第三話 初対面は五秒で終わった。
クローデル辺境伯領へ嫁いで二か月が過ぎた頃には、ヴェロニカはすっかり屋敷の仕事へ馴染んでいた。
朝食を終えれば、その日の面談予定と領内から上がってきた報告を確認し、必要であれば家令や各部署の責任者と短い打ち合わせを行う。商人や領民との面談があればそちらへ顔を出し、午後には結果を取りまとめてシルヴェスターへ報告する。彼から返ってきた判断や指示を翌日の予定へ組み込み、夕方までに未処理の案件を整理する。
王宮で働いていた頃と比べれば扱う内容こそ違うものの、仕事の組み立て方そのものはそれほど変わらない。何をいつまでに処理すべきか、誰に確認すべきか、どこまで自分で判断してよいかを一つずつ整理すれば、大抵のものは順番に片付いていく。
そして何より、直属の相手にあたるシルヴェスターの返事が早い。
顔は知らない。
声も知らない。
同じ屋敷に住んでいるにもかかわらず、未だにすれ違ったことすらない。
それなのに、仕事上の意思疎通だけなら、前世含め誰よりも楽だった。
その日の午前中も、ヴェロニカは執務用に借りている小部屋で、前日に届いた冬季備蓄の一覧表を確認していた。例年より小麦の価格が上がっているため、今年は保存の利く根菜類を少し多めに確保した方がいいかもしれない。塩漬け肉についても、前年度の消費量を見る限り多少余裕を持たせた方がよさそうだった。
数字を追いながら赤いインクで二か所に印を付け、次の項目へ移ろうとしたところで、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
「奥様。」
入ってきたのは、領政を担当している若い事務官だった。普段は几帳面に髪を撫で付けている男なのだが、今日は額へ一筋落ちている。
「どうしました。」
「領都北東、旧街道の付近で大型魔獣が確認されました。すでに騎士団が出ておりますが、周辺の農家へ避難指示を出しています。」
ヴェロニカは手にしていたペンを止めた。
――魔物。
言葉としてはもちろん知っている。
この世界で二十五年も生きているのだから、存在そのものを知らないわけではない。幼い頃に習った地理や歴史の教本にも載っていたし、王都の市場では魔獣の角や牙、硬い甲殻を加工した道具も普通に売られていた。
ただ、生きているものを直接見たことはなかった。
王都周辺は長年にわたり大規模な討伐と街道整備が行われており、人の生活圏へ大型魔獣が現れることは稀だった。小型のものなら森の奥などにいるらしいが、わざわざ見に行こうと思ったこともない。
転生したばかりの頃なら、もう少し喜んだかもしれない。
魔法。
魔物。
冒険者。
異世界らしい未知の何か。
しかし実際に成長してみれば、待っていたのは家計簿と借金と、着回しの利くドレスをどう仕立てるかという問題ばかりだった。
自分がファンタジー世界へ転生した人間であることなど、普段はほとんど意識しない。
「大型魔獣ですか。かなり大きなものなのですか。」
「確認した騎士からの報告では、灰牙狼に近い特徴を持っているものの、通常個体とは比較にならないほど大型だそうです。変異種ではないかと。」
「被害は?」
「今のところ人的被害はありません。家畜が数頭やられていますが、領都へ向かう可能性を考え、早めに迎撃することになりました。」
「そうですか。」
ヴェロニカは頷き、手元の書類へ目を戻した。
人的被害がないなら、ひとまずよかった。
もっとも大型魔獣とやらがどれほど危険なのかはよく分からないので、今の自分にできることもない。
そう考えたのだが、事務官はなぜか気遣わしげにこちらを見ていた。
「だ、大丈夫でございます、奥様。」
「何がですか?」
「旦那様のことです。」
ヴェロニカは顔を上げた。
「旦那様?」
「はい。ご心配かとは存じますが、旦那様は非常にお強い方です。これまでも大型魔獣の討伐には何度も出られておりますし、騎士団長も同行しておりますので。」
少し考える。
「……当主自ら向かわれているのですか。」
「ええ。すでに現場へ。」
「なぜ。」
事務官が今度は少し不思議そうな顔をした。
