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第十一話 続きは?

 第一話が完成した翌日の午後、クローデル辺境伯家の家令は、主人の執務室の中央に立たされながら、自分はいったい何をしたのだろうと考えていた。


 呼び出されること自体は珍しくない。屋敷の運営について相談を受けることもあれば、使用人の配置や物資の購入について報告することもある。しかし今日は、部屋へ入った瞬間から明らかに様子がおかしかった。シルヴェスターは執務机の向こうで両手の指を組み、怖いほど真剣な顔をしてこちらを見ている。その隣にはヴェロニカが立っており、こちらも腕を組んで、まるで今から重大な証言を求めるかのような目で家令を見つめていた。


 二人とも、何も言わない。


 その沈黙が妙に長いせいで、家令の背中には薄く汗が滲み始めていた。何かあっただろうか。昨日の晩餐で出した肉の火入れが少し強かった件なら料理長から報告を受けているが、辺境伯夫妻が揃ってこれほど深刻な顔をするような問題ではない。あるいは使用人の誰かに不正でも見つかったのか。それとも、最近屋敷の一角へ運び込まれる紙やインクの量が明らかに増えている件について――いや、それを増やしているのは目の前の二人である。


「これを…読んでください。」


 ようやくシルヴェスターが口を開いた。


 差し出されたのは、三十枚ほどの紙束だった。家令は両手でそれを受け取り、少々戸惑いながら表紙も何もない一枚目へ視線を落とした。


「こちらは?」


「漫画です。」


「……まんが?」


 聞いたことのない言葉だった。


 改めて紙を見る。そこには見事な絵が描かれていた。巨大な魔物と、その前に槍を持って立つ銀髪の青年。その周囲には四角い枠がいくつもあり、それぞれに別の絵が収められている。さらに人物の頭付近には丸い囲みのようなものがあり、その中に文字まで書かれていた。


「どうぞ。」


 ヴェロニカに促され、家令は「はい」と答えて読み始めた。


 ――つもりだった。


 一分ほど経った。

 まだ一枚目だった。


 さらにもう一分ほど経ったところで、シルヴェスターの眉が僅かに寄った。


「……どうしました?」


 家令は非常に言いづらそうに顔を上げ、しばらく迷ってから、とうとう尋ねた。


「申し訳ございません。これは……どちらから、どう読めばよろしいのでしょうか。」


 シルヴェスターが止まった。

 ヴェロニカも止まった。


 二人は互いの顔を見て、それから同時に家令が持っている紙束へ視線を落とした。


「……そこからか。」


「そうですね。」


 ヴェロニカが呟き、シルヴェスターもかなり真剣な顔で頷く。


 そこからだった。


     ◇


「まず、右上です。」


「右上。」


「はい。基本的には右から左へ。それから上から下です。この四角い枠一つ一つを、コマと呼びます。」


「こま。」


「で、この丸いのが吹き出し。中の文字が人物の台詞です。」


「なるほど。では、こちらの『ドン』という文字は?」


「それは効果音、その場面で聞こえてくる音を表しています。」


「誰かが『ドン』と言っているわけではない?」


「違います。」


「なるほど……。」


 家令は非常に真面目に頷いた。今度こそ読み始めたかと思ったのだが、二ページ目へ進んだところで、また手が止まる。


「旦那様。」


「はい。」


「こちらの青年は、先ほどこちらにおりましたね。」


「はい。」


「この次の枠では、少し離れた位置におります……これは、その間を省略しているのでしょうか。」


「……そうです。」


「なるほど。」


 ヴェロニカは思わずこめかみを押さえた。


 映像的な省略。視点の切り替え。顔のアップ。背景のないコマ。吹き出しの形。目線の誘導。漫画を漫画として読む人間なら、いちいち説明されなくても理解するものが、初めて見る人間には何一つ自明ではない。


