第十二話 取材です。決してデートではありません。
第二話の構成は、第一話よりも明らかに難しかった。
第一話には、レオンハルトとは何者なのか、なぜ次代の魔王となる宿命を負っているのか、どうして幼い頃から王家の兵器として扱われることになったのか、そしてエレノアが何者で、なぜ彼と共に旅へ出るのかという、説明しなければならない情報が山ほどあった。
三十ページ前後の中へそれらを押し込む作業は相当に大変だったが、逆に言えば描くべきもの自体には困らなかったのである。
ところが第二話からは違う。二人はもう旅へ出ている。ここからは説明ではなく、物語そのものを動かさなければならない。
最初の遺跡へ向かい、まだ互いを信用していないレオンハルトとエレノアの旅を描き、遺跡内部では最初の仕掛けを解かせたい。魔物との戦闘も入れたいし、魔王の覚醒を狙う魔族側の存在もそろそろ匂わせたい。さらに、恋愛物として始めた以上、二人の関係にもごく僅かでいいので変化を入れる必要があるのではないか、とヴェロニカは考えていた。
「多いです。」
夕食後の執務室で、ヴェロニカの案を一通り聞いたシルヴェスターは、机の上へ置かれた構成案を見ながら即座にそう言った。
「第一話の時も聞いた。」
「聞いたのなら学習してください。これを全部三十ページに入れるのは無理です。」
「じゃあ四十ページ。」
「増やせばいいという話ではありません。」
「遺跡探索を削るか?」
「第一の遺跡へ入る回なのにですか?」
「じゃあ魔族は次話へ回す。」
「それはありだと思います。」
「でも最後に引きが欲しい。」
「遺跡の奥に何か異常なものでも置けばいいでしょう。」
「魔族?」
「……一回魔族から離れてください。」
このようなやり取りは、第一話を作っていた頃から随分増えた。
ヴェロニカは面白そうなものを思いつけばとにかく積みたがり、シルヴェスターはそのたびに「入りません」「説明不足です」「設定として不自然です」と止める。だが、止められた案が完全に消えることは少なく、そこから別の要素へ形を変えて残ることも多いので、二人とも今ではある程度この衝突に慣れていた。
しかし第二話の制作に入ってから、シルヴェスターの細かさが特に酷くなった分野が一つある。
戦闘だった。
「だから、この動きは実際にはしません。」
「またそれか。」
シルヴェスターが指差したのは、狭い遺跡の通路でレオンハルトが魔物へ槍を横薙ぎに振るう場面だった。
ヴェロニカとしては、壁際へ追い詰められたところから一気に槍を振り抜く、かなり格好いい構図を想定している。
「この通路幅でこれだけ長い槍を振るえば、穂先か石突きが壁へ当たります。敵との距離を考えても、ここでは突く方が合理的です。」
「じゃあちょっと短く持って振る。」
「それなら最初から短い武器へ持ち替えます。」
「でも横薙ぎの方が絵として格好いいんだよ。」
「格好いいために不合理な戦い方をするんですか。」
「漫画だぞ。」
「でも、実際の戦闘とは違います。」
「誰が分かるんだよ、そんなこと。」
「僕が分かります。」
ヴェロニカは両手で額を押さえた。
「お前、第一話からずっとそれじゃないか。槍の重心がどうだ、鎧の可動域がどうだ、魔物相手にその間合いは取らないだ、振り下ろした後にこんな隙は作らないだ。こっちは戦闘なんかしたことないんだよ。」
「だから言っているんです。」
「何を。」
「経験が足りません。」
なるほど。
そこまで言うなら。
ヴェロニカは数秒黙った後、ゆっくりと顔を上げた。
「分かった。」
「何がです?」
「そんなに現実は違う、実戦は違うと言うなら、実地で見せてもらおうじゃねえか。」
シルヴェスターが瞬きをする。
「……はい?」
「取材だ。魔物討伐に行くぞ。」
「あなたも?」
「私は見るだけ。」
「戦わないんですか。」
「お前と違って、こっちは没落寸前の貧乏伯爵家に転生させられてんだぞ。剣も魔法も習ってる暇があったら、子供の頃から家計と使用人の給金と弟の学費の心配してたわ。」
