第十話 漫画を描くのは、思っていたより大変だった。
企画書が完成して数日後の夜、ヴェロニカとシルヴェスターは、かなり意気込んで第一話の制作に取り掛かった。
物語も登場人物も、すでに大枠は決まっている。男性主人公は、数百年前に魔王を討った辺境伯家の血筋に生まれながら、その魔王が残した呪いによって「次代の魔王」となる宿命を背負わされた青年。幼い頃から王家の管理下に置かれ、兵器として育てられた結果、人の命にも自分の命にも執着の薄い、冷酷な戦闘人形のような男へ成長している。
対するヒロインは、王立研究機関に所属する古代遺跡の調査官。遺跡文字や古代魔術の解析を専門とし、探索にも戦闘にも使える魔導鞭を持つ。魔王化を止める可能性がある複数の聖物を探すため、青年と共に旅へ出ることになるが、同時に、彼が完全に魔王化した場合には首に嵌められた制御具を起動させ、その命を絶つ密命まで負っている。
第一話では、まず青年の圧倒的な戦闘能力を見せる。
用意された大型魔獣を、ほとんど感情も見せず次々と葬っていく青年。その姿を高所から眺める王族の男は、凄惨な光景には場違いなほど優雅なワイングラスを手にしている。
『やはり素晴らしい。前回より殲滅時間が縮まっている。』
その隣で、高位聖職者が険しい顔をする。
『だからこそ危険なのです。このまま成長を続ければ、いずれ人の手には負えなくなる。今のうちに処分すべきです。』
そこから物語は数百年前へ遡る。長い戦いの末、ついに魔王を討ち果たした英雄。その足元で膝をついた魔王が、血を吐きながら笑っている。
『我を殺した血が、次は魔王を産む。』
『何を――』
『その時、人は己らを救った血を恐れ、縛り、使い、最後には殺すだろう。楽しみだな。』
そして二十年前。泣き叫ぶ赤子の肩から胸へ、禍々しい黒い紋が走っている。
『な、なんということ……当主様……!』
助産師の横で年嵩の侍女が震え、それから数年後には、まだ幼く可愛らしい少年が辺境伯領から連れ出されていく。
王宮では、大人たちが品定めするような目で彼を見ていた。
『これが噂の魔王の器か。』
『こんな小さな子供が?』
『齢六つにして、保有魔力量は王宮魔導士団の主力術者と遜色ありません。』
『……ほう。』
王族の男が笑う。
『では使えるようにしておけ。使えるようになり次第、戦線へ送る。』
そこからは訓練の日々だ。剣を握らされ、魔法を使わされ、負傷しても命令され、やがて戦場へ送られる。血の中で戦う時間が増えるにつれ、少年の顔から少しずつ表情が消えていく。
そして現在。
『先の戦役では、制御を失った末に味方の一個大隊にも被害を出したと聞いております。』
『投入地点が悪かっただけだ。三日間で二つの戦線を潰させたのだから、多少の誤作動はある。』
『でなければ、あれを何のために生かしてきた。』
そこで、魔王化を止める可能性があるという古代の聖物と、それが眠る危険な遺跡の存在が提示される。王家はそれを青年自身に探させることを決め、首に制御具を嵌めたままの彼を王の前へ呼び出す。
『魔王化の話は知っているな?』
『はい。』
『このまま進行すれば、いずれ私でもお前を庇い切れなくなる。だから、自分で止めてこい。』
『……止める?』
『古代の聖物だ。遺跡の中にあるらしい。なに、案内役は付ける。心配するな。』
そこで場面を転換する。
地下の研究室。魔術式に囲まれた女の口元から詠唱が漏れ、直後に閃光と爆発が起こる。棚が崩れ、煙が室内へ満ちる中、宝石だけが静かに宙へ浮かんでいた。
『――成功。』
扉が勢いよく開き、咳き込みながら上司が入ってくる。
『また爆発させたのか!』
『爆発ではありません。予定範囲内の魔力放出です。』
『天井が落ちている!』
『老朽化でしょう。以前から補修を申請しています。』
『お前は……。それより王室から招集だ。』
女の顔が露骨に曇る。
『……研究途中なのですが。』
そこから王宮へ呼び出され、任務を告げられ、青年と共に旅へ出るよう命じられる。そして最後に、彼女だけへ別の命令が下る。
『魔王化の抑制が不可能と判断した場合、制御具を起動しなさい。』
『起動した場合は?』
『死ぬ。』
『……承知しました。』
そうして、ようやく二人が初めて顔を合わせる。
青年は首に黒い制御具を嵌め、無表情のまま研究室へ入ってくる。女はまず彼の顔を見て、それから首元へ視線を移した。
