第六話 オタクよ、ペンを握れ。
同じ日本から転生してきた人間だった。
その事実が判明してから数分ほど、ヴェロニカは執務室の中央に立ったまま、改めてシルヴェスターを眺めていた。
顔は良い。何度見ても腹立たしいほど良い。頸へ毛先が触れる程度の銀髪に、薄い灰青色の切れ長の瞳。長身で、魔獣を一人で討ち取れる程度には鍛えられた身体を持ち、仕事もできて、絵まで異常に上手い。
しかし今は、机を盾にしている。
先ほどまでヴェロニカと肩が触れそうな距離で絵を描いていた男と同一人物とは思えないほど、机の向こうへ身体を引っ込め、こちらを警戒していた。
どうやら同郷だと判明した程度では、女性恐怖症の方には何の効果もないらしい。
「……本当に日本人だったんだよな?」
念のため確認すると、机の向こうから銀色の頭が僅かに動いた。
「はい。」
「どこ?」
「……関東です。」
「ざっくりしてるな。」
「それ以上必要ですか?」
「まあ、今さら住所聞いても行けないけど。」
ヴェロニカは近くの椅子を引き寄せ、そのまま腰を下ろした。シルヴェスターは一瞬身構えたものの、こちらが机へ近付かないと分かると、どうにか逃亡まではしなかった。
「何歳で死んだ?」
「……二十代です。」
「幅広いな。」
「二十代半ばくらいです。」
「私より若いのか。」
「あなたは?」
「二十九。事故で死んだ。」
「……そうなんですね。」
「そう。もうちょっとで三十だった。」
そこで一度、会話が切れた。
妙な感じだった。
――日本。
こんな会話を、こちらへ来てから誰かと交わすことになるとは。
二十五年も経っているのに、口にすると途端に随分近い場所のような気がした。駅前の人混みや、コンビニの明るい照明、電車の音、スマートフォンの画面、雨の日のアスファルトの匂い。普段なら思い出すこともないものが、一つの単語を切っ掛けにして次々と蘇ってくる。
「スマホあった?」
「ありました。」
「そりゃそうか。年代は大体同じか。」
「多分。」
「SNSは?」
「……まあ。」
「何使ってた?」
「言う必要あります?」
「ない。」
「じゃあ聞かないでください。」
思っていたより普通に返す。
文章では散々やり取りしてきたが、声で話すとまた少し印象が違う。小さく慎重で、常にこちらの反応を窺うような話し方ではあるものの、返答そのものは意外と悪くない。
ただし、目はほとんど合わない。
ヴェロニカが少しでも身体を動かすと、灰青の瞳が一瞬こちらへ向いて、すぐに逸れる。
「仕事は?」
「……会社員でした。」
「何系?」
「それは……。」
「言いたくないならいい。」
「……事務寄りです。」
この辺りになると、また返答が短くなった。
前世の話そのものが嫌なのか、それとも自分と話していること自体がもう限界に近いのか、判断がつかない。
だが、せっかく同郷の人間を見つけたのだ。
しかも年代まで近い。
ヴェロニカとしては、もう少し話したかった。
「漫画読む?」
何となく聞いた。
すると。
「……読みます。」
ほんの僅かだが、声が変わった。
「何系?」
「色々。」
「少年漫画?」
「読みました。」
「青年も?」
「はい。」
「少女漫画は?」
「……多少。」
「お前、結構幅広いな。」
「まあ……。」
シルヴェスターの頭が、机の上へ少し多く出てきた。
ヴェロニカは気付いたが、何も言わないことにした。
「ファンタジーは?」
「好きでした。」
「SF。」
「好きです。」
「ロボット。」
「好きです。」
「ミステリー。」
「読みます。」
「日常もの。」
「物によります。」
「恋愛。」
銀髪が少し下がった。
「……あまり。」
「分かりやすいな。」
「何がですか。」
「いや。」
この男、興味の有無が物理的な高さに出るらしい。
「じゃあ戦闘ものは好きか?」
「……絵を見るなら、そうですね。」
「絵か。」
