目となった。

「春香」

 瑠璃の光柱(こうちゅう)を丸きり無視して、女が云う。

「お茶が、飲みたいわ」

 放置決定な其の声音に、光の柱の中で西洲と呼ばれていた男が目を剥くが、其れすらも目に入れず女はゆるりと光柱から其の身を離す。

「はい、たま様!」

 小さな影を伴って室内に入る女へ春香は嬉しそうな声を上げ、いそいそと台所に立った。

 冷めてしまった湯を捨てて、新しく沸かしてる其の様子からは、先程の苦悶は欠片も見当たらない。

「春香」

 主様が興味を示された、と小さな影が持ってきた器を見て、茶器を揃えていた春香がそうそうと手を叩きリンゴ飴を棚から取り出した。

「今日、作ったの」

「そう」

 楽しそうに喋りながら、茶器とリンゴ飴の入った入れ物を持って春香は部屋に入ってしまう。

 残されたのは、光に封じられた哀れな美男二人。

 此のぼくを封じるなんて、流石はぼくの桔梗!と心の底から嬉しそうににやける男の対面で、春香が取り出した物を見ていた派手派手しい男は顎が落ちる勢いで驚愕していた。

「あのですね、此れは鼈甲飴って云うんです」

 ご存知ですか?と問う声は春香。

「……鼈甲飴」

 囁く様な呟きは、恩恵(たまふ)

「主様の御指示を受けて百科が申し上げます。春香様の御言葉に依る御説明を主様は御所望でらっしゃいます」

「此方と春香では差異がある」

 ころころと鈴が鳴る様な二つの声音は、恩恵(たまふ)の式である瑠璃の一対。

 愉しげな気配は几帳の向こうから。反して、旅愁同然の扱いを受けて放置された男二人は、光の柱に捉えられたままだ。

 角度的に辛うじて室内が見える位置にいた西洲の有力者である男は、依頼の捕獲対象である女の様子に訝しげに呻く。……尤も、光に圧された身では、僅かな動きも……眉を顰める事も口を動かす事も出来ないのだが。

―――――――おい、中の。

 男は漸う視線を動かし、同じ境遇の黒衣の美丈夫へ身の内に直接言葉を送り込む術で言葉を送る。此の術は行使の際に余波として周囲に空間が波打つ様に大小の波紋が生じてしまうが、今の二人の距離ならばその波紋も大きなものにはならずに幼子の掌程の大きさで生じては消える程度だ。

 端正極まりない黒衣の男は、其の視線を受けて身動ぎすら出来ない圧迫の中でも涼しげな視線を返す。

―――――――あの竜女、何者だよ?

 前置き無く本題に切り込んだ男へ、潔斎(いつき)は笑みを浮かべたままさあと呟いた。

―――――――あれは、ぼくの桔梗が拾っただけだよ。異世界から来た人間だけどね。

―――――――異界だあ!?

 荒唐無稽な言葉に嘘を吐けと云う様な響きの叫びを返し……だが、男はそうかと肯定の言葉を紡ぐ。

 目に映るのは、楽しげな春香の姿。

 着ているものは森で採取したのだろう布を紐で縫い合わせ、腰を帯で締めた物。一見竜女の装いの様だが微妙に違う其れは、見た事が無い風情だ。

―――――――だからか。知ったら生きていけないってのは。

 智慧の輝きを確かに其の眼に有しているのに、あの女は丸で何も知らない様子だった。

―――――――お前らがそう仕向けたのか、中の?

 知れば生きてはいけないと云う。

 知らねば生きていけると云う。

 其の言葉の根本に在るのは、此の世の存在(もの)に対する恐怖だろう。

 男はそう思い、不快を示す。

 そう思わせたのだとしたら、こいつらは酷い冷血漢だ、と。

 人の意志と云う手足をもぎ取って、飼い馴らした様な物だと。

 言外の響きに、だが潔斎(いつき)は微笑みを曇らせる事無く傲然と立つ。

―――――――全てはあの女の意志だよ。

 感情(ねつ)の無い声音に笑みを滲ませ潔斎(いつき)が云う。

―――――――ぼくとしては教えたいのだけれどね。

 だって、あれは面白い。

 楽しげに、楽しげに。

―――――――識を知るのに、問い学ばない。

 なんて、不安定。

 そう云って、潔斎(いつき)は楽しげに毒を吐く。

 穏やかに、殺意を滲ませる。

―――――――本が好きだと云うから、蔵一つ開けてやったのに、未だに変わらないのだから、呆れた頑固者だよ。

 其の言葉に、男が愕然した刹那。

 不意に、光は去り、圧迫感が霧消する。

 拘束から解き放たれた男二人の前に立つのは、小さな瑠璃の影。

「主様の御言葉を受けまして、百科がお迎えに参りました。主様の背の君様、西洲の棟梁殿、主様がお待ちに御座います」

 ふわりと嬉しげに笑う。

 にやりと忌々しげに笑う。

 二人の美男を誘った小さな影は、饒舌な性に似合いの笑みを浮かべている。

 だが。

 三対の瞳は、どれも笑っていなかった。

 百科が先触れを務め、二人は居間に上がる。縁台側から降り注ぐ日の光に照らされた室内に、美女と幼子と女は座っていた。室内で一番落ち着きの良い場所に座る美女の隣に潔斎(いつき)は当然のように座り、男は其の様子に呆れながら女の対面に座る。