「こちらの黒い線は?」


「動いている表現です。」


「実際に線が出ているのではなく?」


「出てません。」


「では、この青年の背後が真っ黒なのは。」


「感情表現です。」


「実際に暗くなったわけではない?」


「なってません。」


「……難しいですね。」


 その通りだった。


 漫画を読むという行為は、文字を読むこととも、絵を眺めることとも違う。文字と絵、それぞれの配置、場面と場面の省略、さらに記号化された表現まで同時に理解し、頭の中で一続きの時間へ組み立てなければならない。


 ヴェロニカは思わず目を閉じた。


 もし自分が、生まれてから一度も漫画を見たことがなかったら。突然、四角い枠がいくつも並んだ紙を渡されて、本当に自然に読めるだろうか。


 考えてみたが、まるで想像できなかった。


 二十年以上も漫画を読んできたせいで、吹き出しなら台詞、ギザギザなら叫び、点線なら小声と、ほとんど文字を読むのと同じ感覚で理解してしまう。人物の顔が大きく描かれれば感情へ注目し、黒い背景なら不穏さを感じ、縦に細長いコマなら速度を意識し、見開きなら大場面だと受け取る。そういう無駄に蓄積された知識が、頭の奥底へ詰まりすぎているのだ。


「……オタクには、漫画を知らない人間の頭を想像するの難しすぎるな。」


「僕も同じです。今まで何千冊読んだか分かりませんし。」


「私も数えたことないわ。」


 その会話を聞いていた家令が、少し困惑した顔で二人を見る。


「おたく、とは。」


「そこは気にしなくていいです。」


「左様でございますか。」


 家令は素直に引き下がった。


 改めて、一ページずつ読み方を説明していく。家令は元々理解力の高い男である。基本的な規則さえ分かれば、その後は徐々に読む速度も上がっていった。


 ようやく、物語そのものへ入る。


 ヴェロニカとシルヴェスターは、家令が原稿をめくっていくのを無言で待った。


 銀髪の青年――レオンハルトが、巨大な魔物を一撃で倒す。高所からそれを眺めて笑う王族と、横で危険性を訴える聖職者。そこから数百年前の魔王討伐へ遡り、呪いが残され、黒い紋を持つ赤子が生まれ、幼いレオンハルトが王宮へ連れ去られていく。厳しい訓練、戦場、そして現在。古代遺物を探すよう命じられたところで、家令が一度顔を上げた。


「何です?」


 シルヴェスターがやや前のめりになる。


「こちらの王族の方は、なぜ笑っていらっしゃるのでしょう。」


「悪役だからです。」


 ヴェロニカが即答した。


「悪役。」


「悪い奴です。」


「しかし、人間を兵器として使用しているのですよね。」


「そうです。」


「そのようなことを公然と行えば、臣民や他の貴族から批判されませんか? それに、これほど強大な魔力を持つ方であれば、兵器ではなく英雄として扱い、本人の忠誠心を得た方が長期的には――」


