第四話 この引きこもり、絵がめちゃくちゃ上手い。
シルヴェスターが巨大な魔獣をほとんど一人で討ち取るところを目撃してから数日が経っても、ヴェロニカの日常には特に変化がなかった。
夫は相変わらず姿を見せないし、声も聞かせない。あの日、戦場で五秒ほど顔を合わせたことによって何かが劇的に改善することもなく、翌日からはまた、それまでとまったく同じように紙だけが行き来した。むしろ一度こちらの顔を認識したせいなのか、それ以前より避け方が巧妙になった気さえする。
朝、執務棟へ向かえばすでにいない。庭を通れば少し前に戻ったと言われ、書庫へ行けば今しがた出ていったという。
こちらも別に夫の追跡を仕事にしているわけではないので、三日ほどで考えるのをやめた。
どうせ仕事は回っているし、本人も文字の上では相変わらず感じがいい。
先日の防御魔法についても、「咄嗟でしたので」と謝罪された。それで納得できたかと言えばまったくできていないが、少なくともこちらを害そうとしたわけではないらしい。むしろ、あれだけの防御を一瞬で展開したことを思えば、彼にとっては本気で何かから身を守る必要があったのだろう。
何からなのかは、まだ分からない。
女性と一定距離以内に入ることで起こる魔力暴走。幼少期に受けた呪い。人間の感情を読み取る異能。特殊な血統。あるいは魔物との混血。
候補はいくつもあった。
もっとも最近のヴェロニカは、正解を知りたいというより、どれなら一番面白いかを考え始めている節があった。
◇
そんなある日の午後、ヴェロニカは領都中央市場の改修案について、家令と事務官数名を相手に打ち合わせをしていた。
市場の南側には荷馬車用の出入口が一つしかなく、朝夕になると搬入業者と買い物客の動線が交差して混雑する。以前から問題にはなっていたものの、建物の配置や土地の所有権が複雑で、大規模な改修は見送られていたらしい。
「南門を広げるより、こちらの細道を荷馬車専用にした方が早いのでは?」
ヴェロニカは広げられた地図の一角を指した。
「ですが、そちらには古い倉庫が二棟ございます。」
「片方は現在使っていないのでしょう?」
「ええ。ただ、取り壊すとなると少々権利関係が。」
「ではその倉庫を残したまま、ここだけ通せませんか。幅は荷馬車一台分あればいいでしょう。進入と退出を分ければ、少なくとも正面で詰まることは減ります。」
口で説明しているだけでは分かりづらい。ヴェロニカは手元の紙を引き寄せ、ざっと市場の形を描いた。四角をいくつか並べて店舗、細長い長方形を倉庫とし、そこへ道を書き足す。荷馬車は箱に丸を二つ付けただけ、人間は頭と胴と手足がある程度の簡単なものにして、どちらへ流れるかを矢印で示した。
描いている途中で、南門付近に配置する警備兵も必要になることを思い出し、余白へ一人立たせる。槍と胸当て、兜を適当に描き加えてみると、久しぶりに描いた割には一応それなりに人間に見えた。
「こういう感じです。こちらから荷馬車を入れて、荷下ろし後はこちらへ抜ける。買い物客は従来通り正面門を使う。警備兵を一人こちらへ置けば、逆走も防げるでしょう。」
「なるほど。これなら倉庫を潰さずに済みますね。」
「旦那様にも確認を取りましょう。土地の権利関係までは私も把握できていませんから。」
その日のうちに図を添えてシルヴェスターへ送り、ヴェロニカは別の仕事へ移った。
特に深く考えてはいなかった。
だから翌朝、返ってきた書類を開いた時、最初は何を見ているのかよく分からなかった。
「……なにこれ。」
市場の図が描かれている。
自分が昨日送ったものと同じ場所である。
ただし。
図の上手さが全然違った。