「戦闘シーンって、上手い人は動きが分かるので。綺麗な一枚絵も好きですけど、漫画だと一枚だけ格好いいより、前のコマからどう動いてそこへ行ったかが分かる方が好きで……剣を振るなら、振り始めと、軌道と、振り切った後で身体の重心がちゃんと変わっているとか。」
長い。
急に饒舌になるのはまさにオタク。
ヴェロニカはそれを黙って聞いた。
「槍なんかも、ただ突いてるだけに見える絵と、体重が先端に乗って見える絵が全然違うんですよ。あと、大きな武器は持ってる人間の身体が軽く見えると途端に嘘っぽくなるので、脚とか腰の描き方が――」
シルヴェスターの肩まで机から出た。
「それと、魔法系も好きでしたけど、光だけで誤魔化してるものより、どういう現象なのか分かる描き方の方が……。」
「お前、めちゃくちゃ喋るな。」
ぴたり。
シルヴェスターが止まった。
肩が消えた。
頭の先だけになる。
「あ。」
またやった。
「悪い。続けて。」
「……。」
「いや、普通に面白かったから。」
「……本当に?」
「嘘ついてどうするんだよ。」
しばらくして、頭が少し戻った。
ヴェロニカはそこで、もう一つ試してみたくなった。
「好きな作家とかいた?」
「いました。」
「絵柄で?」
「絵柄もですけど、背景がすごい人とか。建物の構造までちゃんと考えて描いてる人が好きで……あと、群衆を一人一人描き分ける人とか。」
また肩まで出た。
「分かる。背景がただの線じゃなくて、そこに本当に人が住んでそうなのとか。」
「そうです。室内でも、家具の置き方とか、本棚の中身とかでその人物がどういう生活してるのか分かるような。」
「いいよな。」
「あと小物。」
「うん、小物大事。」
「剣の柄とか。」
「服の留め具とかも。」
「窓枠とか。」
「食器とかね。」
「そういうのを適当にしない作品って、世界がちゃんとある感じがして――」
「そうそう、それな。」
シルヴェスターの上半身が机から出た。
ヴェロニカも自然と身を乗り出す。
「この世界、資料だけならめちゃくちゃあるんだよな。実物の城もあるし、武器もあるし。」
「魔物も。」
「そう。こないだの狼なんて、日本にいたら絶対資料ない。」
「動きは狼に近かったですけど、身体が大きい分、脚の運びが少し違って。」
「え、そこ見てたの?」
「見ますよ。」
「さすが。」
もっと聞きたくなり、ヴェロニカは椅子から少し前へ出た。
その瞬間、シルヴェスターの肩が跳ね、出ていた上半身が一気に机の向こうへ消えた。
「…………。」
また頭だけになった。
ヴェロニカは止まり、しばらく距離を取る。
「それで?」
少しずつ出てくる。
「……何が。」
「狼の動き。」
「ああ。大型化しているので、普通の狼より方向転換が遅いんです。その代わり、一歩がかなり大きくて――」
再び上半身。
ヴェロニカが興味を持って一歩近付く。
引っ込む。
「…………。」
しばらく待つ。
また出る。
今度は漫画のコマ割りの話になり、シルヴェスターが身振りまで交えて説明し始める。
ヴェロニカが無意識に立ち上がる。
引っ込む。
「お前、出たり入ったりするな! 集中できない!」
「近付かないでください!」
「じゃあそこにいろ!」
「あなたが動かなければいます!」
「分かったよ!」
ヴェロニカは椅子を持ち上げ、わざと机からかなり離れた壁際まで移動した。
「これでいいか!」
「……はい。」
「めんどくさいな!」
「すみません……。」
また出てきた。
なんだろう。
ヤドカリかな。
あるいは警戒心の異常に強い小動物。
しかし、ここまで分かりやすいと若干面白くもなってくる。
話題さえ合えば普通に話す。いや、普通以上に話す。作品の話になると表情まで変わるのに、こちらが一歩近付くだけで消える。
ヴェロニカは腕を組んだ。
同じ日本人で、年代もほぼ同じ。おまけにオタク。
相当珍しい。
できることなら、もう少し普通に話せる相手になりたい。
前世でも今世でも、ヴェロニカ自身は恋愛とはほとんど縁がなかった。だから、女性慣れしていない男を馬鹿にできるほど立派な人生でもない。
