第一話 ずいぶん高く買っていただけるようです。
その日の朝、ヴェロニカ・ハルフォードは、王宮女官棟の一室で三十二枚目の書類へ印を押していた。
恐らく、三十二枚目だったと思う。しかし途中から数えることに意味を感じなくなったので、もしかすると三十枚目かもしれないし、三十五枚目だったかもしれない。まあどちらでもよかった。午前中に処理しなければならない書類がまだ机の右端に指二本分ほど積まれていて、それがすべて左端へ移れば仕事が終わる。大切なのは、それだけである。
「ヴェロニカ様。こちら、洗濯場から今月分の追加申請が。」
「置いてください。」
「それから、第二厨房のメルダが熱を出して休むそうで、今夜の晩餐会へ回す人員が一人足りません。」
「午前勤務のエリナを二時間早く上げて、夕刻から第二厨房へ。代わりに午前の給仕は第三棟から一人借りてください。第三棟は今日は王族の使用予定がありませんから、人員に余裕があるはずです。」
「分かりました。あと、これなのですけれど。」
差し出された紙へ目を落とし、ヴェロニカは一度瞬きをした。
「……先月より布地の単価が上がっていますね。」
「やっぱりそうですか?」
「同じ業者、同じ規格で一反あたり銀貨三枚上がっています。原材料費の値上げなら通知が来ていなければおかしいですから、一度購買担当へ差し戻してください。もし業者側からの申し出なら、高騰理由の説明及び内訳書と共に、前月分との比較表も付けてもらってください。」
「はい。」
若い侍女が書類を抱えて去っていく。それを見送ることもなく、ヴェロニカは次の紙を取った。
王宮で働き始めて、もう十年になる。
二十五歳。
貴族令嬢として考えるなら、とっくに結婚していてもおかしくない年齢だった。十六、七歳で婚約を決め、十八から二十歳頃に嫁いでいく令嬢が多いことを考えれば、かなり遅い。それでもヴェロニカが今なお王宮女官棟の片隅で備品購入費の差額を確認しているのは、単純に、結婚するにも金が要るからだった。
ハルフォード伯爵家は貧しい。
正確には、貧しくなってしまった。
曾祖父の代までは歴史ある名門貴族として名を馳せ、そこそこ豊かで、領地の収穫も悪くなかった。王都に屋敷を持ち、毎年新しいドレスを誂え、娘を社交界へ送り出し、息子には一流の家庭教師を付けるくらいの余裕はあったらしい。
しかし祖父の代で始めた投資事業が、見事なまでに失敗した。
その後も何とか取り返そうとして別の事業へ手を出し、さらに失敗した。
あとは坂道だった。
膨れる借金。
土地の一部売却。
使用人の削減。
王都屋敷の家具をいくつか売り、それでも爵位だけは維持しなければならないため、最低限の社交費だけは必要になる。貴族というものは、金がなくなったからといって今日から平民になりますと言えるほど簡単ではない。
むしろ、金がないのに貴族でいる方が面倒だった。
古いドレスを直す。
袖を変え、飾りを付け替える。
去年とは違う服に見えるよう、襟を縫い直す。
華やかな茶会へ呼ばれれば参加費用を計算し、往復の馬車代を考える。それでも出席しなければ「ハルフォード家はついに社交界へ顔も出せなくなった」と噂されるので、ドレスのほつれがきちんと直っているか、冷や汗を搔きながら笑顔で菓子を食べる。
そんなことを十歳頃から延々と続けた結果、ヴェロニカは二十五歳にして、華やかなものを見ると値札を想像する人間になった。
世の令嬢たちが宝石の輝きに胸を躍らせる横で、
――あれを売れば弟の学費半年分。
と思う。
我ながら本当に夢がない。
だが、夢では借金は返せない。それが現実である。
「ヴェロニカ様……….お疲れでしょうか?」
隣の机で帳簿を整理していた後輩の侍女が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「いいえ。」