簡単な俯瞰図なのに、建物の位置関係が一目で分かる。主要な通路と補助通路は線の太さが変えられ、荷馬車の進入経路と歩行者の動線も混同しないよう整理されている。店舗の軒先、倉庫の出入口、荷下ろし場所まで最低限の線で描き込まれているのに、見づらさがない。
しかも、ヴェロニカが余白へ視線を移すと、そこには昨日自分が適当に描いた警備兵までいた。
それがなぜか、妙に格好良くなっている。
片足を少し引き、槍を肩へ立て掛け、胸を張っている。顔はほんの数本の線しかないのに、どういうわけかそれらしい表情まで見えた。鎧も細部まで描き込んだわけではなく、必要な形だけを拾ってある。それなのに、身体の重心や布のたわみが自然で、立っている人間としてきちんと見える。
ヴェロニカは紙を持ち上げ、近くで見て、少し離して、また近くへ戻した。
「……めっちゃうま。」
思わず、前世の言葉がそのまま口から出た。
「奥様?」
向かいで別の帳簿を整理していた事務官が顔を上げたが、ヴェロニカは答えなかった。
久しぶりだった。
絵を見て、純粋に上手いと思うこと自体が。
そういえば、自分はこういうものが好きだった。
前の人生では、中学も高校も美術部だった。特別な才能があったわけではないし、美術大学へ進むほど本格的に取り組んでもいなかったが、放課後に友人たちと机を囲み、好きな漫画のキャラクターを描いたり、自分で考えた人物の設定を作ったりする時間は好きだった。
漫画も読んだ。アニメも見た。ゲームもした。小説も書いた。友人たちと簡単な同人誌を作り、何度か即売会へ参加したこともある。あの頃は、物語を一本思いつくだけで何日も友人と話せたし、ノートの端に描いた落書きが気に入れば、それだけで少し機嫌が良くなった。
就職してから、そういう時間は徐々になくなった。
帰って食事をして、風呂へ入り、翌日に備えて寝る。休日も疲れている。気が付けば、ペンを握るのは仕事のメモを書く時くらいになっていた。
そしてそのまま死んだ。
こちらへ生まれ直してからは、なおさらだった。紙も絵具もただではない。幼い頃から家計を気にし、少し大きくなれば手伝えることを探し、十五歳からは王宮で働いた。
絵を描きたいなどと考える余裕自体がなかった。
ヴェロニカはしばらく、夫が描いた警備兵を眺めた。
上手い。
普通に、腹が立つくらい上手い。
魔法も強い。仕事もできる。顔も良い。今度は絵まで上手い。
「何なんだろう、こいつ。」
やはり、チートか。神に愛された者とかいうやつか。
とはいえ、眺めているだけでは少し癪である。
ヴェロニカは報告書への回答を書き終えると、紙の下端に空いた余白へペンを持っていった。久しぶりなので最初は線が思うように動かない。それでも数分描いているうちに、少しずつ感覚が戻ってきた。
描いたのは、先日の魔獣討伐だった。
巨大な狼型魔獣。その前に立つ、小さなシルヴェスター。
まず一つ目には、魔獣へ向けて三重の防御壁を展開する夫。
その隣には、妻を見た瞬間、七重ほどの防御壁を展開する夫。
下へ小さく書き添える。
『魔獣への防御。』
『妻への防御。』
数秒眺めた。
「……よし。」
何がよしなのかは分からないが、そのまま送った。
怒るかもしれない。
まあ、その場合は謝ればいい。
ところが翌日。
返ってきた報告書を開いたヴェロニカは、また黙った。
昨日の絵に、描き足されている。
何重もの壁の向こう側で、シルヴェスターらしき人物が小さな札を掲げていた。
『咄嗟でしたので。』
「…………。」
ヴェロニカの口元が、僅かに動いた。
「ふっ。」
笑ってから、自分で少し驚いた。
やるではないか。
そこから先は早かった。
次の日には、家令の息子が玄関の扉につかえている絵を描いた。実際には普通に通れるのだが、あまりにも身体が大きいので、初対面の印象をそのまま誇張した。
翌日には、扉の横から身体を斜めにして侵入する方法を示した絵が返ってきた。