しかし職場の異性とは普通に話していたし、同僚と昼食も取った。学生時代なら男友達と漫画の話くらいした。
少なくとも、異性が近付いただけで机の下へ潜った経験はない。
ヴェロニカは一人で深く頷いた。
うむ。
自分の方が上位である。
何の順位かは知らない。
だが勝っている。
そう思いながら、机の上へ視線を戻した。
先ほど二人で描いた絵がある。
翼竜。
片腕の魔獣化した元騎士。
鞭を持つ少女。
たった十数分だったが、妙に楽しかった。あの時だけはシルヴェスターもこちらを怖がっておらず、それどころか、自分から意見を出し、修正し、話を広げていた。
ヴェロニカはしばらく絵を見つめた後、机の向こうから半分だけ出ている青年を見る。
また絵へ目を落とす。
また青年を見る。
そこで、ふと一つの考えが浮かんだ。
「シルヴェスター。」
「……はい。」
「この世界、娯楽が少なすぎると思わない?」
銀髪が少し上がった。
「……突然ですね。まあ……日本と比べれば。」
「だよな?」
ヴェロニカは指を一本立てた。
「本はある。でも、物語として読めるものは子供向けが中心。昔話、英雄譚、寓話。大人向けになると歴史書、哲学書、宗教書、実用書ばっかり。」
「そうですね。」
銀髪がもう少し出る。
「絵もある。でも大体、風景画、肖像画、宗教画。」
「壁画とかも。」
「そう。美術としてはいい。でも。」
ヴェロニカは机の上の絵を指した。
「こういうのがない。」
シルヴェスターが絵を見る。
「漫画ですか。」
「つまり。」
ヴェロニカはゆっくり立ち上がった。
シルヴェスターが警戒して少し下がったので、それ以上は近付かない。
「この世界は、我々のブルーオーシャンだ。」
「…………。」
「漫画文化の先駆者になれる。後の世に生まれる数多のオタクたちから、我々は始祖として、あるいは神として――」
「…………。」
反応が薄い。
ヴェロニカは止まった。
シルヴェスターは別に目を輝かせていない。
「興味ないの?」
「人から崇められるのは、ちょっと……。」
承認欲求はなかった。
むしろ、この男は注目されること自体が嫌なのだから当然と言えば当然である。
失敗。
ここは軌道修正が必要だ。
ヴェロニカは小さく咳払いした。
「では言い方を変えよう。」
「はい。」
「この世界には、私たちが読みたい漫画がない。」
銀色の頭が少し上がった。
「今のところ一冊もない。」
「……そうですね。」
「今後も、誰かが作らなければ、一生ない。」
目まで出た。
「しかし。」
ヴェロニカは机上の絵を持ち上げた。
「我々には作れる。」
シルヴェスターが、今度ははっきりこちらを見た。
「…………。」
「お前は絵がめちゃくちゃ上手い。私も少々美術の心得がある。」
「めちゃくちゃでは……。」
「いや、めちゃくちゃ上手い。」
「……。」
「それに、この世界には本物の魔法がある。魔物もいる。城もある。騎士もいる。森も遺跡も、本物を見に行ける。」
「資料には……困らないですね。」
釣れた。
ヴェロニカは内心で頷き、さらに続ける。
「で、我々が描く。」
「……はい。」
「誰かが読む。」
「はい。」
「その中から、『自分も描いてみたい』と思う奴が出てくる。」
シルヴェスターの目が少し動いた。
「そいつが描く。」
「……。」
「また別の奴が読む。」
「……。」
「やがて、我々には到底思いつかないような作品を描く天才が出てくる。」
シルヴェスターは黙っている。
ヴェロニカはそこで一拍置いた。
「そうなれば。」
大きく両手を広げる。
「我々は、他人の新作漫画を読める……!」
「…………!」
明確に反応した。
ヴェロニカは確信する。
これだ。
「……確かに。」
「だよな!」
「自分たちで描くだけじゃなくて、他の人も描くようになれば……。」
「そう!自給自足から解放される!オタク文化の自給自足は限界がある。」