「家令。」


「はい。」


「そこは、悪い王家なので。」


「なるほど。」


 納得したような、していないような顔で、家令は再び原稿へ目を落とした。


 数ページ後、また止まる。


「この呪いは、なぜ数百年後に突然発現したのでしょう。」


「…………。」


「血が薄まれば、むしろ発現しにくくなるようにも思えますが。」


「僕もそれは少し気になって――」


「お前は黙ってろ。」


「はい。」


 シルヴェスターが静かに引き下がる。


 さらにページをめくり、赤子が出てくると、家令はまた眉を寄せた。


「こちらの赤子は、先ほどの青年でしょうか。」


「そうです。」


「もう少し分かりやすくしてもよろしいかと。」


「……検討します。」


 やがて場面は地下研究室へ移り、エレノアが魔術実験を行った結果、天井の一部が崩れる。そこまで読んだところで、家令の眉がまた深く寄った。


「この女性は、王立研究機関の職員なのですよね。」


「そうです。」


「施設を破壊しておりますが、修繕費用はどこから?」


「そこ気になる!?」


 ヴェロニカが思わず声を上げた。


「いえ、公的研究施設ですので。」


「物語だから!」


「しかし現実であれば。」


「漫画だ!」


「……申し訳ございません。」


 何が悪かったのか分からないという顔で謝られた。


 頭が硬い。


 そう思いかけて、ヴェロニカは考え直した。


 もしかすると、違うのかもしれない。


 この世界には、そもそも自分たちが前世で山ほど浴びてきた「物語のお約束」が存在しない。


 悪役なら多少不自然なくらい悪くても、読者は「そういう奴なのだ」と受け入れる。研究者は研究室を爆発させることがあるし、強い主人公は幼少期に大抵ひどい目に遭っている。古代の呪いが数百年後に突然発現しても、物語なら「何か理由があるのだろう」と、とりあえず先を読む。


 そういう、何となく共有されている型すら、この世界ではまだ育っていないのだ。


「……難しいな。」


「難しいですね。」


 シルヴェスターも真剣だった。


 家令はその後も何度か質問しながら、どうにか最後まで読み終えた。紙束を丁寧に揃えてから、机へ戻す。


「いかがでした?」


 シルヴェスターの声が僅かに硬い。


 家令はすぐには答えず、少し考えてから言った。


「私は、物語そのものよりも、まずこの読み方に慣れる必要がありそうです。」


「……ですよね。」


「ただ、絵は大変見事かと。戦闘の場面などは、動いているように感じました。」


「そうですか。」


「はい。それと。」


 家令は一枚目と、最後に近いページを見比べた。


「このレオンハルト様という方は、旦那様に大変よく似ておられますね。そしてこちらのエレノア様は、奥様に。」


 今度は二人とも止まった。


 互いを見る。


 シルヴェスターが先に視線を逸らし、ヴェロニカも少し遅れて原稿へ目を落とした。


「……たまたまです。」


 シルヴェスターが言った。


「偶然です。」


 ヴェロニカも続ける。


「左様でございますか。」


 家令は、それ以上何も言わなかった。


 ただ、少しだけ口元が緩んでいた。


     ◇


 試読は、その後も続いた。


 騎士、侍女、若い事務官、料理人。できるだけ年齢も立場もばらけるよう、数人を選んで読んでもらったのだが、ほぼ全員が最初に同じところでつまずいた。


「どちらから読むのですか?」


「これは誰が喋っているのでしょう。」


「この『ガァン』は台詞ではない?」


「この枠から次の枠へ、時間はどれくらい経っていますか?」


 何度同じ説明をしたか分からない。やがてヴェロニカは、「右から左。上から下。吹き出しが台詞。こういう字は音。基本的に隣のコマへ時間が進みます。ただし場面転換もあります」と、ほとんど口が勝手に動く程度には慣れていた。


 しかし、読み方に慣れ始めると、反応にはそれぞれの個性が出た。


 騎士はやはり戦闘場面へ食いついた。


「この魔物、格好いいですね。」


「ですよね?」


「でもこの槍、少し細くありませんか?」


「……細くない。」


「レオンハルトほどの魔力があるなら、もう少し太くても振れるかと。」


「ほら。」


 隣にいたシルヴェスターが、勝ち誇るでもなく淡々と言った。


「何がほらだ。」


「僕も言いました。」


「お前まで敵側につくな。」


「友達でもそこは譲れません。」


「まだ使ってんのか、それ。」


 一方、侍女の場合は関心を持つところが少し違った。


「このお二人は、最後にはご結婚されるのですか?」


「まだ決めてません。」


「恋愛のお話なのですよね?」


「…………。」


 ヴェロニカとシルヴェスターは互いを見た。


「そこを今考えています。」


「まあ。」


 侍女は少し楽しそうに笑った。


 別の若い侍女は、一通り読んだ後に「私はエレノア様の方が好きです」と言った。


 ヴェロニカが嬉しくなって、身を乗り出す。


「どうしてですか?」


「とても格好いいですし、物怖じしないので。ただ、レオンハルト様は少し怖いです。」


 隣でシルヴェスターが僅かに硬くなった。


 ヴェロニカは横目でその顔を見る。


「お前じゃないぞ。」


「分かっています。」


「顔が似てるだけ。」


「分かっています。」


「じゃあ落ち込むな。」


「落ち込んでません。」


 声はいつもより大分小さい。


 しかし、逃げなかった。


 侍女が部屋へ入ってきた時には明らかに身体が強張っていたし、視線もほとんど正面から合わせていない。それでも以前のように部屋の隅へ逃げたり、魔法で紙だけを飛ばして会話を終わらせたりはしなかった。


