第九話 友達でも、そこは譲れません。
領都の書店へ市場調査に出かけた翌日、シルヴェスターの執務室には、昨日買い込んだ本のうち、とりわけ資料価値が高そうなものが山のように積まれていた。
魔獣図鑑。各国の武器目録。甲冑の変遷をまとめた図録。城郭建築。古代遺跡についての研究書。騎士団向けの戦術教本。隣国の民族衣装を収めた画集。英雄譚や古い戯曲まである。それに加えて、昨日行った書店への聞き取り結果と、屋敷内で実施した調査の集計表。
今日はいよいよ、それらを材料として最初の作品を決める。
正式な企画会議である。
ただし、会議をする二人の位置関係だけを見れば、とても昨日「友達」という関係を確認した人間同士には見えなかった。
シルヴェスターは大きな執務机の向こう側。ヴェロニカは、そこから二メートル半ほど離した位置へ椅子を置いている。中間には低い卓が一つあり、資料の受け渡しは基本的にそこへ置くか、風魔法で飛ばす。
「昨日の南方魔獣録、そっちにある?」
「あります。」
「こっちへ。」
シルヴェスターが本を手に取った。
一瞬、普通に渡そうとしたように見えた。しかし途中で止まり、軽く指を動かす。
本がふわりと浮いた。
風に運ばれ、二メートル半の距離を越えてヴェロニカの膝へ降りる。
「……手渡しでよくない?」
「近いので。」
「便利な魔法をしょうもないことに使ってるな。」
「便利だから使うんです。」
「まあ、そうだけど。」
ヴェロニカは本を受け取った。
昨日よりは明らかに話しやすくなった。
馬車の中で「友達」と言ってから、何かが劇的に変わったわけではない。シルヴェスターは今でも、ヴェロニカが不意に近づけば身体を強張らせるし、必要以上に目を合わせようともしない。
ただ、少し違う。
「あと、昨日あなたが見ていた辺境諸国の民話集も置いておきました。」
「お、ありがと。」
「……と、と、友達ですから。」
「…………。」
ヴェロニカは顔を上げた。
シルヴェスターもこちらを見る。
すぐ逸らす。
「そこ、友達関係ある?本を出しただけだぞ。」
「…あります。友達なら、そのくらいは。」
「そうか。」
昨日からこれである。
朝食の席には、ヴェロニカが好きだと言った焼き菓子が一つ多く置かれていた。理由を聞けば、「と、友達ですから」。
昨日買った資料には、ヴェロニカが必要としそうな箇所だけ栞が挟まれていた。「友達ですから」。
企画会議用の筆記具も二人分用意されていた。「友達なので」。
完全に言いたいだけである。
ヴェロニカはシルヴェスターの横顔を眺めながら、何となく納得した。
ああ、こいつ。
前世、本当に友達がいなかったんだろうな。
恋愛以前の問題だった。
女性が怖いとか、こじらせ童貞とか、そういうところへ辿り着く前に、まず人間関係の最初の段階で盛大につまずいている。それならば、同年代の人間とくだらない話をしながら本屋を歩いた程度で、あれほど感極まっていたのも分かる。
もっとも、ヴェロニカ自身も恋愛経験豊富などという人生ではまったくない。前世でも今世でも恋人と呼べる人間はいなかったし、男女の機微について偉そうに語れるほどの経験も持たない。
しかし、友人はいた。
学校でくだらない話をした。美術部で同じ机を囲んだ。同僚と昼食を食べた。異性とも普通に仕事の話をした。
少なくとも、友達という単語を口にしただけで耳まで赤くしたことはない。
ヴェロニカは小さく頷いた。
うむ。
やはりこちらの方が上位である。
何の順位なのかは、相変わらず分からない。
「……何で一人で頷いてるんです?」
「いや。何でもない。」
「嫌なこと考えてません?」
「考えてない。」
「絶対考えてますよね。」
「いいから会議始めるぞ。」
