第七話 まず市場調査をしましょう。
漫画を描くことが決まった翌朝から、クローデル辺境伯家の業務報告書には、明らかな異変が生じ始めた。
それまでヴェロニカとシルヴェスターの間を行き来する書面は、少々余白の落書きが増えたとはいえ、あくまでも領政や屋敷の運営に関するものだった。北地区の水路補修、冬季備蓄、領都市場の動線改善、商人との面談結果。必要な情報を簡潔にまとめ、判断を求めるものには期限を付ける。そこへ時々、鹿の剥製や料理長のスフレについての絵が付く程度である。
ところが、その日のヴェロニカからの報告書には、通常業務の内容が終わった後、もう一つ見慣れない項目が追加されていた。
『漫画製作関連。
一、主人公は女性案を第一候補とする。
二、武器は槍。ただし双剣も捨て難い。
三、主人公の出自について、騎士家、傭兵家、没落貴族、孤児の四案あり。
四、魔獣との契約要素を入れたい。
五、主人公の兄または姉を敵側へ配置すると面白いかもしれない。
六、古代文明を入れたい。
七、昨日の翼竜を出したい。
八、あの元騎士もどこかで使いたい。
九、主人公の幼馴染を追加する案あり。
十、魔法学院も捨て難い。』
午後。
シルヴェスターから返ってきた紙には、通常業務への回答に続いて、漫画関連の欄もきっちり設けられていた。
『漫画製作関連。
一、主人公の目的を先に決めてください。
二、武器は主人公の戦闘方法を決めてから選ぶべきです。
三、出自についても物語上必要なものから逆算した方がよいと思います。
四、魔獣と契約する理由が必要です。
五、兄または姉を出す場合、主人公との関係性を先に設定してください。
六、古代文明は何に使用しますか。
七、翼竜は構いません。
八、元騎士をどこに入れるつもりですか。
九、登場人物を増やす前に、主人公の目的を決めてください。
十、学院ものにする場合、これまでの案の大半が使用できなくなります。
追記。
主人公の目的を決めてください。』
「…………。」
同じことを三回書かれた。
ヴェロニカはしばらく紙を眺めた後、ペンを取った。
『主人公の目的。
父の仇討ち。』
返事はその日の夕方に来た。
『昨日、父親は生存設定でした。』
『では今死んだ。』
『殺さないでください。』
『物語とはそういうものだ。』
『どういうものですか。』
始めて二日目にして、すでに話がまとまる気配はなかった。
ヴェロニカには、発想そのものには困らなかった。
むしろ逆である。
一つ決めれば、そこから二つ、三つと次の案が出る。主人公が騎士なら、騎士団の中にライバルが欲しい。ライバルがいるなら、その人物にも事情が必要になる。事情を考えているうちに、実は敵国の出身という案が出てくる。ならば敵国も作らなければならない。敵国があるなら、戦争の歴史を考えたい。戦争の裏に古代文明の遺産を置けば――と、際限がない。
三日目には、通常業務の報告が二枚で終わったのに対し、漫画関連が四枚になった。
四日目には五枚。
五日目には、家令が朝の書類を運びながら、とうとう紙束を二つに分けた。
「こちらが本日の領政関連で、こちらが……その、旦那様から奥様へのご返答でございます。」
「何で分けたんです?」
「混在しておりますと、重要な書類を見落とされる可能性がございますので。」
もっともである。
ヴェロニカは右手側の薄い束を見た。
領政。
左手側を見る。
漫画。
漫画の方が明らかに厚い。
「…………。」
「業務に支障は出していません。」
「存じ上げております。」
「必要事項は全部処理してます。」
「はい。」
「なら問題ないでしょう。」
「私からは何も。」
家令は相変わらず穏やかだった。
それが少しだけ腹立たしい。
ヴェロニカは漫画側の紙束を引き寄せた。
昨夜送ったのは、主人公の装備案についてだった。
『外套の裾をもっと長くしたい。走った時に翻る方が格好いい。肩の装甲ももう少し大きく。腰から予備の短剣を三本ほど。槍は通常より長め。背中には非常用の弓も欲しい。』
返ってきた回答。
『無理です。』
短い。
珍しく。
その下には理由がびっしり書かれている。
『外套をこの長さにした場合、森林や屋内での戦闘時に引っ掛かる危険があります。また、肩部装甲を提示案まで大型化すると腕の可動域が狭くなります。槍を長くする場合、屋内戦には適しません。短剣三本と弓まで持たせると総重量が――』
「うるさいな。」
思わず声が漏れた。
「奥様?」
「何でもありません。」