さらにその次の日、二階東廊下から倉庫へ移された鹿の剥製が、夜中に自力で戻ってくる絵を描いたところ、シルヴェスターは剥製を背負って必死に階段を上る家令を描き足した。
朝食のスフレがあまりに美味しかった日は、料理長が後光を背負っている絵を描いた。シルヴェスターからは、その足元で跪く使用人たちが増やされて戻ってきた。
くだらない。
実にくだらない。
だが、楽しい。
気が付けばヴェロニカは、朝一番に夫から返ってくる書類を以前より楽しみにするようになっていた。業務上の回答を読むのはもちろんだが、その下に何が描き足されているかを真っ先に確認してしまう。
報告書の内容も徐々におかしくなった。
上半分には北地区の水路補修予算。その下では、鹿の剥製から家令が逃げている。
次の紙には冬季備蓄量の試算。余白には、料理長の作った巨大なスフレへ騎士団が突撃していた。
ある日、書類を運ぶ家令が紙面をちらりと見て、何とも言えない微笑を浮かべた。
「旦那様と奥様のご報告書は、最近随分と賑やかでございますね。」
「必要事項はすべて上にまとめていますので、業務に支障は出していません。」
「もちろんでございます。」
「何です。」
「いえ。」
家令はそれ以上言わなかった。
その顔が妙に嬉しそうだったので、ヴェロニカにはむしろ不思議だった。
◇
そんなやり取りが始まってから、さらに一か月近くが過ぎた。
最初は報告書の余白に一つ二つ落書きをする程度だったものが、いつしか何も描かれていない日の方が珍しくなった。仕事の報告と一緒に絵を送り、翌日には何かが描き足されて戻ってくる。それがすっかり日常になっていた。
しかし、絵のやり取りを始めたことで、別の問題が生じた。
もっと話したくなったのだ。
仕事の相談なら書面で十分である。むしろ文字の方が記録に残るし、後から確認もしやすい。
だが、絵となると違う。
この構図はどうやって思いついたのか。人体は何を見て練習したのか。魔獣は描くのか。風景は。人物は。色を付けたりもするのか。他に何を描いているのか。
一つ疑問が浮かぶたび、それを一枚の書面にして翌日まで待つのが段々面倒になってきた。
夫として仲良くしたい、という感覚とは少し違う。
恋愛感情などでは、なおさらない。
ただ、普通に話してみたい。
仕事相手ではなく、もう少しくだらないことまで話せる相手になれそうな気がする。
平たく言えば。
「……友達くらいにはなれそうなのにな。」
自室で呟いてから、ヴェロニカは少し考えた。
二十五歳にもなって、結婚相手に対して「友達になれそう」と思うのも妙な話だった。だが現状では、夫婦よりそちらの方が遥かに現実味がある。
問題は、相手が一向に物理的距離を縮める気配を見せないことである。
文字では冗談まで通じる。絵まで描き足す。こちらが少々失礼なことを描いても怒らない。
なのに、生身のヴェロニカが現れると氷壁である。
やはり、何かある。
ヴェロニカは数日考えた末、とうとう家令を呼んだ。
「少し確認したいことがあります。」
「はい。何なりと。」
家令が姿勢を正す。
ヴェロニカも至って真剣だった。
「クローデル家の血統についてなのですが…人間以外の血は入っていますか。」
家令が止まった。
「……と、申しますと?」
「例えば魔族。竜族。狼の魔獣。夢魔でも構いません。」
「ございません。」
即答だった。
「少なくとも、私が存じ上げる限り、クローデル家は代々人間の家系でございます。」
「では、呪いは?代々受け継がれているものでも、シルヴェスター様個人が受けたものでも。」
「聞いたことがございません。」
「幼少期に禁断の魔道書を開いたことは?」
「……ございません。」
「古代遺跡へ入って、女性が一定距離以内へ近付くと心臓が停止するような術式を刻まれたとか。」
家令は、これまで見た中でもかなり深く困惑した顔をしていた。