「この領内では、旦那様が最もお強いですから。」
「…………。」
ヴェロニカの中で、何かが動いた。
二か月。
手紙は毎日届く。
仕事も一緒にしている。
食事の好みも少し知っている。
二階東廊下の鹿の剥製が嫌いなことまで知っている。
だが、顔だけはまだ一度も見ていない。
「現場はどちらです。」
「はい?」
「私でも行けますか。邪魔にならない距離までで結構です。」
「奥様?」
「馬車をすぐ用意してください。」
事務官が目を瞬いた。
それから、どうやらヴェロニカが夫を心配して居ても立ってもいられなくなったのだと解釈したらしく、どこか感動したような顔になった。
「かしこまりました。ですが、くれぐれも前線へは近付かれませんように。」
もちろん危険な場所へ行くつもりはない。
ただし。
二か月間、徹底して逃げ続けている男が自ら屋敷の外へ出ている。
これは紛れもない好機だった。
◇
馬車は領都を出て、北東へ続く街道をかなりの速度で走った。
同行した騎士の話では、魔獣が確認されたのは古い農道と森の境に近い場所らしい。現在は周辺の住民を退避させ、騎士団が街道側への進入を防いでいるという。
「変異種というのは、よく出るものなのですか。」
「いえ。滅多には。ただ、魔力の濃い土地で長く生きた個体や、特殊な魔石を取り込んだ個体などが異常成長することはございます。」
ヴェロニカは窓の外へ目をやりながらなるほどと頷いた。
魔石を取り込んで巨大化。
いかにもファンタジーである。
「普通の灰牙狼はどの程度の大きさです?」
「大きなものでも馬より少し小さい程度です。今回のは。」
騎士は少し言いにくそうにした。
「小さな家ほど、と。」
ヴェロニカはしばらく黙った。
二十五年間、一応この世界で生きてきたが、やはり自分の生活圏は随分平和だったらしい。
ほどなくして馬車が速度を落とし、少し高くなった街道脇の開けた場所で止まった。ここから先は危険なので降りないように、と言われかけたが、その声を掻き消すように、遠くで凄まじい轟音が響いた。
直後、馬車そのものが揺れた。
「っ。」
思わず腕で顔を庇う。
空気を押し潰すような衝撃が遅れて届き、窓の外を土埃が流れていく。
何が起きた。
ヴェロニカは馬車の扉へ手を掛けた。同行していた騎士が制止しようとしたものの、戦場とは十分な距離があるというので、外へ降りる。
次の瞬間、彼女は何も言えなくなった。
視界の先に、巨大な獣がいた。
狼。
形だけなら、そう呼べる。
しかし、ヴェロニカが知っている狼とは大きさが違いすぎた。
四肢で立った状態でも背は周辺の農家の屋根近くまで届き、全身を覆う灰黒色の毛は一本一本が針のように逆立っている。開いた口から突き出す牙は人間の腕ほどもあり、地面へ爪を立てるたびに、乾いた土が大きく抉れた。
その周囲を、大勢の騎士が取り囲んでいる。
槍を構える者。
負傷者を後方へ運ぶ者。
魔法で退路を塞ぐ者。
誰もが必死に動いていた。
だが。
明らかに、一人だけ違う。
巨大な獣の正面から、少し離れた場所。
一人の青年が立っていた。
甲冑は着ていない。
濃紺に近い黒の騎士服に、上から防寒用の外套を羽織っているだけだった。どう見ても、巨大な魔獣と正面から向き合う格好ではない。
風に煽られた銀色の髪が、陽光を受けて鋭く煌めいている。
青年が片手を上げた。
何をしたのか、ヴェロニカには分からなかった。
詠唱らしい声も聞こえない。
ただ、次の瞬間には、魔獣の右前脚の下から巨大な氷柱が突き上がっていた。
獣が吠える。
地面が震えた。
反射的に飛び退いた先へ、今度は横薙ぎの風が走る。目にはほとんど見えない。だがその軌道をなぞるように魔獣の毛皮が裂け、巨体が大きく傾いた。
そこへ間髪を入れず、頭上に白い光が集まった。
雷だった。
一本ではない。
空中に幾重もの光の筋が走り、逃げ道を潰すように次々と地面へ突き刺さる。轟音とともに焼け焦げた土が跳ね、魔獣は進行方向を変えようとしたが、その先ではすでに地面が隆起していた。
石壁。
走路を塞ぐように現れた厚い岩の壁へ巨体が激突する。
そこで騎士たちが一斉に動いた。
横から槍が突き込まれ、足元へ拘束用の鎖が飛ぶ。