『その制御具、古代術式が混ざっていますね。少し見せてもらっても?』
『断る。』
『そうですか。』
女も特に気にしない。
二人の間には微塵も恋愛の匂いがなく、むしろ険悪ですらある。その二人が、それぞれ別の目的を抱えたまま同じ馬車へ乗り込み、最初の遺跡へ向かうところで第一話を終える。
「――という感じ。」
そこまで一息に説明し終えたヴェロニカは、手元の紙を机へ置いた。向かいを見ると、シルヴェスターは話を聞きながら、いつの間にか何枚もの紙へ構図案を書き殴っている。
「どう?」
「……悪くないと思います。」
「だろ?」
「ただ……三十ページに入ります?」
「…………。」
ヴェロニカは黙った。
確かに、問題はそこだった。
◇
漫画を読むことと、漫画を描くことは、まったく別の行為だった。
二人とも、それなり以上に漫画を読んできた。ヴェロニカは前世で友人たちと絵を描いた経験もあり、簡単な同人誌なら作ったこともある。小説についても、それなりに長いものを書いた経験があった。シルヴェスターに至っては、絵だけなら明らかに素人の域を超えている。だから多少は手間取っても、二人でやれば何とかなるだろうと思っていたのだ。
その認識は、最初のネームを作り始めた時点であっさり崩れた。
「待って。」
ヴェロニカは白い紙を前にして頭を抱えた。
「一ページって、何コマだ。」
シルヴェスターも眉を寄せる。
「場面によると思います。」
「それは知ってる。場面によるけど、この場面何コマだ。」
「……。」
「分からないだろ?」
「分かりませんね。」
二人で紙を見る。最初の戦闘では、まず巨大な魔獣とヒーローを大きく見せたい。その後に攻撃があり、魔法があり、敵の反応があり、さらに戦場を眺める王族側の視点へ移る必要もある。
「これ全部一ページに入れたら、小さすぎない?」
「二ページ使います?」
「じゃあ見開き。」
「綴じるなら中央が見づらくなります。」
「…………。」
「人物の顔を中央へ置くと、潰れる可能性があります。」
ヴェロニカは紙とシルヴェスターの顔を交互に見た。
「待て。綴じ端まで考えないと駄目なのか。」
「……当然では。」
「読んでる時、そんなこと考えたことなかった。」
ひとつ片付けたと思えば、すぐ次の問題が出た。
「これ、台詞入らない。」
「長すぎます。」
「削ると意味が変わる。」
「絵で説明できるところを削りましょう。」
「どこ。」
「ここ。」
「そこ重要!」
「では、この説明を次のページへ。」
「テンポが悪くなる。」
「じゃあ削ってください。」
「原作者に平気で削れって言うな!」
「入らないものは入りません!」
そうして何度も揉めながら、ネームだけで想定以上の日数を使った。しかも、ようやく全体の形が見えた頃には、今度は作画道具という新しい壁が立ちはだかった。
「……ない。」
文具店から取り寄せた品を机へ並べながら、ヴェロニカは呆然と呟いた。
「何がです?」
「全部。原稿用紙の代わりになる厚紙だけはある。でもペン類が全滅だ。丸ペンがない。Gペンがない。カブラペンもない。そもそも漫画を描く前提で、ペン先を分類する文化自体がない。」
「当たり前では。」
「当たり前だけど!」
使えそうなものを探せば、通常の筆記用ペンから、細いもの、太いもの、製図や写本に使われる特殊な金属ペンまで一応揃ってはいる。しかし、漫画の線へ強弱を付けることを前提に作られたものではない。シルヴェスターが何本か試してみると、確かに描けなくはないものの、欲しい線とは少し違った。
「これなら多少強弱は出せます。」
「でも細い線が潰れるな。」
「金属工房へ依頼すれば、もう少し先端の薄いものを作れるかもしれません。」
「作れる?」
「試作品なら。」
ヴェロニカはしばらく黙ってから、深く頷いた。
「これはもう金と権力でどうにかするしかない。」
「随分乱暴ですね。」
「でも作れるんだろ?」
「それは、まあ。」
「最高だ。」
その日のうちに、シルヴェスターは領内の精密金属加工を得意とする工房へ、簡単な仕様書と共に数種類のペン先を発注した。
しかし、ペンをどうにかしたところで問題は終わらない。
「トーン。」
「ありません。」
ヴェロニカは机へ突っ伏した。
「影どうするんだ。」
「描くしかありません。」
「全部手描き?この王宮の壁も?」
「はい。」
「服の影も?」
「はい。」