 自分の描いたものを読んでいる。

 相手は何を思うのか。どこでページをめくる手が止まり、どの絵を長く見るのか。どの人物を好きになり、どこを分かりにくいと思うのか。


 そちらの方が、恐怖より少しだけ気になるらしい。


 ヴェロニカはそんな様子を見ながら、将来の読者として認識したら、人間も多少怖くなくなるのだろうかと考えた。


 だとしたら、とんでもない治療法である。


     ◇


 第一話が完成して以降、二人の生活そのものにも、小さな変化が生じていた。


 単純に、やることが増えたのだ。


 次話の構成を考え、試読結果を整理し、漫画の読み方をどう説明するか検討する。紙や印刷、作画道具、読者層について考える必要もあるし、何より、レオンハルトとエレノアをいったいどうやって恋愛させるのかという未解決の大問題まで残っている。


 夜だけでは到底足りなかった。


 そのため、二人は朝食も可能な限り一緒に取るようになり、やがて昼食も夕食も同じ席で済ませるようになった。食事をしながら市場調査の結果を話し、試読者の反応を整理し、次に誰へ読ませるかを決める。そうしているうちに、いちいち互いの執務室を行き来することすら面倒になった。


「ここ、広いよな。」


 ある朝、ヴェロニカはシルヴェスターの執務室を見回しながら言った。


「私の机置けない?」


 シルヴェスターの手が止まった。


「……ここに?」


「私の仕事もこっちでやった方が早い。相談あるたび移動するのも面倒だし。」


「……。」


 シルヴェスターは少し考えるように黙った。その沈黙を拒否だと思ったわけではないが、ヴェロニカは念のため付け加えた。


「嫌ならいいけど。」


「いえ。」


 彼は首を振った。


「構いません。」


 その日の午後には、部屋へもう一つ大きな執務机が入った。


 結果として、昼間は同じ部屋でそれぞれの本業をする生活が始まった。シルヴェスターは領主として書類を読み、ヴェロニカも自分の担当業務を処理する。その時間だけは漫画へ触れない。二人とも基本的には真面目な仕事人間なので、趣味のせいで本業を遅らせることだけは許せなかった。


 ただし、休憩時間になれば別である。


「昨日の試読結果だけど。」


「はい。」


 即座に漫画の話へ戻る。

 その切り替えだけが、異常に速かった。


 もちろん、同じ部屋で仕事をする以上、女性の事務官がヴェロニカへ報告に来ることもある。そのたびシルヴェスターは一瞬身体を固くする。目は合わせないし、声も少し小さくなる。それでも、もう部屋から逃げることはなくなっていた。