「……すみません。」
「何で謝る。」
「僕だけ色々持っているので。」
「そうだな。金も権力も顔も魔力もある。」
改めて考えると腹が立つほど揃っている。
豊かな領地を持つ若い辺境伯で、魔力は規格外。剣も武器も一通り扱え、顔もどう見ても美形で、仕事もできるうえに絵まで異常に上手い。転生特典というものがもし本当にあるのなら、かなり盛られた側だろう。
ヴェロニカはそこで、何気なく笑った。
「それだけ持ってて、何でたかが女だけそんなに怖いんだよ。前世で女にでも殺されたのか?」
単なる冗談だった。
ところが、その言葉を聞いた瞬間、シルヴェスターの表情が完全に止まった。
ペンを持った指が動かなくなり、次いでごく僅かに震えた。ゆっくりと口元を手で覆い、視線を落とす。さっきまで普通だった顔色が目に見えて悪くなり、額には薄く汗まで浮かんでいた。
ヴェロニカはすぐに笑みを消した。
以前、本屋について尋ねた時にも似た反応を見ている。だが今回は、それよりもはっきりしていた。
これは、地雷を踏んだ。
「……ごめん。」
ヴェロニカはすぐに言った。
「今のはなし。どうでもいいことだった。」
「い、え……。」
「いや、答えなくていい。忘れろ。」
詳しく知りたい気持ちがないわけではない。むしろ非常に気になる。しかし、明らかに本人がまともに話せる状態ではないことくらいは分かる。
ヴェロニカはそこで追及を完全に諦め、少し考えてから手を叩いた。
「よし。今日のお前はもうシルヴェスターじゃない。」
「……え?」
「レオンハルトだ。」
シルヴェスターが、まだ顔色の悪いまま僅かに目を上げた。
「レオンハルト。」
「そう。前世がどうした。今の我々は異世界転生済みのオタクだぞ。そして目的は取材だ。お前はたっぷり異世界コスプレして、レオンハルトになったつもりで全力で戦え。」
「……コスプレですか。」
「そうだ。」
「したことありません。」
「私もない。」
「では何をどうやれば。」
「衣装と雰囲気とノリでどうにかなる。」
「強引すぎませんか。」
少しだけ声が戻った。
ヴェロニカは内心で安堵しながら、そのまま勢いに任せる。
「何を言っている。オタクとは元来、空気を読まずに『うわ、これだから俄は困る』と勝手に悦に入り、世界を常に斜めから観測し、自分だけが分かっているような顔をする選ばれし者たちだぞ。周囲がいたたまれなくなろうとも、我々自身が恥じることは何もない。」
「貶しているのか褒めているのか分かりません。」
「両方だ。」
「威張らないでください。」
完全に元通りではない。それでも、先ほどのような固い表情は少し薄れていた。
◇
そうしてヴェロニカは、クローデル家へ嫁いでおよそ五か月にして、初めて自分の意思で一日の休暇を取ることになった。
別に、この家が休暇を取りにくいわけではない。むしろ嫁いできた当初から、家令には何度か「少しお休みになっては」と勧められていた。
しかし、これまでのヴェロニカには、休んでまでしたいことが特になかったのである。
前世では学生時代に友人と遊び、絵を描き、漫画を読み、同人誌を作ったこともある。
けれど社会人になってからは、いつしか休日とは疲労を回復するための時間になっていた。
こちらの世界へ生まれてからは、家の事情や仕事、弟の将来を考えることばかりで、なおさら「自分が何をしたいか」という問いそのものを後回しにしていた。
だが、今は違う。
休みたいのではなく、休んでやりたいことがある。
魔物を見たい。武器を使うところを見たい。森を歩き、服の汚れ方や装備の重さや、実際の戦闘でどんな動きをするのかを確認したい。
帰ってきたらその資料を机に広げ、第二話の構成をまたシルヴェスターと詰めたい。
一日中机に向かって漫画を描くなら、見た目は仕事の日と大して変わらない。下手をすれば疲労だって仕事以上に溜まるかもしれない。
それなのに、その時間が欲しくて仕方がない。
こんな感覚は、二つの人生を通して初めてだった。
