第二話 夫とはまだ会っていない。
夫が執務室へ籠城したまま出てこないという、結婚初日としてはなかなか聞かない事態に遭遇したものの、だからといってヴェロニカがその場で扉を蹴破りに行くようなことはなかった。
少なくとも、まだ。
クローデル家の家令はひどく申し訳なさそうにしていたし、そもそも婚姻前に渡された条件書には、シルヴェスターが女性との接触を極端に苦手としていることも、夫婦としての交流を求めないことも明記されていた。ヴェロニカ自身もそれを読んだ上で署名したのだから、到着早々「話が違う」と騒ぐのは筋が通らない。
何より、家令が心底困った顔をしている。
「旦那様も、決して奥様を軽んじておられるわけではございません。どうか、その点だけはご理解いただければと。」
「ええ。承知しております。」
「お部屋に落ち着かれましたら、旦那様からも、きっと、改めてご挨拶があるかと存じます。」
「分かりました。私も長旅で疲れておりますから、本日は休ませていただきます。」
ヴェロニカがそう答えると、家令は見るからにほっとした様子で頭を下げた。
今のところ、この家の人間に不快なところはない。
夫と挨拶できないことも、やはり特に問題になるとは思えない。
ならば、わざわざ波風を立てる必要はないだろう。
そう考えながら案内された部屋へ入り、ヴェロニカはそこでしばらく立ち尽くした。
――広い。
実家の自室の倍どころではない。
寝室の隣には専用の居間があり、その奥には衣装室まで付いている。窓は大きく、厚手のカーテンはまだ新しい。家具はいずれも品が良く、寝台には見るからに上等な寝具が整えられていた。
浴室まである。
しかも、湯を使うたびに薪代を気にする必要もないらしい。
ヴェロニカは室内を一周してから、暖炉の前で立ち止まった。火が惜しげもなく燃えている。実家なら、冬でも昼間はなるべく薪を節約し、日が落ちてからようやく火を入れる程度だった。
「……金持ちだな。」
荷解きを手伝っていた侍女が振り返ったため、ヴェロニカは何でもないと答えた。
もう一度、部屋を見る。
生活環境は申し分ない。
食事も出る。
実家への支度金は約束通り支払われる。
夫婦生活は求められない。
夫は部屋から出てこない。
最後の一点は今後弊害がでないよう注意する必要はあるが、やはり相当に良い条件ではないだろうか。
自分の生活へ口を挟まれないという意味では、かえって好都合かもしれない。
そう思っていたところへ、夕食前になって家令が再び訪れた。
「奥様。旦那様より、お手紙をお預かりしております。」
「手紙ですか?」
「はい。」
同じ屋敷にいる夫から手紙が来た。
ヴェロニカは一瞬だけ黙ったものの、受け取った封筒にはクローデル家の封蝋がきちんと押されている。なんと冗談ではないらしい。
封を切ると、中には二枚の便箋が入っていた。
まず目に入ったのは、驚くほど整った文字だった。癖は少なく、一文字一文字の大きさが揃っている。王宮で長年書類を扱ってきたヴェロニカから見ても、非常に読みやすい。
『ヴェロニカ・クローデル様。
本日は遠路お越しいただき、ありがとうございます。本来であれば直接ご挨拶申し上げるべきところ、このような形となりましたことをお詫びいたします。
お部屋、食事、使用人、その他生活に必要なものにつきまして、不足やご希望がございましたら、どうぞ遠慮なく家令へお申し付けください。屋敷内および領内では、危険のない範囲でご自由にお過ごしいただいて構いません。
また、ハルフォード伯爵家へお約束しておりました婚姻支度金につきましては、本日付で全額の支払い手続きを完了しております。数日以内には確認いただけるかと存じます。
この婚姻をお受けくださったことに、改めて感謝申し上げます。
ただ、対面でのご挨拶につきましては、今しばらくお時間を頂戴できますと幸いです。
ご不便をおかけいたしますこと、重ねてお詫び申し上げます。
シルヴェスター・クローデル』
「…………。」
まともである。
少なくとも文章だけならば。
内容にも失礼なところはない。むしろ自分が嫁いできたことで生活に不自由がないか、かなり気を遣っていることが伝わる。
金も払った。
部屋も用意した。
生活も保証する。
好きに過ごしていい。
ただし会いたくはない。