 ある日、ヴェロニカは執務中のシルヴェスターを、しばらくじっと見ていた。


 彼は一枚の改修計画書を読みながら、薄く眉間へ皺を寄せている。


「……何です?」


 気付いたらしい。


「いや。」


「さっきから見てますよね。」


「今の顔。」


「顔?」


「めちゃくちゃレオンハルトっぽかった。」


「…………。」


「ちょっと感動した。」


「何に。」


「前世でコスプレ写真撮りまくってた人の気持ち、今なら分かる。」


「僕の方が先なんですけど。」


「ん?」


「レオンハルトが僕を参考にしているんです。僕がオリジナルです。」


 ヴェロニカは一瞬考えた。


「……たしかに!」


「何で今気づいたんですか。」


「いや、もうあいつを別人格として認識してた。」


「僕が描いてるのに。」


「でも今の顔使えるな。休憩になったらもう一回やって。」


「できません。」


「眉をこう。」


「できません。」


「役に立たないオリジナルだな。」


「勝手にモデルにしておいて何なんですか。」


 そして別の日の夕食では、逆のことが起きた。


 ヴェロニカが肉料理を口へ入れ、何気なく噛んでいた時、向かいに座っていたシルヴェスターが突然動きを止めた。


「……何。」


「動かないで。」


「は?」


 彼は急に立ち上がると、近くに置いてあった紙とペンを取り、猛烈な勢いで描き始めた。


「何してんだ。」


「今の顔。」


「顔?」


「エレノアっぽかったので。」


「どこが。」


「遺跡を何日も探索して保存食ばかり食べた後、久しぶりにまともな食事をした場面に使えそうです。」


「…………。」


「もう一度。」


「無理だよ。」


「同じように食べてください。」


「何の指示だそれ。」


 しかし、自分も似たようなことをしている以上、強くは言えない。ヴェロニカは仕方なく肉をもう一切れ口へ入れた。


「こう?」


「もう少し嬉しそうに。」


「注文多いな!」


 シルヴェスターは真剣だった。


 それがまた可笑しい。


 気が付けば二人は、お互いを人物資料として見るようになっていた。当人たちは、そのことに大した疑問も抱いていなかった。


     ◇


 しかし、漫画そのものをどう広めるかという問題については、なかなか答えが出なかった。


 何人に読ませても、必ず最初に「漫画の読み方」の講習が必要になる。このままでは先が長い。


「一冊の頭に説明書付ける?」


「可能ですが、娯楽を読む前に説明書を読ませる時点で少し……。」


「だよな。」


「もっと直感的に読める方法があるのかもしれません。」


「でもコマ割り崩すと漫画じゃなくなるし。」


「そうですね。」


「うーん。」


 二人して完全に煮詰まったところで、いったん議論を中断することにした。天気も良かったので中庭へ出ると、白い鉄卓の上へ第一話の原稿を置く。


 そして、その横にはもう一つ。


 先日取り寄せた鞭があった。


「では、まずあちらの丸太を叩いてみてください。」


 シルヴェスターは紙とペンを持ちながら、非常に真剣な顔をしていた。


 ヴェロニカは鞭を手に取る。


「言っとくけど、私も使ったことないぞ。」


「分かっています。だから確認します。」


「……これ本当にヒロインの武器で大丈夫か? 巻き付けて敵の腕を引っ張るとか、崖を渡るとか、実際できるのかな。」


「だから動きを見ます。」


「お前、描いた後で実証するのやめろよ。」


 試しに振ってみる。


 見事に地面を叩いた。


「……難っ。」


「もう一回。」


「簡単に言うな。」


「今の腕の動きが良かったです。」


「私は失敗したんだけど。」


「絵としては使えます。」


 もう一度。


 今度はどうにか丸太の端に当たった。


「お。」


「待って。」


 即座にシルヴェスターのペンが動く。


「そのまま。」


「無理。鞭重い。」


「もう少しだけ。」


「早くして。」


 庭の一角で、妻が鞭を振るい、夫が真剣な顔でその姿を観察しながら絵を描いている。少し離れたところを歩いていた使用人が一度二人を見て、それから何も見なかったことにするように、そっと視線を逸らした。