 全員が座した時、美女がふと目元を緩めた。

 ああ、可愛い。と潔斎(いつき)が抱き締めるのを半ば無視して、美女は面白うございましょうと呟く。

 言葉が指し示すは、全員の前に置かれた、瓶と、皿。

 潔斎(いつき)がつまらなそうに其れを眇め見ながら、恩恵(たまふ)の髪をゆっくりと愛しむ様に撫でる。触る。堪能する。……どうやら、恩恵(たまふ)が其れを気に入った事が気に入らならしい。

 違うか。

 男は思う。

 こいつは、奥が自分へ視線を向けないのにあれに視線を向けてるのが腹立たしいのか。

 (ほぼ)正鵠を射ぬいた思考は、顔に呆れた笑みを浮かべる事によって発露するが、その感情の先に在る御仁にとってはなんの興味も無い事なので軽く流された。

 恩恵(たまふ)が言葉で指し示した物は、陽光にてらてらと照らされて光りを返す。

「あの」

 春香が、些か気後れした様子で口を開いた。

「鼈甲飴を、作ってみました」

 リンゴ飴もあります、と春香が続けて饗した其れをしげしげと見つめ、男はげえと嫌な事に気が付いたと云わんばかりの表情を浮かべる。派手だが整っている容貌が思い切り崩れる様は滑稽であり残念だ。

「え、あの?」

 慌てた様に春香が瑠璃の一対へ視線を送るが、小さな影は揃って良い笑顔を浮かべている。大丈夫大丈夫、と云っている様な其の態度にも、男は呆れた様に頬をひきつらせた。

「おい、女」

 横柄な呼びかけに引きつり怯えを見せながら、春香は何かと言葉を返す。

「此れ、なんだか知ってんのか?」

「え……林檎です」

 果実です。美味しいです。と迷い無く返され、男はそうかよと忌々しげに口内で言葉を噛み潰す。

「お前、水ってなんだか知ってるか」

「ごめんなさい知りたくありませんので聞きません」

 問いかけに、今度は即座に否定を返して相手の言葉を封じ込めると云う意志と共に捲し立てる。腰が僅かに浮いている辺り、言葉が止まらなければ間髪入れずに逃げる気なのだろう。最早逃げ腰、と云うより逃亡準備に入っている春香の背を、小さな紅葉の一対がぽんぽんと宥める様に叩いている。其れに小さな笑みで返しながらも、春香は未だ警戒心も露わにずりと縁台の方へ僅かに体を動かした。

 徹底した其の様子に、男は云わねえよと吐き捨てる様に云い放ち、なんだろうなあと春香の作った其れを見遣る。

 飴、と女が称した其れ。

 果実、と女が称した其れ。

 水、と女が称した其れ。

 茶、と女が称した其れ。

 其れ等を普通に説明すれば―――――――なるほど、多分、此の女は此の世界で生きて行けない。

 何故ならば此れ等は全て……純粋な、力の塊なのだから。

 一人ごち、男は女を眇め見る。

 びくびくと怯えている割には、根柢の処で恐れてはいないように見える女の目には、やはり、叡智の輝きが見える。

「おい、女」

 横柄な呼びかけに、訝しげに春香は首を傾げてはいと応えた。

「俺は、西洲の棟梁。お前なんかが口にするのも恐れ多いが、特別に名前を教えてやるよ」

「はあ」

 突然示された好意に警戒心も露わに頷くと、男は派手な作りの顔立ちに満足げな色を浮かべ、威風堂々と言い放った。

「俺の名は醇乎(ますみ)。覚えておけ」

 にやり、と悪童の様に笑う男へ、なんで覚えなくちゃいけないんだと首を傾げる春香は気が付かない。視界の外で、恩恵(たまふ)が明らかに不快気に表情を動かした事を。

「竜女の依頼は一旦破棄だ。お前は面白いからな」

 げ、と春香の口から小さな呻きが漏れる。

「また……来るんですか?」

 恐る恐る問いかけられた其の言葉に、男……醇乎(ますみ)はにまりと笑った。



 手土産だと云って、春香の作った飴を持ち、醇乎(ますみ)は帰って行った。

 何か手を打ちましょうと呟いて、恩恵(たまふ)は式を従え潔斎(いつき)に添われて去った。

 謀を企む様子も可愛いなあと、潔斎(いつき)はうっとりと其の体を抱きしめながら去った。



「主様の御言葉を御預かり致しました百科が申し上げます。春香様、今回の件で小川の流れも護衛となりましたので、お気持ち強くお持ちくださいませね!」

「負けるな、頑張れ」

 一生懸命元気づけようとする小さな影に、春香は些か虚ろな視線で乾いた笑いを漏らす。

 また、関わる人間が増えた。増えて、しまった。いらないのに。

 虚ろな儘に、リンゴ飴を一口齧る。

 記憶と全く同じ味の其れは、なんだか些かしょっぱく感じたのだった。

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