「で、でも、何だか今日はいつも以上に目が……。」
それ以上何も言わなかった。
恐らく死んでいる、とでも言おうとしたのだろう。
別に今日に限ったことではない。
鏡を見るたび、自分でも思う。
最低限の手入れしかしていない、長い焦げ茶の髪。
あまり動かない表情の中に埋め込まれた、同色の瞳。ただし、
――目に、光がない。
子供の頃はもう少しあったような気がするが、いつから消えたのかは覚えていない。十歳の頃だったか、父がなけなしの金で始めた事業が、結局失敗したことを知った頃だったか、それとも二十歳を過ぎて、同年代の友人が次々と結婚し始めた頃だったか。
まあいい。
人間は目に光がなくても、生きていける。
書類も読める。
ただ生きて働くだけの女には何の問題もなかった。
「ヴェロニカ。」
そこへ、部屋の入口から低い女性の声がした。
顔を上げると、女官長のオリヴィアが立っていた。
「少しよろしい?急ぎのお仕事は?」
「この束を午前中に処理予定ですが、一時間程度でしたら問題ありません。」
「一時間も取らないわ。こちらへいらっしゃい。」
何かあったらしい。
ヴェロニカはペンを置き、机の上の紙を揃えてから立ち上がった。
まさか先ほどの布地の件ではないだろう。あれはこちらの不手際ではない。勤務態度についても、少なくとも叱責を受けるようなことをした覚えはなかった。となれば実家関係だろうか。弟が学校で何かやらかしたか。或いは父がまた思い付きで無茶な事業でも始めようとしているのか。頼むから後者ではないことを祈りたい。
女官長に続いて小さな応接室へ入り、向かい合って座る。
オリヴィアは四十代半ばの女性で、王宮で二十年以上働いている。厳しい人だが公平で、少なくともヴェロニカは随分世話になっていると思っていた。
その彼女が、今日は妙に言いづらそうな顔をしている。
なぜか、嫌な予感がした。
「ヴェロニカ。あなた、今……縁談はなかったわよね?」
「ありません。」
質問が予想外の方向だった。少し驚いて、目を瞬かせる。
「今後、家の方で何か決めているお相手は?」
「おりません。」
オリヴィアは一度頷き、目の前に置いていた紙束へ視線を落とした。
それから覚悟したように、紙の上へ手を下した。
「実は、あなたに一つ、縁談が来ているの。」
「私に?」
「正確には、あなたならもしかしたら受けてくれるかもしれないと、私が口を零してしまって。向こうが是非に、と。」
さすがに少し驚いた。
自分のステータスを脳内で並べる。
二十五歳、完全なる行き遅れ。
実家、借金有り。
容姿、普通程度。
魔力、平均以下。
その他特徴・技能、無し。
王宮勤めが長いので書類整理と人員調整にはかなり慣れているが、そんな能力を求めて伯爵令嬢へ求婚する男など聞いたことがない。
「お相手は?」
「シルヴェスター・クローデル辺境伯。」
今度こそ、ヴェロニカは数秒黙った。
名前くらいは知っている。
王国北西部の国境を守るクローデル辺境伯家。古くから続く名門で、領地も広く、鉱山や森林資源にも恵まれている。前辺境伯が早くに病死したため、現当主は非常に若く、確か二十過ぎ頃だったはず。
つまり。
「年下?」
「そこ?」
ほかにも言うべきことはあった。
なぜそんな名門貴族がこの自分なぞを。
顎に手を置き静かに考え出したヴェロニカを前に、オリヴィアはますます困ったような顔になり、一枚の書類を差し出した。
「先に言っておくけれど、決して押しつけるつもりはないの。クローデル家は私の母方の遠縁にあたるから、相談を受けただけで……。嫌ならもちろん断っていい。私から話を通すから。」
「何か問題がおありなのですか?」
「……少々。」
「病気?」
「健康よ。」
「借金。」