「言いたいことは分かります。」
シルヴェスターの上半身が、また机から出てきた。
ヴェロニカはさらに畳み掛ける。
「同志が増えれば、そのうち皆で集まれるかもしれない。作品を持ち寄って、好きなキャラクターについて語って、夜ごと『この展開キタコレ!』『おま俺』『分かりみが深い』『萌えー!』と――」
「年代が混ざってません?」
ヴェロニカが止まった。
シルヴェスターも止まった。
「うるさい童貞。」
「……『どどどど童貞ちゃうわ』。」
「通じるじゃん。」
「……。」
「全部分かってるじゃん。」
「……今そこ重要ですか?」
「重要だよ。お前結構ネットやってただろ。」
「……まあ。」
また顔を逸らす。
だが、もう最初ほど引っ込まない。
ヴェロニカは勝機を見た。
ここまで来たら仕上げである。
机へ近付かないよう気を付けながら壁際へ移動し、そこで勢いよく掌を壁へ叩きつけた。
バンッ、と大きな音が響く。
「ひっ!」
シルヴェスターの肩が跳ねた。
「シルヴェスター・クローデル!」
「は、はい!」
「漫画を描くぞ!」
ヴェロニカは胸を張った。
こういうものは勢いである。
理屈ではない。
「考えてもみろ。広い世界で、同じ時代の日本から来たオタク二人が、偶然にも夫婦になった。」
実際には、会わずに結婚できる相手を探していた変人辺境伯と、提示された金額だけ見て嫁入りを決めた没落伯爵令嬢が、たまたま噛み合っただけである。
だがそれは今どうでもいい。
雰囲気が大切なのだ。
「これが偶然だと思うか?」
「……偶然では?」
「違う!我々はこの世界で漫画を描くために配置された!」
根拠はない。
まったくない。
「異世界の神が、この世界の娯楽の乏しさを嘆いている声が私には聞こえる!」
もちろん聞こえない。
聞こえるはずもない。
だが、演説というものには多少の誇張が必要である。
ヴェロニカはさらに腕を広げた。
「若者よ、大志を抱け――いや。」
一瞬考える。
こちらの方がいい。
「オタクよ、ペンを握れ!」
びしりと指を突きつける。
決まった。
恐らく。
シルヴェスターは圧倒されたようにこちらを見ていた。薄い灰青の瞳を何度か瞬かせ、しばらく口を開かない。
押しに弱い。
いかにも引きこもりらしい。
やがて。
「……でも。」
「何だ。」
「僕、漫画は描けなくて。」
ヴェロニカは真顔になった。
「は?あんなに絵上手い奴が何言ってんだ。」
「絵は……描けます。」
「じゃあ描けるだろ。」
シルヴェスターが少し困ったように目を伏せた。
「違うんです。一枚の絵とか、人物とか、風景とか。そういうのなら描けます。でも、漫画は……。」
「コマ割り?」
「それもありますけど。」
少し間があった。
「話が、作れないんです。」
ヴェロニカは黙った。
「人物を描くことはできるんですけど、その人が何を考えているのかとか、何をしたいのかとか、次に何をするのかとか。そういうのが全然分からなくて。」
「……。」
「設定を決めても、設定だけで終わるというか。剣士を描いたとして、その人がどうして剣士になったのか、誰が好きなのか、何が嫌いなのか……考えても、何か正解を探してるみたいになって、結局分からなくなって。」
ヴェロニカは、先ほど床に散らばっていた絵を思い出した。
人物はたくさんいた。
どれも上手かった。
しかし確かに、物語として連続しているものはなかった。一枚一枚が、それぞれ独立している。
対して自分はどうだろうか。
絵を二枚並べただけで、勝手に追放された元騎士だの、魔獣化する腕だの、裏切る理由だのを生やした。
前世では絵も描いたが、小説を書くことの方が好きだった。
なるほど。
ヴェロニカはゆっくりと目を見開いた。
「心配ない。」
話は簡単だ。
「私が原作をやる。」
シルヴェスターを見る。
「お前は絵を描け。」
沈黙。
シルヴェスターが瞬きをする。
「話。登場人物。台詞。大まかな展開。私が考える。」
