表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

159/161

第百五十九話「封筒の中身③」


春馬は、母親が記したそのノートのページを、まるで壊れ物を扱うような指先でめくった。

そこには、自分自身が「論理」という防壁の中で必死に守り抜こうとしていた孤独な日常が、母・春那という観測者の視点から、鮮やかに、そしてどこか慈しむように記述されていた。


二年生に進級した春馬の生活は、本来であれば、一年生の頃と同様に「静寂と孤立」によって最適化されているはずだった。

ノートには、帰宅時間が一時間ほど遅くなったあの日、リビングに入ってきた春馬の様子が克明に記されている。



今日の春馬は、いつもより一時間も遅れて帰ってきた。

玄関を開ける音がした瞬間、私は少し驚いたわ。だって、あの「効率の鬼」である春馬が、寄り道もせず、部活動もしていないのに、定刻を破るなんて。

入ってきた彼の表情は、一見するといつもの「不敵な笑み」を浮かべていたけれど、どこか動揺しているようにも見えた。「お絵かきしりとり」なんて幼稚な言葉を吐き捨てていたけれど、洗面所へ向かう彼の背中は、何か「得体の知れない熱」に当てられた後のように、少しだけ熱を帯びていた気がする。


春馬は言っていたわね。「幼稚すぎて論理的価値はゼロだ」って。

でもね、春馬。母さんには見えていたわよ。あなたが自分の描いた無機質なゴリラと、彼女が描いたリンゴを並べて、何とも言えない顔をしていたのを。

あなたが「負けの恐怖」を忘れて、ただ「次に何を描くか」だけを考えていたその一時間は、あなたが何年もかけて築き上げた氷の城を、内側から少しだけ溶かしたんじゃないかしら。


春馬は、ノートの文字を追いながら、あの日の放課後の静まり返った教室を思い出した。

「りんご」から始まった、非論理的で、生産性のない、けれど「勝ち負けが存在しない」時間。

蒼奈が描いた、丸くて温かみのある絵。それに引き換え、自分の描いた解剖図のような骨格標本のゴリラ。

あの時、蒼奈に「目が笑ってるよ」と指摘された瞬間の、心臓が跳ね上がるような感覚。

それは、彼が小学生の頃に封印したはずの、「世界を楽しむ」という機能が、再起動リブートした瞬間だったのかもしれない。


さらにページをめくると、あの日――蒼奈と初めて映画に行く前夜の記録が現れた。



夕飯はハンバーグ。春馬は「高効率なエネルギー補給」だなんて可愛くないことを言っていたけれど、クローゼットの前でフリーズしている姿は、どう見たって「何を着ていけばいいか分からない男の子」そのものだった。

彼が「若宮蒼奈」という名前を口にしたとき、私は確信したわ。

春馬が「女性不信」という重い病を抱えながらも、彼女の誘いに応じたのは、単なる実験のためじゃない。彼女が、春馬の論理的な拒絶を「笑顔」という名の非論理的な盾で受け流し、一歩も引かずに隣に居続けてくれたから。


春馬は「事実を認めることはできる」と言った。

それは、あなたが彼女という存在を、あなたの暗い過去が作り出した「女性は裏切る」というフィルター越しではなく、ありのままの「事実」として見ようと努力し始めた、最初の『白旗』だったのよ。

私が選んだネイビーのジャケット。

鏡の前で「非効率だ」と文句を言いながらも、どこか誇らしげに肩を回していたあなたの姿を見て、母さんは少しだけ泣きそうになったわ。

裏切られるのが怖くて、目立たないグレーのパーカーに逃げようとしていたあなた。

でも、そのネイビーの白地のインナーは、あなたが「楽しさという利益」を追求するために、自分から一歩踏み出した勇気の証なのよ。



ノートの終盤、春那の筆致はより深く、思索的なものへと変わっていく。

(春那の独白:ノートの末尾)

春馬。

あなたは、自分のことを「汚れた雑巾」だと思っているかもしれない。

感情は脆く、人間は計算高い。そう信じることで、あなたは自分を守ってきた。


でも、蒼奈ちゃんという子は、あなたのその古びた「女性センサー」が感知できないほど、規格外の存在だった。

あなたが彼女を「論理的に解析する」と豪語している姿を見て、私は思うの。

それはね、春馬。あなたが彼女を信じたいからなのよ。

既存の「女性=裏切り」というデータでは、どうしても彼女を説明できない。

だから、あなたは新しいデータセットを構築し、彼女のためにわざわざ「特異点」という新しいフォルダを作った。

あなたは今、フィルター越しに世界を見ているんじゃない。

蒼奈ちゃんという光が、あなたのレンズを少しずつ磨き上げ、アップデートさせている。

彼女は、あなたの孤独の最適解を壊しに来た「侵略者」かもしれない。

でも、同時に、あなたの世界を色鮮やかに塗り替えてくれる、唯一の「理解者」でもあるはずよ。

春馬。

あなたの論理は、冷たい武装じゃない。

彼女の温かさを、正しく受け止めるための、精密な「器」になり始めているわ。


読み終えた春馬は、しばらくの間、ノートを閉じることもできずに立ち尽くしていた。

夕飯の香りが、リビングに満ちている。

目の前には、自分が「解析不能」だと思っていた感情の変遷を、自分よりも深く理解し、見守っていた母親の姿。


「……母さん」

春馬は、掠れた声で呼びかけた。


「……このノートに書かれていることは、主観的な推測が多すぎて、論理的な裏付けに欠ける。……俺は、単に事実を羅列しているだけだ」

春那は、そんな強がりを隠さない息子を見て、悪戯っぽく、けれど優しく微笑んだ。


「そうね。でも、その『主観』が、今のあなたの顔をこんなに柔らかくさせているのは、動かしようのない事実でしょ?」

春馬は何も言い返せず、ただノートの表紙を見つめた。

幼少期の純粋な自分。

小学生の頃、ズタズタに引き裂かれた自分。

そして、今、蒼奈という「不条理」によって、再び形作られようとしている自分。


「……手を、洗ってくる。……話は、それからだ」

春馬は、ノートを大切に抱え、立ち上がった。

かつて「汚れを拭くためだけ」に存在したはずの彼という存在が、今は誰かの「光」を反射するための、澄んだ鏡へと変わりつつある。

母の目から見えた春馬。

それは、本人が思うよりもずっと人間臭く、ずっと愛おしく、そして——誰よりも「青春」の渦中にいる少年の姿だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