「ないわ。むしろ相当裕福ね。」
「女性問題。」
「それも……恐らく、ない。」
「恐らく?」
引っ掛かった。
オリヴィアは少し遠い目をした。
「ない、というかね……彼は、女性そのものが、駄目なの。」
「嫌い、ということですか?」
「いえ、なんというか。」
オリヴィアは小さく嘆息した。
「怖い、らしいの。」
ヴェロニカは黙った。
女性が怖い。つまり、恐怖症かなにかということだろうか。
でも貴族だから、どうしても結婚しなければと、適当な相手を探している、と。
「だから、通常の縁談とは条件がかなり違うの。一度、読んでみて。」
オリヴィアは書類を指さした。
「分かりました。」
ヴェロニカは頷いて紙を取った。
まず一項目。
婚姻成立以前の面会は不可。
――問題ない。
二項目。
婚姻後も夫婦別室とする。
――とても良い。
三項目。
夫婦間に恋愛感情およびそれに付随する行為を要求しない。
――むしろありがたい。
四項目。
辺境伯本人が希望しない限り、社交行事への同行を要求しない。
――こちらもその方が楽でいい。
五項目。
互いの私的空間への立ち入りを避けること。
――動線さえしっかりしていれば可能だろう。
六項目。
子については当面求めない。
――素晴らしい。
そこまで読んで、ヴェロニカは一度顔を上げた。
「随分、妻に優しい条件ですね。」
「……そう受け取るの?」
「顔合わせの為に仕事を休む必要もない。結婚後も夜会へ付き合う必要もなく、子を産むことも要求されず、夫婦生活も不要。生活費と住居は辺境伯家が負担してくれるのでしょう?最高ではないですか。」
「普通はもう少し、夫婦としての生活を求めるのではないかしら。」
「そうでしょうか?」
貴族であれば、基本的に恋愛感情で結婚することなどできない。よく知りもしない男と結婚して急に夫婦として過ごせと言われる方が、ヴェロニカにはよほど恐ろしい。
「ただし。」
オリヴィアが付け加える。
「彼は本当に、本当に人付き合いがかなり苦手なの。特に女性とは全く会話ができないと聞いているわ。茶会にも舞踏会にも出ない。これまでにも縁談はいくつもあったのだけれど、一度も会おうとしなかった。だから今回はとうとう、周囲が『会わずに結婚できる方を探そう』と言い出したらしくて。」
なるほど、かなりの変人である。
しかし世の中には酒を飲んで暴れる男も、愛人を五人抱える男も、借金をしてでも賭け事を止められない男もいる。
女性と話せない程度なら、まだ可愛いものではないか。
ヴェロニカは続きを読んだ。
そして、最後の項目で止まった。
婚姻成立時、クローデル辺境伯家よりハルフォード伯爵家へ支払われる婚姻支度金。
「…………。」
数字を見る。
顔を上げる。
もう一度見る。
念のため、指で桁を数える。
一、十、百、千……。
間違っていない。
ヴェロニカは頭の中で計算を始めた。
現在残っている実家の借金、完済。
屋敷の修繕、これなら全体建替えもできる。
数年間放置している領地の水路補修、馬車路も含めたってできる。
弟の学費、卒業まで余裕。
さらにその後、弟が家を継ぐまでの運営費を差し引いても、相当残る。
先二十年は普通の貴族として暮らせるだろう。
節約すれば、もっと。
すごい。
これは、本当にすごい。
「ヴェロニカ?大丈夫?」
書類から目を離さず答える。
「これは、まあ、なんと。随分、高く買っていただけるのですね。」
「……その言い方はやめなさい。」
「事実です。」
「……普通に結婚支度金と言えばいいでしょう。」
「意味は同じでは?」
「違うわよ。」
そうだろうか。
婚姻する。
自分が辺境伯家へ移る。
代わりに実家へ金が入る。
やはり、同じだろう。
ヴェロニカは静かに頷いた。
「是非お受けします。」
「待ちなさい。もう少し悩んで決めなさい。」