これからは、一週間に一日くらい休暇を取ってもいいかもしれない。
目の前の男と一緒に。
「明日は、お休みになられるのですか。」
明朝出掛ける旨を家令へ伝えると、彼は少し驚いた顔をした。
「はい。二人とも仕事の方は調整しています。シルヴェスターに魔物討伐の実戦を見せていただく予定です。」
「……旦那様と、お二人で?」
「そうですけど。」
家令の表情が妙なものへ変わった。近くにいた年嵩の侍女まで、なぜか口元を手で押さえている。
「何。」
「いえ。その……ようございました。」
「何が。」
「旦那様が女性と、しかも奥様と、お二人で遠出される日が来ようとは。」
「大げさですよ。」
ヴェロニカは半ば呆れながら隣を見た。
その本人は。
「じょ、女性と二人で……。」
顔が青かった。
「お前まで何で重大発表みたいな顔してるんだよ。」
「改めて言われると……。」
「相手は私だぞ。」
「……はい。」
「友達。」
「友達。」
「同僚。」
「はい。」
「相棒。」
「はい。」
「同志。」
「はい。」
「原作担当。」
「原作担当。」
不思議なほど、一つずつ言い重ねるたびに顔色が戻ってくる。
「そうだ。明日は取材。決してデートなどではない。」
「デ、デート!?」
今度は一気に血の気が引いた。
言わなければよかった。
「デートではないって言ってるだろ!」
「わ、分かっています!」
「そうだ。取材だ。よし、どうせなら成果を最大化するぞ。衣装もレオンハルトとエレノアに近付ける。私は鞭を持つ。お前は槍。」
「槍ですか。」
「使える?」
「一通りは習得しています。」
「一通り?」
「はい。ただ、最近は魔法で済ませることが多いので、槍は久しぶりですが。」
ヴェロニカはしばらく黙った。
やはりこの男、普通にチートではないだろうか。
◇
翌朝、準備を終えたシルヴェスターが出てきた瞬間、ヴェロニカは昨日自分が「恥じる必要はない」と大演説していたことを完全に忘れた。
黒を基調にした軽装の旅装。動きを妨げない細身の上着に、肩と胸元だけを守る金属と革の防具。腰には短剣。手には黒い長槍。頸に毛先が触れる程度の銀髪も、普段より少しだけレオンハルトの造形へ寄せて整えられている。
別に本格的な仮装ではない。
この世界では、戦闘を想定した普通の装備である。
だが。
「……すご。」
思わず声が漏れた。
「レオンハルトがいる。」
「僕ですけど。」
「知ってる!」
ヴェロニカは思わず周囲を回り込み、横から後ろからじろじろと眺めた。
「うわぁ、完成度たっか。イケメンってすごいな。」
「何ですか、その感想。」
「取り敢えずサインもらっていいっすか。」
「誰のです?」
「レオンハルト。」
「僕が描いているんですが。」
「そうか。じゃあ色紙渡したら描き下ろしイラストも付く?」
「あなた、さっきから何を言ってるんです?」
シルヴェスターは頬が赤くなり始めたのを隠すように小さく咳払いして、それからヴェロニカを見る。
「あなたもエレノアですよ。」
「私はやっぱりちょっと恥ずい。」
「さっきと言っていること違いません?」
「それとこれとは別だ。」
「僕もサインをいただいても?」
「勘弁してくれ。」
「分かりました。もうそろそろ出ないと森の奥まで行けません。行きましょう。」
わずかに笑ったように見えた。
「今笑った?」
「笑ってません。」
「絶対笑った。」
「取材に遅れます。」
逃げられた。
◇
魔物が生息する森までは、馬車で移動した。
領都からそれほど遠くはない。騎士団が定期的に間引きを行っているため、危険度もそこまで高い場所ではない。
それでもヴェロニカにとっては十分だった。
馬車には森の近くで待機しておいてもらい、二人で森へ分け入る。
歩いて一時間ほど経った頃、最初の魔物が現れた。
猪に似ている。
ただし普通の猪より一回り以上大きく、額には短い角が生えていた。
ヴェロニカはすぐに木板へ紙を固定し、ペンを持った。
「来たな。」
「後ろへ。」
