第五話 オタクは恐怖に勝つらしい。
執務室へ半ば無理やり踏み込んだヴェロニカを前にして、シルヴェスターは依然として壁際に立っていた。
正確には、立っているというより逃げ場を失って追い詰められているように見える。背後には壁、横には大きな書棚。少し離れたところに窓はあるものの、そこから飛び降りるほど追い詰められてはいないらしい。
少なくとも今のところは。
先ほど反射的に展開された半透明の防御壁はまだ二人の間に残っていた。近付いてくる意思がないと分かったからか、魔力の輝きは幾分弱くなっているものの、消す気まではないらしい。シルヴェスター本人も、ヴェロニカが一歩動くたび肩を強張らせ、灰青の瞳だけでこちらの動きを警戒している。
だがヴェロニカは、もう青年をほとんど見ていなかった。
床に散らばっている絵の方が、遥かに気になったからである。
「これもあなたが描いたんですか?」
返事はない。
ヴェロニカは気にせず、足元へ落ちていた一枚を拾った。
描かれているのは森だった。
高い木々の間を細い光が差し込み、その向こうに小さな人物が立っている。墨一色に近い簡素な絵なのに、湿った土の匂いや、葉の隙間から漏れる光まで想像できるような空気があった。
その隣に落ちている絵は、まるで違う。
巨大な獣を前に、剣を構えている騎士。こちらは線が強く、陰影も濃い。人物の筋肉や服の皺まで細かく描かれ、構図そのものに勢いがある。
さらに一枚。
今度は、丸みを帯びた線で描かれた小さな人物たちだった。頭身をかなり低くし、表情を誇張している。片方が何かを落とし、もう片方が呆れているらしい。絵柄は簡単なのに、それだけで会話まで聞こえてきそうだった。
ヴェロニカは三枚を順番に見たあと、もう一度最初へ戻った。
「画風、結構変えられるんですね。」
シルヴェスターは、まだ答えない。
「これなんかかなり写実的なのに、こっちは随分線を省いてる。目的によって描き方を変えてるんですか?」
「……。」
「人物も結構描いてる。」
最後の方はもう、ほとんど独り言だった。
机の上にも絵がある。棚の横には束ねられた紙があり、そこにも何枚か挟まっていた。勝手に触るのはさすがに悪いかと思い、床へ落ちているものだけを拾って見ていく。
一人の青年がいた。
長い外套を着て、一本の剣を持っている。顔立ちは整っているが、どこか険があり、誰かを信用していないような目をしていた。
もう一枚には、大きな翼を持つ魔獣が描かれている。
ヴェロニカは二枚を左右に並べた。
「……この二つ、合わせられるな。」
背後で、シルヴェスターが僅かに動いた。
「こっちの男が、この魔獣と契約してるとか。」
口に出した瞬間、一つの像が頭の中に浮かんだ。
「いや、普通に契約してるだけじゃ弱いか。元々は敵同士で、戦ってる途中に何か事情があって共闘することになる。こいつ騎士っぽいけど、顔がちょっと正統派すぎるな。もっと目つき悪くした方がいいか。王国騎士だったけど追放されて、今は傭兵。いや、辺境を一人で流浪してる方がいいな。」
設定が頭の中で組み立てられ、自分でも口が止まらなくなっているのが分かった。
久しぶりだった。
絵を見て、そこにいる人物が何者なのか勝手に考える。
どうしてこの顔をしているのか。
何を失ったのか。
どこへ行くのか。
誰と出会うのか。
子供の頃から、それが好きだった。
適当に描いた人物へ名前を付け、家族を作り、過去を作り、敵を作り、最後には一冊分にもならないような断片的な物語を友人と延々話した。
何かの役に立つわけでもない。誰に見せるわけでもない。それでも、思いつくこと自体が楽しかった。
そんな感覚が、胸の奥深く、眠っていた場所から一気に戻ってくる。
「この右腕だけ魔獣化してるのもいいな。でも最初からそうだとありがちか。何か代償があって、力を使うたび少しずつ侵食されるとか。で、最終的には全部魔獣になる危険がある。でも本人は別にどうでもいいと思ってる。いや、そうするとヒロインが止める側になって――」