「……奥様、その、一体、旦那様を何だと思っておられるのでしょうか?」
「それが分からないので聞いているんです。」
ヴェロニカは真顔で答えた。
「女性を見るだけであそこまで防御魔法を張る理由が、普通に考えて分からないでしょう。何か特殊な事情があると思う方が自然では?」
「……なるほど。」
家令は納得したような、していないような声を出した。
「少なくとも、旦那様に魔族の血や呪い、特殊な病があるという話はございません。」
「では、過去に女性から酷い目に遭ったことは?」
「それも……私が知る範囲では、特には。ただ、旦那様は幼少の頃より人付き合いをあまり得意となさいませんでした。特に女性に対しては、昔からかなり緊張なさる方ではございましたが。」
昔から…それでは成人後の恋愛沙汰が原因という線は、やはり薄そうだ。
ヴェロニカはまた考え込んだ。
血筋ではない。
呪いでもない。
特殊な病でもない。
しかも幼少期から。
そうなると、いよいよ分からない。
「ご本人へお尋ねになってはいかがでしょう。」
家令が何気なく言った。
ヴェロニカは顔を上げた。
「……なるほど。本人に。」
それはそうだ。
なぜ今まで思いつかなかったのだろう。
答えを持っている可能性が最も高いのは本人である。
◇
その日の午後、ヴェロニカは早速シルヴェスターの執務室の前に立っていた。
一応ノックする。
返事はない。
もう一度。
「シルヴェスター様。ヴェロニカです。」
沈黙。
そして。
カチリ。
中から鍵が掛かる音がした。
「…………。」
今。
絶対に今掛けた。
ヴェロニカは扉を見つめた。
一瞬、帰ろうかとも思った。しかし最近は、文字の上ではあれほど普通にやり取りしている。毎日のようにこちらの落書きへ続きを描く程度には、関係も悪くないはずなのだ。
それなのに、顔を合わせようとした途端に鍵を掛けられた。
「シルヴェスター様。」
返事はない。
「少しお話が。」
何も返ってこない。
ヴェロニカは少し考えた。
ならば、まず安全な話題から行こう。
「北地区の倉庫改修についてなのですが、昨日いただいた案ですと搬入口が少し狭いと思うのです。」
数秒後、扉の向こうで小さな物音がした。
そして隙間から、するりと一枚の紙が出てくる。風魔法で運ばれているらしい。
ヴェロニカは受け取った。
『荷馬車の標準幅に左右一尺ずつ余裕を取っております。大型車については東側搬入口を使用してください。』
便利だ。
いや、今日はこれをしに来たのではない。
「分かりました。では、その件はそれで。」
もう少し探ってみる。
「先日の魔獣討伐で使っていた魔法についても、一つ聞いてよろしいですか。最後に光の輪から複数の攻撃を出していたものです。」
今度は少し間があった。
また紙が出てきた。
しかも長い。
『光輪そのものに攻撃能力があるわけではありません。それぞれを術式の起点として固定し、同一魔法を異なる角度から発動しております。大型魔獣は一方向からの攻撃には比較的対処しやすいため、複数方向から同時に――』
まだ続いている。
かなり詳しい。
「魔法、お好きなんですね。」
途端に扉の向こうの気配が止まった。
返事は来ない。
だが、先ほどより反応は良い。
では、次。
「あと、先日初めてお顔も拝見しましたが。」
沈黙。
「随分と格好良いお顔をしていらっしゃいますね。」
何もない。
紙も出ない。
物音もしない。
「…………。」
しくじったか。
何が駄目だったのかは分からないが、この話題は完全に駄目らしい。
ヴェロニカは一度咳払いした。
「それはともかく、絵の話なのですが。」
ガタッ。
中で明確に音がした。
ヴェロニカの目が少し細くなる。
これか。
「先日の市場の図、本当にお上手でした。あれ、普段から描いていらっしゃるんですか?」