しかし、魔獣はまだ倒れない。
体を振るだけで鎖を引き千切り、壁へ前脚を叩きつける。ひびが走り、石の塊が爆ぜるように飛び散った。
ヴェロニカは、少し離れた場所からその光景を見つめていた。
初めて見た。
攻撃魔法を。
いや、それどころか、魔法そのものをこんな規模で使うところを。
生活魔法なら知っている。
火を灯す。
水を出す。
洗濯物を乾かす。
自分にも、ごく簡単なものなら使える。
しかし。
これは別物だった。
青年は一歩も下がらない。
獣が突進する。
真正面から。
ヴェロニカが思わず息を止めた直後、青年の前に半透明の障壁が幾重にも展開された。
巨体がぶつかる。
一枚目が砕ける。
二枚目が軋む。
三枚目で完全に止まった。
青年が手首を返す。
同時に、魔獣の足元から何本もの光の鎖が伸び、四肢へ絡みついた。
動きが止まった一瞬。
獣の周囲に、小さな光の輪が浮かぶ。
一つ。
二つ。
五つ。
十。
それぞれが別々の方向へ回転しながら、まるで何かを計算しているように位置を変えた。
ヴェロニカがそれを美しいと思った次の瞬間、光輪の中心から細い閃光が一斉に放たれた。
凄まじい音だった。
巨大な魔獣の身体へ、何本もの光が同時に突き刺さる。
一発ずつは細い。
だが、正確だった。
首。
脚。
胸部。
魔獣が庇おうと向きを変えるたびに、次の閃光が別の角度から撃ち込まれる。
ただ強い魔法をぶつけているのではない。
動かす。
逃げ道を潰す。
動きを止める。
急所へ撃ち込む。
その流れに一切の無駄がなかった。
まるで。
仕事を処理している時と同じだった。
必要なものを順番に片付けている。
ヴェロニカは、そんな妙な感想を抱いた。
最後に、青年が腕を振り下ろした。
空中に生まれた一本の巨大な氷槍が、一瞬で加速する。
轟音。
魔獣の首元へ深々と突き刺さり、その巨体が大きく揺れた。
数歩よろめく。
そして、地面を震わせながら倒れた。
しばらく誰も動かなかった。
土煙がゆっくりと流れていく。
やがて騎士たちが慎重に近付き、魔獣の状態を確認し始める。周辺へ警戒を呼び掛ける声が飛び交い、後方から治療班も動き出した。
どうやら終わったらしい。
ヴェロニカは、知らず詰めていた息を吐いた。
「……すご。」
小さく声が漏れた。
これは、すごい。
語彙がなくなる程度には。
魔物も大きい。
魔法も派手。
そして、そのほとんどを一人で制圧した男がいる。
これがファンタジー世界。
すごい。
転生して二十五年。
初めて少しだけ、得をしたような気がした。
青年が騎士団長らしき男と短く言葉を交わしている。遠すぎて声までは届かない。
その時になってようやく、ヴェロニカは気づいた。
「あれが?」
隣にいた騎士が頷く。
「旦那様です。」
「……あれが。」
もう一度、見る。
戦闘が終わったことで、今度は顔を落ち着いて確認できた。
遠目でも分かるほど容姿が整っていた。
銀糸のような髪は風に乱れてなお美しく、陽光の下では白に近い光を帯びている。切れ長の瞳は薄い灰青色で、伏せれば冷たく見えそうな色なのに、今は周囲の騎士へ何か指示を出しながら真剣に動いていた。
鼻梁は真っ直ぐで、顎の線もすっきりしている。
線が細い美青年というわけでもない。
外套の下からでも分かる程度に肩幅があり、長い手足には無駄なく筋肉が付いている。魔法使いというより騎士と言われても通る体格だった。
肖像画と確かに似ていた。
しかし、静止した絵より実物の方がずっと目を引く。
何より、先ほどまで巨大な魔獣の真正面に立っていたせいだろう。
単に顔立ちが整っているというだけではなく、遠くからでも妙な存在感があった。
ヴェロニカは少し眉を寄せた。
金がある。
領地もある。
家柄もある。
仕事もできる。
魔法も強い。
顔まで良い。
何だ、お前。チートか。生まれ落ちた瞬間からすべて持っていたパターンか。
こちとら二回目ですら、何一つも来なかったというのに。
そう思ったところで、シルヴェスターがこちらを向いた。
偶然だったのだろう。
最初は、戦場の後方へ誰がいるのか確認しただけに見えた。
その灰青の瞳が、ヴェロニカの姿を捉える。