「分かってる。できれば魔法なしで頼む。」
「本気ですか。」
「槍の動き見たい。」
「……分かりました。」
シルヴェスターが前へ出た。
魔物が地面を蹴る。
速い。
真正面から突っ込んでくる巨体に対して、シルヴェスターは受け止めようとはせず、僅かに身体をずらした。
すれ違う瞬間、槍の石突きを地面へ打ち込み、その軸を利用するように身体を回転させる。
長い槍が大きな弧を描き、魔物の首へ横から叩き込まれた。
ヴェロニカのペンが止まった。
普通に、格好いい。
魔法で巨大な狼を圧倒した時にも思ったが、武器を持って戦う姿はまた違う。身体の使い方がよく分かる。踏み込みは速く、軸がぶれない。
長い槍を扱うために腰から上半身が大きく捻られ、そのまま次の動作へ繋がっていく。
二撃目は突きだった。
狙いを定める時間などほとんどないように見えたのに、槍の穂先は正確に喉元へ入った。
魔物が崩れる。
「……。」
「どうしました?」
「……いや。」
ヴェロニカはようやくペンを動かした。
「もう一回。」
「無理です。」
「何で。」
「今の魔物は死にました。」
「……そうだった。」
「生き物なので、同じ動きは再現できません。」
「くそ。撮影機器が欲しい。」
「ありません。」
「知ってる。」
次の魔物が現れれば、また見る。
避け方。踏み込み。武器を持ち替える時の手。呼吸。服の皺。足場の悪い場所でどこへ重心を置くのか。
「今の避け方、後で再現して。」
「今ですか?」
「後で!」
「分かりました。」
完全に取材だった。
そして。
ものすごく楽しい。
ヴェロニカはラフ画と文字で紙を埋めながら、何度も思った。
ファンタジー世界、最高。
魔物がいる。
魔法がある。
現実に武器を振るう人間がいる。
しかも、その大半を実演できる、顔まで異常に整った作画担当がすぐ隣にいる。
恵まれすぎではないだろうか。
「何で笑ってるんです?」
「いや、何かすごく恵まれてるなと思って。」
「何が?」
「こっちの話。」
その時は、それ以上の意味を自分でも考えなかった。
◇
「では次はあなたです。」
「私?」
「エレノアの動きです。」
「来たか。」
安全な場所まで移動すると、今度はヴェロニカが鞭を持ち、シルヴェスターが紙とペンを構えた。
「まず普通に振ってください。」
「普通が分からねえ。」
「僕も鞭は専門外なので、何度かお願いします。」
「……二人とも素人だな。」
屋敷の庭でも一度振ってみたが、全然思い通りに動かせなかった。
鞭は見た目以上に扱いづらく、思った方向へ先端が飛ばない。
最初の一振りは地面を叩き、二度目は丸太の横を空振りした。
「難っ。」
「もう少し腕だけではなく身体ごと回してみてください。」
「簡単に言うな。」
「動きだけでいいです。」
「……失敗したんだけど。」
「絵としては使えますから。」
何度か繰り返すうち、少しだけ形になってくる。
シルヴェスターは真剣な顔でそれを描き続けた。
「次は台詞の時の表情を載せてください。」
「表情?」
「『少し教育が必要ですね』。」
その台詞か。ヴェロニカは嫌な顔をした。
「……少し教育が必要ですね。」
「硬いです。」
「お前が言えって言ったんだろ。」
「もっと上から。相手を完全に格下だと思っていて、それを隠す気もない感じで。」
「……お前、私を参考にしてエレノア作ったんだよな。」
「いや、エレノアはエレノアです。」
「今私の顔見ながら言ったよな。」
「資料としてです。」
「便利な言葉使いやがって。」
ヴェロニカは一度息を吐き、顎を少し上げた。相手を値踏みするように目を細め、口元だけ僅かに笑わせる。
「――少し、教育が必要ですね。」
シルヴェスターがじっと見る。
「ど、どう?」
「……もう少し愉悦を。」
「注文多いな!」
「……今のはただ怖いです。」
「お前がやれって言ったんだろ!」
「では次。『さあ、見せてもらいましょうか。あなたの実力とやらを』。」
「さあ、見せてもらいましょうか。あなたの実力とやらを。」