「……その場合。」
声がした。
ヴェロニカは顔を上げなかった。
「……腕だけ魔獣化するなら、肩から先の形ももう少し変えないと不自然だと思います。」
壁際のシルヴェスターだった。
まだ警戒はしている。
ただ、先ほどより明らかにこちらの手元を見ている。
「人間の腕のまま鱗だけ付けるより?」
「はい。骨格から少し変えた方が……力が強い設定なら、前腕を長くするとか。指も四本くらいに減らして、爪を。」
ヴェロニカは男の絵へ視線を戻した。
「なるほど。じゃあ、こういう感じ?」
空いている紙を一枚取り、ざっと右腕だけ描いてみる。前世以来ほとんどこういった絵は描いていないのでなかなか思うようにはいかないが、意図くらいは伝わる。
「……もう少し。」
また声。
今度は少し近い。
「肘の位置はそのままで、手首側を長くした方がいいと思います。」
「描いてみてくださいよ。」
「……。」
途端に止まる。
ヴェロニカは一度だけそちらを見た。
シルヴェスターはまだ壁際である。
「そこからでいいので。」
「そこから?」
「紙を投げます。」
「……。」
「魔法で取れるでしょう。」
しばらくして、彼が小さく頷いた。
ヴェロニカは紙を床へ滑らせる。途中から風が巻き、それを掬い上げてシルヴェスターの手元まで運んだ。
便利だ。
こういう時だけは、ファンタジー世界も悪くない。
シルヴェスターは紙を机の端へ置き、ペンを取った。
その途端だった。
線が走る。
「……速っ。」
迷いがない。
ヴェロニカが何分もかけて雑に描いた腕が、僅かな時間で別物になった。人間の肩から異形の前腕へ自然に繋がり、爪の向き、筋肉、鱗の重なりまで最低限の線で示されている。
描くことに集中している時のシルヴェスターは、先ほどまでと表情がまるで違った。
眉間へ僅かに皺を寄せ、紙だけを見ている。女性が同じ部屋にいるという事実そのものを忘れているようだった。
「……これ。」
ヴェロニカは思わず一歩近付いた。
シルヴェスターの肩が僅かに跳ねる。
だが、逃げなかった。
「この指、もう少し太くしたらどうです?」
「太くすると武器を持ちづらくなります。」
「武器持たせる前提?」
「元騎士なら持つでしょう。」
「でも魔獣化した腕自体が武器になるなら、右はもう武器持たなくてよくないですか。左手一本だけ剣。」
「片手剣?」
「双剣だったのが、片方使えなくなるとか。」
シルヴェスターのペンが止まる。
「……それ、いいですね。」
また描く。
ヴェロニカも紙を覗く。
距離が少し縮まった。
シルヴェスターは気づかない。
「じゃあ元々は双剣使い。片腕を失ったんじゃなくて、魔獣化したせいで今までの戦い方ができなくなった。それで動きが崩れてるところから始まる。」
「だったら、立ち姿も左右非対称の方がいいかもしれません。」
「そうそう。ちょっと右肩下げて。」
「こうですか。」
「もっと。」
「これ以上だと怪我しているように見えます。」
「じゃあ逆に怪我してることにしましょう。」
「設定を絵に合わせないでください。」
「いいじゃないですか。設定なんて後から生えてくるんですよ。」
「そういうものなんですか?」
「そういうものです。」
断言した。
誰に教わったわけでもない。
だが少なくともヴェロニカは、昔からそうやって話を作っていた。
次に目に入ったのは、長い髪の少女の絵だった。ゆったりした服と細い杖を持っている。
「この子、回復役っぽいですね。」
「そのつもりで描きました。」
「じゃあ逆に前衛にしましょう。」
シルヴェスターが初めて、はっきりとこちらを見た。
「……なぜ?」
「意外性。」
「服が完全に後衛です。」
「直せばいい。」
「杖は。」
「捨てる。」
「そこまで?」
「武器、何がいいかな。剣だと普通。槍はさっきの男と被る。斧はちょっと重い。」
「短剣?」
「鞭。」
「鞭?」
二人で少し考える。
「……悪くないですね。」
「でしょう?」
シルヴェスターが少女の絵を引き寄せた。
