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そして応用しましょう

 さて。

 醇乎(ますみ)が突然の帰還を余儀なくされ(主に、実力行使的な意味合いで)。

 眺望(みはる)が嬉しそうに其の場を辞し。

 美男美女が小さな瑠璃を伴って、几帳の路から帰還すると。

 小さな四阿とはいえ、がらんとした印象になってしまった部屋の中、春香は一人ころりと寝ころび、きなこ飴を食べながら本を捲っていた。

 眺望(みはる)には良くて醇乎(ますみ)には駄目だったきなこ飴は、いつもの様に恩恵(たまふ)に献上していたが、どうやらやはり、其れを食べると云う行為は普通ではないらしい。

 其の証拠に、眺望(みはる)は嬉しそうに持ち帰ったにも拘らず、其の場できなこ飴を食べようとはしなかった。醇乎(ますみ)の様に派手に嫌がったりしない事が、此の存在が此処の住人にとって食べる物と認識されていないのだと如実に語っている。

 そう春香は思い、小さく溜息を吐いた。

 最初のチョコチップクッキーは、多分、次元を破砕して、神を呼び出した。

 ハーブティは、砕かれた空間を修復した。

 干し柿は、物凄い力の塊だと後で忌々しそうに醇乎(ますみ)が吐き捨てていた。……儲けになりそうな物なのに持って帰れないとはと悔しそうに歯噛みしていたのをよく覚えている。

 多分、リンゴ飴や鼈甲飴もそうなんだろう。そして、其の二つがそうであるのならば、きっと、きなこ飴も何か特別な存在(もの)なのだろう。

 だが、現実として森から採取される調理済み食料は春香の生命線であり、潔斎(いつき)から譲り受けた本は貴重な手作り知識を記した情報源だ。

 ふうと、春香は溜息を吐く。

 結局の処、幾ら疑問に思おうと此れ等を摂取して、生きて行くしかない訳だ。

 そう断じ、判じ。春香は口の端に諦観と云うより納得しきった者が生み出す笑みを浮かべた。

「生き物を捌くところから始めなかった事に良しとしなくちゃでしょ」

 若しくは、空手である己が生きる糧を得る為に、落ちているかもしれない貨幣を目当てに道端を這いずる羽目にならなかった幸運に感謝するべきだ。

 己を知っている春香は、そう心の内で呟いた。

「それにしても」

 ふと。

 思いついた様に吐き出された小さな声音に後から生じた意思を乗せ、春香は僅かに首を上げて天井を見遣る。

「今の状況…………なんか、知っている気がする……」

 何処かで。

 何かで。

 確かに、知識を得た筈だ。

 だが何処迄も朧げな確信は、多分体験に付随した知識では無かろうと断ずる。

 だが。

 其の根源が、己の内から明確に出てこない。

 頭の中に在る知識の箪笥に物が入り過ぎて、引き出しが如何にも開かない。……そんなもどかしさを体感しつつ、春香はまあいいかと諦めた様に吐息した。

 思考が焼け落ちる(オーバーヒート)を起こす前に、と、思考を強制終了させ、春香は徐に立ち上がると手際よく用意して森へと足を向けた。

 心地よく日が落ち始めた森を、薄闇が美しく彩っている。

 遠くから、のびやかな鳥の声らしきものも聞こえ、春香は涼しい風を満喫しつつ、ゆっくりと足を運んだ。

 今日のご飯はなーにかな、等と歌いながら、草の影やら木の枝やらに目を向ける。

「みーつけた」

 おお、と呟きながら木の枝からハンバーグをもぎ取る。冷めきった其れをちゃんと用意してきた容器に入れて持って来た袋に放り込めば、春香は再び歩き始めた。

 手水桶の様な形の花を覗きこめば、薄茶色の液体をなみなみと湛えている。指先でチョンと触れ、舌で味わえば、間違いなく上質なコンソメスープである事が判明した。

 収穫収穫、と嬉しそうに其れを容器に注ぎ、丁寧に蓋をする。極普通の蓋付の容器である様に見える其れは恩恵(たまふ)から貰った物で、此の中に入れると絶対中の物は外に出て来る事が無い。

 流石異世界。

 其の一言で済ませる春香の方が凄いだろうと影で潔斎(いつき)が呆れていたのは秘密だ。

 暫定ライ麦パンも収穫し、春香は満足げに家に帰る。

「明日の朝は、白いご飯にしようかな」

 楽しげに愉しげに。

 呟いて帰る姿に迷いはない。……なんだかんだで本当に胆が据わっている。

 劇的な環境の変化を上手に飲み下すには、極端な平和ボケと云うのはかなり有用だったのかもしれない。

 手製の卓に鼻歌交じりに彩の付け合わせも添えたハンバーグを置き、次いでスープとパンを配する。温めなおした?其れ等は香りも記憶の者と寸分の差もなく、其れどころか明らかに高級感溢れ美味しそうだ。

 満足げに食卓の前に座り、さて食べようと箸を手にした其の時。

 途端に響いたけたたましい音に、春香が驚いて其方を振り向けば、木戸が歪みも露わに揺れていた。

 どんどんどん。ばんばんばん。

 いっそリズミカルと云っても構わないだろう勢いで叩かれる戸を嫌そうに見つめて溜息を零す。食卓を手早く片付け、上のモノを素早く台所の然るべき処へしまい、騒音の元を招き入れようと足を向けた春香の耳から、不意に騒音が消えた。

 訝しげに眉を顰めながら戸を引き開けると。

「森の竜女」

 きらきらきら。

 輝く大きな瞳が、問答無用の好奇心と好意を浮かべていた。

 戸の向こう側に居た小柄な影の勢いと足元に些か引きながらも、春香はいらっしゃいと微笑んで奥の部屋を示す。

「うむ」

 楽しげに頷いて敷居を跨ぐ小柄な影の足元で、ぐえ、と中々に良い声が呻いたが二人は敢えて無視した。

 何気なく戸を閉めようとした春香の腕を、ぎりと握りしめたのは些か髪の乱れた長身の派手な美形。

「て……っめえぇぇえええ! マジぶち殺す!」

「死にたくありませんからお帰り下さい」

 冷や汗を一滴垂らしつつ、春香はにこやかに言い切った。

 春香の後ろでは、小柄な影が美しい夜空色の衣を優美に捌き、振り返りざまにぽつりと呟く。

「……もっと強う踏むべきかの」

 聞かせる意図は無いものの、明らかに好意の篭っていない呟きに、煌びやかな美貌が怒りに満ち満ち其の表情に相応しい声音を搾り出した。

「躾のなってねえガキが! 土地(くに)諸共に踏み潰す!」

 どん、と空気が震えるような覇気を放つ男へ、小柄な影は愛らしい顔に寒々しい笑みを浮かべついと優美に向き直る。

「出来るものならばの」

 あからさまな挑発は、自身の怒りの深さも周囲に示していた。

 明らかな臨戦態勢の二人を前に、春香は口を押さえてへたり込む。二人から発せられる殺意は其れ程に濃密で、自分の食料を得る為ですら動物を殺した事の無い春香にとっては最早此の空気は毒に近いのだ。

 睨み合う二人を何とか上げた視線で捕らえつつ、春香は思わず目じりに涙を浮かべた。

 な……何でこんな目に会わなくちゃならないかなああああ……

 うう、気持ち悪い。と顔色を青くして、春香は何とか這い蹲りながらも戸口から部屋への上がり口……正確には、几帳の傍迄辿り着く。

 春香の背後で、殺気が更に濃さを増した。

 形の無い圧迫にぐうと呻き、春香は何とか几帳の……風景画に手を伸ばした。

 一度、二度。

 薄れていく意識を何とか保ち、春香は其の表面を擦る様に叩き、声を振り絞る。

「ひゃ……か……せん、か…………」

 どん、と背後の殺意に害意が篭った。

 最早、一刻の猶予も無い。

 春香は必死に、霞む目で几帳を見つめる。

「た……ま、様……!」

 刹那。

 ずるりと力無く土間に倒れ伏さんとした春香の体を、瑠璃の一対がふわりと支えた。

 現れたのは、幼く愛らしい少女達。幼児、と称しても良い程に小さな小さな其の影は、美しい瑠璃の衣に身を包み、長い髪を瑠璃の燐光に揺らめかせていた。愛らしい小さな一対の手は意識の無い春香を軽々と支え、土に汚れる事を回避させる。

 生じた瑠璃の輝きに視線を向け、先程まで春香を苛んでいた殺気の元である男達は、端正な顔に其々悔恨の表情を浮かべる。

「奥の、式共……!」

「……あ……」

 しまったあああ! 面倒な奴引き出した!

 しまった、そんなに弱いとは。

 言外に叫んだ言葉、どちらがどちらかは、明らかだろう。

 ぐったりとした春香をうふふと笑ってぎゅうと抱きしめると、小さな影の一つは春香を部屋の奥に運んで行った。

 ぐったりとした春香の頬をそっと指先で撫ぜると、小さな影の一つは無表情に木戸の辺りで対峙していた二つの影へ視線を投げた。

 途端。

 ごうと窓の外から迸る清流に二つの影は飲み込まれ、絶大な力を示していた男達はごうごうと渦巻く水球の中に囚われた。

 其の勢いに幾分苦しげな表情を浮かべながらも、男達はさして苦しむ様子も無く水球の中に佇み、気まずそうに視線をあらぬ方向へ向けて居る。

 まるで叱られる前の子供の様な様子の其れ等へ、春香を看て来た影も加わり一対となった瑠璃は、愛らしい顔立ちに似合いの笑みをにっこりと浮かべてみせた。……其れは、決して和やかな存在(もの)ではなかったが。