「空も?」
「必要なら。」
二人はしばらく無言で原稿を見つめ、それからほぼ同時に深く頷いた。
「地獄だな。」
「地獄ですね。」
網点など存在しない。当然、削るための専用器具もない。簡単な灰色なら薄墨のようなものを使う方法もあったが、将来的に印刷することまで考えれば、濃淡がどこまで再現されるのか分からない。結局、細かな線や斜線、点描を手で入れるしかなかった。
「点を一個ずつ打つの?」
「……そうなります。」
「三十ページ?」
「全部に必要ではありません。」
「でも多いぞ。」
「……はい。」
「前世ってすごかったんだな。」
「そもそもPCやタブレットですべて間に合ってましたから。」
「そこはないものねだりすぎるだろ。」
さらに、失敗した時の問題もある。
「間違えた。」
ヴェロニカは一枚の原稿を見つめたまま言った。
「どこです?」
「この台詞。」
「直しては?」
「何で?」
「……。」
「修正液は。」
「ありません。」
「ないよな!」
分かっていた。分かってはいたのだが、理解と感情は別である。
「白い絵具は?」
「紙と色が違います。」
「削る?」
「試してみます?」
慎重に紙の表面を削ってみる。
「毛羽立った。」
「インクが滲みますね。」
「くそっ!」
「押さえてください。」
「文明!!」
「文明に怒らないでください。」
インクにも問題があった。乾くまで時間がかかり、少しでも油断すれば惨事になる。
「触るな。」
「触ってません。」
「袖!」
「あ。」
シルヴェスターの袖が、乾き切っていない線へ僅かに触れた。
二人は同時に固まった。
そこには見事な黒い筋が伸びていた。
「…………。」
「…………。」
「シルヴェスター。」
「はい。」
「今、何した。」
「……事故です。」
「私が一時間かけて描いた背景だぞ。」
「すみません。」
「お前ぇぇぇ……!」
「直します! 直しますから!」
もはや戦争だった。
◇
それでも、不思議なことに、やめたいとは一度も思わなかった。
昼間は二人とも普通に仕事をした。ヴェロニカは屋敷内の仕事や対外業務を処理し、シルヴェスターは当主として領政関連の書類を決裁し、騎士団や各部署から上がってくる報告を確認する。漫画はあくまで趣味であり、そのために本業を疎かにするつもりは二人ともなかった。
だから制作は主に夕食後だった。最初は週に三回ほど集まっていたはずなのに、いつの間にか四回になり、五回になり、最後には特別な予定でもなければほとんど毎晩、どちらかの執務室へ原稿を持ち込むようになっていた。
当然、その頃には別の問題も起こり始めていた。
「もう終わり。」
ある夜、ヴェロニカは時計を見て言った。
「まだです。」
「もう遅い。」
「このコマだけ。」
「さっきも聞いた。」
「本当にこれだけです。」
「その前は背景だけって言ってた。」
「背景は終わりました。」
「で、次はこれだけ。」
「はい。」
「終わらねえやつだろ。」
シルヴェスターは机へ向かったまま、まだペンを動かしている。目元は少し赤い。昼間の仕事も普通にしているのだから当然だった。
「寝るぞ。」
「あと十分。」
「駄目。」
「五分。」
「駄目。」
「三分。」
「ガキか。」
「この線だけ引いたら。」
ヴェロニカの額に青筋が浮いた。
「お前が寝ないと私も寝れねえんだよ!」
シルヴェスターの肩が大きく跳ねた。
「一人だけ残して寝たら、絶対続きをやるだろ!」
「……。」
「趣味で領地に迷惑かけられねえんだよ! 明日も仕事あるだろ!」
「あります。」
「なら終いだ終い!」
「待って、そこだけ――」
「終わり!」
ヴェロニカは問答無用で原稿を取り上げた。
「あっ。」
「返さない。」
「あと少しなんです。」
「明日。」
「気になります。」
「私も気になる!」
「なら。」
「でも寝る!」
原稿を抱えたまま立ち上がり、ヴェロニカは呆れたようにシルヴェスターを見下ろした。
「お前、前世でもこうやって生活崩してただろ。」
「……多少。」
「やっぱりな!」
「でも今は。」
「今は領主だ!寝ろ!」
「はい……。」
渋々立ち上がったシルヴェスターは、それでも数歩進んだところで振り返った。
「明日、続きからで。」
「当たり前だ。」
「消さないでくださいね。」
「消すわけないだろ。私が二時間かけた点描も入ってんだぞ。」
「……友達ですからね。」
「そこは関係ないだろ。」