ヴェロニカは昨日の調査結果を一番上へ置いた。
「結論から言う。」
「はい。」
「全部入れよう。」
「駄目です。」
即答だった。
「まだ何も言ってないだろ。」
「冒険、恋愛、英雄、魔法、戦闘を全部盛ろうとしてますよね。」
「そうだよ。」
「だから駄目です。」
「何で。」
「初作品です。まず短くまとめられるものにしましょう。」
「全部入れたって短くできる。」
「あなたの場合、絶対できません。」
「何で断言する。」
「この一週間を見ていたので。」
ヴェロニカは口を閉じた。
確かに、否定しづらい。
「でも市場調査の結果だぞ。冒険が人気。恋愛も人気。英雄譚も強い。魔法なんてこの世界なんだから使わない理由ないし、戦闘はお前の絵を活かせる。」
「だから要素を選びましょう。」
「全部必要。」
「必要ではありません。」
「必要。」
「不要。」
開始三分。
早くも揉めた。
ただし以前と違って、シルヴェスターは少しも引かない。女性相手だからと意見を飲み込むこともなく、こちらの主張へ普通に反論する。
ヴェロニカは一瞬、それが妙に嬉しかった。
だが創作に関しては別である。
嬉しかろうが何だろうが、譲れないところは譲れない。
「学院ものは?」
「市場調査と合いません。」
「王宮陰謀。」
「初作品で政治関係を増やすと説明が多くなります。」
「冒険者。」
「この世界には前世のゲームに出てくるような冒険者ギルド制度はありません。」
「作ればいいだろ。」
「世界観説明が一つ増えます。」
「お前いちいち現実基準で潰すなよ!」
「こっちでは現実なんです!」
「漫画なんだから多少好きにしていいだろ!」
「設定が破綻すると気になります!」
「誰が!」
「僕が!」
「お前かよ!」
堂々巡りである。
ヴェロニカは椅子へ背中を預け、一度資料から目を離した。
何かないか。
面白くて、戦えて、魔法も使える。冒険もできるし、恋愛も入れられる。そして、シルヴェスターの絵を存分に活かせるもの。
視線が机の端へ移った。
以前二人で描いた一枚の絵が置いてある。
片腕を魔獣化させた青年。
巨大な翼竜。
鞭を持つ少女。
さらに昨日、外出用の服を着たシルヴェスターを見た時に勝手に考えた設定。
生まれながらに、魔王となる宿命を背負う青年。
「……これだ。」
ヴェロニカが呟いた。
「何です?」
「ヒーロー。」
シルヴェスターが首を傾げた。
ヴェロニカは机の上へ新しい紙を広げる。
「辺境伯家の息子。」
「……辺境伯。」
「数百年前、先祖が魔王を倒してる。その時、魔王が死に際に呪いを残した。『いつかその血筋から次の魔王が生まれる』。」
シルヴェスターの目が紙へ向く。
ヴェロニカは続けた。
「長い間何も起きなかったから、もう伝説扱いされてた。でもある時、生まれた子供に異常な魔力がある。身体には魔王の紋。」
「どこに?」
「肩とか。」
「左右は?」
「今そこいる?」
「絵を描くなら。」
「じゃあ左。」
「左肩から胸元くらいまで?」
「それでいい。」
ペンが動き始めた。
もう食いついている。
「王家がその子供を管理下へ置く。」
「なぜ殺さないんです?」
「魔力が強いから。」
「将来魔王になる可能性が高い人間を、生かして利用するんですか?」
「兵器として。」
「……。」
シルヴェスターが少し考える。
「それなら、王家の中でも意見が割れている方が自然ですね。」
「というと?」
「最初から処分を主張する派閥と、管理可能なうちは軍事利用したい派閥。」
「いい。」
「教会側が処分を主張してもいいかもしれません。」
「それだ。」
ヴェロニカは身を乗り出しかけ、シルヴェスターが反射的に少し下がったので、そのまま止まった。