ヴェロニカはもう一度、最初から読み返した。
やはり分からない。
女性が怖いという話は聞いていた。しかし、この警戒ぶりでは、単に苦手という範囲を超えている気がする。
何かされると思っているのだろうか。
自分が突然襲いかかるとか。
寝首を掻くとか。
毒を盛るとか。
そもそも婚姻相手を選んだのは向こうなのだから、それなら最初から結婚などしなければいい気もするが、もしや辺境伯家の跡継ぎ問題か何かで焦っていたのだろうか。
ヴェロニカは便箋を机へ置き、少し考えた。
過去に女性絡みで何かあった。
まず考えられるのはそれだ。
酷く騙されたとか。
暴力を受けたとか。
幼少期に母親か乳母との間に何かあったとか。
それならば、心の傷ということで一応説明はつく。
ただ、ここは日本ではない。
剣も魔法も魔物もある。
現代医学や心理学の範囲だけで考える方が危険かもしれない。
女性に近づくと何かの発作を起こす呪い。
特定の魔力へ反応する体質。
女性と目を合わせると魔力が暴走する。
あるいは、実は人間ではない。
半分狼。
半分竜。
半分魔族。
そういった血筋を隠している可能性も、この世界ならゼロではない。
魅了系の魔力を制御できないという線もある。何しろ高位貴族には古い血筋が多い。実は夢魔の末裔で、女性と顔を合わせると無意識に魅了してしまうので、一切会わないようにしているとか。
それならかなり納得できる。
あるいは、人の心が読める。
女性の本音がすべて聞こえてしまうせいで、嫌になった。
これは少し気の毒だ。
では実は魔王だった、というのはどうだろう。
いや、魔王にしては領地経営が堅実すぎる。
それとも、女性そのものに興味がなく、本当は男性が好きなのか。
ヴェロニカはそこで少し考えたあと、首を傾げた。
「……普通すぎるな。」
近くで荷物を整理していた侍女がまた不思議そうな顔をする。
何にせよ、急ぐ必要はない。
夫が何者であろうと、今のところ自分に害はない。
むしろ、こうして考えているうちに、少し面白くなってきた。
一体正解は何なのだろう。
できれば一度、顔くらいは見てみたい。
◇
翌日から、ヴェロニカはそれとなく夫の姿を探し始めた。
探すといっても、廊下の角に潜んだり、執務室の鍵穴から覗いたりしたわけではない。朝食を普段より少し早く取ってみたり、書庫へ行くついでに執務棟の前を通ったり、庭を歩いてみたり、その程度である。
それでも、一度くらい偶然行き会うのではないかと思っていた。
……行き会わない。
三日経っても。
五日経っても。
一週間経っても。
一度も見ない。
声すら聞かない。
屋敷には確実にいる。毎朝、執務室へ大量の書類が運び込まれ、数時間後には処理されて出てくる。領内から報告が入ればその日のうちに指示が返り、騎士団から訓練計画が上がれば修正案まで付いて戻ってくる。
食事もしている。
眠ってもいるらしい。
それなのにヴェロニカの生活圏と、見事なまでに重ならない。
ある日の午前中、執務棟へ続く回廊の先に人影が見えた気がして足を速めたところ、角を曲がった時には誰もいなかった。
別の日には、庭師から「先ほど旦那様がお通りになりました」と聞いて数分違いだったことを知った。
さらに別の日、書庫に誰かいる気配がしたので中へ入ってみれば、机の上にまだ温かい茶だけが残されていた。
「……徹底してるな。」
ここまで来ると腹が立つより感心してくる。
向こうも相当必死なのだろう。
何がそこまで彼を追い詰めているのかは、ますます分からなくなった。
一方で、姿を見せないこと以外、シルヴェスターという男にはほとんど問題が見当たらなかった。
いや、むしろ領地運営の仕事に関しては、かなり優秀だった。
ヴェロニカがそれに気づいたのは、嫁いで十日ほど経った頃である。
屋敷の生活にも慣れ、暇を持て余し始めたヴェロニカは、何となく家令の仕事を手伝うようになっていた。最初は「せめてご自分のためにゆっくりお過ごしください」と止められたのだが、十年ほぼ毎日働いてきた人間に、突然「何もしなくていい」と言われても逆に困る。
読書もする。
散歩もする。
それでも一日は長い。
そんな折、領都の商人組合から届いた書簡を家令が手にして困っているところを見つけた。
「何か問題でも?」
「いえ、来月の布地納入契約についてなのですが、組合の代表が直接お話ししたいとのことでして。」