そう返しながらも、ヴェロニカは少し笑ってしまった。シルヴェスターも疲れた顔で笑い、翌日の夜になれば、また二人で机へ向かう。そんな日々が続いた。
◇
制作を始めて二週間ほど経った頃には、二人の作業位置にも少しずつ変化が生まれていた。
最初は数メートル離れて座り、紙を渡す時でさえ風魔法を使っていた。しかし、実際に一つの漫画を共同で作り始めると、それではあまりにも効率が悪い。
「このコマ。」
「見えません。」
「そっち持ってけ。」
「説明した方が。」
「いや、見ろ。」
結局、大きな卓を一つ置き、その両端へ座るようになった。まだ距離はあるものの、少なくとも原稿を確認するたび風魔法で飛ばす必要はなくなった。
三週間目には、ヴェロニカがシルヴェスターの描いた原稿へ台詞を入れている途中で、顔の表情について注文を付けた。
「ここ違う。」
「何がです?」
「ヒロインをもっと『何言ってんだこいつ』って顔にして。」
「具体的に。」
「こう。」
ヴェロニカが自分で顔を作ると、シルヴェスターは真面目な顔でそれを観察し、そのまま原稿へ視線を戻した。数分後には、ほとんどイメージ通りの表情が紙の上へ出来上がっている。
「……イメージ通りだ。やっぱお前すご。天才。神。」
「……参考資料が目の前にありますから。」
「そこは便利に使うな。」
「効率的です。」
その頃には、二人の位置は卓の角と角まで近付いていた。
四週間目。ヴェロニカがシルヴェスターの原稿を覗き込みながら、背景の一角を指差した。
「ここ、もうちょい影欲しい。」
「どこです?」
「ここ。」
指を伸ばしたところで、シルヴェスターの身体が一瞬だけ強張った。
「あ、悪い。」
ヴェロニカはすぐに少し退こうとした。しかし、シルヴェスターは一度原稿へ目を落とし、そのまま小さく首を振る。
「……いえ。」
「平気?」
「今は。」
それだけだった。
二人とも、そのまま作業を続けた。
そして五週間目には、いつの間にか同じ卓の同じ辺へ並んで座るようになっていた。どちらかがそうしようと言ったわけではない。ただ、その方が圧倒的に速かったのである。
シルヴェスターが描いた原稿を回し、ヴェロニカが台詞を入れる。シルヴェスターが絵を直し、ペン入れ、点描、効果線、ベタ塗りを二人で分担する。作業量を互いに確認しながら進めるなら、離れている理由などどこにもなかった。
「あの、ここ。ヒロインの目線ですが。」
「何?」
「ちょっとヒーロー見すぎでは。」
「初対面だから見てるんだよ。」
「警戒してるなら、もっと視線外した方が。」
「いや、自分が殺す可能性ある奴なんだから、そりゃ見るだろ。」
「……そうか。それもそうですね。」
肩は近く、腕を動かせば袖が触れる。
以前なら、それだけでシルヴェスターは身体を固くしていた。今でも、不意にヴェロニカが顔を向ければ、一瞬だけ呼吸が止まることはある。
それでも、絵を描いている間なら、続きを考えている間なら、少しだけ平気になった。
本人たちは、その変化をほとんど意識していない。
何しろ、原稿の方がよほど重要だった。
◇
そうして制作開始からおよそ一か月半が経った、ある夜のことだった。
「……終わった。」
シルヴェスターが呟き、最後のページの最後のコマから、ようやくペン先を離した。
描かれているのはヒーローとヒロイン。互いにまったく好意を持っていない二人が、同じ馬車へ乗り込んでいる。ヒロインは窓の外を見つめ、ヒーローは反対側へ顔を向け、その間には広い距離が空いていた。
妙に見覚えのある構図だった。
「乾くまで触るなよ。」
「分かっています。」
「絶対触るな。」
「あなたこそ。」
「私は触らない。」
二人ともじっと待った。数分経ち、ようやくインクが乾いたことを確認してから紙を持ち上げ、一枚目から順番に机へ並べていく。
三十ページ。
巨大な魔獣と戦う青年から始まり、王族と教会、過去、赤子の身体に現れた魔王紋、訓練の日々、戦場、そして現在。遺物探索の命令を受け、場面が地下研究室へ移り、ヒロインが登場する。密命を受け、二人が初めて顔を合わせ、最後には同じ馬車へ乗って旅立っていく。
一枚ずつ、順番に読んだ。
粗い。
今になって見れば、最初の数ページはコマ割りが妙に固い。途中から少しずつ慣れていることが、自分たちでも分かる。背景を描き込みすぎたページもあれば、逆に力尽きたのか、後半になってモブの顔が明らかに簡略化されているところもあった。