「偉大なる我が主様のお許しを得まして百科が申し上げます。西の棟梁殿、北の棟梁殿。お二方は学び習うと云う基本的活動機能が備えられていらっしゃらないのでしょうか?」

「莫迦?」

 小さな一対の吐く毒に水球に封じられた両者は其々熱立つが、瑠璃の一対の眼が明らかに殺意に揺らめいているのを視認し、双方微妙に表情を強張らせた。

 力量的には、明らかに此の小さな瑠璃よりも二人の方が上だが、状況が不味い。

 此の森で、思う儘に力を奮えるのは、此の、瑠璃の流れしか存在しないのだ。

 如何しよう、と内心慌てる男達の整った顔を無感動に見つめ、にっこり笑って、無表情に切って捨て、愛らしい童女はぱんとお互いの手を重ね合せた。

 刹那。

 溢れる瑠璃の光の奔流。

 本来であれば十分対処可能な術であっても、此の森では対抗手段を持たない二人は、仕置きと云うには些か剣呑な力の嵐に無手のまま対峙する事となったのだった。

 そして。

 愛らしくも幼い瑠璃の一対が満足げに去った後には、年端もいかぬ童の様に部屋の中央で正座し春香に向かって謝罪を紡ぐ屈指の有力者達と云う光景が発生する事となる。

「すまぬ」

「……悪かったな」

 申し訳なさそうに上目遣いに己を見る少年の姿に、気絶から漸う意識を取り戻したばかりだと云うのに春香の内心は黄色い声をあげまくっていた。

 春香は別に、少年趣味な訳では無い。証拠に、性欲等は微塵も感じていない。

 ただ、単に。

 春香は愛らしい存在(もの)が好きなだけなのだ。

 先程迄此の場に留まってくれていた瑠璃の一対も素晴らしく愛らしい容姿だが、姿形は如何であれ百科と専科はどちらかと云えば春香の姉の様な存在になっていた。

 春香が余りの殺気に気を失った後、如何やら助けに来てくれた百科と専科が場を治めてくれたらしいと春香は現状を把握し、何時の間にやら部屋にあがって居た元凶二人へ視線を向ける。

 春香の視線を受けて先程の発言になる訳だが、正直此の二人が悪意に基づいて行動した訳では無いと……はっきり云えば、其の場のノリでそうなってしまったと知っている春香にとって謝罪などあっても無くても良い物だった。其れよりも何よりも、所在無げに小さくなっている小柄な影の何とも言えぬ愛らしさに、春香は望外な満足感を得ていたのだ。

「お前……」

 派手な美男が呆れた様に表情を歪めるが、春香にとっては其れこそ全く関係が無い。

「別に、気にしなくて良いよ。大丈夫」

 小柄な影に春香が微笑みかけると、大きな瞳が怖ず怖ずと春香の顔をとらえ、無言で本当かと問いかける。

 勿論だと更に微笑みを深める事で肯定して返せば、大きな瞳に気色を浮かべ、愛らしい顔が良かったとはにかむ様に笑う。

「なんだ此の茶番」

 うわー、きっもちわりー。

 げえと舌を出して嫌そうな表情を浮かべ、派手な男はぐたりと姿勢を崩す。

 西の棟梁として其れなりに恐怖の対象である己が此の軽い扱いとはと内心で盛大に不平を叫びつつも、男……醇乎(ますみ)は、僅かに満足感も得ていた。何しろ、此処では好き勝手しても口うるさく云って来る存在は無い。其れは此の男にとっては此れ以上無い快適な空間だ。

 そして。

「森の竜女。先だって貰い受けたきなこあめを、はわ様が此れ以上無く喜ばれてな! 礼を云う!」

 此の小柄な男にとっても、此の環境は楽しい事此の上無いものだった。

 今迄考えられなかった、全く新しい価値観を得られると云う事は、此の男にとって至上の幸福なのだ。

 北を統治するに辺り、様々な存在(もの)に師事し、色々な知識を得てきた男……眺望(みはる)にとって、此れ以上楽しい環境は無い。

「良かった」

 喜ぶ姿に、春香は心の底からそう思い、笑う。

 イイトコロの子息だろう子が駄菓子を喜ぶと云うのは、庶民として何とも云えぬおかしさを感じるのだ。

 それにしても。

 春香は思う。

 あんな駄菓子でも喜んでくれるなんて……はわさま、って云う人、良い人だなあ。

 眺望(みはる)のきらきらとした笑顔を堪能した後に、徐に醇乎(ますみ)へ視線を向け、春香はそっと視線を外してはあと溜息を吐いた。

「おい! 何だ今の失礼な態度!!!」

 てっめえと声を荒げる派手な美形顔ににっこりと笑いかけながら、なんでしょうと無邪気に問いかけて春香は逸らした視線を戻す。

「別にトラブルメイカーな方がいるなあなんて考えてませんから」

「上等じゃねえか」

 ふっふっふ、と不穏な笑いを双方漏らし、一歩も引かない様子で睨みあう二人へ、眺望(みはる)は大きな瞳を向けてふむと呟いた。

「大人げないの」

「お前が云うなぁぁぁあああああああああああ!!!!!」

 だん!と腰を浮かして足を踏み鳴らした醇乎(ますみ)へ、春香がですからと声をかける。

「トラブルメイカーって云うんですよ。なんだかんだで必ず叫んでるじゃあないですか」

 ああ、怖い。とわざとらしく呟いて、春香はじっとりとした視線を醇乎(ますみ)へ向けた。

「てめえ……態度違うんじゃねえか?!」

「当たり前でしょう。愛らしいは正義なのです!!!」

 高らかに言い放つ春香に迷いはなかった。

 いつもであれば即座に返る怒声は今回に限っては発せられず、醇乎(ますみ)は怒鳴ろう大きく開いた口を徐々に閉じ最終的にふむと小さく頷いて見せる。

「ま…………………………そ、うだな」

 意外とあっさり引いた様子に、春香は訝しげな視線を投げ、眺望(みはる)は小さく肩を竦めた。

「確かに……まあ。見目の良さは、正義だよな」

 あと、性格が可愛かったら迷わず喰うよな。

 そう繋げる醇乎(ますみ)へ、春香は一転した軽蔑の視線で小さく哂う。

「うわ、変態」

「誰が変態だ!」

「申し訳ありません、女たらしですか、色情狂ですか」

「マジぶっころす!!!」

 がたりと立ち上がった醇乎(ますみ)の前に立ったのは、小柄な影。

「森の竜女に危害を加えると云うならば、己が相手になろうが如何」

「んだとお!?」

 熱立つ男と睨みあう小柄な男。

 あわや先程の再現かと思われた状況を打ち崩したのは春香だった。

「危ない!」

 叫んで、眺望(みはる)を後ろから抱える様にしがみつき、己の体で醇乎(ますみ)から隠す様に庇ってみせる。

 急な視界の回転に目を白黒させた愛らしい顔を覗き込み、春香は真剣な様子で眺望(みはる)に云って聞かせた。

「だめよ! 此の男は危険だから!!!」

「如何云う意味で危険なんだよ!?」

 背後で怒鳴る声をきっぱり無視して、春香は懇々と眺望(みはる)に云って聞かせる。

「女だけならまだしも両刀だったら如何するの! 今は可愛いだけど将来確実に綺麗になるんだから、ああいう変態の前に出てはだめよ!!!」

 余りに真剣な様子に思わずうんうんと頷く眺望(みはる)の様子に、春香は満足げに頷いた。

「おい! 如何云う意味だよそりゃあ?! 俺にだって選ぶ権利があるっつの! 聞け! 聞きやがれ!!! つかこんなくそガキ! しかも男なんか喰うか莫迦野郎!!!!」

 まさに魂の叫び。

だがしかし……醇乎(ますみ)の声に応える者は無く、其れは、虚しく、酷く虚しく、其の場に流れたのだった……。

「……んで」

 一通り叫びつくして場が和んだところで、春香はいつもの様にお茶を淹れて振る舞う。

 おうす、と呼ばれる抹茶を点てたものだ。

 作法などさして知らないが学校で点て方だけは多少覚えた春香は、きちんとお茶を習った人から見たら卒倒しそうな気軽さで平素から抹茶を楽しんでいたのだが、此の世界でも其れは変わらず、時折恩恵(たまふ)にも饗していた。

「何の御用ですか?」

 云いつつ春香が視線を向けた先には、男達が品よく座しつつ振る舞われた抹茶入りの茶碗を手にしている。

 醇乎(ますみ)が茶碗の中身を嫌そうに眇め見ているのを目に留め、春香は訝しげに眉を寄せた。一方、眺望(みはる)はわくわくした視線を茶に向けている。飲もうとはしていないが如何にも楽しげに茶を試し眇め見る姿は目に優しい。……敢えて云おう。目に、優しい。

 大体、と春香は茶を啜る。

 もう一方が目に厳し過ぎるのだ。何処まで派手に装えば気が済むのか。そう思いつつ、咽喉を滑る茶の温かさに、春香は小さく息を吐いた。

「てめえ、本気で失礼だな……!」

 派手派手しくも端正な顔を思い切り引き攣らせながら醇乎(ますみ)はどっかと足を崩して蜷局を巻く。其処に、高貴な身分と云う気配は微塵も無い。

「……正直」

 春香がポツリと呟く。

「基本的な造作が素晴らしいので、こうして手作りの物を振る舞える環境と云うのは好機と云われても頷けるんですよね……」

 呟きは、確実に好印象を伝えるが、現実が正反対を示していた。

 春香の声音に、恋い焦がれる響きは欠片も無い。

「手前ェ……」

 ひくり、と米神辺りに青筋たてる醇乎(ますみ)へ、春香は軽く眉を上げて言葉を継ぐ。

「なんで怒るんですか。見目麗しいと褒めたのに」

「マジそう思ってるなら夜来てやるぜ?」

「たま様にお伺いたてて下さいね」

 うふふふふふ。

 醇乎(ますみ)の言葉に当然の様に引きつった笑いを返し、春香はやれるものならやってみろと言外で怒鳴りつける。


 何はともあれ、生産性の無い事此の上無い会話だ。


 本心からかけ離れた笑い顔を晒し合うオトナ共へ声をかけたのは、大人と子供の狭間に在る存在(もの)