続きを読む。
装備の推定重量まで計算されていた。
その日の午後、ヴェロニカは新たな案を書いて送った。
『魔法で軽量化すればよい。』
十分もせず戻る。
『恒常的に武具を軽量化できる魔法技術があるなら、軍事利用されていない理由を設定する必要があります。』
『主人公だけ使える特殊魔法。』
『なぜ主人公だけ使えるのですか。』
『古代文明の遺産。』
『また古代文明を増やさないでください。』
ヴェロニカは机へ突っ伏した。
頭が硬い。
ものすごく。
さらに翼竜のデザインについて、
『翼をもっと大きく。胴体の三倍くらい。』
と送れば、
『この骨格では自重を支えられません。』
『竜だぞ。』
『竜でもです。』
『魔法で飛ぶ。』
『何でも魔法で済ませないでください。』
『ここはファンタジー世界だぞ。』
『我々にとっては現実です。』
正論だった。
ものすごく腹が立つ。
しかし翌日、シルヴェスターが修正した竜の絵を見ると、悔しいことに前より良くなっている。翼はヴェロニカが要求したほど巨大ではないが、関節の位置を変え、胴体との接続部分を厚くしたことで、確かに巨大な身体を空へ持ち上げられそうな説得力が生まれていた。
だから切れない。
向こうも似たようなものなのだろう。
ヴェロニカの案に対して、しょっちゅう「それでは整合性が」と返してくるくせに、結局はその案を何とか成立させようと絵を描いてくる。最初から自分一人で考えれば、そんな奇妙な鎧も、雷を纏った翼竜も、鞭を振るう回復術師も絶対に描かなかったはずだ。
五日ほど文書を往復した結果、二人は一つの結論へ到達した。
この方法では、遅い。
◇
「定期的に製作会議をした方がいいと思う。」
その日の夕方、ヴェロニカはシルヴェスターの執務室から三メートルほど離れたところに置かれた椅子へ腰掛けながら言った。
あの日以来、二人は何度か直接話をしている。
もっとも、関係が劇的に改善したわけではない。
シルヴェスターは今でも、ヴェロニカが一定以上近付けば露骨に身体を強張らせるし、不意に距離が縮まればすぐに後退する。先日、廊下の角で偶然鉢合わせた時など、ヴェロニカが何か言うより早く隣の部屋へ逃げ込まれた。
ただし、漫画の話をする時だけは別だった。
ある程度距離を取ってさえいれば、随分普通に話せる。
机の上には大判の紙。
シルヴェスターはその向こう側。
ヴェロニカは反対側。
最初に位置さえ決めておけば、双方安心である。
「僕もそう思います。」
シルヴェスターが頷いた。
「文章だけだと、細かい意図が伝わりません。」
「お前がいちいち細かいところ突っ込むからだろ。」
「必要だからです。」
「翼の面積まで計算する必要ある?」
「飛ばすなら。」
「魔法で飛ぶって言ってるじゃん。」
「だったら魔法の設定を先に――」
「その話はもういい!」
開始二分。
早くも揉めた。
ヴェロニカは一度咳払いした。
「ともかく、業務後定期的に直接話そう。毎日やると翌日に響くかもしれないから、週に三回くらい。」
「三回。」
「多い?」
「……いえ。」
少し考えて、シルヴェスターが頷く。
「いいと思います。」
「よし。では今日の議題。」
ヴェロニカは持ってきた紙を机へ広げた。
大きく書いてある。
『第一作をどうするか。』
「もう五日も設定ばっかりやってる。」
「五日しか経ってません。」
「五日もだ。」
「五日は短いです。」
「長い。何も完成してない。」
「まだ企画段階なんですから当然でしょう。」
「だから。」
ヴェロニカは机を指で叩いた。
「まず、一作作ろう。」
「……まだ無理です。何を描くか決まっていません。」
「描きながら決める。」
「駄目です。」
「何でだよ!」
「少なくともジャンルと対象読者くらいは決めるべきです。」
「読者なんか、できた後で探せばいい。」
「逆です。まず誰に読んでもらうかを考えてから、内容を決めるべきです。」
シルヴェスターは妙なところで真面目だった。
漫画の話になればオタク特有の異常な熱量を見せるくせに、こういう段階では突然、仕事のできる辺境伯へ戻る。
「市場調査をしましょう。」
「いらない。」
「要ります。」
「漫画が存在しない市場で何調べるんだ。」
「漫画そのものに対する需要は調査できなくても、既存の娯楽に対して何が求められているかは確認できます。どういう物語が好まれているか、本を買う人間はどの層か、価格帯はどの程度なら手が出るか、絵そのものへの需要も――」