線が増えていく。
袖が短くなる。
足元が動きやすい形に変わる。
杖が消え、代わりに腰元から細長い鞭が伸びる。
「ここ、もう少し袖広くてもいいです。」
「戦闘で邪魔です。」
「格好いい方がいい。」
「でも戦うんですよね。」
「漫画なんだから格好良さ優先。」
「実用性が。」
「そこは魔法で何とかなる。」
「雑ですね。」
「ファンタジーだぞ。」
シルヴェスターの手がまた止まった。
「……ファンタジー?」
「あ。」
ヴェロニカは一瞬だけ考えた。
この世界にも幻想物語そのものはある。言葉の意味として誤魔化せなくはない。
「こういう架空の話という意味で。」
「……なるほど。」
納得した。
ヴェロニカは深く考えず、また絵へ戻った。
次は翼竜。
「こいつ雷属性にしましょう。」
「雷属性。」
「羽をもっと大きくして、角も欲しい。一本じゃなく二本。後ろへ反らす感じで。」
シルヴェスターが別の紙を引き寄せる。
「こんな?」
「そう。それで翼に雷が走る。」
「羽膜に?」
「いや、骨格に沿って。で、飛んでる時に空から落雷させる。」
「それなら口から雷を吐く必要はないですね。」
「でも吐いても格好いい。」
「両方?」
「両方。」
「能力盛りすぎでは。」
「ボスだぞ。」
「ボスなんですか?」
「今決まった。」
描く。
また設定が増える。
青年。
少女。
翼竜。
三者の配置を決める。
最初は別々の紙だったものが、いつの間にか一つの場面になっていく。
「ここ、男は手前。」
「そうすると少女が隠れます。」
「じゃあ高低差を付ける。崩れた城壁の上とか。」
「竜が上にいるなら、背景が空ばかりになりますよ。」
「雷雲。」
「……なるほど。」
「で、雷が一回空へ上がる。」
「それはどういう意味です?」
「直接吐くんじゃなくて、一度上空に放ってから落とす。どこに落ちるか分からない。」
シルヴェスターの目が僅かに輝いた。
「それ、絵にすると面白いですね。」
「でしょ?」
今度は構図を二人で考える。
ヴェロニカが大雑把に配置を示し、シルヴェスターが線へ落とす。
描かれたものを見て、また修正する。
「竜、もっと大きく。」
「画面から切れます。」
「切っていい。この前言ってたでしょう。その方が大きく見える。」
「……覚えていたんですね。」
「使える知識は使います。」
「じゃあ翼は片方ほぼ画面外へ。」
「いい。角も少し切る。」
「人物はここ。」
「男をもっと前へ。」
「少女が。」
「鞭を上へ伸ばす。画面を斜めに切る感じ。」
「なるほど。」
気がつけばヴェロニカは、シルヴェスターのすぐ横にいた。
椅子へ座っている彼の肩越しに紙を覗き込み、時折自分でも横から線を描き足している。
シルヴェスターも何も言わない。
気づいていないのだろう。
先ほどまで数歩近付いただけで防御魔法を張っていた男が、今は妻の手が自分のすぐ横まで伸びてきても平然と紙を見ている。
ヴェロニカもまた、それに気づいていなかった。
絵が面白かった。
久しぶりに、頭の中へ次から次へと何かが浮かぶ。
「ここ、効果音欲しいな。」
「効果音?」
「こう、雷が落ちるところに大きく――」
ヴェロニカは空いた部分へ勢いよく文字を書いた。
『轟――!!』
シルヴェスターの眉が寄る。
「大きすぎません?」
「これくらいでいい。」
「絵が隠れます。」
「絵が上手いからって絵を大事にしすぎなんですよ。文字も絵の一部。」
「でもせっかく描いた竜が。」
「半分隠れるくらいが格好いい。」
「もったいない。」
「上手い奴の贅沢だ。」
「そんな理屈あります?」
「今作った。」
シルヴェスターが、ごく小さく笑った。
ヴェロニカはそれにも気づかず、文字の位置を少しずらした。
「ほら。これなら。」
「……まあ。」
「いいでしょう?」
「悪くはないです。」
「素直じゃないな。」
とうとう敬語すらかなり怪しくなっている。
しかし、シルヴェスターは指摘しなかった。
むしろそのまま、効果音の下へ雷の線を描き足す。