ぴたりと止まった。
あまりにも綺麗に。
さっきまであれだけ淀みなく動いていた男が、突然時を止められたように静止した。
ヴェロニカは首を傾げた。
こちらが誰か分からないのだろうか。
それもそうかもしれない。
自分は肖像画で彼の顔を見ているが、彼がこちらの肖像画を見たとは聞いていない。そもそも女性の姿を見ること自体避けている男なら、婚約相手の肖像画すら確認していない可能性がある。
隣にいた騎士が、何も知らずに声を上げた。
「旦那様!奥様がお見えです!」
ヴェロニカは、あ、と心の中で思った。
青年の目がさらに大きく見開かれたからだ。
妻だと分かったらしい。
なら、こちらも一応挨拶くらいすべきだろう。
二か月越しである。
ヴェロニカは数歩前へ進んだ。
「初めまして。ヴェロニカ・クローデルです。これまで直接ご挨拶する機会がありませんでしたので――」
最後まで言えなかった。
地面から、凄まじい冷気と共に氷の壁が生えた。
「…………。」
随分と分厚い。
自分とシルヴェスターの間を完全に分断するように、高さ数メートルはある氷壁が一瞬で立ち上がっている。
さっきの戦闘で見たものと似ている。
そして、さらに。
その向こうに淡い光が走った。
一枚。
二枚。
三枚。
半透明の魔法障壁が次々と重なる。
さらに吹雪のような風が巻き始める。
氷壁のこちら側までぐっと冷たい空気が押し寄せ、ヴェロニカの長い髪が揺れた。
先ほど巨大な魔獣を止めた防御魔法である。
それが今、自分一人との間に、何重にも展開されている。
周囲の騎士たちも黙っていた。
誰も何を言えばいいのか分からないらしい。
ヴェロニカも分からない。
氷壁の向こう側で何かが動く気配がし、その直後には、シルヴェスターの姿は完全に見えなくなった。
初めての会合。
およそ五秒で終了。
◇
屋敷へ戻る馬車の中で、ヴェロニカは腕を組んで考えていた。
分からない。
ますます分からなくなった。
いや、今回の会合によって消えた可能性はいくつかある。
まず、実は醜い容姿を隠しているという線。
むしろ逆だった。
実は病弱で、人前に出ることそのものが難しい。
これも消えた。
家ほどある魔獣を相手に、ほぼ一人で戦っていた。
実は魔力を使えない、あるいは何らかの身体的不調を抱えている。
完全にない。
むしろ、何だあれは、強すぎる。
男性が好きだから妻と接触したくないという可能性については、まだ否定しきれないが、それだけで氷壁まで出す理由にはならない。
では、やはり女性そのものに反応する何かがあるのだろうか。
今日、自分が近付こうとした瞬間に防御魔法が発動した。
となれば。
女性が一定距離以内へ入ると、魔力が暴走する体質。
これはかなり有力ではないか。
それならば、あれほど徹底して距離を取るのも説明が付く。
しかし、暴走したというより、明らかにこちらを防御していたようにも見える。
では、女性に近付かれると何か別の発作が起こる。
例えば、幼少期に禁断の魔法書を開いてしまった。
そこに封じられていた呪いを受けた結果、女性が一定距離以内へ入ると生命活動に異常が起こる。
呼吸困難。
心臓発作。
魔力逆流。
最悪の場合、死。
ヴェロニカは真顔のまま窓の外を見た。
あり得る。
ここはファンタジー世界だ。
むしろ普通の病気を想定するより、そういう可能性まで考えておく方が正しいのではないか。
あるいは、先祖に魔物の血が混ざっている。
狼型。
いや、狼は今日普通に殺していたので違うかもしれない。
竜。
夢魔。
精霊。
女性の魔力にだけ反応する何か。
もしくは、生まれつき特殊な体質があり、人間の悪意を感知する。
しかしそれでは女性だけ、という条件は説明できない。
それとも、実際には男女問わず他人が駄目で、男性相手には何とか我慢しているだけなのか。
いや、待て。
幼少期に誘拐された経験がある。
犯人が女性ばかりだった。
その時に拷問か、特殊な魔術か、何らかの精神操作を受けた結果――。
「奥様。」
向かいに座っていた騎士が恐る恐る声を掛けた。
「その……旦那様のことを、あまりお気になさらないでください。旦那様は決して奥様を嫌っておられるわけではないと思います。」