「そんなことしてる間に八ページ描ける。」
「八ページ描いて誰にも読まれなかったら、その八ページはどうするんです?」
「次に生かす。」
「最初から失敗確率を下げましょう。」
「失敗してから考えればいいだろ。」
「なぜわざわざ失敗する前提なんですか。」
「やってみなきゃ分かんないだろ!」
「だからやる前に調べるんです!」
睨み合う。
正確には、ヴェロニカだけが真正面から見ている。
シルヴェスターは途中で視線に耐えられなくなったらしく、やや斜め下を見ていた。
腹が立つ。
何しろ、今すぐ描きたい。
この五日間だけでも、新しい案はいくらでも出た。話を考えるたび、次の場面が浮かぶ。シルヴェスターが描いたキャラクターを見れば、さらに何かが思いつく。
早く形にしたかった。
前の人生でも、こちらの人生でも、こんなに何かを始めることを待ちきれないと思ったことがあっただろうか。
多分、ない。
だから余計に、調査だの分析だのと言って足踏みするのがもどかしい。
しかし。
ヴェロニカは、そこで口を閉じた。
目の前のシルヴェスターを見る。
シルヴェスターも、珍しく譲るつもりがなさそうだった。
この男と一緒に作りたい。
そもそも最初は、そのために始めたものだ。
ここで自分のやり方を押し通して、相手が嫌になるほど揉めるのは違う。
ヴェロニカは長く息を吐いた。
「……分かった。」
シルヴェスターが僅かに顔を上げた。
「調べよう。」
「いいんですか?」
「良くはない。」
「良くないんですか。」
「私は今すぐ描きたい。でも、お前がそこまで必要だと思うなら一回やる。」
灰青の瞳が少しだけ見開かれた。
「その代わり、期限を決める。調査だけ半年とか絶対嫌だからな。一週間。」
「短すぎます。」
「三日。」
「減ってるじゃないですか。」
「じゃあ一週間。」
「……分かりました。」
「一週間後には何を描くか決める。」
「はい。」
交渉成立だ。
ヴェロニカは腕を組んだ。
「で。市場調査って何をする。」
「まずは一番身近なところからでいいと思います。」
「身近?」
「屋敷の人たちです。」
◇
翌日から、クローデル辺境伯家では妙な聞き取り調査が始まった。
質問項目はシルヴェスターが作った。
『普段、余暇には何をして過ごしますか。』
『物語を読むことはありますか。』
『芝居、吟遊詩人の語り、絵画などでは、どのような題材を好みますか。』
『本を購入するとしたら、どの程度の価格までなら支払えますか。』
『物語の内容として、次のうち興味があるものを選んでください。複数回答可。英雄、冒険、恋愛、戦争、怪談、喜劇、家族、歴史、謎解き、その他。』
「……ちゃんとしてるな。」
ヴェロニカは質問票を見ながら呟いた。
「市場調査ですから。」
「趣味で漫画作るだけだぞ。」
「作るなら読まれたいでしょう。」
「まあ。」
「なら調べます。」
回答収集は主にヴェロニカが担当した。
シルヴェスターに屋敷中を回って使用人、とりわけ女性へ質問してこいと言ったところで、調査そのものが頓挫することは目に見えている。
最初は家令。
「物語、ですか。」
「好きなものを選ぶだけでいいですよ。」
「そうですね。若い頃は英雄譚をよく読みました。今は歴史物の方が好みでしょうか。」
料理長。
「喜劇ですね。仕事が終わってからまで暗い話は見たくありません。」
騎士団の若い男。
「冒険ものです。あと戦争ものも。」
別の騎士。
「恋愛。」
隣にいた同僚が振り向く。
「何だよ。悪いか。」
「いや、何も言ってねえよ。」
侍女たちは、予想以上に話が長かった。
「恋愛ものは好きです。でも最後にどちらかが死ぬ話は嫌です。」
「私は死ぬ方が好き。」
「ええ?」
「悲しい方が後に残るでしょう。」
「私は絶対幸せになる方がいいです。」
「騎士様が出てくるものが好きですね。」
「私は身分違いが。」
「幼馴染もいいです。」
「でも、ずっと幼馴染だったのに突然恋愛になるの、少し不自然じゃない?」
「そこがいいんじゃない。」
ヴェロニカは途中から質問票の余白へメモを追加していた。
興味深い。
実に。
これまで、この世界には大人が読む娯楽作品が少ないと思っていた。
しかし、物語そのものへの欲求がないわけではない。
皆、芝居を見る。
吟遊詩人の話を聞く。
祭りで演じられる英雄譚や恋愛劇を楽しみにしている。
頻繁ではなくても、年に何冊かは本を買う者もいる。
やはり、本や絵物語が手に取りやすい状態や価格で十分供給されていないだけなのだ。