「目をもう少し細めてください。」
「こう?」
「……怖いです。」
「だからお前がやれって言ったんだろ!」
森の中へヴェロニカの声が響いた。
傍から見れば、かなり奇妙な光景だろう。
妻が鞭を持ち、夫がそれを見ながら真剣に絵を描き、時折「もっと上から」「もう少し口角を」と細かな指示を飛ばしている。
しかし、この場に第三者はいない。
ならばきっと何の問題もない。
◇
その後も二人は、森の中を進みながら取材を続けた。
魔物が現れれば戦闘を見る。
歩きながら旅装がどこから汚れるか確認し、休息時には武器をどの位置へ置くのかまで話し合う。
実際に現場へ出てみると、机の上だけでは思いつかなかったことが次々と見えてくる。
「やっぱ取材って大事だな。」
「ですね。」
「確かに実態と離れすぎてたら気になる人は気になるかも。こっちではこれが現実なわけだし。」
「はい。特に騎士や傭兵に近い仕事をしている方にとっては、日常ですから。」
「お前の細かさもたまには役に立つんだな。」
「……それ褒めてませんよね?」
「いや、褒めてるって。」
少し前を歩くシルヴェスターへそう返しながら、ふとヴェロニカは足元へ視線を落とした。
青白く光る、小さな花のようなものがあった。
「何だこれ。」
花なのに仄かに光っている。
何気なく屈み、指先を伸ばした。
「それに触らないでください!」
シルヴェスターの声が飛んだ。
しかし、遅かった。
花が開く。
淡い光を含んだ細かな粉が、一気に周囲へ舞い上がった。
「あ。」
――吸った。
そう思った直後、脚から力が抜けた。
膝が折れ、その場へ座り込む。腕で身体を支えようとしたが、手にも妙な震えがあり、思うように力が入らない。
「ヴェロニカ!」
シルヴェスターがすぐに戻ってきた。
先ほどまで魔物相手に戦っていた時よりも、よほど速かった気がする。
迷わず目の前へ膝をつき、顔を覗き込む。
「意識はありますね。呼吸は?」
「普通。」
「痛みは?」
「ない。ただ力が入らない。」
「手は動きます?」
「多少。」
「視界は。」
「見える。」
一通り確認した後、シルヴェスターが花を見る。そこでようやく、ほんの少しだけ表情が緩んだ。
「ドロイヴワースです。」
「何それ。」
「痺れ草の一種です。食べられるのを避けるため、刺激を受けると麻痺作用のある胞子を撒きます。毒性そのものは強くありませんし、命に関わるものでもありません。」
「麻痺か……どれくらい?」
「効果は三、四時間だと思います。」
「長いな。」
「……すみません。」
「何でお前が謝る。」
「この辺りには通常ほとんど生えません。もっと注意しておくべきでした。」
明らかに消沈している。
ヴェロニカはもう一度、青白く光る花を見た。
「しかしすごいな。」
「……何がです?」
「ファンタジー世界。」
シルヴェスターが呆れたように息を吐く。
「あなた今、動けないんですよ。」
「でもすごいだろ。触っただけで数時間身体が動かなくなる花だぞ。漫画に使える。」
「まず自分の心配をしてください。」
「死なないんだろ。」
「死にませんけど。」
「なら資料だ。」
「あなたは本当に……。」
だが、シルヴェスターも少し安心したらしい。
問題は、このままここで回復を待っていると、森を出る頃にはかなり遅くなることだった。
「三、四時間か。ここで待ったら、戻る頃には暗いな。」
「そうですね。」
二人とも黙った。
シルヴェスターがヴェロニカを見る。
すぐに視線を逸らす。
また見る。
「……その。レオンハルトなら。」
「ん?」
「こういう場合、エレノアを抱えて安全な場所まで戻るでしょうか。」
ヴェロニカは少し考えた。
作中の二人はまだ険悪だ。だがレオンハルトは合理的である。エレノアは遺跡探索に必要不可欠な専門家であり、動けなくなったのなら運ぶしかない。
「まあ、抱えるだろうな。」
「ですよね。」
「背負うより状態も確認しやすいし。」
「……はい。」