「ええ。」
むしろ嫌われているにしては、手紙の内容が親切すぎる。
「旦那様は昔から、その……女性に対してだけはどうしても。」
「昔から?」
ヴェロニカは少し身を乗り出した。
騎士が困った顔になった。
「私は長くお仕えしているわけではございませんので、詳しいことまでは。ただ、先代の頃から仕えている者によれば、幼い頃からあまり得意ではなかったと。」
幼い頃から、それは重要情報だ。
やはり成人後の恋愛トラブルだけが原因とは限らないと。
むしろもっと根深い。
となれば、血筋。
呪い。
幼少期の事件。
生まれつきの特殊体質。
その辺りの可能性が益々深まった。
ヴェロニカは少しだけ機嫌が良くなった。
分からないものは気になる。
それだけのことである。
◇
その日の夕方、いつものようにシルヴェスターから業務報告が届いた。
『本日の報告。
一、北東街道付近に出現した大型魔獣について、討伐を完了しました。
二、人的被害なし。家畜被害については確認中。
三、戦闘により旧街道の一部および周辺農地に損傷あり。明日、担当者を派遣して補修費用を試算します。
四、魔獣個体については騎士団および魔獣研究所へ調査を依頼します。変異原因が判明次第共有します。
追記。
本日は、大変失礼いたしました。』
文字は相変わらず綺麗だった。
午後に巨大な魔獣を仕留めた人間が書いたとは思えないほど、罫線に沿って整然と並んでいる。
ヴェロニカは少し考え、返事を書いた。
『確認しました。
一、被害農家については家令と相談し、仮補償の準備を進めます。
二、街道補修については昨年度の工事業者へも見積もりを依頼しておきます。
三、周辺農地について、春作付けへの影響も確認した方がよいかと思います。
追記。
こちらこそ、突然現場へ伺い申し訳ありませんでした。討伐、お疲れ様でした。非常にお強いのですね。初めて攻撃魔法を拝見しましたが、とても格好良かったです。』
そこまで書いて、一度ペンを置く。
格好良かった。
これは本当だ。
変に飾る必要もない。
ただ。
もう一つ。
『追記二。
防御魔法、多すぎませんか。』
翌朝返ってきた紙には、業務上の回答が一通り書かれたあと、最後にこうあった。
『追記。
ありがとうございます。攻撃魔法については、周囲に被害が出ないよう出力を抑えておりますので、本来はもう少し余裕があります。』
ヴェロニカは一度手を止めた。
あれで抑えているらしい。
そして。
『追記二。
申し訳ありません。咄嗟でしたので。』
咄嗟。
ヴェロニカは便箋を眺めた。
家ほどある魔獣に対して張っていたものと同等か、それ以上の防御を。
妻が数歩近付いただけで。
咄嗟に。
一体、何から身を守ろうとしているのだろう。
心臓か。
魔力か。
生命か。
魂か。
あるいは、もっと特殊な何か。
ヴェロニカは無意識に口元へ手を当てた。
シルヴェスター・クローデル。
二十二歳。
名門辺境伯家当主。
領地経営良好。
魔法能力極めて高し。
容姿端麗。
女性が一定距離以内へ入ると、魔獣を相手にする以上の防御魔法を展開する。
なるほど。
分からない。
実に分からない。
ただ一つ確かなことがあるとすれば、想像していた以上に謎深く興味深い男だった。
ヴェロニカは今日の予定表を手元へ引き寄せながら、次に夫の姿を見る機会があれば、もう少し慎重に距離を測ってみようと考えた。
もしかすると、五メートルなら平気で、四メートルから駄目なのかもしれない。
いや。
視線だけでも反応する可能性がある。
それなら、衝立越し。
あるいは鏡越し。
魔道具を使った遠隔映像という手も――。
そこまで考えたところで、ヴェロニカは自分が何をしているのか分からなくなり、一度思考を止めた。
まあいい、どうせ今日も仕事は多い。
夫の謎については、急いで解く必要もないだろう。
何しろ、同じ屋敷に住んでいる。
そのうち嫌でも分かる。
そう思っていた。
この時のヴェロニカはまだ、シルヴェスターが隠しているものが、呪いでも異能でも魔族の血でもなく、本人にとってはそれらより遥かに厄介なものであることを知らなかった。