返事はない。
しかし、逃げた気配もない。
「人物も上手いですし、建物も分かりやすい。特にあの警備兵、あれだけ少ない線で立っている感じが出るのはすごいと思います。」
中で、小さく何かが擦れる音がした。
「私も昔は多少描いたのですが、あそこまでは描けません。この前の魔獣なんかも、絵にしたらかなり映えそうですよね。」
まだ沈黙。
ただし、先ほどの沈黙とは違う。
聞いている。
そういう気配がした。
「私なら、魔獣を大きく見せたいので、下から見上げる構図にすると思うんです。」
しばらくして。
本当に小さな声が、扉の向こうから聞こえた。
「……それだと。」
ヴェロニカは瞬きをした。
「はい?」
「……魔獣の大きさは出ますけど、人間の方が潰れると思います。」
喋った。
初めてだった。
戦場では遠すぎて声までは聞こえなかった。想像していたより若い声だった。年齢を考えれば当然なのだが、毎日あれほど整然とした文章を寄越してくるせいで、もっと重々しい声を勝手に想像していたらしい。
少し低めで、柔らかい。
ただし、恐ろしく小さい。
ヴェロニカは表情を変えないまま、扉へ向き直った。
「では、どうすればいいですか?」
「……背景に、比較できるものを置けば。」
「家とか?」
「はい。建物とか、人とか。魔獣を全部画面に入れる必要もないです。むしろ画面から少し切れるくらいの方が、大きさは出ます。」
返事が早くなった。
「正面から?」
「完全な正面より、少し斜めの方が立体感は出ると思います。狼型なら、頭部と肩の高さの差が見えた方が……あと、影を手前へ伸ばすと圧迫感も。」
先ほどまで一言も喋らなかった男の説明が、少しずつ長くなる。
ヴェロニカは思わず言った。
「めちゃくちゃ喋るじゃないですか。」
ぴたり。
止まった。
「あ。」
自分でも失敗したと思った。
また沈黙。
「いや、別に悪い意味では。」
返事なし。
「止まらないでください。」
それでもしばらく待ったが、声は戻ってこない。
ヴェロニカは溜息をついた。
面倒臭い。
だが、面白い。
「他にも絵を描いてます?」
ほんの僅かに何かが動く。
「見たいです。さっきの図だけではなくて、普段描いているものも。」
「……大したものでは。」
また声が出た。
「大したものじゃない人は、あんなに上手く描けません。」
「……たまたまです。」
「たまたまで人体の重心まで取れるか。」
思わず口調が崩れかけ、ヴェロニカは一度咳払いした。
「とにかく、一度拝見したいです。私は絵を見るのも好きなんです。自分でも少し描きますし、参考にさせていただければ。」
「……。」
長い沈黙が続いた。
もう駄目かと思った頃。
カチャリ。
鍵が外れる音がした。
ヴェロニカは姿勢を正した。
扉が、ほんの少しだけ開いた。
数センチ。
暗い室内が見える。
その向こうに、銀色の髪が少しだけ覗いていた。
ヴェロニカが中を覗こうとした瞬間。
バタン。
扉が閉じた。
「…………。」
何だろう。
二枚貝かな。
「シルヴェスター様。」
返事なし。
「私も本当に絵が好きなんです。」
少し待つ。
また、カチャ、と音がした。
数センチ。
「昔は結構描いてました。今はずっと描いてなかったので、下手になっていますけど。」
扉が、先ほどより少し広く開く。
「あなたの方がずっと上手いと思います。だから、本当に見たいんですよ。」
もう少し。
ヴェロニカは扉の隙間を見つめた。
今しかない。
そう思った。
手を伸ばし、扉の縁を掴む。
途端に向こう側から閉じようとする力が掛かった。
「……!」
グッと隙間に足を挟み込む
ここ三か月、この夫がどれほど徹底的に避け続けてきたか。
何度姿を見ようとしても逃げられたか。
文字ではあれほど普通に話し、冗談まで通じるくせに、生身になると一歩たりとも近付けさせない。