 傍から見れば相当おかしい。


 しかし今の二人には、そんなことはどうでもよかった。


「次、横から振ってください。」


「はいはい。」


「できれば腰から、体全体で。」


「注文多いんだよ。」


「作画資料なので。」


「友達に鞭振らせて偉そうだな。」


「友達だから頼んでるんです。」


「便利に使うな、その言葉。」


 そんなことを続けているうちに、二人はほぼ同時に溜息をついた。


「……先長いな。」


「長いですね。」


 漫画文化の隆盛など、まだ恐ろしく遠い。そもそも一話作っただけで、読み方すらほとんど伝わらない。漫画を安価に大量印刷する方法も分からなければ、道具だって足りない。


 このまま二人だけで漫画を作り続けたところで、誰にも読めなければ、結局は自分たちだけの遊びで終わる。


 それでも構わない気も、少しだけする。


 けれど。

 できることなら、他の誰かにも読んでもらいたい。


 そしていつか、自分たち以外の誰かが作った漫画を読みたい。


「これ、当主様が描いたんですか?」


 突然、声がした。


 二人が振り向くと、中庭の鉄卓の前に少年が一人立っていた。


 十一、二歳くらいだろうか。日に焼けた顔に素朴な服を着て、机の上へ置いてあった原稿を興味津々といった様子で眺めている。


「その紙、触らないで――」


 シルヴェスターが反射的に言いかけた時には、少年はもう一枚目を持ち上げていた。


「すげえ。」


 目が輝いている。


「この魔物、めっちゃでかい。」


 ヴェロニカとシルヴェスターは顔を見合わせた。


 少年は紙を見たまま、首を傾げる。


「これ、どっちから読むんですか?」


「右上。」


 ヴェロニカは答えた。


「右から左。それから下。」


「ふーん。」


 少年は読み始めた。


 最初のページを数秒眺めたところで、吹き出しを指差す。


「これ、喋ってんの?」


「そう。その丸い中の文字。」


「じゃあ、このデカい字は音?」


「そう。」


「ふーん。」


 それだけだった。


 次のページへ進むと、もう聞かない。


「うわ。この人めっちゃ強い。」


 レオンハルトが大型魔物を槍で貫く。


 その次のページでは、王族を見るなり、


「こいつ悪い奴だな。」


 と言った。


 さらにページが進み、数百年前の過去へ入る。


「え。この人が魔王倒したの?」


「そう。」


「じゃあ呪われた?」


「そう。」


 ページをめくる。

 黒い紋を持つ赤子が出てくる。


「これ、さっきの強い人?」


 ヴェロニカの目が見開いた。


「……そう。」


「やっぱり。」


 分かっている。

 説明しなくても。


 さらに幼いレオンハルトが王宮へ連れて行かれる場面になると、


「うわ……六歳で連れてかれんの?」


 訓練、戦場と読み進めながら、


「かわいそう。」


 と呟いた。


 シルヴェスターが、じっと少年を見る。


 少年は構わずページをめくっていく。


「こいつら人間なのに酷いな。」


 現在へ戻り、遺跡探索の命令が出る。


 やがてエレノアが登場する。


「この女の人強い?」


「そこそこ。」


「この鞭使うの?」


「そう。」


「かっこいい。」


 ヴェロニカの口元が緩んだ。


「でしょ?」


「うん。」


 少年はどんどん読む。


 速い。

 家令も騎士も侍女も、何度も途中で止まった。しかしこの少年は、一度基本的な規則を教えただけで、吹き出しにも、コマの順番にも、場面転換にも、もうほとんど迷っていない。


 やがて最後のページへ辿り着く。


 レオンハルトとエレノアが、互いに険しい顔で同じ馬車へ乗っている。


「この二人、仲悪いな。」


「最初はな。」


「でも結婚すんの?」


「まだそこまで決めてない。」


「ふーん。」


 少年はそう言って、ページをめくった。


 しかし、もう紙はない。


 もう一度、最後の一枚をめくってみる。


 裏を見る。

 何もない。


 少年が顔を上げた。


「続きは?」


 ヴェロニカも、シルヴェスターも動かなかった。


「え?」


 ヴェロニカが聞き返す。


「続き。」


「……読みたい?」


「読みたい!」


 即答だった。


「次いつできるんですか?」


 シルヴェスターの目が僅かに見開かれている。


 ヴェロニカも、しばらく言葉が出なかった。


 面白い。絵が上手い。そう言われるのも、もちろん嬉しい。


 けれど。


 ――続きが読みたい。


 それは少し違った。


 絵そのものでも、珍しい読み方でもなく、物語のその先を、この子は欲しがっている。自分たちが頭の中で考え、一か月以上掛けて紙の上へ作ったものを、ここで終わらせず、もっと先まで見たいと言っている。