「森の竜女」

 きらきらした瞳を春香に向け、小柄な影は愛らしい造作に溢れ出んばかりの好奇心を示す。

「此れは、何と云う存在(もの)だ?」

 水と茶葉の気配がする、と続ける年若い男へ、春香はふと相好を崩し抹茶だと告げた。

 抹茶、と反芻し、男はきょとんとした様子で大きな目を春香へ向ける。

「抹茶とは、どの様な物か」

 問われて春香は、一瞬言葉に詰まった。

 抹茶は知っていても、其れの生い立ちを詳しくは知らぬ。

 中途半端に学校で知識を植え付けられた身には、正式な抹茶など製法どころか定義すら知らぬものだ。

 一瞬言葉に詰まり………………だが、春香は決心して言葉を紡いだ。

「森を散策してね、緑の粉を見つけたら沸かした水で良く攪拌するの。そうして出来上がる飲料水の事よ」

「嘘を吐けええええええええええええええええええ!!!!!!!!!」

 そうか、と眺望(みはる)が頷く前に、醇乎(ますみ)が否定の絶叫を上げた。

「てめえ! 何だ其の当てずっぽう感満載な返事は!!!」

「ああ、そうね」

 熱り立つ醇乎(ますみ)を半ば無視し、春香はにっこりと笑いかけた。

「飲んでみて、えぐみがあったら青汁だから」

「そうか」

「そうかじゃねええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!」

 絶叫に近い叫びに、二人はいかにもうるさいと眉をしかめる。

 もしかしたら。

 此の、派手な男が一番常識人なのかもしれない。

「うるさいですよ、癪ですか」

「手前ェ、此の俺を(やまい)持ち扱いしやがるか」

 ()ち殺す。

 物騒極まりない笑みを浮かべて殺気を放つ派手な男に、春香は些か引きつったものでありながらも、確かな微笑を浮かべてそうそうと言を継いだ。

「如何したの。何かあった?」

 春香の問いは、怒り心頭に至ろうと云う男を軽く放置して、眼前の愛らしい小柄な男性に優しい優しい声で問いかける。

 怒りに震える男を傍らに置きながら、小柄な男も愛らしい顔をキラキラ輝かせながら口を開いた。

「森の竜女の生み出したモノが見たいのだが、如何?」

「生み出した?」

 反芻して思わず首を傾げる春香へ、眺望(みはる)はそうだと頷いて笑う。

「はわ様が、他にもあれば見たいと」

 期待に満ちた声音で端的に告げられ、春香は小さく目を見開いた。

 生み出した……などと大仰に表されたが、正直率直に言えば、あれは単なる生活の糧たる物の一環だ。取って置く事など無く、即座に食べてしまう。

 ふむ、と春香は外界を一時シャットアウトして思考した。

 此れだけの期待に、応えられないなど不甲斐ない。

 そう云う思考で恩恵(たまふ)にも作った物を献上してきた春香に、此の可愛らしいおねだりを断る理由は無かった。

「あ、そうそう」

 ぽん、と手を叩き、春香は晴れやかな笑顔で醇乎(ますみ)を見遣る。

「其方も、お持ちか」

「断る」

 四阿の外。

 ごう、と渦巻く水の音を敏感に拾いつつ、醇乎(ますみ)は電光石火で春香の言葉を叩き落とした。

「……そうですか」

 排除の意思を隠しもせず、なんとも残念そうに呟いた春香へ、醇乎(ますみ)は派手ながら端正な貌に怒りに引きつった笑みを浮かべる。

「てめえ……本ッ気で俺を怒らせたいらしいなあ!?」

「何云っているんですか!」

 怒声にいつもならばへらりとした笑顔で誤魔化しに入る春香は、だがしかし、きりと眼前の美男を見据え、珍しく厳しい言葉を吐きだした。

「危険物を遠ざけようと考えるのは年長者の役目です!」

 すぱん、と云い切られた其の言葉には、誰を、とか、如何やって、等、かなり重要な文言が省かれているものの、意図は的確に相手の心を貫き派手派手しく端正な貌を盛大にげんなりさせると云う荒業を成し遂げる。

 もう知らん、とばかりにぐってりと四肢を投げ出して不貞腐れた偉丈夫を爽やかに見下し、春香は眺望(みはる)へ向き直るとそれじゃあと朗らかに告げた。

「綿飴つくりましょう」

 云いながら、手にした本を繰り、目当ての頁を探し当てる。

 ざくっとした事柄しか書いていない其れに、春香は頭の中で手持ちの材料を洗い出し、実現する為のモノを作れるかの算段をした。

 答えは、応。

「じゃあ、庭でやりましょう」

 にこにこと笑う春香の様子に、眺望(みはる)はうきうきと、醇乎(ますみ)は僅かに嫌そうな表情(かお)で庭に下り立った。




【綿あめの作り方】

材料

・ザラメ(市販の飴でも可)

・棒

・筒状の容れ物

・諸々の資材

・熱源




 とんてんかんてん。

 どんがんどんがん。

 かっとんかっとんかっとん。

 青空の元、景気の良い作業音が響き渡る。

「……そうしたらね、こうして……」

 云いながら春香が持ち出したのは、筒状の容器。其れに細かな穴が開いており、三対二の割合で分割されるようになっていた。

「此処の処をね、こうやって……」

 ぱかんと下の部分を外し、予め台所から持ってきていた七輪擬きから菜箸で器用に熱源である赤い石を一つ取り出すと、ころんと其の空虚に居れ復たぱこんと筒の下に嵌め込む。

「此れで完了!」

 にこりと笑い、春香は眺望(みはる)を顧みてはいと棒を差し出した。

 要ります?と云いながら、醇乎(ますみ)にも棒を差し出し、春香は穴の開いた筒状の物体をがっつりと手作り感満載な機械に設置する。

 四角く空間を区切るその真ん中に、ぴょんと飛び出た棒に、容器を差し込み、春香は足踏み機をゆっくり踏み始めた。

 ぐるぐるぐるとまわり始めた器の中に、春香は取り出した物をころころと数粒入れた。

 其れは、春香にとっては最早定番のおやつ。

「お前ッ!?」

 目を剥くのは、醇乎(ますみ)

 春香は「個人的にはうっすら桃色ってのがメルヘンよね」と嬉しそうに真円描く桃色のどんぐり飴を数粒筒に入れると、もう直ぐ出来ると眺望(みはる)に告げて、楽しそうに足踏み機を踏んだ。

 踏めば、筒は回転し、暫くすると中から蜘蛛の糸の様な物質が出始める。

 其れを春香は手持ちの棒でくるくると掬い取り、春香の顔程の大きさになった其れを目を見開く眺望(みはる)に笑顔で差し出した。

「此れがね、綿飴って云うの」

 美味しいよ、と差し出されたふわふわとした其れを穴の開く程見つめ、眺望(みはる)ははふうと息を吐く。

「……見事!」

 やんやの喝采を送る傍らで、醇乎(ますみ)が「もうこいつ嫌だよーなんなんだよー」と現実逃避に走っているのを見止め、春香は小さく眉を顰めた。

「桃色、御嫌いですか」

 じゃあ、今度は青でも作りますか。

 そう云いながらどんぐり飴(産地:森)を取り出し始める春香へ、醇乎(ますみ)は違うと怒鳴り声を上げた。

「それがどんなモンか解ってんのかお前は!!!」

「高級品ですよね。知ってますよ」

 式の二人に教えてもらいましたから、と自信満々に言い放ち、かろんかろんと材料としてのどんぐり飴を筒に投入しつつ、春香は軽く肩を竦めた。

「でも、森に棲んでいる私には関係の無い事ですから」

 美味しく戴いた方が重要でしょう。

 さらりと言い放つ春香へ、醇乎(ますみ)は口元を大いに引きつらせ、眺望(みはる)は楽しげに大笑いしながら手を叩く。

「いや、見事、見事!」

 やんややんやの大喝采は眺望(みはる)からのみ。

「まるで蜘蛛の糸ぞ! 斯様な此れは見た事も無い!」

 流石は森の竜女と囃し立てる愛らしい笑顔に笑みを返し、春香は出来上がった綿飴を醇乎(ますみ)へ差し出した。

 其れは、淡い青を纏う綿菓子。

「どうぞ? 美味しいですよ」

 春香の中で、美味しい、は、安全、だの、最高、だの、其の辺りの言葉の最上位の褒め言葉だ。

 短いながらも付き合いのある醇乎(ますみ)は其れを知っている。

 そして。

 差し出された綿飴を見遣り、派手派手しい顔に疲れた様な引きつった笑顔を浮かべた美男はよろりと手を伸ばした。

 此の贈り物は、此の女にとってさして重要な物ではないのだ。

 そう、確信する。

 よろりと伸ばされた端正な手に、春香はきょとんとした表情を向けたまま、訝しげに成り行きを見守っている。

 醇乎(ますみ)は其の様子に、軽く……だが、なんとも云えない激情が腹の内を暴れる事を押さえる事に苦心した。

 春香は、知らない。

 何故に、此れが高級なのか。

 素晴らしい程に粒の揃った其れ。

 美しい程に色鮮やかな其れ。

 此れならば、確実に献上品として天子へ贈る事は可能処か当たり前だろう其れ。

 其れを、此の女はいとも簡単に手を加え、見た事も無い物へと変化させる。

 眺望(みはる)は凄い凄いと無邪気に喜んでいるが、其の実、今手にしている存在(もの)の利用価値を冷静に判断吟味し、持ち帰りの為の策を練っている筈だ。

 春香は知る由も無かろうが、此の綿飴には、其れだけの価値と―――――――力が、在る。

 当然だ。

 天子が、欲する、力の、塊なのだ。

 其れを、此のような形に、何の躊躇いも無く加工する腕にも、其れを思いつく頭にも、醇乎(ますみ)は驚愕し恐怖するしかない。

 此の、稀代の大莫迦者が……!