シルヴェスターが再び黙った。
顔色はまだ少し悪いのに、耳だけが赤い。
「では。」
「では?」
「僕も、その……エレノアが断らなければ。」
「私な。」
「はい。」
「できるのか?」
シルヴェスターは固まった。
額に薄く汗が浮いている。
しかし逃げはしなかった。
「……たぶん。レオンハルトなら。」
ヴェロニカは少し笑った。
なるほど。
本人としては無理でも、レオンハルトならできる。
それなら、それでいいのかもしれない。今後の漫画制作でも、夫婦としてこの先一緒に暮らしていく上でも、シルヴェスターがヴェロニカにだけでも必要な接触ができるようになって損はない。
もちろん、無理強いするつもりはない。
しかし本人がやってみようと言うのなら。
「じゃあお願いします、レオンハルトさん。」
「……はい。」
シルヴェスターは一度息を吸った。
「いや。分かった。」
「そこまで演技しなくていいぞ。」
「……はい。」
やはり無理らしい。
それでも彼は手を伸ばした。
一方の腕をヴェロニカの背中へ回し、もう一方を膝の下へ差し入れる。動作は、まるで機械仕掛けの人形のようにぎこちない。
しかし支え方そのものには危なげがなく、身体が持ち上がった瞬間にも重心はほとんど揺れなかった。
「……おお。」
「何です?」
「いや。こうなるのかと思って。」
「何が。」
「お姫様抱っこ。前世でも今世でも初めてだから。」
「感想それですか。」
シルヴェスターの腕は思った以上に安定していた。
考えてみれば当然である。先ほどまで魔物を相手に槍を振り回していた男なのだから、成人女性一人を運ぶ程度で身体が揺らぐはずもない。
「大丈夫ですか?」
「むしろお前に聞きたい。」
「僕は大丈夫です。」
「顔真っ青だぞ。」
「……歩きます。」
「はいよ。」
ヴェロニカはまだ動く腕をシルヴェスターの首へ回した。
その瞬間、身体が僅かに硬直する。
しかし腕は緩まなかった。
そのまま歩き出す。
そこで初めて、ヴェロニカは少し妙なことに気付いた。
近い。
今までにも原稿を一緒に覗き込むため、肩が触れるほど近付いたことは何度もあった。机の同じ辺へ並んで座り、袖が触れることも珍しくなくなっている。
しかし、身体そのものを預けて運ばれるというのは、まるで感覚が違った。
背中を支える腕。
膝裏へ回された手。
歩くたびに伝わる身体の動き。
服越しにも分かる胸元の硬さ。
体温。
そして、見上げればすぐそこにある顔。
情報量が多い。
非常に。
ヴェロニカは、自分の心臓が妙な調子で鳴っていることに気付いた。
落ち着け、と自分へ言い聞かせる。
目の前にいるのはレオンハルトではない。あれはシルヴェスターを参考に描かれた架空の人物で、こちらはその元となった本人である。
同じ日本から来た転生者で、友達で、相棒で、同志で、作画担当で――そこで思考が一度止まった。
そういえば。
夫でもある。
結婚して数か月も経つのに、今さらながらその事実だけが妙に生々しい意味を持って頭へ落ちてきた。
夫。
世間的にも法的にも、完全に夫である。
寝室は別々で、最初から男女の関係を求めないという約束までしているが、普通の夫婦であれば、当然その先にあるものも存在する。
――初夜。
そこまで考えた瞬間、ヴェロニカは自分の頭の中で急ブレーキを踏んだ。
待て。
初夜ということは、その先には子供という可能性まである。
さらに待て。
一体何を考えている。
しかし、一度そこへ意識が向いてしまうと、今まで単なる情報として認識していたものが、次々と別の意味を持ち始める。
この男は強い。
今日の戦闘も普通に格好良かった。
身体もよく鍛えられている。
仕事もできる。
絵は異常に上手い。
趣味も合う。
話していると楽しい。
自分が考えた物語を、誰より真剣に形へしてくれる。
金もある。
権力もある。
顔までいい。
そして、その男が自分の夫である。
ヴェロニカはしばらく黙った。
もしかして。
私の転生人生。
めちゃくちゃ恵まれているのでは?