しばらくして、一枚の絵が完成した。
巨大な翼竜。
黒い雲。
空へ一度放たれた雷が、幾筋にも分かれて地上へ落ちようとしている。
その前には、片腕を異形へ変えた元騎士が立ち、後方の崩れた城壁には鞭を構えた少女がいる。
物語も名前も、まだない。
それでも一枚の場面としては、妙に完成していた。
ヴェロニカは椅子の背へ手を掛けたまま、少し身体を引いて全体を見る。
「……いい。」
「……いいですね。」
シルヴェスターも満足そうに頷いた。
二人はもう一度紙を見た。
そして、ほぼ同時に顔を上げた。
目が合う。
「…………。」
「…………。」
距離が近い。
非常に。
ヴェロニカの顔は、シルヴェスターから腕一本分も離れていなかった。
灰青の瞳が徐々に大きくなる。
顔色が落ちる。
「ヒイィィィィィッ!?」
「うわっ!」
シルヴェスターが勢いよく後退した。
椅子が倒れ、床へ転がる。ヴェロニカとの間に三枚ほどの魔法障壁が一気に生まれ、さらに机の横へ逃げ込む。
「何だ急に!」
「ち、近い! 近いです!」
「今さら!?」
ヴェロニカは思わず叫んだ。
「お前、さっきまで普通に横にいただろ!」
「……え?」
シルヴェスターが止まる。
自分でも理解していなかったらしい。
「どのくらい?」
「知らない。五分以上はいただろ。」
「……五分。」
「むしろ十分くらいいたんじゃないか?」
「…………。」
彼が、先ほど自分が座っていた椅子を見る。
次に、ヴェロニカ。
また顔を逸らす。
「で、でも……今は。」
「今は、じゃない。」
ヴェロニカは腰へ手を当てた。
「なあ、お前、一体何なんだ。」
「……何、とは。」
「呪いじゃないんだろ。」
「呪い?」
「魔族や魔物の血もない。女が近付くと死ぬ病気でもない。今これだけ近くにいて何も起きなかった。」
シルヴェスターの顔が、別の意味で引きつった。
「……家令に、何を聞いたんですか。」
「色々。幼い頃に禁断の魔道書を開いた可能性も聞いた。」
「ありませんよ。」
「知ってる。否定された。」
「なぜそんな可能性を。」
「分からないからだよ。」
もう猫かぶりは完全に死んでいる。
一度剥がれてしまえば、戻すのも面倒になった。
ヴェロニカは改めて、目の前の男を見る。
人付き合いが極端に苦手。
女性はさらに駄目。
自分がどう見られているかを異様に気にしているように見える。
褒められると止まる。
顔の話をすると完全に沈黙。
絵を人に見せたがらない。
なのに絵の話になれば、さっきまでの警戒を忘れるほど夢中になる。
文章ならよく話す。
面と向かうと駄目。
そして。
絵。
妙に種類の多い絵柄。
変に感覚の合う言葉。
ヴェロニカはじっとシルヴェスターを見た。
「……何か。」
「いや。」
一つの人物像が、妙に鮮明に頭へ浮かんだ。
前世。
そういう人間を、何人か知っていた。
知人にもいた。
インターネット上にも山ほどいた。
むしろ自分自身も、程度の差こそあれ同じ穴に足を突っ込んでいた。
「お前さ。」
「はい。」
「まるで、こじらせ童貞の引きこもりオタクみたいだな。」
シルヴェスターの肩が、大きく跳ねた。
「…………。」
「…………。」
分かりやすい。
あまりにも。
ヴェロニカは目を細めた。
「おい。」
「……。」
「なんで今、そんなに動揺した。」
「してません。」
「した。」
「してません。」
「しただろ。」
「してません。」
否定が速い。
しかも先ほどまであれだけもごもごしていた男が、この話題だけ妙に即答する。
ヴェロニカはそこで、別の違和感に気づいた。
待て。
自分は今、何と言った。
オタク。
いや、その前からも。
ヒロイン。
属性。
ファンタジー。
効果音。
漫画。
かなり前世寄りの言葉を普通に使っていた。
この世界にも近い概念はある。
しかし「漫画」はどうだ。
今のような、連続した絵と台詞で物語を見せる文化はほとんどない。挿絵付きの本や風刺画はあるが、自分が知る日本の漫画とは随分違う。
なのに。
シルヴェスターは一度も、