 己が手の先に在るふわふわした物体を嫌そうに眇め見つつ、眼前で胡散臭げに在する春香を視界の外に捉えていた醇乎(ますみ)は、何とも云えぬ溜息を長々と吐いた。

 一方。

 そんな年寄りの嘆き等知らぬと言外で声高に叫ぶように、小さい影は楽しげに手にした綿飴を十分に多方向から観察した後、僅かに考える様な表情を作り、春香へ近寄る。

「森の竜女」

 愛らしい顔立ちににっこりと笑みを浮かべ、眺望(みはる)は手にした綿飴を指さした。

「此れ程の大きさはいらぬ故、小さくして貰えるか」

 云われて、春香はきょとんと眼を見開く。

「遠慮?」

「否」

 眺望(みはる)は断じ、困った様に笑った。

「此れ程の大きさでは、己の手には負えぬ故」

 赤子の掌ほどの大きさで良いと云う眺望(みはる)へ、醇乎(ますみ)は感心した様に目を見開く。

「ほお、ガキ。お前、分別あったんだな」

 心底感心した様な其の声に、眺望(みはる)は何とも胡乱げな視線を送り小さく溜息を吐いた。

「分別などと云う次元では無かろう。西の棟梁は稀代の莫迦か」

「あぁ?!」

 凄む顔に思い切り手を翳し、眺望(みはる)は呆れた様に鼻を鳴らして言い放つ。

「此れを活用しようなど、己は些かも思わぬ。此れは、はわ様への献上品。其れ以上でも其れ以下でも無い」

 ふふん。

 居丈高に言い放つ姿に、春香は心中でああ可愛いとうっとり呟く。

 如何見ても幼子とは云えない彼は、だが、如何見ても小動物的愛らしさを備えていた。

 だがしかし。

 面と向かって罵倒された醇乎(ますみ)は派手な顔に凶悪な笑みを貼り付けた。

「潰す」

「出来様ものならばの」

 受けて立つ小柄な影も負けていない。

 大胆不敵と云うに相応しい微笑みを口の端に貼り付かせ、物理的には圧倒的に見上げている立場にも関わらず、大上段極まりない居丈高な口調で言い放つ。

 また始まった……。

 春香は小さく苦笑しながら、受け取った綿飴を小さく千切り、草で編んだ袋に入れて置く。

 双方の視線は一切揺らがないが、其処に殺気は感じられない。

 本気の害意でさえなければ、春香には何ら影響がないので、心穏やかに見て居られた。

「如何します? 必要ですか?」

 うっすら青みがかった綿飴を指さしつつ春香が声をかければ、醇乎(ますみ)はふと視線を綿飴へ遣り、いらねえよと首を振った。

「融けるだろ」

「まあ、溶けますけど」

 微妙なニュアンスの違いに全く気付かず、春香は早く帰れば問題ないのではと首を傾げる。

 其の言葉を受け、手にした小袋を愉しげに覗き込んでいた眺望(みはる)は、では早う帰らねばと嬉しそうに腰を上げた。

「はわ様にお見せしてくる! 大義であった!」

「はい、気を付けて」

 微笑ましく小さな影を見送り、春香は一人残った男を胡散臭げに見遣る。

「……如何するんですか」

「此のまま返すも業腹なんだがなあ……」

 ち、と舌打ちをして、醇乎(ますみ)は手にしていた綿菓子を春香へと差し出した。

「食べませんか」

「喰わねえよ」

 ふむ。と、春香は醇乎(ますみ)の派手派手しくも整った顔を不躾にならない程度の視線で覗き見る。

「美味しいのに」

「そうかよ」

 苦々しげに呟く男の前で、春香はかぷりと綿飴に齧り付いた。

 ふわりとしつつもペタリとした感触に、春香は唇を舌で一舐めする。

「うん、甘い」

 そんな春香を、醇乎(ますみ)はげんなりした様子で見遣り、お前さあとしみじみ呟いた。

「臆病で愚かなくせに、なんでそんなに強かなんだ」

 お前にして見れば、森に生ってる食い物なんか皆正体不明の物質だろうが。そう続けられ、春香はそうですねえと綿飴を堪能しつつ口を開いた。

「私にとっては、目に見えて、舌で感じた事が真実ですから。たま様も其れで良いと仰られましたし」

 潔さ、此処に極まれり。

 さっくり断じられ、醇乎(ますみ)は端正な目元に僅かな険を刷いた。

「見た儘の事が、お前の真実と一緒だと思うのかよ」

 珍しく、僅かな害意を含んだ声音に、春香はそうですねえと天井を目だけで見上げ、ちろりと視線を派手な顔に戻す。

「以前、調味料を交換している採集者の人達に、私が見ているモノと自分たちが見ているモノは形すら違うと云われた事があります」

 春香は見た。

 豪奢な美貌を。

「でも、今思えば、其れは観点の違いであって、多分、見ているモノは同じなんですよ。だって」

 西洲に此の人在りと謳われる有力者もまた、眼前の凡人を見遣る。

「たま様は、一度も違うと仰らなかったから」

 醇乎(ますみ)の目に映る凡庸な黒瞳は、あまりにもいつも通りで。

「どんな生き物かも解らない私を拾って下さったたま様の言葉以外に、真実があるとでも?」

 此れが、気合の入った相手を射竦めんばかりの視線で在ったり、大上段な態度で横柄に傲岸不遜に云い切れば胆の太い女だと醇乎(ますみ)は認識を改めるのだろうが、言い放った本人の様子と云えば、当たり前の事をなんで聞くんだ此の人、と云わんばかりの平常態だ。それ故に、醇乎(ますみ)は評価を下しきれない。

「……おっま……」

 此れは、盲信なのだろうか。

 醇乎(ますみ)は些か引きつりながら目の前の女の品定めを始めるが、彼の目に映るのは、あまりにも自然体な女が一人いるだけだった。

 異世界、と自ら呼称する此の世に、身一つで現れた女。それ故に恐怖に駆られて縋っているのかと醇乎(ますみ)は思っていたがそうではないらしいと北とのやり取りを見て醇乎(ますみ)は判じる。

「お前がどんぐり飴っつってる其れな。力の塊だぜ」

 だが、其れにしては中の奥の云う事を、無条件に信じすぎている。醇乎(ますみ)は訝しさを明確な不審に変え、派手に一石投げ入れた。

「お前が喰ってる色の其れは、熱と光の複合体……焔の力を、保有してるんだぜ?」

 此の女は今迄食材の詳しい説明を受けていなかった、と、中とのやり取りで判じた醇乎(ますみ)は、半ば強制的に春香が口にしている物の正体を晒す。

 さあ、どう出る?

 醇乎(ますみ)の強い視線に春香は嫌そうな表情を浮かべ、手の中の綿飴を眇め見……はむり、と一口食んだ。


 一口、食んだ。


「っまえ!?」

 焔と云う力の塊なのだと、明確に告げられた後の行動としては常識を逸脱している春香の行動に瞠目する醇乎(ますみ)へ、春香は嫌ですねえと心底嫌そうに溜息を吐いて、口の端についた綿飴の一部をぺろりと舐めとった。

「私が住んでいた場所では、綿から爆薬が作れるんですよ。あと、尿を土にかけて、ずっと寝かしておくと火薬の元が取れたり」

 ご存じない言葉かもしれませんが、と春香は醇乎(ますみ)に呟き、嫌そうに派手な顔へ半眼を向ける。

「でも、知って居てもやりたいことではありませんよね。其れに、爆弾の元になる、って、自分を殺す事の出来る物質に変化する可能性があるからって、御布団で寝るのを止める事は無いし、公衆トイレの周囲を地雷原に匹敵する様な危険地帯認識する訳じゃあないでしょう?」

 ご存じない言葉かもしれませんが、と重ねて言い置き、春香ははむりと綿菓子に喰い付いて見せた。

「結局、そう云う事なんですよ。貴方方は、私が食べ物と認識する物の真の価値、と云うか、此方での使用法を知っているから私の行動に一々そう云う反応しますけど、たま様は『其れはこう云う存在(もの)である』って単に一物質として認識してらっしゃるから、私と一緒に召し上がられますし、私に一々個々の物質についての勉強もさせなかったんだと思うんです」

 ですからね、と春香は肩を竦めて見せる。

「貴方が、どんなに言葉を尽して私がやっている事の異常さを知らしめようとしても無駄です。だって、貴方方と出会う前に、私はたま様とご一緒させて戴いて、『此の世界において、私は私の目と耳と舌を信じても良い』と学んだんですから」

 つまるところ、と春香は綿菓子を軽く振りながら言葉を継いだ。

「力の塊、と云っても、力が在る方が何らかの事をしない限り、此れは唯の飴なんですよ」

 御理解戴けましたか。と告げる春香へ、醇乎(ますみ)は茫然と立ち尽くし、立ち尽くし、引きつった笑いを派手だが端正な貌に浮かべ、顔を伏せ―――――――盛大に、笑った。

 哄笑に春香はうるさいと小さく呟きつつ、そっと其の身を几帳へと預ける。

 万が一眼前の男が危害を加えようとしても、几帳に密着していれば春香の身は安全な筈だ。

 だが、男はひとしきり笑うと自身の髪の乱れを直す様に長い指で梳き、派手な容貌に相応しい大仰な仕草で腕を広げて見せる。

「凄えな、お前! 凄えよ! 其処迄冷徹に開き直れりゃ大したもんだぜ!」

 見事だよ、見事。と云いながらぱんと手を叩き、お前は本当に面白いと笑った。

「お前の体に害があるとは考えねえんだな?」

「……『此の世』の食事を摂る事の方が、怖いですよ」

 春香の言葉に、醇乎(ますみ)は上等と笑う。

 良く解っているじゃねえかと、笑う。

「竜女共は俺が話しつけといてやるよ。西の棟梁がお前に、安全を確約しよう」

 威風堂々と言い放ち、醇乎(ますみ)は四阿を去った。

 突然の爆笑と、突然の宣誓に、春香はきょとんと其の後ろ姿を見送るしかない。

 扉が閉まり、静寂が満ち。

 一人きりとなって随分経った後、春香はポツリと呟いた。

「……威厳、あったんだ……」

 此の場に醇乎(ますみ)が居れば、目を剥いて怒鳴っただろうが、呟きは春香の純粋な驚きを酷く端的に率直に表したモノ。

 静寂が戻った部屋にぼおっと座り、外を見遣る。

 青空が綺麗だ。

 日の光も、暖かだ。

 何とは無しに腰を上げ、春香は縁台の際に腰を下ろした。

 思えば遠くに来たもんだ。

 つらつら思うに、と春香は縁側で小川のせせらぎを聞きながら心中で呟いた。


 最初は、恩恵(たまふ)の庇護の元、無菌室の様な状態で暮らし。

 ―――――――思えば、此処で拒絶されなかったから、森での生活が成り立つ様になったんだよね……

 春香は当時を思い出してしみじみする。此の時点で、出した食事に対して今の醇乎(ますみ)の様にギャーギャー云われたり、可愛いとは云え眺望(みはる)の様に好奇心に満ちた目で見られていれば、幾ら割り切りの良い事に定評のある春香でも、生活に困窮していただろう。