「王家は利用したい。教会は危険だから殺したい。」
「王家が彼を幼少期から管理するなら、教育も特殊になりますね。」
「普通の子供として育てない。」
「魔法、剣術、戦術。」
「魔物を操る能力も。」
「魔王由来の能力?」
「そう。魔物の一部に命令できる。」
「完全支配では強すぎます。」
「じゃあ格下だけ。」
「あるいは精神が弱っている個体。」
「いいな。それなら強い魔物相手には普通に戦う必要がある。」
ペンの音が速くなる。
穴が一つ見つかればシルヴェスターが指摘し、ヴェロニカがそこから新しい設定を生やす。また矛盾が出れば、今度は二人で埋めていく。
「王家はその力を戦争に使う。」
「幼少期から?」
「十代前半くらいから。」
「かなり非人道的ですね。」
「だから人格が歪む。」
「冷酷?」
「命令優先。自分の命も他人の命も軽い。使えるなら使う。邪魔なら排除。」
「……見た目は?」
「後で。」
「作画担当としては先に知りたいです。」
「待て。話が乗ってきた。」
シルヴェスターが少し笑った。
「で、成人する頃には完全な戦闘兵器になってる。でも魔王化も進む。」
「身体的な変化から?」
「最初は魔力量。次に魔王紋が広がる。感情が乱れると目とか爪が変わる。」
「以前の右腕魔獣化も使えますね。」
「使おう、右腕な。」
「また右腕?」
「好きなんだよ。」
「分かりました。」
「で、教会側が言う。もう制御できなくなる。処分しろ。」
「王家は惜しい。」
「そう。でもこのままじゃ危険。」
ヴェロニカは少し考えた。
「そこで古代遺物。」
シルヴェスターが顔を上げる。
「古文書に、魔王化を抑えると言われている遺物が残ってる。」
「一つ?」
「いや。」
ヴェロニカはにやりとした。
「複数。」
「増やしましたね。」
「各地の遺跡に散ってる。」
「長期連載前提にしないでください。」
「夢は大きく。」
「まず一作完成させる話はどこへ行ったんですか。」
「忘れてない。」
実際には少し忘れていた。
「とにかく、王家が命令する。『生きたいなら探してこい』と。」
「それは良いですね。今まで兵器として使っておいて、制御できなくなったら自分で治療手段を探せというのも、王家の冷酷さが出ます。」
「お前、こういう暗い設定好きだな。」
「あなたが言い出したんでしょう。」
「そうだった。」
二人で紙を見る。
かなり形になってきた。
「ただ。」
シルヴェスターが言う。
「遺跡探索なら専門家が必要です。」
「そこでヒロイン。」
ヴェロニカは即答した。
「王立研究機関の遺跡調査官。」
「女性?」
「市場調査で恋愛入れるって決めたんだから女。」
シルヴェスターのペンが一瞬止まった。
「……そうでしたね。」
「お前いちいち恋愛って言うと固まるな。」
「固まってません。考えていただけです。」
「そういうことにしといてやる。」
ヴェロニカは続けた。
「古代文字が読める。封印解除。罠の解析。魔道具の鑑定。戦闘は専門じゃないけど最低限できる。」
「武器は?」
「鞭。」
「やっぱり。」
「何だ。」
「いえ。」
少し笑っている。
「魔導鞭。遺跡の仕掛けを遠くから作動させたり、崖を移動する時に引っ掛けたり、魔物を拘束したりできる。」
シルヴェスターの表情が変わった。
「それなら実用性があります。戦闘だけでなく探索道具として使えるなら、鞭でも不自然ではないですね。」
「だから言っただろ。」
「最初は意外性しか言ってませんでした。」
「後から理由が生えた。」
「本当に生やしますね。」
だが、今度は止めなかった。
むしろ自分で補強し始める。
「ヒロインが遺跡へ同行する理由はそれでいいとして、監視役も兼ねさせます?王家が魔王候補を野放しにするとは思えません。」