「漫画とは何ですか。」
と聞かなかった。
それどころか、先ほどヴェロニカが「漫画なら格好良さ優先」と言った時も、普通に反論していた。
効果音を絵へ大きく入れることにも、意味そのものは理解していた。
「……待て。」
シルヴェスターの顔が強張る。
「何ですか。」
ヴェロニカは、ゆっくりと彼を見る。
「日本。」
「…………。」
反応なし。
いや。
ほんの僅かに瞳が揺れた。
「ゲーム。」
「……。」
「アニメ。」
シルヴェスターの喉が動く。
「コミケ。」
「……行ったことはないです。」
出た。
ヴェロニカは黙った。
シルヴェスターも黙る。
数秒。
頭の中で、これまで妙だと思っていたものが一気に繋がっていく。
仕事の報告形式。
妙に分かりやすい進捗管理。
曖昧な回答を嫌うところ。
絵柄。
先ほどから、あまりに自然に通じるサブカル系の言葉。
そして何より。
「お前。」
ヴェロニカは指を差した。
「転生者か?」
シルヴェスターの灰青の目が、大きく見開かれた。
先日の魔獣討伐の後、ヴェロニカを妻だと知った時よりも、はっきりとした驚きだった。
「……え。」
「前世、日本人?」
「……。」
「日本にいた?」
「…………。」
しばらく口を開閉した後、シルヴェスターがようやく絞り出した。
「あなた……も?」
今度はヴェロニカが僅かに眉を上げた。
「も、ってことは、やっぱり。」
「あなたも、転生……?」
「ああ。」
シルヴェスターは完全に固まった。
「……本当に?」
「嘘ついてどうするんだよ。」
「でも。」
彼は何か言おうとして、また止まる。
「僕以外にも、この世界に転生した人がいるんですか?」
「少なくとも一人はここにいるな。」
「……。」
「お前、自分だけだと思ってたの?」
小さく頷く。
「私も今まで他には会ったことないけど。」
奇妙だった。
三か月以上。
毎日大量の文書を交わしていた。
仕事の感覚が妙に合うと思っていた。
絵を描けば、今度はそれ以上に話が合った。
その相手が。
まさか、同じ世界から来た人間だったとは。
ヴェロニカは、なんとなくシルヴェスターの顔を見た。
彼はまだ混乱している。
女性恐怖の方も完全に戻っているらしく、こちらとは十分な距離を確保したまま、机の横から顔だけ出している。
同郷だと判明しても、そこは別らしい。
変な男だ。
だが。
面白い。
かなり。
「なるほど。」
ヴェロニカは呟いた。
「これは随分面白いことになったな。」
知らない世界に転生し、二十五年。
没落伯爵家に生まれて働き続け、行き遅れたところへ来た縁談を金額だけ見て受けた。
嫁いでみれば、夫は三か月以上顔すら見せない。
ようやく部屋へ踏み込んでみたら、絵が異様に上手かった。
そして、その正体は同じ日本から来た転生者。
物語なら、最初の大きな種明かしが入る辺りだろう。
ヴェロニカは机の端に転がっていた小さな紙を引き寄せ、ペンを取った。
『異世界で結婚した相手が、同郷の転生者だった。』
書く。
少し考える。
その下へ。
『ただし、引きこもり。』
「……何を書いてるんですか。」
シルヴェスターが警戒した声を出した。
「ネタ。」
「僕の?」
「使えるものは使う。」
「やめてください。」
「まだ何も決めてないけど。」
「じゃあ書かないでください。」
「書かないと忘れる。」
「忘れてください。」
ヴェロニカは聞かなかった。
先ほど二人で描いた翼竜の絵を見ながら、さらにその横へ、小さくもう一行だけ書き足す。
『こじらせ童貞疑惑あり。』
「何を追加したんですか。」
「秘密。」
「絶対ろくなことじゃないでしょう。」
少し離れた場所から、シルヴェスターが心底嫌そうな顔をしている。
その表情を見て、ヴェロニカはまた少しだけ笑った。
どうやら。
この三か月、仕事のやり取りをしていた相手は、思っていた以上に自分と近いところから来た人間だったらしい。
そして同時に。
思っていた以上に、話していて面白い人間でもあるらしかった。