 次に、恩恵(たまふ)の伴侶から、殺気混りながらも知識の教授を受け。

 ―――――――本は、有り難かったもの。

 本はな、本は。心中で何処か諦めた声音を溢し、春香はちょっと遠くを見つめた。蔵一杯の書物は春香の知的好奇心を鷲掴みし続けているが、敷地内にちらほら見える他の蔵の中身は、正直何処か恐ろしくて、春香は瑠璃の一対にすら聞く事が出来ていなかった。


 其の生活に慣れた頃合いに、黒船来襲。

 ―――――――どんなに綺麗な女性でも、言葉が通じない輩は嫌い。

 二度と来るなと春香は心底念ずる。春香の人生で、無理強いされる恐怖は余り縁が無かった事もあってか、あの竜女との出会いは心底最低のものだった。


 其の騒動の傷跡が消えかけたと思ったら、ド派手な美丈夫が押しかけて。

 ―――――――本当に、トラブルメイカーだよねえ……。

 ついさっき見送った背中を思い出し、春香はふむと考え込む。

 過日は竜女との取次はしないと云い、今日はとうとう春香の保護を明言した、西洲の有力者。

 お気楽に珍獣見学に来ていただけではなく春香(じぶん)と云う存在の見極めに来ていたのかと一寸感心しつつも、常日頃は全く感じられなかった威厳と云う存在(もの)を垣間見せられた時、思わず笑ってしまいそうになったのは秘密だ。


 ―――――――……うん。

 縁側に腰掛け、足をぶらぶらとさせた春香は小さく哂って些か離れた位置に在る清流を見た。

 水の煌めきの向こうには、目に優しい新緑の青。

 此の世界に落ちて相当経っているだろうに、春香の目は、いつもと全く変わらない森の姿を映していた。

 森は、常に、若々しさと瑞々しさに満ちている。

 此の世界に四季は無いのかと思う程、気候も安定していた。

 ……つまるところ。

 春香は小さく吐息する。

 時間の経過が、掴み難い。

 日記すら儘ならない春香がカレンダーなぞ作る訳も無く、ただただ日々を漫然と過ごし続けた今、最早日付の概念は曖昧極まりない物と化している。

 自分の思考も、随分変遷したと小さな笑みを零しながら、春香は傍らに置いていた本を手に取った。

 中に書かれている、己が故郷の料理の数々。

 此れがどのような役割をするのか……春香は考えかけたが、詮無い事と肩を竦めて其の考えを放棄する。

 眺望(みはる)に渡した綿飴は好評だった様子で、あの後森を散策中に出会った眺望(みはる)がきらきらした瞳で嬉しそうに礼を云っていた。手放しで嬉しさを表す様は何とも愛らしく、又森の竜女の料理が見たいと云われれば春香に選択肢などあろう筈も無く、良いよと端的に返すしかない。

 風が吹き過ぎる。

 春香の頬を撫でる。

「さて……」

 軽く目を伏せ、春香は澄んだ青空を仰いだ。

「次は、何を作ろうかな」

 呟きに応じる様に、風に繰られた本がぱらりと音を立てたのだった。




 良く晴れた空には、鋸挽きの音が良く似合う。

「いや、似合わねえだろ」

 派手派手しい美丈夫の呆れを綺麗に無視して、春香は機嫌よく鋸を挽いていた。

 ぎーこぎーこと小気味良く響く音に、眺望(みはる)は目をキラキラさせている。

 二名は貴種らしく、土に足を置かずに縁台の上で其の様子を見ていた。……尤も、見学の風情は決して貴種らしいとは云えないが。

 一方は、派手派手しくも誂の良い長衣を縁台に広げ平安の姫君の風情を醸しつつも、どっかりと腰を据えて長い脚を前に放り投げる様にして寛ぎ。

 一方は、腹這いに寝そべって折り曲げた腕を縁台の際ぎりぎりに置き、其の上に愛らしい顔をしっかりと据えている。

 春香は己の住処である四阿の庭に作業台と拾って乾かしておいた太い枝を用意し、迷い込んだ時に持ち合わせていた道具を引っ張り出して日曜大工に勤しんでいた。

 久々のDIYだなあ。

 散歩をしていて、見つけてしまったあるモノ。

 其れを見て、どうしても此れは定番の器に入れたいと思ってしまったのが全ての始まりだった。

 イメージ通りの器は手持ちにはなかった。無いなら作ればいい、と安易に考え付く程度には、春香の工作好きは実力を伴っており、簡易工作道具ならば持ち歩く程度には手作り大好き人間でもあった。……其の手作り大好き、の方向性が料理に向かなかったのが、春香の春香たる所以だろう。

 木屑がついても直ぐに払える様に大きめの巻頭衣を普段着の上から着て、春香は材料作りに精を出しているのだった。

 此の二人が来てから、本当にたま様はいらっしゃらなくなったなあ、とちらりと流した視線の先を見て留め、春香は鋸の音を聞きながら思う。

 尤も、道理ではあるのだと春香は明確に理解していた。春香でさえ晒すのを嫌がるあの伴侶様が、貴種であろうと己以外の男が存在する空間に如何してたま様を送ろうか、と。

 まあ、仕方ない事かな。

 ごとりと落ちた木片を見つめ、春香は小さく息を吐いた。

 木片と木屑を丁寧に選り分け、春香は其々を籠と箱に収める。因みに、此の箱と籠も春香の御手製だ。

 箱には、木屑を。

 籠には、切り分けた木を。

 金尺できっちり測った通りに切り分けられた木は、二組の長さの違う長方形の木片と二本の細い四角柱になっていた。

 木片に、今度はノミと金槌で接ぎの細工を施していく。少々小ぶりながらも手に馴染む其れ等の道具は、随分長い間春香と歩みを共にしてきた仲間だった。

 道具類の使い込み具合を見て訝しげにした醇乎(ますみ)へ、此方に迷い込んだ時に持ち込んだ物だと春香が告げると、豪奢で派手な美貌は更に訝しげな表情を深める。

「普通の女なら化粧道具の一式も持ち歩くものじゃねえの? なんでお前、そんなもん持ち歩いてんだよ」

「趣味です」

 きっぱり。

 小気味良い潔さで言い放ち、春香は日差しの下で黙々と作業を続けていた。

「此の趣味の御蔭で私の生活は成り立ってるんです。放っといて下さい」

 長々と居続けていく以上、恩恵(たまふ)に無心ばかりしていられないと、春香は此の四阿を貰った後に細々した物を作った物だった。

 服を縫い、器を焼き、道具を作り。

 ああ、本当に迷い込んだのが(ここ)で良かったと、春香はしみじみと心中で呟く。

「変な奴」

 ははーんと呆れた様に云い放ち、醇乎(ますみ)は無造作に足を組んだ。何気ないそんな動作も実に派手派手しく……麗しい。

 ああ、嫌な物見た。

 内心でげっそりする春香の表情を的確に読み取り、醇乎(ますみ)はひくりと頬をひきつらせた。

「マジ、ぶっ殺す」

「させぬわ」

 軽い声音で眺望(みはる)が呟きを叩きつけ、きらきらした瞳で今度は彫刻刀を取り出して穴を穿ち始めた春香の手元を凝視する。

「そんなに珍しい?」

 わくわくとした様子に春香が些か不審げに問えば、眺望(みはる)は愛らしい顔を破顔させ、勿論だと頷いた。

「此のような手間、見た事が無い! 真、森の竜女は多芸だのう!」

 其の笑顔は混ざり物等一切感じられない、あくまで純粋な、凝縮された見事な迄に無垢な笑顔。

 ああ、可愛い。

 己の手の安全保護の為一旦手を止め、春香は其の笑顔を心行くまで堪能する。勿論、堪能、と云っても何分も手を止めている訳では無い。目に留め網膜に焼き付けるのに、そんなに時間はいらないだろう。

 最新癒し画像を心のフォルダにきっちり収め、春香は手元に目を落とした。

「幾ら偉い人でも、こう云う作業位見るでしょうに」

「そうかあ?」

 春香の言葉に、今度は醇乎(ますみ)も疑問の声を上げる。

「お前みたいな細工作る奴、少なくとも西洲じゃあ見た事ねえよ」

 くつくつと笑う派手だが整った顔が浮かべる少しだけ意地悪げな表情に、春香は目もくれずにそうなんですかと呟いて、ふっと吐息で木屑を払った。

 こんこん、と軽く木片を叩いて音を聞き、歪な音がしない事を確認すると、春香は其々の木片を噛ませて木肌を痛めないように慎重に金槌で叩いて嵌め込ませていく。

 きちんと四隅が嵌め込まれたことを確認して、春香は丁寧に丁寧に表面を何種類かの紙やすりで均し、乾いた布巾で丁寧に表面を拭った後、固く絞った布巾を用意して丁寧に丁寧に箱の表面全てを拭いた。

 出来上がったのは、底の浅い、長方形の白木の枠だった。

 枠の中には縦の方向に細い棒が挿してあり、其れがまるで梁のようにも見えた。

 一連の作業を終え、春香は満足げに笑うと其の箱を用意してあった綺麗な布を敷いた台の上に置き、日干しした。

 目の粗さで分けられ大事に保管されていく木屑を見て、眺望(みはる)はきょとんと首を傾げる。

「森の竜女」

「何?」

 箱を拭った濡布巾で手を拭いながら春香が問うと、眺望(みはる)がきらきらした目で見上げて訊いた。

「何を作る?」

 端的な問いに響くのは期待。

 面白そうだと全身で叫んでいる小さな影へ、春香はにっこりと笑って見せた。

「お蕎麦はやっぱり、せいろで食べたいじゃない?」

 蕎麦、と云う言葉にきょとんとする二名の視線を受けつつ春香は嬉しそうにうふふと声を上げて笑うと、作業台の傍らに置かれていた物を取り上げた。

 現れたのは、長さも太さも春香の二の腕程の切り出された枝。

「散歩していたら此の枝が落ちていたの」

 (たきぎ)にしようかと思ってね、と云いながら、春香は其の木をゆらゆら揺らす。

「で、丁度良い大きさに左右を落としたら、切り口がちょっと変わってるなって気が付いて」

 木肌は薄い茶色だが其の切り口は樹皮に比べて白く、滑らかに見えて其の実うっすらと蜂の巣を思わせる線が入っていたのだと春香は云う。……まるで、細い物が圧縮して集められたかの様に。