「確かに。」
「完全に魔王化した場合、処分する役目を持たせる。」
ヴェロニカは目を見開いた。
「お前、いいこと言うな。」
「そうですか?」
「最初から殺す役と殺される役が旅するんだぞ。」
「恋愛ものとしては……。」
「最高だろ。」
シルヴェスターは数秒考えた。
「……まあ。」
「何だその顔。」
「でも面白いとは思います。」
「だろ!」
また少し身を乗り出しそうになり、今度は自分で止まった。
シルヴェスターも気付いたらしく、小さく視線を逸らす。
「ヒーロー本人も知ってる方がいい。」
「自分が魔王になったら、ヒロインが殺すと?」
「そう。」
「では最初から信用しないですね。」
「ヒロインも兵器として見てる。」
「必要な時だけ魔物を倒させる。」
「ヒーロー側も必要な時だけ封印を解かせる。利害関係だけ。」
「そう。それが少しずつ――」
ヴェロニカが止まった。
「恋愛になる。」
シルヴェスターのペンが止まった。
「…………。」
「また止まった。」
「止まってません。」
「完全に止まってる。」
「……それは後で考えましょう。」
「逃げたな。」
「まず世界観です。」
「まあいい。」
まだ急ぐ必要はない。
むしろ、この男に恋愛部分を考えさせること自体が、今後面白そうだ。
ヴェロニカは内心で少しだけ笑った。
そして敵側。
「魔族はヒーローを魔王にしたい。」
「全員?」
即座にシルヴェスターが言った。
「魔族全員が同じ目的なんですか?」
「そうしようと思った。」
「単純すぎません?」
「お前、そういうところだけ急に厳しいな。」
「友達でも、そこは譲れません。」
ヴェロニカは一瞬止まった。
シルヴェスターも、言ってから少し照れたらしい。目を逸らす。
「便利な使い方覚えたな、友達。」
「本当に友達なので。」
「分かった分かった。」
ヴェロニカは少し笑った。
本当に初めてできた友達みたいに、喜んでいるのか、照れているのか、胸の置き所に困っているのか。先日まで三か月もこちらを避け続けていた、二十二歳の青年とは思えない。
しかし、それは置いておいて、確かに指摘自体は正しい。
「じゃあ三派くらい。まず魔王として復活させたい奴。」
「はい。」
「人間側に育てられた魔王なんか危険だから、覚醒する前に殺したい奴。」
「それはありそうですね。」
「あと、利用したい奴。」
「どう利用します?」
「人間側から離反させる。」
ヴェロニカは紙へ書きながら考える。
「お前を人間として扱った奴なんて誰もいない。王家は兵器として使った。そして教会は殺したい。それならこっちへ来い、って。」
「……説得力がありますね。むしろ本人が人間側へ残る理由を作る方が難しい。」
「そこでヒロイン。」
「……。」
「何。」
「かなり重要ですね。」
「恋愛ものだからな。」
またペンが止まりかけたが、今度はどうにか動き続けた。
企画書が徐々に埋まっていく。
男性主人公は次代の魔王。
女性主人公は遺跡調査官兼監視役。
複数の古代遺物。魔族の三派。王家と教会。
旅があり、戦闘があり、恋愛がある。
市場調査で人気だったものが、本当にほとんど入った。
「ほら。」
ヴェロニカは得意げに言った。
「結局全部入った。」
「結果的にです。」
「同じだろ。」
「違います。あなたは最初何も考えずに全部入れようとしたんです。」
「でも入った。」
「そこを勝ち誇らないでください。」
「原作者の勝利。」
「僕が設定を整理しなかったら破綻してました。」
「私は発想担当。お前が整える。」
「最初からその役割だったんですか。」
「今決まった。」
「また後付け。」
言い合いながらも、二人とも楽しんでいた。
ヴェロニカ自身、それが分かる。