「条件は拝見しましたが。」
「今、見せてから五分も経っていないわ。」
「十分でしょう。目はすべて通しました。」
「いえ、そういうことではなくて……。」
オリヴィアが頭を抱えた。
「ヴェロニカ。結婚なのよ。一生のことよ?」
「恐らく。」
「恐らく、ではないの。」
「しかし、離縁という制度もございますので。」
「……そういう問題でもないわ。」
なら何の問題なのだろう。
ヴェロニカは再び条件書を見た。
悪くない。
むしろ非常に良い。
「クローデル辺境伯は、暴力を振るう方ですか?」
「聞いたことはないわ。」
「使用人への待遇。」
「非常に良いと聞いている。」
「領地経営。」
「若いけれどとても優秀な方よ。先代が亡くなってから数年で領地歳入を二倍近く上げているそうだから。」
「では、何の問題もありません。」
「でも、会話すら難しい夫よ?たぶん会おうとしても、逃げるわ。」
夫と一緒に居たくなくて、夫が在宅の時だけ出掛ける妻の話だって珍しくない。と思えば、最初から会わずに済むなら、やはりむしろ楽なのではないだろうか。
「結婚前に会うこともできないのよ?」
「世の中には様々な人間がおりますので、そこは個人の意思を尊重すべきかと。」
「……それらしいことを言って、考えを放棄しているようにしか思えないけど。」
「しかし、考えても何も変わりませんから。」
即答した。
オリヴィアはしばらくヴェロニカを眺め、それから深く溜息を吐いた。
「……少し考えなさい。今日は書類を持ち帰っていいから。」
「もう決めました。」
「家族とも話すこと。」
「それは承知いたしました。」
「明日改めて返事を。」
「はい。」
一応頷いた。
だが答えは変わらないだろう。
こんな条件で、これだけの額を提示される機会など、今後絶対にない。
自分を売る。
そう考えても、特に何も感じなかった。
そもそも貴族の結婚とは、程度の差こそあれ似たようなものだ。
家同士の利益。
領地。
血縁。
政治。
金。
その中にたまたま恋情まであれば運が良い、というだけの話だ。
ヴェロニカは二十五歳で、これまで一度も恋をしたことがない。
前の人生でも、なかった。
そこまで考えて、ふと手を止めた。
前の人生。
そう。
ヴェロニカには、一度死んだ記憶がある。
日本という国で生まれ、普通に学校へ行き、普通に就職し、普通に働いて、三十歳になる少し前に死んだ。
特に才能もなかった。
悲劇的なことも、大逆転のようなものも、特になかった。
つまらない人生だったとは思わない。
ただ普通に生きて、普通に頑張り、それほど長くもないところで、事故で人生が終わった。
だから二度目に目を覚ました時は、ほんの少し期待した。
異世界。
貴族。
魔法。
もしかすると、今度は何か特別なものがあるのではないか、と。
結論、そんなものはなかった。
魔力は平均以下。
容姿も普通。
家は貧乏。
自由もない。
十歳を過ぎれば家計の心配をして、十三歳頃から自分でもできる仕事を探し、十五歳で王宮へ入り、それから十年間働いた。
弟はまだ学生。
家の借金は残っている。
朝起きて。
働いて。
帰る。
前回の人生と大して変わらなかった。
――何で二回もやってるんだろうな。
異世界に来てまで。
時々思う。
別に死にたいわけではない。
ただ、生きるという行為へ大層な意味を付ける気力もない。
前回だって、それなりに頑張った。
今回だって十分頑張っている。
それなら、これ以上何かを求める必要があるのだろうか。
生きているから、生きる。
仕事があるから、働く。
家族がいるから、支える。
やりたいことも、特にない。
それでいい。
だから結婚先が多少変人でも、それほど大した問題には思えなかった。
今より酷ければ、その時考えればいい。
本当にどうにもならなければ。