「この人、後半になると急に顔雑だな。」
「……疲れてたんです。」
「分かる。」
「あなたもここ、台詞多すぎますよ。」
「分かる。」
「分かってたなら。」
「いや、今分かった。」
それでもページをめくれば、次のコマへ進む。
人物が動き、喋り、場面が変わり、物語が進んでいく。
いつしかヴェロニカは何も言わなくなっていた。シルヴェスターも黙ったまま、最後まで原稿を追っている。
読み終えた後、しばらく二人とも動かなかった。
机の上にあるのは、黒い線の入った紙が三十枚。それだけのはずなのに、ヴェロニカにはまったく別のものに見えた。
「……漫画だ。」
ぽつりと呟く。
シルヴェスターも隣で頷いた。
「漫画ですね。」
「……すごい。我々、漫画作ったぞ。異世界で。」
「……作りましたね。」
口にしてから、ようやく実感がじわじわと追いついてきた。
この世界に転生して二十数年。もう二度と見ることはないと思っていたものだった。
前世では、店へ行けば当たり前のように漫画が並んでいた。少し金を出せば買えたし、スマートフォンでも読めた。あれほど身近だったものが、この世界にはない。
だから、自分たちで作った。
ないなら作ればいい。言葉にすれば簡単だが、実際にやったことを思えば、随分馬鹿げている。
異世界へ転生し、魔法があり、魔物がいて、城まである。目の前にいる男など、巨大な狼型の魔獣を一人で倒せるほど強い。
それなのに一か月以上、二人で夜な夜な机へ向かい、インクが乾かないと怒り、ペン先へ文句を言い、台詞が入らないと喧嘩し、たった一つの影を作るために延々と点を打った。
「……大変だったな。」
「大変でした。」
「お前、何回私の描いた背景汚した?」
「二回です。」
「三回。」
「一回はあなた自身でしょう。」
「お前が紙動かしたからだろ。」
「いや、あなたが肘を置いてたんでしょう。」
「じゃあ2.5回。」
「急に折半しないでください。」
ヴェロニカは笑いながら、もう一度三十枚の紙へ目を落とした。
「でもさ。これ、一人じゃ絶対無理だったよな。」
シルヴェスターは少し黙った。
「僕も、そう思います。」
返ってきたのは、静かな声だった。
気付けば二人は、同じ机へ並んで座っている。肩が近い。以前なら、この距離に気付いただけでシルヴェスターは椅子ごと後ろへ下がっていたかもしれない。
今は、彼がそれに気付いているのかどうかも分からない。
ヴェロニカも特に気にしていなかった。
机の上にある三十ページの方が、ずっと大事だった。
「……で。問題がある。」
ヴェロニカは完成原稿の最後のページを指した。
旅立つ二人。ヒーローは冷たく、ヒロインも相手を仕事の対象としか見ていない。どう見ても完全な険悪関係である。
「こいつら。」
「はい。」
「一体、ここからどうやって恋愛するんだ?」
「…………。」
シルヴェスターが黙った。
ヴェロニカも黙ったまま、しばらく二人で作中の男女を眺める。
恋愛の進め方については、後で考えればいいと見送ってきた。その結果、第一話が完成した現在まで何も決まっていない。
「……分かりません。」
「だよな。」
「あなたが原作者ですよね。」
「私も分からない。」
「恋愛要素有りと決めたのはあなたですが。」
「しかし、恋愛経験がないからな。」
シルヴェスターの視線が僅かに泳ぐ。
「私もお前も。」
「何で僕も断言するんですか。」
「そりゃお前見てたら分かるわ。」
特に反論も返ってこなかったので、ヴェロニカは腕を組んだ。
「これは、市場調査が必要だな。」
「……また?」
「恋愛の。」
シルヴェスターの顔が、ゆっくり強張っていく。
「…………。」
「何その顔。」
「いえ。」
「必要だろ。」
「必要……ですかね。」
「恋愛漫画描くんだから。」
「資料を読むだけでも。」
「実物を見るのも大事だろ…世の恋人とか夫婦とか。」
「…………。」
「おい。」
「……考えておきます。」
「逃げるな。」
こうして完成した漫画の横で、早くも新しい問題が立派に育ち始めていた。
漫画そのものは、確かに完成した。作り方も少し分かったし、二人の距離も一か月前と比べれば随分縮まっている。
けれど恋愛という一点だけを見れば、作中でも現実でも、二人とも相変わらず進め方をまったく知らないままだった。