その間に積もっていたものが、そこで一気に切れた。
「オラァ!! この引きこもりがぁぁああ!! 三か月も人から逃げ回りやがって!!」
「ヒイィィィィ!?」
せっかくかぶっていた猫が死んだ。
完全に。
ヴェロニカは扉を押す。
シルヴェスターは閉じる。
「開けろ!」
「む、無理です! 無理です無理です!」
「何が無理なんだよ! 手紙だとあんな普通だろうが!」
「それとこれは別です!」
「何が別なんだ!」
「全部です!」
埒が明かない。
ヴェロニカがさらに体重を掛けた、その瞬間だった。
淡い光が弾けた。
「うわっ。」
開かれた扉の先、目の前に半透明の壁が生まれ、風が巻き起こる。机の上にあったらしい紙が室内を舞い、ヴェロニカは反射的に一歩下がった。
そこでようやく、きちんと見えた。
シルヴェスターがいた。
先日の戦場で見た青年だった。
頸に毛先が触れる程度の銀髪は、先ほどの攻防のせいか少し乱れている。薄い灰青の瞳は遠目で見た時より明るく、切れ長の形も相まって、本来なら冷静で近寄り難い印象を与えそうな顔立ちだった。鼻梁はすっと真っ直ぐで、顎から頬にかけての線も整っている。執務服の上からでも肩幅があり、先日の戦闘で見た通り、決して華奢な男ではない。
近くで見ても、やはり美青年だった。
ただし今、その顔は真っ青だった。
壁際まで下がり、肩を強張らせている。灰青の瞳は明らかに動揺し、呼吸も少し浅い。片手は防御魔法を維持するように上げられているが、その指先が僅かに震えていることまで、今の距離なら分かった。
ヴェロニカは口を閉じた。
これは。
本当に怖がっている。
分かっていたつもりだった。
戦場でも防御魔法を張られた。家令からも、昔から女性が苦手だと聞いている。
だが、ここまで近くで見ると、冗談でも演技でもないことが嫌でも分かる。
ヴェロニカは扉から手を離した。
「……悪かった。」
素の口調のまま、少しだけ声を落とした。
シルヴェスターは答えなかった。
ただ、こちらが近付かないと分かったからか、ほんの少しだけ肩から力が抜ける。
そこで、舞っていた一枚の紙が床へ落ちた。
ヴェロニカは何気なくそちらへ目を向け――止まった。
改めて室内を見る。
床にも、机の上にも、壁際にも、大量の紙がある。
書類ではない。
絵だった。
山や森、城、街角。騎士に魔獣、見たこともない衣装を着た人物。剣を構える男。風に髪をなびかせる少女。飛翔する竜。街を俯瞰した風景。
一枚一枚、驚くほど丁寧に描かれている。
「み、見ないでください。」
シルヴェスターの声が、今までで一番はっきりした。
ヴェロニカは彼を見た。
「これ、全部あなたが?」
「……見ないでください。」
「めちゃくちゃ上手いじゃないですか。」
「だから……。」
「いや、本当に。」
ヴェロニカは床に落ちている一枚へ目を奪われた。
巨大な竜が、崩れかけた塔の上へ降り立つ絵だった。翼の一部は画面から切れ、その影が下にいる小さな人物を覆っている。
先ほどシルヴェスターが言っていた通りだ。
全部を描かない。
比較できるものを置く。
影を手前へ伸ばす。
だから巨大さが一目で分かる。
「……すごい。」
思わず口から出た。
シルヴェスターは、明らかに困った顔をした。
ヴェロニカはその顔を見ながら、さっきまで抱いていた怒りを半分ほど忘れていた。
夫婦になって三か月と少し。
文字だけなら随分話すようになった。仕事の相性も良い。冗談も通じる。ようやく声も聞いた。
そして今、初めて夫の部屋へ入ってみれば、そこには自分が思っていた以上に面白そうなものが山ほど転がっていた。
ヴェロニカは再び、床いっぱいの絵へ目を落とした。
少し――いや。
かなり、じっくり話をしてみたい。
その欲求は、先ほどまでよりずっと強くなっていた。