まあ。
死ぬだけである。
それも一度経験済みだ。
もっとも、また転生させられたらさすがに困る。
できれば次こそは静かに眠らせてもらいたい。
◇
その日の夕食後、ヴェロニカが持ち帰った条件書を最も熱心に読み込んだのは、八歳年下の弟アルベルトだった。まだ学生である彼は、姉が机の上へ置いた書類を最初から最後まで二度読み返したあと、理解し難いものを見るような顔を上げた。
「姉さん、本気なの?会ったこともないんだよね?」
「ない。」
「顔も?」
「肖像画は見せてもらった。」
「どうだった?」
ヴェロニカは少し考えた。二十二歳、銀に近い髪に、整った顔立ちをした青年だったと思う。少なくとも、容姿が原因で結婚相手が見つからないとは到底思えない程度には見栄えが良かった。
「整っていた。」
「それだけ?」
「顔で借金が返せるわけでもないし。」
「姉さんって時々、本当に夢がないよね。」
「夢で学費が払えるなら、私は内職せずに毎晩早く寝る。」
アルベルトは何とも言えない顔で黙り込んだ。
父と母も、名門辺境伯家からの縁談の申し出だと聞いて、最初こそ喜んだものの、条件書を見るうちに顔を曇らせていった。若く、裕福で、領地も安定し、容姿にも能力にも問題がない男が、二十五歳になった没落伯爵家の娘へ、顔も合わせず多額の支度金まで付けて結婚を申し込む理由。
「ヴェロニカ。」
父は条件書を前にして、ひどく慎重な口調で言った。
「家のために、決して無理をする必要はないんだ。」
「別にしていません。」
「しかし、金額だけを見て決めたのではないのか。」
「いえ、条件も全項確認しました。少なくとも書かれている内容は、私にとって悪いものではありません。むしろ最良です。」
「あの内容で?」
「ええ。加えて、この機会を逃せば、一生独身という社会的負い目を背負う可能性が高いかと。」
父は言葉に詰まった。確かに、と顔に書いてある。
ヴェロニカ自身、それほど投げやりな判断をしているつもりはなかった。相手の身元は明らかで、家柄も資産も領地経営も調べられる。暴力沙汰や賭博癖、女性関係の悪評もなく、使用人への待遇も良いという。問題とされているのは、今のところ、本人が極端に女性を苦手としており、できれば妻ともあまり顔を合わせず暮らしたいと考えていることだけだ。
その程度なら、少なくとも現在の自分が抱えている問題より遥かに扱いやすそうに思える。
「これだけあれば借金は全て返せます。」
ヴェロニカは条件書の最後に記された金額を指した。
「アルベルトの学費も卒業まで払える。屋敷の修繕どころか建替えも可能。数年前から先送りになっている領地の水路補修も、馬車路の再整備と一緒に着手できる。それでもまだ数十年分残るでしょう。」
「姉さん……僕のせいで、ごめん。」
「いや、私としても年齢を考えれば、今後これ以上条件の良い縁談が来る可能性はない。なら、高く買ってもらえるうちに売るのが一番効率が良い。それだけ。」
「自分を売るって言うのやめてよ。」
「意味は似たようなものでは?」
「全然違う。」
家族三人が揃って微妙な顔をしている。
ヴェロニカには、なぜ誰も喜ばないのか今一つ分からなかった。これほど条件の良い話は、今後二度と来ないかもしれない。持参金もほとんど用意できない二十五歳の伯爵令嬢が、名門辺境伯家へ嫁ぎ、そのうえ実家の借金まで清算できるのである。普通に考えれば僥倖と呼んで差し支えないのではないか。
「まあ、いいじゃないですか。残り物には福がある。」
「姉さん、自分で自分を残り物って言わないで。」
「違うか。」
「違うよ。」
「では、災い転じて福となす。」
「何の災いが転じたの。」
「……雨降って地固まる?」
「もう適当にことわざを並べないで。」
ヴェロニカはそこで考えることを諦め、手元の茶へ口を付けた。