「もしかしたら、此れって乾麺かなと思ったの」

 乾麺、と云う言葉に僅かに引きつる醇乎(ますみ)を意識的に無視して、春香は心中で言葉をつけたす。

 此の樹皮の色、此の切り口の色。……此れって、お蕎麦を思わせるんだよね。

 関東人らしく、春香は蕎麦を好んだ。此方に来て、生麺の群生を探してみたりもしたが見つからず、半ば諦めていたところで、此の木に出会ったのだ。

 呆れ交じりの嫌そうな表情を浮かべる醇乎(ますみ)と目を輝かせた眺望(みはる)の様子を気にする事無く、さり気に上機嫌な春香は木を台の上に置くと手にした小刀をぐっと切り口の角に当て、木肌を割く様にすーっと小刀を真っ直ぐに下ろした。

 何の苦も無く滑り落ちる刃は、難なく端から端まで到達し、春香は小刀を終うと無造作に木を掴み、切れ込み・・・・・・と云うより、樹皮と木の間に両の親指を差し入れる。ぐっぐっと皮を浮かせるように力を込めて上から下まで指を滑らせると、春香は指を抜いて木を持ち直した。ふむふむ、と云う呟きが聞こえてきそうな様相で見つめる眺望(みはる)と心底嫌そうな表情を浮かべる醇乎(ますみ)の目の前で、春香はまるで葱の表皮を剥ぐようにくるんと木から樹皮を剥ぎ取る。

「おお」

 目を輝かせて眺望(みはる)が声を上げる。

 だがしかし。

 春香は薄茶色の皮の下から現れた……切り口とは色味の違うやけにつやつやした黄色の木肌に訝しげに眉を寄せた。

 更科だとかそう云う次元ではなく、明らかに、蕎麦の色ではない。

 まあいいか、と軽く現実から目を背け、やや形が弛んだものの未だ木を覆っていた儘の形をとる樹皮を作業台に置くと、春香は事前に敷いて置いた綺麗な布の上に中身の木を立てる。

 輪を描いた両手で緩く木を掴み、軽く上へ持ち上げた。そしてそっと落とせば、とん、と云う小さな音と共に木は自然と縦に割け、何本かの木片に分かれる。

 其れを何度か繰り返すと、手の中の木はどんどんばらけていき、太さもどんどん細くなっていく。

 ほほう、と興味深々な眺望(みはる)の呟きを受け、春香は手の中に現れ出でた其れを丁寧に掴み上げ、貴人達へ視線を向けて笑った。


「ほら、スパゲティ」

「さっき云ってた名前と違うんじゃねえか」


 冷静極まりない醇乎(ますみ)の突っ込みに、春香はしょうがないじゃないですかと肩を竦める。

「今日初挑戦だったんですよ。失敗は成功の元です」

「初めての試みをあれだけ自信満々にやって見せるっつのも大概な面の皮だな? オイ」

 意地悪げな笑い顔を作る端整な顔を嫌そうに眇め見て、春香は手にしていた乾麺の束を先程の布の上に置いて、傍に在った濡布巾で丁寧に手を拭った。巻頭衣ををばさりと脱ぎ、作業台の上に無造作に置くと、推定スパゲッティの乾麺を布ごと手に取り、濡れ縁へゆっくりと歩み寄る。

 春香の動きに呼応する様に立ち上がった眺望(みはる)は、縁台に上がった春香の傍に寄ると、楽しげに其の手の中を見た。

「森の竜女。其れを如何する」

 其れ、と云われた乾麺に目を落とし、春香はそうねえと呟いた。

「ちょうどいいし、ご飯にして食べようかな」

 食べる? と春香が聞くと、眺望(みはる)は笑顔で首を振りながらも「其れが欲しい」と無邪気に無心する。

「此のまま?」

 いつもは手を加えた者を欲しがるのにと春香が驚けば、眺望(みはる)は勿論其方も欲しいと笑った。

「森の竜女。其れは幾分か残しておくが良かろ。其の方が、(あやつ)の興ものろう」

 大きな瞳に宿る悪戯な光を認めつつ、春香はそうねと頷いた。

 元より、両手が少し余る程度のスパゲティの束を、一度で食べきれる自信は春香には無い。

「もしかして、此れ、希少?」

 春香が問えば、僅かに離れた処に立っていた醇乎(ますみ)が吐き捨てる様に当たり前だと告げる。

 物知らずがと続ける醇乎(ますみ)の首元にひやりとした視線を投げ、眺望(みはる)は小さな笑みを口元に閃かせた。

「此方の学なぞ、森の竜女に必要は無い」

 声音は高く、愛らしい響きと大人の男になりかけの凛々しさを内包した不可思議な響きが魅惑的だが、其れを投げかけられた男には全く作用しない様で端正な片頬を引き攣らせ、呆れ返った様にお前もかよと呻く。

内洲(こっち)の奴等は救いようがねえ……」

 嘲る様に諦観の声音を吐く年嵩の男へ、眺望(みはる)は閃かせていた笑みを再び己が(かんばせ)に引き戻し薄ら寒い酷薄さで彩る。

 すぐ傍で展開され始めた諍いからそっと其の身を離し、春香はさっさと厨房へ向かった。

 スパゲティはとりあえず、蕎麦を入れる筈だった手製のせいろに撒き簾を敷いた其処に置き、大きな鍋を物色する。

 大鍋は手に馴染む金属の質感だが、瑠璃一色の其れを手触り通りの物であると、今の春香は思いもしない。

 水を柄杓で鍋に掬い入れ、たっぷりの水で満たした後に火にかける。

 いつでも使える七輪風コンロは、不可思議な赤い色を放って鍋の底を熱し始めた。

 蓋をして暫く待つかと振り返れば、麗しい影が二つ、楽しげに嫌そうにじっと此方を見つめている事に気が付く。

 うきうき、と云う擬音が似合いそうな愛らしい小柄な姿はまだしも、と、春香は溜息を吐く。

「なんで嫌なのに見に来るんですか」

「俺も欲しいからに決まってんじゃねえか」

 云い放って、醇乎(ますみ)はちらと窓の外に目をやり、笑う。

「妨害は、もう無ぇしな」

 其のいじめっ子気質な笑みに、春香はああはいはいと適当な言葉を返して、とりあえず座って下さいと厨房との境である三和土に敷く物を探しに部屋に上がった。

「……お前、狼狽えろよ」

「嫌ですよ、面倒くさい」

 余りにも簡単に容認した春香の態度に不平不満を盛大に向けた醇乎(ますみ)へ、春香は手にした座布団を差し出しながら云う。

「水龍が助けに来ないなら、其れは私に害がないからでしょう。何で狼狽えなくちゃいけないんですか」

 莫迦莫迦しいと言外に現し、春香は殊更丁寧に眺望(みはる)へ座布団を敷いてやった。

 明らかな差別に、醇乎(ますみ)の顔が引きつる。

「其のガキをあてにしてんだったら意味ねえぞ」

 はあ? と春香は今度こそ呆れ返った口調で莫迦莫迦しいと云い放つ。

 熱立つ醇乎(ますみ)に宜しいですかと意外と強い口調と態度で接し、春香は声高に堂々と云い切った。

「煩い年寄りと可愛い若人、どちらに分があるかなんて解りきった事でしょうが!」

 反論あるか!と態度で叫ぶ春香へ、一瞬黙した後、醇乎(ますみ)は憮然としつつも静かに座布団の上に座り込んだ。

 己が身上と相談した結果、己が内部は春香の言に全体的に賛成であったらしい。

 勝利に笑みを浮かべ厨房へ降りる春香の背を、眺望(みはる)は楽しげに見遣って、くつりと喉を鳴らした。

 ああ、本当に面白い。

 眺望(みはる)は心の内で楽しげに愉しげに呟き笑う。

 西洲の棟梁を自称する男は、確か酷く高齢だった筈だ。其れこそ、矜持の高い眺望(みはる)が赤子扱いを仕方が無いと寛容できる程に、長い年月生きているのだ。

 しかも、西洲は激戦区。

 醇乎(ますみ)領地(くに)の周りには、海千山千と云う言葉が生易しく感じられる稀代の実力者達が鎬を削って存在している。

 そんな地に在って、己を一段上に据えて称する男がこんなにも稚気に溢れた振舞いを見せる事が、眺望(みはる)にとっては何とも云えず面白い。

 此れ程の興が未だあるかと、眺望(みはる)は笑みを隠さずに此の場に在った。

 そんな眺望(みはる)の前で、醇乎(ますみ)は又、更なる声を上げて春香の神経を逆なでしている。

 切っ掛けは、大匙に山盛りの塩をぐらぐら煮立った湯の中に投入した事だった。

「此の常識無がああああ!!!」

 怯えきった、と云って良い程顔色を無くした端整な顔が喚き散らす其の大声に流石の春香も堪忍袋の緒が切れたのだ。

「何何ですか一体!!! 一々一々大騒ぎをして!!! 私の家ではこれが普通なんです! たま様は当然ですけれど、百科だって専科だって唯の一度もそんな声を上げた事ありませんよ!?」

「てめえが常識知らずだからだろうがよ!!! 何考えてやがんだ一体!!!」

「放っといて下さい!!! 此の世界の常識に興味なんて一っ欠片だって無いんですから!!!」

 何時になく強気に云い放った春香だが、其れにはきちんと考えがあった。

 此の派手な男は貴種で……支配者層にある事は間違いないが、如何やら商売で富を成しているらしい。

 言葉の端々から其れを感じた春香は、更に其の相手を彼等が竜女と呼ぶ異国の存在であろうと断じていた。

 元より、此の男は竜女の願いで春香を連れ去りに来たと明言していたのだ。

 だから、春香は此の男と屋外で……否、几帳から離れた場所で会う事を忌避した。几帳が傍に在れば、恩恵(たまふ)の庇護を受けられる可能性は高い。だがしかし、命綱である几帳から離れれば、正直春香は己の身の安全に対して砂粒程の安心感も持てなかった。