「あなたが?」
「さっき見ただろ。勝手に出る。お前は、それを絵にする。」
「……。」
「どうだ。」
シルヴェスターは机の上に置かれた翼竜の絵を見た。
少し考える。
その表情は、先ほどまでとは違っていた。怖がっている顔ではない。戸惑いはある。けれど、その奥にほんの少しだけ、楽しそうなものも見える。
「……コマ割りは?」
ヴェロニカは黙った。
そこは考えていなかった。
「それは。」
「はい。」
「……二人でやろう。」
「そこは分担じゃないんですね。」
「うるさい。最初なんだから手探りでいいんだよ。」
「さっき使命とか言ってませんでした?」
「使命を受けた人間だって試行錯誤はする。」
「随分都合の良い使命ですね。」
「細かいこと言うな。」
ヴェロニカは再び椅子を引き寄せた。
今度は、シルヴェスターが逃げない程度に距離を取る。
「まず短い話にしよう。」
「どのくらい?」
「知らん。漫画として描いたことはほぼない。前世でも小説の方が多かった。」
「小説を書いてたんですか?」
「趣味でだけど。」
シルヴェスターの顔がまた少し上がる。
「見せてもらえます?」
「ない。」
「……そうですよね。」
「異世界転生してるからな。」
「読んでみたかった。」
何気ない一言だった。
ヴェロニカは少しだけ目を瞬いた。胸の奥が、ほんの僅かに動いた気がする。
そう言われたことが、ひどく懐かしかったせいかもしれない。
「……じゃあ、新しいの作ればいい。お前の絵なら、多少話が雑でもなんとかなる。」
「描く前から絵任せですか。」
「私もしっかり考える。」
「さっき設定は後から生えるって言ってましたよね。」
「生やしもする。」
「まとまらなくなるので、適度にしてください。」
「注文多いな。」
「あなたが原作でしょう。」
そう言いながら、シルヴェスターはもう紙を一枚引き寄せている。
先ほどまで、机を盾にしていた男が。
ヴェロニカは少し笑った。
「主人公どうする。」
「さっきの元騎士?」
「いや。あいつは主役にすると重い。」
「あなたが重くしたんでしょう。」
「そうだった。」
「……では別にしますか。」
「女主人公でもいいな。」
「武器は?」
「そこから決める?」
「絵を描くなら必要です。」
「じゃあ槍。」
「槍好きですね。」
「長物は映える。」
「そこは同意します。」
気が付けば、最初に聞こうとしていたことは完全に忘れていた。
なぜそこまで女性が怖いのか。
前世で何があったのか。
どうしてこちらを見ただけで防御魔法を張るほど警戒するのか。
本来なら、その話をするために来たはずだった。
しかし今、二人の間には白紙が何枚も広げられ、その上へ「主人公」「舞台」「敵」「武器」「目的」と次々書き込まれている。
シルヴェスターは机の一方。
ヴェロニカは反対側。
距離はおよそ三メートル。
夫婦としてはどうかと思う距離だが、相談相手としては困らない。
「タイトルは?」
シルヴェスターが聞く。
「まだ早い。まず話決めてから。」
「さっきからあなたが設定だけ増やすので、全然まとまってないんです。」
「設定は生えてくる。」
「生やさないでください。」
「物語ってのは、生える時には生やしとかないと後で出てこなくなるんだよ。」
「じゃあ少なくともメモだけ別にしてください。今どれが採用なのか分からないので。」
「……お前、編集向きだな。」
「絵担当だったはずでは?」
「兼任する?」
「勝手に役割りを増やさないでください。」
こうして、夫婦になって三か月と少し。
互いの前世を知った二度目のまともな会合は、途中から完全に新作漫画の企画会議へ姿を変えた。
夫の女性恐怖症については、何一つ解決していない。
ヴェロニカが机を回り込もうとすれば、今でもシルヴェスターはすぐに距離を取る。こちらが一歩近付けば、一歩下がる。
それでも。
同じ紙を見ている間だけは、二人とも同じ方向を向いていた。