「会えばいいのでは?」
「代表が女性なのです。」
なるほど。
それだけで、何となく事情を察した。
「旦那様は書面での交渉を希望されております。ただ、先方は細かな条件を直接詰めたいようでして、本来であれば私が代理を務めるところなのですが、本日は別件の来客もございまして。」
「では、私が行きましょうか。」
家令が目を丸くした。
「奥様がですか?」
「王宮では備品購入の契約確認もしておりました。布地なら単価と品質、納期の条件が分かれば話くらいはできます。契約書の作成等も必要であれば。」
「しかし、奥様にそのようなお仕事をお願いするわけには。」
「暇なんです。」
正直に言った。
それでも家令はしばらく遠慮していたが、最終的にはヴェロニカが押し切る形となった。
結果として、その日の午後には契約条件がほぼまとまった。
翌日は、近隣の村から道路補修について陳情に来た女性代表と話した。
その翌日は、修道院の院長から依頼された冬季物資について確認した。
さらに数日後には、女性職人が中心となっている織物工房との取引条件を整理した。
やっているうちに気づいた。
この領地の仕事が滞る原因は、シルヴェスターの能力不足ではない。
むしろ逆だった。
書類処理は速い。
判断も的確。
数字にも強い。
長期的な予算の組み方も堅実で、領民から上がった要望についても、単に却下するのではなく、必要性と費用対効果を比較して優先順位を付けている。
ただし。
相手が女性になると、必ず誰かを挟む。
そこだけである。
その一点が、想像以上に面倒な遅延を生んでいる。
そしてヴェロニカがそこへ入ると、驚くほど仕事が早く回った。
「本当に助かります。」
家令から心の底から感謝され、これくらいのことでとヴェロニカは少し困った。
「これまでは旦那様へ報告し、私か別の者が相手方と交渉し、それを再度旦那様へ確認し……という形でしたので。奥様でしたら、先に旦那様から条件を受け取って、そのまま交渉へ入っていただけます。」
「なるほど。」
確かに非効率だ。
ならば、自分がやればいい。
特に嫌ではない。
むしろ、何もしないで一日を潰すより落ち着く。
そうして気づけば、ヴェロニカは正式な役職もないまま、辺境伯家の実務にかなり深く入り込んでいた。
朝食後、まずその日の予定を確認する。
午前中に領民や商人と面談。
午後には家令や各部門の責任者と打ち合わせをし、必要なものをシルヴェスターへ報告する。
夕方、返ってきた指示を翌日の予定へ組み込む。
王宮女官から、辺境伯領の実務補佐へ。
仕事の内容が少し変わっただけだった。
住み込み。
三食付き。
個室あり。
実家の借金まで返済済み。
給金という概念こそないが、必要なものは何でも買っていいと言われている。
ヴェロニカはある日、自室で翌日の資料をまとめながら、ふと思った。
これは結婚なのだろうか。
少し考える。
少なくとも、世間一般で想像する結婚生活とはかなり違う気がする。
夫とは一度も会っていない。
一緒に食事もしていない。
会話すらない。
その代わり、毎日大量の書面をやり取りしている。
どちらかといえば。
「……転職しただけだな。」
待遇の良い職場へ。
それならそれで、十分ではないか。
◇
シルヴェスターとのやり取りは、いつの間にか手紙というより業務報告書に近いものへ変わっていた。
ヴェロニカが朝、その日の予定を書く。
『本日の予定
一、東地区商人組合との契約更新。
二、北村から提出された街道補修申請の現地確認。
三、厨房の勤務割について料理長と打ち合わせ。
四、午後三時より次月予算について家令と確認。
北村の補修費については、現行予算内で収まらない可能性があります。確認をお願いいたします。』
昼前には返事が来る。
『確認しました。
一、商人組合との交渉上限は添付資料の範囲でお願いいたします。ただし輸送費については冬季分のみ一割まで上乗せ可。
二、昨年度に実施した西地区の工事資料を添付します。北村側の試算と比較してください。
三、厨房勤務については現場判断を優先してください。
四、予算案は午後二時までにこちらでも確認します。
補修費については、安全上必要な工事であれば予備費使用可。現地確認後、再度ご連絡ください。』
分かりやすい。