 其の現状が一転したのが、先日の事。

 此の派手な男は、春香の身の安全を明言した。

 己の商売相手である竜女すらも抑えてやると。

 安易にそんな言葉を信じて良いのかと第三者が此れを聴けば笑いそうだが、春香は信じた。

 此の世界の人間は、言葉を軽々しく扱わない。其れが、今迄の……長い、とは言えないが決して短くない此の世界の生活で学んだ事の一つだった。

 故に、春香は綺羅綺羅しく派手やかな此の男を信じ、今日の様に外の作業を男の前でもする様になったし―――――――命の危険は無くなったと断じたからこそ、今まで我慢していた分も声を張り上げたのだ。


「じゃあお前は! 地形が変わる程の力を有した危険物やら蘇生を行う事も容易な力を持った触媒を軽々しく扱うどころか何の危険も感じねえで其れを体内に取り込む奴を見たら声を上げねえのかよ!!!」


「上げるに決まってるじゃありませんか!!!!!!! でも其れと此れとは別です!!!!!!!!!!」


 声も枯れよとがなり合う二つの影を見て、眺望(みはる)はああ楽しいと呟き、良い事を思いついたと愉しげな光を瞳に宿す。

 怒声を叩きつけ合い剣呑な視線で見つめ合う……基、睨み会う其の姿に、眺望(みはる)は殊更つまらなそうに少し拗ねた響きを声に宿らせて呟いてやった。

「……愉しそうだの……」

「愉しくねえよ!!!!」

「小さい子相手に何声荒げてんですか!!!」

 ばっと春香は小さな影を背に庇うと、かなり上に在る端整な顔を睨めつける。

 不機嫌極まりないと大々的に云い放つ端正な顔立ちは、派手派手しいだけに異様な迫力があったが、春香は一歩も引かずに其の顔を睨みつけた。

 やはり、楽しい。

 眺望(みはる)は大きな瞳を軽く笑みに歪ませると、森の竜女、と声をかけた。

「鍋は、良いのか」

「あああああ!!! 大変!!!」

 其れ迄の経緯を全て忘れた様に声を上げ、春香は慌てて鍋の傍に駆け寄った。

 其の背を楽しげに見遣り、眺望(みはる)は傍らに立つ西洲の棟梁をちらりと見遣る。

「西洲の棟梁は、過保護だのう」

 男にしか聞こえないであろう力の込められた声音にぎろりと射殺しそうな視線を落とし、醇乎(ますみ)は忌々しげに頬を歪めた。

「あいつの生きた世では、あんな物が普通か」

 醇乎(ますみ)の目には、春香の行為は奇異にしか映らない。否、奇異どころか、想像もつかなかった暴挙だ。

 水は強い力そのもの。……何しろ、集まれば西洲に覇を唱える男すら呑み込み流してしまうのだ。並大抵の力ではない。――――――――――――――其の、力の塊を。己の生地は異界であると明言した女は、熱と云う更なる力を加え、其れを融合させるべく塩まで用いた。

 あの鍋の中で、どれだけの力が渦巻いているのかと、考えるだに恐ろしいと云うのに……無知な女は、其処に更なる存在(もの)を入れようとしている。

 否。

 今、入れた。

「アルデンテって難しいよね……」

 独り言をぶつぶつ云いながら鍋を掻き回す春香を何とも言えない目で見ながら、醇乎(ますみ)は嫌そうに瞬きした。

 密集した睫毛の所為で、ばさりばさりと音がしそうな其の様子を眇め見て笑い、眺望(みはる)は「真、過保護」と小さく呟く。

 其の声にむっとして見せ、醇乎(ますみ)は獰猛な笑みを口元に刷いた。

「お前等の方が過保護だろうが。何も知らせず真綿に包みやがって」

「さて? 何ぞあろうか」

 くつり、と笑う声音は紛う事無く年経た者の声。

 愛らしい姿の小さい影は、大きな瞳に楽しさを滲ませ、無邪気に無邪気に笑って見せる。

「中のも、己も、森の竜女が面白いのだ。故に、傍に在ろうとする。ただ、其れだけの事よの」

 闇夜を思わせる瞳は子供の愛らしさだが、色の無い瞳は、異質な輝きで醇乎(ますみ)を映した。

「古来より異界から迷い込む者は在ったが、其のどれもが瞬きする間も無く尽く果てた。ある者は目を潰し、ある者は物狂いとなって。―――――――森の竜女に、其れは相応しくは無い」

「……北では、あれの様な奴が多いのか」

 探る様な響きに、眺望(みはる)は小さく首を傾げる。

「多くは無いな。気の遠くなる年月の内、一つ二つと沸く様な存在(もの)よ」

 己の代では初めてだし、己の父の代でも無かった筈だと告げ、眺望(みはる)はだからと笑った。

「はわ様が、殊の外興味を示しておいでだ。そして、稀有な存在(もの)よと気に入っておいでだ」

 故に、己は森の竜女を大切にするのだ。

 そう呟き、眺望(みはる)はちろりと上目遣いで醇乎(ますみ)の顔を覗き込む。

「西洲の棟梁は勇猛果敢にして智慧者ではあるが、情動激しく短慮に過ぎる。……と、聞き及んでいたが、存外物を複雑に捉える御仁の様だ」

 揶揄の響き有する其の言葉に、醇乎(ますみ)は思い切り眉を顰めると鼻の上に皴を寄せて害意に満ちた笑みを作った。

「……お前こそ、存外頭が回るじゃねえか。北のガキは、意気軒昂にして万事果断であるが、苛烈に過ぎて忠を失いつつある……と、聞いてたぜ」

「……ほう……」

 暗い殺意と激しい怒気が、視線と云う媒介の身で交差した刹那。


「相変わらず、頭が悪いね」


 はんなりとした男声に、二対の視線が其方を射抜く。

 瞬時に向けられた視線の先で、品の良い拵えの黒衣を纏った男が、白い面に柔らかな笑みを浮かべていた。

 不意に生じた其の声に慌てて振り向いた春香が、物腰柔らかな其の男を目に留め、電光石火で頭を下げる。

「い、いらっしゃいませ! たま様の旦那様!!!」

 春香ががくがくと震えているのを見止めた潔斎(いつき)はいいよとはんなり呟いた。

「ボクより、鍋を如何にかした方が良いんじゃないかな」

 其の言葉に、春香はがくがくと頷くと、ぎくしゃくしながらも素早く鍋に向き直り、茹でている乾麺の様子を見始める。明らかに緊張している其の動作にくすりと笑みを零し、潔斎(いつき)はさてと同朋である男達に向き直った。

「それじゃあ、ボク達は中で待っていようか」

 春の陽射しの様な口調にある、拒絶を許さない其の声音に、男達はやぶへびだとそれぞれの胸の内で呟きつつ、几帳の向こうにある部屋へと歩みを進めるのだった。


 食事をしている間、申し訳ありませんが此方でゆっくりなさって居て下さい。


 厨房で一通りの作業を終わらせた春香は、電光石火の素早さで恩恵(たまふ)を招き入れた際の設えを上座に施し……序でに眺望(みはる)醇乎(ますみ)にも同じ様に席を設えると、潔斎(いつき)に深々と頭を下げた。

 席は、正三角形を描く様に配されており、潔斎(いつき)は何時もの場所、眺望(みはる)は几帳の傍、醇乎(ますみ)は庭を背に背負っている。

 午後の陽射しが部屋に差し込み、なんとも心地よい。

 そんな中で恐縮する春香へいいよと鷹揚に頷いて、潔斎(いつき)は柔らかな声をかける。

「此方に用事があっただけだからね。ゆっくりすると良いよ」

 此方、と示されたのは先に此の四阿にやってきていた男達。

 春香は心配げに眺望(みはる)を見遣るが、はいと小さく頷いて几帳の向こうに姿を消した。

「―――――――さて」

 潔斎(いつき)は品の良い端正な美貌にはんなりとした笑みを浮かべ、大きな影と小さな影を見遣る。

「何でボクの桔梗が作り出した物にお前等が入り浸っているのか、聞かせて貰おうかな?」

 ふふふふふ、と小さく漏れ出る笑い声は、品が良いだけに恐ろしい。

 だが、慣れた様子で眺望(みはる)は森の竜女と遊ぶからだと事も無げに云い放つ。

「大体、書状は出したであろ。今更何をごねる」

 ははーん、と云う擬音を背に負って呆れ混りに云い放たれた言葉に、潔斎(いつき)は困った様に笑った。

「北のは、本当に変わらないなあ……いい加減落ち着けば良いのにねえ?」

「十分落ち着いておるわ。己は北の棟梁ぞ!」

 えへん、と胸を張る眺望(みはる)へ、潔斎(いつき)ははいはいと苦笑して頷いてやる。

 勘違いされやすいのだが、潔斎(いつき)は有能にして優秀な男なのだ。性格とて、悪くない。やんごとない流れを其の身に宿す名家の当主であり、整った美しい顔立ちと穏やかな為人は最も力を有すると目される有力者の歓心を買ってさえいる。故に、激戦区である中に在って、他の有力者を押しのけ、中の、と称されるのだ。

 但し。

 其れも、傍に奥方がいない、若しくは、奥方が関わっていない事が前提なのだが。

 今現在。恩恵(たまふ)は屋敷の奥深くでのんびりと静寂を楽しんでおり、其の身の安全も場所も、潔斎(いつき)は完全に把握していた。

 故に、此の場に居る潔斎(いつき)は、いつもの何処か狂気染みた残念なイケメン等では無く、とんでもなくハイスペックで有能極まりない素敵イケメンさんなのである。

 ゆったりと優雅に座し、脇息に肘を置く潔斎(いつき)は、何気ない動作で小さく両の指先を合わせた。其れを合図にふわりと広がった(くれない)色の光が土間と部屋の間に淡い壁を成して消える。