以前なら、仕事上の議論で相手と意見が衝突すれば、どちらが正しいか、どちらが効率的かを考えた。
今は違う。
正解がない。
面白いと思う方を選ぶ。
相手が違うと言う。こちらも反論する。その途中で三つ目の案が出て、それが最初の二つより良かったりする。
そんなやり取りが、こんなに楽しいとは思わなかった。
「じゃあ。」
シルヴェスターが新しい紙を取り出した。
「キャラクターデザインを決めましょう。まず男性主人公。」
「もう決まってる。」
「え?」
「お前。」
シルヴェスターが停止した。
「…………。」
「何?」
「……嫌です。」
「何で?」
「嫌だからです。」
「理由になってない。」
「僕をモデルにする必要ないでしょう。」
「ある。」
「どこに。」
「一番近くにある資料だから。」
「資料……。」
青年は少し傷ついたような顔をした。
「悪い意味じゃない。顔がいい。背も高い。魔法も強い。実際の戦闘まで見た。魔王になる青年の資料として完璧。」
「でも。」
「髪型や表情は変えればいい。お前そのままじゃない。」
「顔も変えましょう。」
「何で?」
「僕なので。」
「だから何だよ。」
シルヴェスターは明らかに嫌そうだった。
やはり自分がモデルになること自体が嫌なのだろう。
しかし。
「お前の顔、格好いいんだから使えばいいだろ。」
ヴェロニカは当たり前のように言った。
シルヴェスターがまた止まった。
「また固まってるけど。」
「固まってません。」
「じゃあ描いて。」
「……はい。」
結局、押し切った。
銀髪。灰青の瞳。端正な顔立ち。
ただしシルヴェスター本人より少し鋭い印象にする。目元は冷たく、戦場で育った人間らしく身体にも傷を増やす。左肩から胸元へ魔王紋。服は王国軍の黒い戦闘服を基調に。
「武器は?」
「黒い槍。」
「長剣じゃなく?」
「ありきたりじゃん。」
「槍も結構ありますけど。」
「じゃあ鎌?」
「鎌は実戦で使いづらいです。」
「また始まった。」
「槍にしましょう。」
「はいはい。」
数分で、顔が形になっていく。
描いている本人が本人を参考にしているので、妙に似ている。
ただし表情が違う。
冷たい。
他人を拒絶するような目。
ヴェロニカは覗き込みながら頷いた。
「いいじゃん。」
「似すぎてません?」
「大丈夫でしょ。こっちは二次元、お前は三次元。」
「……もう少し変えます。」
「別にいいだろ。」
「嫌です。」
「頑固だな。」
「友達でも――」
「そこは譲れないんだろ。分かったから。」
先に言うと、シルヴェスターは少しだけ残念そうな顔をした。
言いたかったらしい。
「じゃあ次はヒロイン。どうする。」
シルヴェスターが少し考える。
「あなたでいいのでは。」
「は?」
今度はヴェロニカが止まった。
「同じ理由です。一番近くにいる女性なので。」
「嫌だよ。」
「僕は使うのに?」
「私は美人じゃないし。」
率直に言った。
シルヴェスターが不思議そうに目を瞬いた。
「普通に綺麗だと思いますけど。」
ヴェロニカの思考が一瞬止まった。
何だ。
今。
普通に、綺麗と言われた。
この男に。
普段、女性が近付けば机の向こうへ逃げる男に。
少しだけ顔が熱くなりそうになる。
いや、待て。
単なる資料としての評価だ。
造形の話。
そう。絵を描く人間が、被写体として悪くないと言っただけ。
「そ、そうか。まあ、なら。」
「それに。」
シルヴェスターが真面目な顔で続けた。
「鞭も似合いそうです。」
ヴェロニカのこめかみに、ぴくりと筋が浮いた。
「おい。」
「はい?」
「今、何つった。」
「鞭が似合いそうだと。」
「どういう意味だコラ。」
「え?」
「『綺麗だと思います』の直後に『鞭が似合います』って何だ。」