「あの。」
シルヴェスターの声がした。
「あまり……見ないでいただけますか。」
「いや。」
ヴェロニカは現在の体勢を確認した。
「無理じゃないか? 顔そこにあるし。」
「……恥ずかしいです。」
声が小さい。
「そこはレオンハルトになりきったつもりでいこう。」
「無理です。」
「何で。」
「だって、あなたですから。」
ヴェロニカは眉を寄せた。
どういう意味だ。
その答えを考えるより先に、シルヴェスターの顔が一気に赤くなった。色白なので余計に目立つ。耳まで赤い。
「た、他意はありません!本当に!」
なぜだろう。
それはそれで、少し面白くない気もする。
何でだ。
ヴェロニカが自分でも理解できずにいるうち、進行方向に倒木が現れた。
シルヴェスターがそれを跨ぐ。
身体が少し傾いた。
「お。」
ヴェロニカは反射的に首へ回していた腕へ力を入れた。
身体が密着する。
二人とも止まった。
ヴェロニカも、自分の胸元が相手の身体へ触れたことをはっきり意識した。
シルヴェスターは完全に硬直している。
「悪い。今のは落ちそうになったから。」
「だ、大丈夫です。」
「お前の顔が全然大丈夫じゃない。」
「大丈夫です。」
「真っ赤だぞ。」
「歩きます。」
早口だった。
そのまま再び前へ進む。
ヴェロニカも、今度は少し黙った。
さっきより心臓がうるさい。
何だこれは。
分からない。
分からないことについて考え続けるのは性に合わない。
そこでヴェロニカは、知っている言葉へ無理やり戻すことにした。
「心配するな。」
「何がです?」
「我々はオタクであり、相棒であり、同志であり、原作と作画担当であり。」
「はい。」
「そして夫婦だ。」
「いいいい今それを言わないでください!」
「ごめん。思ったことが口から出た。」
「なぜ今!」
「オタクの性だな。」
「全部オタクのせいにしないでください!」
森の中へシルヴェスターの声が響いた。
◇
馬車へ着いた頃には、どう見てもシルヴェスターの方が疲れていた。
ヴェロニカを座席へ下ろし、まだ麻痺が残っているため体勢を整えてやると、自分は対面の座席へ座り込み、そのまま深く背もたれへ身体を預けた。
「大丈夫?」
「はい。」
「魔物相手より疲れてない?」
「気のせいです。」
「そうか。」
目を閉じている。
明らかに消耗している。
それでも、抱えた。
自分から。
途中で逃げもせず、最後まで運んだ。
これはかなりの進歩ではないだろうか。
そう考えながら、ヴェロニカの頭はすぐに別の方向へ移った。
レオンハルトが、麻痺したエレノアを遺跡の中で抱え上げる場面。
いい。
非常にいい。
まだ互いに信用していない時期だからこそ効く。
エレノアは平然としている。レオンハルトも表面上は冷静だが、必要以上に目を合わせない。読者だけが少し違和感を覚えるくらいでいい。
「……ふふ。」
思わず笑いが漏れた。
シルヴェスターが目を開ける。
「何です?」
「いや。」
「絶対何か考えていますよね。」
「別に。」
「……嫌な予感がします。」
「原作者には決定権がある。」
「何を入れるつもりです?」
「秘密。」
「……やめてください。」
「まだ何も言ってねえだろ。」
「顔で分かります。」
ヴェロニカは窓の外へ目を向けた。
今日は、かなりいい取材だった。
魔物。槍。鞭。森。痺れ草。
そして、お姫様抱っこ。
第二話へ使える材料が大量に増えた。
それだけではなかった気もするが。
そちらについてはまだ考えなくていいだろう。
◇
屋敷へ戻ったその日の夜。
麻痺が完全に抜けたヴェロニカがいつもの執務室へ向かうと、シルヴェスターはもう机へ座っていた。
今日の戦闘。槍の持ち方。魔物。森。旅装。
かなりの量のラフが、机の上へ広げられている。
「早いな。」
「忘れる前に描いておきたいので。」
「さすが。」
ヴェロニカはいつものように隣へ座った。
そこにもう違和感はない。
同じ机。
同じ紙。
同じ物語。
しばらくラフを確認した後、ヴェロニカは何気ない調子で言った。
「ところで。」
「何です?」
「今日、私を抱えてた時の構図、描ける?」
シルヴェスターのペンが止まった。
「…………。」
「作画資料として。」
「忘れました。」
「嘘つけ。」
「忘れました。」
「さっきまでの戦闘全部覚えてんのに?」
「そこだけ記憶にありません。」
「耳赤いぞ。」
「忘れました!」
「じゃあもっかい再現する?鏡も持ってきて。」
「しません!」
「作画担当だろ。」
「友達でもそこは譲れません!」
「そこに使うのかよ。」
結局その晩、抱き上げる場面の作画資料だけは作れなかった。
もっとも、ヴェロニカにはもう十分な記憶があったし、シルヴェスターも本当に忘れているようには到底見えなかった。
そして後日、完成した第二話の原稿には、動けなくなったエレノアをレオンハルトが抱え上げる場面が、かなり大きなコマで描かれることになる。
描いたのは、もちろんシルヴェスターだった。