「あいつに聞かれたくないのかよ?」

 からかう様に意地悪く笑う醇乎(ますみ)へ、潔斎(いつき)は小さく頤を引いてみせた。

「此方へ来た理由はね。最近、桔梗がつまらなそうだったから、業腹だけどお前等を追い出して此の家に遊びに来させようと思って来たんだよ。けれど……北の」

 ちらり、と流し見られ、眺望(みはる)はなんだと首を傾げる。

「さっき、面白い話をしていたね?」

「面白い話?」

 訝しげに呟いた後、眺望(みはる)は思い当たったと云う様に軽く目を見開き、次いでにやりと笑った。

「迷いの事か」

 云って、眺望(みはる)潔斎(いつき)醇乎(ますみ)を見遣る。

(うぬ)等は、迷いを聞いた事が無いのか」

「少なくとも、ボクは無いね。まあ……あの爺なら知っているかもだけれど?」

 爺、と云うのは、潔斎(いつき)が父親を指す時に云う言葉だ。此の名家の親子の不仲は有名だが、自身の親子仲が良好極まりない眺望(みはる)は、好ましくないとばかりに僅かに眉を寄せた。

「西洲でも聞かねえな。まあ、あいつの様子じゃあこっちに出た途端終わりかもしれねえが」

 目を引く動作で握った手を開き、獰猛な笑みを浮かべる男へ、潔斎(いつき)ははんなりと同意を示す。

「多分に、此方でもそうなると思うね。北は意外と生き残り易いのかな」

「好奇心旺盛な一族が多いのやもしれぬ」

 何でも無い事の様に云い、眺望(みはる)は其れでと潔斎(いつき)を促した。

「何が知りたい。己の知る限り、迷いはすぐに狂い死ぬだけの弱き存在(もの)ぞ」

「何故、死に至るのか知りたいんだよ」

 あれが死んだら、きっと桔梗は悲しむ。

 それが何より業腹だ。

 傲慢に云い放つ潔斎(いつき)を呆れた様に見遣り、眺望(みはる)はゆるりと足を崩して脇息に顎を乗せた。

 顎を脇息の上で交差させた腕の上に置き、殆ど伏臥した状態で視線だけ潔斎(いつき)に投げて見遣る。

「其々よ。生地(せいち)と違うと気づいて、狂う。周りが同じ見目形ばかりである事に不安になり、自損して果てる。……話に聞く限りでは、決して好ましくは思えぬ生き物であったわ」

「あれの事は気に入っているじゃないか」

 面白そうに呟いてやれば、相手は当たり前だと不機嫌に唸った。

「森の竜女は、賢い。賢き者は、好ましかろ」

「まあ……確かに」

 ふ、と潔斎(いつき)が笑みを見せる。

 と。

 がん、と音がして、派手派手しい男が肩にかかった髪を払いながら剣呑な視線を投げつけてきた。

「狂わねえように、お優しい奴等は真綿に包んでやったってのかよ?」

「あれは未知の存在(もの)だよ。ボクは狂うなんて知らなかったし、知らないものは対処できないよ。それに―――――――最初に真綿に包んだのは、桔梗だから。ボクは其れを尊重しただけだよ」

 だって、と潔斎(いつき)は酷薄な笑みを僅かに唇に刷いて続ける。

「あれの所作は、少しだけ綺麗だったからねえ。……ボクの桔梗に構ってもらうのが当たり前、なんて考える生き物だったら、即滅してやったんだけれど」

 ああ、残念。と心底からそう思っている声音で呟かれ、醇乎(ますみ)は軽く頬をひきつらせた。

 間違いなく、今此の瞬間の潔斎(いつき)は優しくない。

「……あいつは、此の森から出ない気だけどよ。其れは可能か? 中の」

 気を持ち直して醇乎(ますみ)が問う。

 潔斎(いつき)眺望(みはる)が訝しげに視線を返すのを受け、醇乎(ますみ)は軽く眉根を寄せた。

「お前らの上に居る奴は、有能な奴が大好きだろ」

 召されるんじゃねえのかと告げれば、潔斎(いつき)は軽く瞑目して息を吐く。

「……今は、未だ大丈夫だよ」

 何しろ、森の住人なのだ。いかな有力者と雖も、そう簡単に手は出せない。

 其れは、此の場に居る者の総意でもあり、希望でもあった。

 なんだかんだで、無知で無謀な迷子を、気に入っているのだ…………此の場にいる者達は。

 ついと潔斎(いつき)の指が空を滑ると、一瞬、土間と部屋の間に紅い光の壁が生じ――――音も無く爆ぜて、消えた。

 ごそり、と猫の様な仕草で起き上がり、眺望(みはる)は土間へを足を進める。

 何やら面白そうな匂いが漂ってきており、其れは眺望(みはる)がついぞ嗅いだ事の無い存在(もの)だった。

 今度は何をしたのだろう?

 眺望(みはる)はわくわくと春香の姿を探して几帳の向こうへ姿を消した。

 そして、其の後ろからゆったりと、長身の男達が追う様にして几帳の向こうへ姿を消す。

 三対の視線の先で、春香は厨房に立ったまま口内に先程の製作物を放り込んでいた。器用に小さな三叉を操り、長い其れを巻きつけて口に運ぶ様は酷く面白かったが、潔斎(いつき)は僅かに眉を寄せ、不快の表情を浮かべて一言呟いた。

「行儀が悪い」

 三人の登場に固まっていた春香が、其の呟きで瞬く間に顔色を無くし、小刻みに震え始める。

 怖い怖い怖い怖い怖い!

 期待に満ちた瞳と嫌そうな視線は通常運転過ぎて、今の春香にとっては此れ以上無い癒しだった。

 結局。

 西洲と北の有力者に取りなされ、潔斎(いつき)は今後そんな無様な格好で食事を摂らない事を春香に確約させ、其の矛先を収めた。

 後は、醇乎(ますみ)は相変わらずの派手なリアクションで嫌がり、眺望(みはる)はきらきらとした目で聞いてくる……と云ういつも通りの状況になり、又かと諦めの極致に陥りつつ春香が眺望(みはる)の言葉に応えていると、意外な事に潔斎(いつき)もまた興味深そうにその調理法を聞いてくる。正直に言えば、例の本に書いてあった『あさりの酒蒸し』の味を調整してスパゲティに絡めただけの代物なので、正直春香はこんな事を聞いてもなんの得にもならないだろうと内心戦々恐々としていたのだが、酒蒸しの説明に満足の呟きを漏らす大小の影と、嫌そうに眇め見る派手な影に、春香は密かに胸を撫で下ろした。

「本の通りに作るだけではないのだな」

 眺望(みはる)の言葉に、春香は小さく苦笑して頷く。

「まあ……多少のアレンジはね」

 其の言葉に、潔斎(いつき)はくつりと笑みを零し、楽しそうに眼を眇めた。

「随分と偉そうだね?」

「い!? いえ、あの!」

 びくうっと怯えだした春香の頭を、大きな手が掴む様に置かれ、わしわしと大きく動かされる。……どうやら、撫でられているらしい、と春香の理性が断じるが、感情は軽いパニック状態に陥っている。

 わたわた慌てる春香を一瞥して、派手な美貌が上品な美貌を睨めつけた。

「中の奴等の言葉は解り難いんだよ」

「……其れは困ったなあ」

 さして困っても居ない風情でくつくつと笑う潔斎(いつき)へ舌を出して嫌そうな表情を向けた醇乎(ますみ)は、漸く落ち着いてきた春香へ呆れた様な視線を落とす。

「お前も慌ててんじゃねえよ。今ならこいつは単なるいけ好かねえだけの優男だ」

「……すいませんでした」

 ぶち、と嫌そうに礼を云う春香へ、醇乎(ますみ)はにまあと口の端を上げた。

「おう、盛大に感謝しやがれ」

 後で必ず回収しに行くからな。

 そう云って笑う派手な貌に、春香はひくりと引きつった笑みを返す。

 うわあ、商売人に借り作った事になるの私。

 心の底から失敗したと悔恨の呟きを心中で漏らす春香の視界一杯に、愛らしい顔が広がったのは其の刹那。

「森の竜女」

「はい!?」

 驚く春香を映した二色の大きな瞳が、楽しげに笑みに歪んだ。

「此れを少量で良い、はわ様の土産としたい」

 いつもの様にいつもの様に。

 小さな影の言葉にじゃあ俺もと上がる声すら何時もの通り。

 なんだか慣れ親しんでしまった状況に、春香は知らず笑って、頷いていた。















 ねえねえ、聞いて?

 聞いてくれる?


 にこやかに囁くのは白皙の美貌。

 真黒な髪に、白い肌。赤い唇、紅色の頬。


 ねえねえ、聴いて?

 聴いてくれる?


 細面の其れに配された切れ長の目。筆で描いた様に通った鼻筋。

 凹凸の無い滑らかな輪郭は、頬骨も目立たずなだらかな曲線を描いている。


 ねえねえ、利いて?

 利いてくれる?


 声音は、やや高め。

 密やかな声も大きな声も、どちらも同じように遠くまで響き渡る。


 にこり、と上機嫌に笑うのは、痩躯の男。

 中に程近い場所に小さいながらも己が所領(くに)を持つ此の一族は、先代迄は其の国土を周囲の武辺者の爪牙から守りつつじわりじわりと攻めたてていた、有力者としては些か小ぶりの感がある……だが、きっての戦上手だった。

 機嫌良く笑う顔はまるで天女。

 男でありながら……決して女顔ではないのだが、一瞬、上臈(おんな)と見紛う美しさを感じさせる此の男の代に変わり、此の家は、天地(あめつち)に名を馳せる稀代の有力者と成り得た。

 闇夜よりも黒い髪を其の貌に実に似合う独特の形に結い上げ、余した髪先はさらりと流す。簪でも挿せば、傾国の妓女の様にも見えよう。……だが、此の男の本質は、そんなぬるい存在(もの)ではない。

 機嫌よく、機嫌よく。

 男が囁く。

 其の声を耳にした存在(もの)は、従わずにはいられない。

 男は欲する。

 遠くに視線を投げ。

 空の白、(つち)の赤、焔の青。

 其れ等を見遣る様に遠くを遠くを見つめている。


 ―――――――……欲する存在(もの)が、まるで其処に在るかの様に。

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