「まあいい。僥倖。」
「姉さんって、昔からこんなんだったっけ……。」
「歳を取ったんじゃない。」
「まだ二十五でしょう。」
人生を二度分数えるなら、感覚としてはもう五十を超えているのだが、もちろんそれを説明するつもりはなかった。
◇
翌日、ヴェロニカは女官長オリヴィアのもとを訪れ、正式に縁談を受ける旨を伝えた。オリヴィアは一度ならず三度まで「本当にいいのね?」と確認したが、返事を変える理由はなかった。
そこから先の話は驚くほど早く進んだ。クローデル辺境伯家から正式な婚姻書類が届き、双方の家が署名し、王宮へ退職届を提出する。同時に持参品の確認や旅程の調整が始まり、ヴェロニカ自身はそれまで担当していた仕事を後任へ引き継ぐため、結婚準備よりもむしろ女官棟の机に向かっている時間の方が長かった。
十年間勤めた職場を離れるとなれば多少の感慨があるかと思っていたが、実際のところ、最後まで考えていたのは「この業者への発注手順は書き残したか」「冬季の人員配置について説明したか」「第三倉庫の鍵の管理者を変更したか」といったことばかりだった。
だから、退職日が近づくにつれて周囲の方が妙にしんみりし始めたことには少し戸惑った。
「ヴェロニカ様がいなくなると寂しくなります。」
「仕事についてでしたら、引き継ぎ書を作っております。備品管理の一覧表も更新しましたし、発注先の連絡先も――」
「そういうことではありません。」
また言われた。
そういうことではない。
最近、この言葉を聞く機会が多い。
ではどういうことなのかと考えてみても、答えはよく分からなかった。仕事というものは、特定の誰かがいなくなっただけで回らなくなる状態にしてはいけない。自分が去るなら、次の人間が困らないよう情報を残し、手順を整理しておく。それで十分なはずだった。
最終日には、思っていた以上の人間が見送りに来た。菓子や手袋、小さな香水、刺繍入りのハンカチまで渡され、最後には女官棟の同僚たちが書いた寄せ書きまで手渡された。
「幸せになってくださいね。」
「……ありがとうございます。」
反射的にそう答えたものの、幸せという言葉は、相変わらずヴェロニカには少々大きすぎるように思えた。
借金がなくなる。
弟が無事に学校へ通える。
領地の水路を直せる。
自分にも寝床と食事がある。
それだけ揃えば、十分ではないだろうか。
幸福か不幸かまで、わざわざ判定する必要があるのかも分からない。
二回分の普通の人生で、なんだかもう大分疲れて草臥れている感は拭えなかった。
◇
王都を発って九日目、馬車の窓から見える景色は、ヴェロニカがこれまで見慣れていたものとは随分違っていた。緩やかな丘陵の向こうには深い森が続き、さらに遠くには青みがかった山々が連なっている。王国北西部は冬が長く、魔物の出没も多いと聞いていたので、もっと荒涼とした土地を想像していたのだが、実際には街道もよく整備され、途中で通った村々の農地にも荒れた様子はなかった。
家屋も思った以上にしっかりしている。関所の兵士たちも規律正しい。大きな石門から入った領都はかなり大きく、大小様々な店舗が立ち並ぶ商店街もいくつか有り、賑やかで活気があった。豊かで栄えた領地というのは本当だったらしい。
「……まともだな。」
「何か仰いましたか?」
向かいに座っていた侍女が顔を上げたため、ヴェロニカは何でもないと首を振った。
若い当主。
極度の人嫌い。
特に女性が怖い。
舞踏会にも茶会にも顔を出さず、見合いすら拒否し続けた末に『会わずに結婚できる妻』を探すことになった男。
そこまで聞けば、領地のことなど放り出して屋敷の一室へ閉じこもっている姿を想像したくもなる。しかし実際にその領地へ入ってみれば、少なくとも外から見える範囲では、統治が疎かになっている気配はほとんどなかった。