「……続きを作る。まだ決めてないけど。」


「できたら読んでいい?」


「いいよ。」


「やった!」


 少年は満面の笑みになった。


「これ、本当に当主様が描いたんですよね?」


「……はい。」


 シルヴェスターが答える。


「すげー! 絵めちゃくちゃ上手い!」


「……ありがとう、ございます。」


 領主が、庭師の息子らしい十一歳の少年へ敬語になった。


 ヴェロニカは吹き出しそうになるのを必死に堪えながら、少し離れたところにいた従者へ尋ねた。


「あの子は?」


「庭師の息子でございます。今日は父親について来ているようで。」


「歳は?」


「十一だったかと。」


 少年は最後にもう一度原稿を眺めると、


「次できたら絶対教えてください!」


 と言い残し、庭の向こうへ走っていった。


 残された二人は、しばらく何も言わなかった。


 少年が消えた方角と机の上の原稿を、交互に見る。


「……子供って、すごいな。」


 ようやくヴェロニカが言った。


「ほとんど説明していません。」


「右から読めと、吹き出しと効果音くらい。」


「場面転換も普通に理解していました。」


「赤ん坊がレオンハルトだって、家令より早く分かったぞ。」


「……はい。」


 二人はまた原稿を見る。


 しばらくして、シルヴェスターがゆっくり口を開いた。


「僕たち、少し方向を間違えていたかもしれません。」


「広め方?」


「あるいは。」


「読者層、か。」


 ヴェロニカは、以前書店で行った市場調査を思い出した。


 子供向けの冒険物語は、確かに売れていた。

 英雄、魔物、戦闘、武器、魔法、分かりやすい悪役。そして絵。


 考えてみれば、先ほどの少年が食いついたものばかりである。


「……そうか。」


 思考が一つに繋がった瞬間、ヴェロニカの目が輝いた。


「少年漫画だ!」


 シルヴェスターも一瞬目を見開く。


「少年向け。」


「そう! 冒険! 戦闘! 魔王! 遺跡! 格好いい武器!」


「恋愛も入りますが。」


「少年漫画に恋愛がないと思ってるのか!?」


「ありますね。」


「あるだろ! 少年○ャンプ! ○ンデー! ○ガジン!」


「混ぜないでください。」


「細かいな!」


 別に、作品そのものを完全な子供向けへ作り替える必要はない。


 問題は、広め方だった。


 ヴェロニカはもう一度原稿を見ながら、頭の中で考える。


「まず子供に読んでもらおう。」


「漫画の文法を覚えてもらう?」


「そう。子供の方が、こういう新しい読み方に抵抗が少ない。そこから兄弟や親へ。」


「侍女も二回目は一回目より早かったです。」


「慣れれば大人も読める。」


「そういうことだ。」


 二人は顔を見合わせた。


 ほんの僅かではあるが、道が見えた気がした。


 漫画文化の隆盛までは、まだ恐ろしく遠い。漫画を安価に大量印刷する方法も定まっていなければ、安価な紙もなく、作画道具も不十分である。第二話すらまだできていないし、レオンハルトとエレノアをどうやって恋愛させるのかについても、まったく答えは出ていない。


 それでも、今日。


 たった一人ではあるが。


 続きを待つ読者ができた。


「……次。」


 シルヴェスターが原稿へ目を落とした。


「作らないといけませんね。」


「そうだな。」


「待っている人がいます。」


「十一歳一名。」


「一名でも読者です。」


「だな。」


 シルヴェスターの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 ヴェロニカも笑った。


「よし。休憩終わり。」


「仕事に戻ります?」


「戻る。」


「第二話は。」


「夜まで我慢。」


「……はい。」


「今からやる顔するな。まだ勤務時間だぞ。」


「分かっていますって。」


 二人は完成した第一話を抱え、並んで屋敷へ戻った。


 そして、その日の夜。


 第二話の制作会議は、予定より少しだけ早く始まった。


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