ヴェロニカは最初にこれを受け取った時、少し感動した。
何を確認したのか。
誰が判断するのか。
どこまで裁量があるのか。
いつまでに返事が必要なのか。
全部書いてある。
王宮では、上役から「良いようにしておいて」とだけ言われ、その「良いように」が何を意味するのか聞き返すところから仕事が始まることも珍しくなかった。
シルヴェスターにはそれがない。
さらにヴェロニカが、
『北村の件、補修ではなく一部架け替えの方が長期的には安くなります。初期費用は二割ほど増えますが、五年間の維持費を含めるとこちらが有利です。』
と書けば、
『確かに。その案で試算してください。こちらの見落としでした。』
と返ってくる。
彼は自分の判断に固執もしない。
逆にヴェロニカが予算を無視して、
『せっかくなので街道脇の待避所も同時に整備しては。』
と提案すれば、
『必要性には同意しますが、今月やる必要はありません。来年度予算へ回してください。全部一度にやろうとしないでください。』
と止められる。
これも正しい。
「仕事しやすいな、こいつ。」
思わず口から出た。
文字だけなら、本当に。
さらに妙なのは、書式の感覚まで合うことだった。
ヴェロニカが「決定事項」「要確認」「保留」と分けて報告すると、次からシルヴェスターも同じ形式で返してくるようになった。期限があるものには必ず日付を付け、担当者を明記し、曖昧な部分には「未定」と書く。
この世界の貴族としては妙に事務的である。
しかしヴェロニカにとっては、恐ろしく楽だった。
「決定事項と未決事項を分ける」「期限と担当を明記する」「進捗がなければ進捗なしと報告する」という感覚が、妙なところでぴたりと噛み合っていた。
そんなやり取りが続いて二週間ほど経った頃、ヴェロニカはいつもの報告書の最後へ、何となく一文付け足した。
『追記。
本日の朝食に出た林檎のスフレが非常に美味しかったです。中がほどよく溶けていました。』
業務とは何の関係もない。
書いてから、消そうかとも思った。
しかし面倒なのでそのまま渡した。
昼過ぎに返ってきた書類の末尾には、
『追記。
同意します。あれはかなり良かったです。料理長に継続を依頼しました。』
とあった。
ヴェロニカは少しだけ笑った。
翌日。
『追記。
本日、家令のご子息に初めてお会いしました。想像していた倍ほど大きくて驚きました。』
家令の息子は騎士団所属で、父親とは似ても似つかないほど大柄な男だった。腕などヴェロニカの腿ほどある。
返事。
『追記。
分かります。僕も初対面の時に驚きました。家令から「息子です」と紹介されても、しばらく信じられませんでした。』
また別の日。
『追記。
二階東廊下の鹿の剥製ですが、夜に見ると普通に怖いです。あれは必要でしょうか。』
『追記。
僕も嫌いです。先代の趣味なので撤去の機会を逃していました。嫌なら倉庫へ移しましょう。』
『追記。
では移しましょう。目が合います。』
『追記。
激しく同意します。』
ヴェロニカはそこで手を止めた。
「……激しく?」
随分と妙な表現を使う。
しかし意味は分かる。
むしろ自分にもかなり馴染みがあるような気がしたが、それ以上は考えなかった。
次第に、業務報告の最後にはほぼ必ず何かしら余計な一文が付くようになった。
昼食の豆煮込みが少し塩辛かった。
庭の猫が最近太った。
騎士団長が怖い顔で甘いものを三つ食べていた。
厨房の新人が作ったパンが妙な形をしていた。
ヴェロニカが書けば、シルヴェスターは大抵何か返してくる。
文章であれば冗談も通じる。
意外とよく笑うらしい。
少なくとも、文字の向こうでは。
ある日ヴェロニカが、
『本日の面談、予定一時間のところ二時間半かかりました。先方が同じ話を三回しました。』
と愚痴を書けば、
『お疲れ様でした。そういう方です。僕も書簡で同じ説明を四回しました。』
と返ってきた。
『先に教えてください。』
『すみません。書くと悪口になるかと思いまして。』
『今後は業務上有益な悪口については共有してください。』
『承知しました。』
妙な会話だった。
それでも心地よかった。
◇
そうして、気づけば一か月が経っていた。
ヴェロニカはすっかりクローデル家の生活に馴染んでいた。