「実用性の話です。」
「私の何に実用性を感じたんだ!」
「違います。ヒロインとして。」
「なら言い方を考えろ!」
「褒めたんですけど。」
「後半で全部台無しだよ!」
シルヴェスターは本当に分かっていない顔をしている。
腹が立つ。
非常に。
しかし同時に、少し面白い。
「もういい。描け。」
「怒ってます?」
「描け。」
「……友達なので、怒っているなら。」
「その友達万能説やめろ。」
シルヴェスターは黙ってペンを取った。
ヴェロニカを何度か見る。
以前なら視線を合わせること自体ほとんどできなかった男が、今は絵の資料だからという理由で、普通にこちらの顔を観察している。
それでも目が合うとすぐ逸らす。
また見る。
逸らす。
観察される側としては、若干落ち着かない。
「そんな見んなよ。」
「描けないでしょう。」
「写真じゃないんだから適当にしろ。」
「適当には描きません。」
「変なところ真面目だな。」
描かれたヒロインは、確かにヴェロニカによく似ていた。
ただし髪型は少し変えられているし、顔もそのままではない。それでも眉の形や、少し強めの目元、口元の表情には見覚えがある。
「美化しすぎじゃない?」
「してません。僕からはこう見えます。」
「…………。」
また何か、返しづらいことを言う。
ヴェロニカは話題を変えた。
「もっと知的な感じにして。研究者なんだから。」
「十分そう見えます。」
「あと上品に。」
「……。」
「何だその沈黙。」
「……いえ。」
「おい。」
「……服を上品にします。」
「顔は!?」
「服で補いましょう。」
「お前っ!」
また揉める。
だが結局、ヒロインも出来上がった。
どこかヴェロニカに似ている。
男性主人公はシルヴェスターに似ている。
ただ、一番近くにあった資料を使っただけ。
他意はない。
それなのに、並べてみると妙に釣り合って見えた。
「……悪くないな。」
「はい。」
シルヴェスターも二枚を見る。
少しだけ満足そうだった。
「では、二人の関係を。」
「最初は最悪。」
「即答ですか。」
「ヒーローは監視役のヒロインを信用しない。ヒロインもヒーローを兵器として見てる。」
「旅をしながら少しずつ信頼が生まれると。」
「そう。」
「それで。」
シルヴェスターのペンが止まる。
「……どちらが先に恋愛感情を?」
「これから決める。」
「……。」
「また固まった。」
「固まってません。」
「顔が固まってる。」
「いえ。ただ……その辺りは、もう少し調べた方が。」
「市場調査?」
「そ、そうですね、恋愛描写の。」
「お前、それ単に考えるの嫌なんじゃねえの。」
「……。」
「図星か。」
「経験がないものを描くなら、資料は必要でしょう。」
正論ではある。
ヴェロニカ自身にも恋愛経験はない。
「まあ、それはもう少し後で考えるか。」
「はい。」
明らかに安心した。
そこで、シルヴェスターがふと黙った。
ヴェロニカは資料を整理しながら少し待ったが、いつまで経っても次の言葉が来ない。
「どうした。」
「……いえ。」
「言え。」
「本当に何でも。」
「その顔は何でもなくはないだろ。」
シルヴェスターは少し迷った。
それから、机の上へ視線を落とした。
「こういうの、初めてだなと思って。」
「何が。」
「誰かと。」
言葉を選んでいる。
「わりとどうでもいいことで、本気で言い合うの。」
ヴェロニカは手を止めた。
シルヴェスターは紙を見たままだった。
「前世では、あまり……こういうことをした記憶がなくて。」
詳しくは聞かない。
まだ。
ただ、やはり思っていた通りなのだろう。
友人がほとんどいなかった。
少なくとも、大人になってから、趣味のことで好き勝手言い合えるような相手はいなかった。