むしろ、かなりよく治められているように見える。
翌日の午後、ようやく到着したクローデル辺境伯邸も、ヴェロニカの予想とは大きく違っていた。王都の貴族屋敷のような華美さこそないものの、灰白色の石壁に囲まれた城館は古く堅牢で、軍事拠点として長く使われてきた歴史を感じさせる。庭や建物の手入れも行き届いており、正面玄関には家令を先頭に使用人たちが整然と並んでいた。
「ようこそお越しくださいました、奥様。長旅、お疲れでございました。」
白髪混じりの家令が深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。本日よりお世話になります。」
ヴェロニカも、王宮で十年間使い続けてきた猫をかぶった淑女らしい笑みを浮かべて頭を下げた。
使用人たちの様子にも、これといった異常はなかった。皆きちんとした身なりをしており、主人に怯えているようにも見えない。屋敷全体に妙な緊張が漂っているわけでもなければ、長年仕える者特有の疲弊した空気もない。
領地はまとも。
屋敷もまとも。
使用人もまとも。
そこまで確認したところで、ヴェロニカはようやく、この婚姻において最も重要であるはずの人物がどこにも見当たらないことに気づいた。
「ところで、辺境伯様はどちらに?」
そう尋ねた瞬間、家令の表情がほんの僅かに固まった。
十年間王宮で働き、人間が本音を隠す顔など散々見てきたヴェロニカはすぐに気付いた。
これは、かなり痛いところだったようだ。
「……旦那様は、現在執務室にいらっしゃいます。」
「お仕事中でしょうか。」
「いえ。」
「では、お加減でも?」
「いえ。体調は大変よろしゅうございます。」
そこまで聞いて、ヴェロニカは少しだけ眉を寄せた。
「でしたら、一度ご挨拶に伺っても?」
「それが……。」
家令が言葉を選ぶように、一度視線を落とした。
「奥様を乗せた馬車が領邸の門を通過したとご報告いたしましたところ、旦那様は執務室へお戻りになりまして。」
「ええ。」
「そのまま、内側から鍵をお掛けになられました。」
しばらく、ヴェロニカは何も言わなかった。
一度宙を見上げる。
聞き間違えた可能性を考えて、念のため確認する。
「鍵を?」
「はい。」
「内側から?」
「左様でございます。」
「私が来たから?」
家令は、今度こそ明確に申し訳なさそうな顔をした。
「……恐らくは。」
なるほど。
オリヴィアから聞かされた「女性との接触を極端に苦手としている」という説明には、どうやら一切の誇張がなかったらしい。
ヴェロニカは改めて、目の前にそびえる立派な城館を見上げた。借金はない。領地は豊か。仕事もできる。使用人からの評判も悪くない。肖像画を見る限り容姿まで十分整っており、そこへ破格の婚姻支度金まで付いていた。
あまりにも条件が良いので、どこかに何か大きな問題があるのだろうとは思っていた。
――執務室の中から鍵を掛けてまで、領地にはるばるやって来た妻を拒絶する夫。
おもしろい。
「奥様?」
家令が恐る恐る声を掛けてくる。
ヴェロニカはそちらへ振り返り、長旅の疲れなど微塵も見せない、王宮仕込みの穏やかな笑みを浮かべた。
「いえ。少々、安心いたしました。」
「……安心、でございますか?」
「ええ。これほど条件の良い縁談でしたので、何もない方がかえって不安でしたから。」
家令は何とも言えない顔をしたが、ヴェロニカは気にしなかった。
少なくとも、話がうますぎたわけではない。
問題は、ちゃんとあった。
それもどうやら、かなりおもしろい方向に。
ヴェロニカはもう一度、辺境伯が閉じこもっているという執務室のある方角へ目を向けた。
自分をこれほど高く買った男は、どうやら想像していた以上に面倒な人間らしい。