しかも。
恋愛が強い。
女性だけではない。
若い男性の中にも恋愛ものを選ぶ者が予想以上にいた。
夕方。
集まった回答を執務室へ持ち込み、二人で集計する。
シルヴェスターは数字をまとめるのが異常に速かった。
「一位、冒険。二位、恋愛。」
「……恋愛、高いですね。」
「三位英雄。四位喜劇。怪談も意外と強いな。」
「年代別に分けると、若い人は恋愛と冒険がかなり多いですね。」
「男女差は?」
「女性は恋愛が一位。男性は冒険ですが、恋愛も四位以内です。」
ヴェロニカは椅子の背へ身体を預けた。
「本そのものを買う人は?」
「少ないですね。」
「やっぱり値段か。」
「紙が高いですし、物語本にそこまでお金を出す習慣そのものがあまりないようです。」
「でも芝居には金払う。吟遊詩人にも。つまり、物語が嫌いなんじゃない。」
「総じて、本として買う文化がまだまだ薄い、ということでしょう。」
こうして実際に数字を並べてみると、思っていたより面白かった。
最初は、市場調査など面倒なだけだと思っていた。
しかし、これはこれで新しい。
自分たちが好きなものと、こちらの世界の人間が好きなものの重なる場所を探していく。
ヴェロニカが回答用紙をめくっていると、一枚の余白に侍女が書いたらしい文字を見つけた。
『魔法を使う騎士様とお姫様が、一緒に冒険をするようなお話なら読んでみたいです。』
「……これ。」
シルヴェスターも見る。
「分かりやすいですね。」
「魔法。冒険。恋愛。英雄要素も入れられる。」
「怪談は?」
「今回は捨てよう。」
「珍しく減らしましたね。」
「何だその言い方。」
「い、いえ。」
ヴェロニカは紙を机へ置いた。
少しずつ形が見えてきた。
ただ、まだ屋敷の中だけだ。
クローデル家の使用人たちが、世間一般と同じ嗜好を持っているとは限らない。
「次は外だな。」
はいとシルヴェスターが頷く。
「領都の書店を確認したいです。どういう本が置かれているか、売れ筋は何か。それから貸本を扱っている店があれば、そちらも。」
ヴェロニカはすぐに立ち上がった。
「よし。明日行こう。」
シルヴェスターの動きが止まった。
「……誰が?」
「私たちが。」
「…………。」
シルヴェスターの顔から、ゆっくりと表情が消えていく。
ヴェロニカは目を細めた。
「市場調査をしたいって言ったの、お前だよな?」
「……はい。」
「現物見た方がいいよな?」
「……はい。」
「なら行くぞ。」
「…………。」
返事がない。
灰青の瞳が、わずかに泳いでいる。
ヴェロニカは内心で小さく息を吐いた。
なるほど。
そこまで考えていなかったらしい。
屋敷の中で資料を集め、数字を整理するところまでは得意でも、その先には当然、外がある。
人がいる。
女性もいる。
店員もいる。
買い物客もいる。
「嫌なら私一人でも行けるけど。」
そう言った途端、シルヴェスターが僅かに顔を上げた。
ヴェロニカはその反応を見逃さなかった。
「でも、二人で作るんだろ。だったら、できれば一緒に見た方がいい。」
返事はすぐには来なかった。
机の上には、今日集めた大量の回答。
その横には、二人で描いた翼竜。
シルヴェスターはそれらをしばらく見ていた。
「……行きます。」
小さな声だった。
「よし。」
「ただ……人の少ない時間帯で。」
「分かった。」
「できれば女性店員の少ない店から。」
「それは行ってみないと分からない。」
「……そうですよね。」
「あと、逃げたら置いてくからな。」
「努力します。」
「逃げないとは言わないんだな。」
ヴェロニカは少しだけ笑った。
市場調査。
本屋。
夫婦二人で領都へ出掛ける。
客観的に見れば、結婚してから初めての外出らしい外出なのかもしれない。
だが、そんなことを考えている余裕はなかった。
ヴェロニカの頭の中にはすでに、今日の回答から浮かんだ次の案がいくつも走っている。
魔法。冒険。恋愛。騎士。ヒロイン。戦闘。
ここまで揃えば、前世で山ほど見た類の物語へかなり近い。
要するに。
「……異世界ファンタジー恋愛ものか。」
こちらの人間にとっては、異世界でも何でもない。
魔法も魔獣も、現実なのだから。
けれど、自分たちが最初に作る漫画としては悪くない。
ヴェロニカは回答用紙の端へ、その言葉を書き付けた。
まだ決定ではない。
明日、街を見てからだ。
それでも。
何となく。
最初の一作が、ようやくこちらを向き始めた気がした。