だから、魔王紋をどちらの肩に置くか。槍か鎌か。竜の翼は何倍か。
そんな、どうでもいいことで言い合えること自体が、彼にとっては新鮮なのだろう。
少しだけ嬉しそうな声だった。
ヴェロニカは一瞬、何と言えばいいか考えた。
慰めるのも違う。
可哀想だと言うのも違う。
なので。
「どうでもよくはない。」
シルヴェスターが顔を上げた。
「魔王紋の位置は重要だろ。」
「……そこですか。」
「そこだ。」
「左肩の方が構図として。」
「やっぱり右で。」
「さっき左って決めましたよね?」
「気が変わった。」
「何でです?」
「右の方が格好いい気がする。」
「左の方が武器を構えた時に見せやすいです。」
「右。」
「左。」
「友達だろ。そこは譲れ。」
シルヴェスターは一瞬驚いた。
そして、ほんの少し笑った。
「友達でも、そこは譲れません。」
「いや、譲れ。」
「いえ、左です。」
「右だ。」
「左。」
「右。」
また始まる。
けれど今度は、シルヴェスターの口元から笑みが消えることはなかった。
◇
企画会議が終わる頃には、部屋の外は物音一つなく静まり返り、窓の外には夜半の空気が立ち込めていた。
机の上には何枚もの紙が広がっている。
第一作。
まだ題名はない。
男性主人公は、かつて魔王を倒した辺境伯家の血筋に生まれ、魔王の呪いによって次代の魔王となる宿命を負った青年。幼少期から王家に管理され、兵器として育てられた結果、冷酷な思考と圧倒的な戦闘能力を持つ。
ヒロインは、古代遺跡を専門とする女性調査官。魔導鞭を使い、古代文字や封印術式の解析を得意とする。
魔王化を食い止めるため、二人は各地に散らばる古代遺物を探して旅をする。ヒロインには、青年が完全に魔王化した場合には殺せという密命があり、青年の首にはその力を制御するための鉄首輪が付いている。
敵は、魔王の復活を望む魔族だけではない。
人間側についた魔王を危険視し、殺そうとする者。青年を人間社会から離反させ、利用しようとする者。王家。教会。それぞれの思惑。
冒険。
戦闘。
そして恋愛。
「……いいじゃん。」
ヴェロニカは完成した企画書を眺めた。
「普通に読みたい。」
「思ったより、ちゃんと物語になりましたね。」
「思ったよりって何だ。」
「途中で登場人物が十五人になった時はどうなるかと思いました。」
「十二人まで減らしただろ。」
「まだ多いです。」
「脇役込みなら普通だろ。」
「一作目ですよ。」
「友達なんだからそこは大目に見ろ。」
「友達でも、そこは譲れません。」
「気に入ったな、それ。」
「たしかに便利ですからね。」
シルヴェスターは口の端を僅かに上げた。
完全に覚えたな。
ヴェロニカも笑った。
シルヴェスターも、以前のように警戒することはない。
ただ、こちらが少し椅子を寄せると、やはり僅かに身体が強張った。
ヴェロニカはそこで止めた。
物理的な距離は、まだ遠い。
けれど昨日までよりは、ほんの少し近い。
何より、同じ紙の上には二人で考えた物語がある。
「じゃあ次。キャラクターの細かい表情と衣装。」
「それから、第一話の構成ですね。」
「お前、描く気満々じゃん。」
「……友達と作るものですから。」
「またそれか。」
「駄目ですか?」
シルヴェスターが少しだけ不安そうにこちらを見る。
ヴェロニカは笑った。
「いや、普通に最高だろ。」
そして企画書を指で叩く。
「その代わり、作画で手を抜いたら友達でも許さない。」
「もちろん。ただし、原作が破綻していたら、友達でも容赦しません。」
「上等だ。」
二人は再び、それぞれのペンを取った。
距離はまだ二メートルほどある。
しかし会話だけなら、もう随分近かった。