朝は決まった時間に起き、朝食を取る。午前中は必要に応じて領内の人間と会い、午後は家令や各担当者と仕事を進め、夕方には夫へ報告を送る。
使用人たちとの関係も良好だった。
「奥様がお越しくださってから、本当に助かっております。」
ある日、家令から改めてそう言われた。
「それほどでしょうか。」
「旦那様ご自身、仕事は非常によくなさいます。ただ、どうしてもお会いできる方が限られておりますので。」
「女性ですね。」
家令は苦笑したものの、主人を責めるような響きはなかった。
それは他の使用人たちも同じだった。
困ってはいる。
非常に困っている。
しかし嫌ってはいない。
若い侍女に至っては、
「旦那様、昔よりは大分良くなられたそうですよ。」
と心配そうに話すほどだった。
「昔はもっと?」
「私は詳しく存じませんが、家令様たちはそう仰っています。」
さらに悪かったらしい。
ヴェロニカはますます興味を惹かれた。
一体、何があったのだろう。
しかし同時に、もうこのままでもいいのではないかという気持ちも生まれ始めていた。
生活は安定している。
仕事もある。
実家の借金は約束通り返済された。
弟のアルベルトの学費についても、すでに数年分を別途確保してある。
自分の居場所もある。
夫との仕事も、驚くほどやりやすい。
夫婦として何かを求められないことにも、特に不満はない。
考えてみれば、最初からその条件で嫁いだのである。
ならば。
「……もうこれでいいのでは。」
自室で独り言を呟いた。
夫というより同僚。
しかもかなり有能で、仕事の相性も良い。
毎日顔を合わせる必要もない。
業務外の雑談も少しする。
気の合う遠隔勤務の同僚と思えば、非常に良好な関係だった。
妙な連帯感さえある。
ただし。
夫婦としての距離は、一ミリたりとも近づいていない。
むしろ、文通だけで十分意思疎通できるようになったせいで、対面する必要性がますます薄れている気さえする。
これは正しいのだろうか。
そもそも正しい夫婦とは何なのだろう。
ヴェロニカは宙を見上げ考え始め、すぐに考えることをやめた。
困っていない。
ならいい。
その日の夕方も、いつも通り一日の報告を書いた。
『本日の結果。
一、北地区の水路補修、業者決定。着工は来週三日目。
二、織物工房との次期契約、条件調整完了。詳細添付。
三、騎士団冬季装備について見積もり二社分を比較。明日再確認。
四、厨房新人の勤務配置変更。料理長了承済。
明日の予定については別紙の通りです。
追記。
本日の焼き菓子は昨日よりこちらの方が好きです。胡桃が多い。』
そこまで書いて、ヴェロニカは少し考えた。
そして、その下にさらに一文を加えた。
『追記二。
ところで、いつになったらお顔を見せていただけるのでしょうか。』
書類を折り、いつものように使用人へ託した。
返事が届いたのは翌朝だった。
業務上の回答は、相変わらず完璧だった。
水路補修について承認。
織物工房との契約について一点だけ確認。
騎士団装備については追加予算可。
厨房の配置変更について異議なし。
そして最後。
『追記。
胡桃の焼き菓子については同意します。昨日のものより好きです。』
さらに、その下に小さく。
『追記二。
対面の件につきましては、引き続き善処いたします。』
「…………。」
ヴェロニカは紙をじっと見た。
しばらく見た。
もう一度初めから読んだ。
業務連絡については、あれほど期限と回答を明確にする男が。
そこだけは善処。
何を、どう、善処しているのだろう。
少なくともこの一か月、その成果は一度も確認できていない。
ヴェロニカは便箋を机へ置き、椅子の背へ身体を預けた。
仕事はできる。
気遣いもできる。
冗談も通じる。
話の感覚も妙に合う。
屋敷の人間からも好かれている。
それなのに、一か月経っても、声すら聞かせない。
――なんでだ。
以前よりも遥かに不思議だった。
そして。
ここまで徹底して隠されると。
やはり、一度くらいは見てみたくなる。
ヴェロニカは、夫から届いた美しい文字の書類を眺めながら、静かに頬杖をついた。
夫婦になって一か月。
夫婦としての仲が深まった実感は、まるでない。
そのくせ、同僚としての信頼だけは、妙に順調に積み上がっている。
それが果たして良いことなのか悪いことなのか、ヴェロニカにはまだ分からなかった。




