第百五十八話「封筒の中身②」
春馬の指が、ノートのページを強く押さえつける。
そこに綴られていたのは、母・春那の筆跡でありながら、春馬自身の記憶の奥底で封印されていた「地獄」の再現だった。一文字ずつ追うごとに、脳内にこびりついたモノクロの映像が、血を流すような鮮明さを持って蘇り、彼の視界を侵食していく。
それは、彼が「研究者・箕島春馬」へと脱皮せざるを得なかった、あまりにも凄惨な冬の記録だった。
回想の中の春馬は、まだ十歳にも満たない。
当時の彼は、世界の全てが「善意」で構成されていると信じて疑わない、無防備な少年だった。そんな彼が恋をしたのは、一年生の頃から密かに思い続けていた、ある一人の女子だった。
彼女は明るく、誰に対しても親切で、春馬にとっては「世界の美しさ」を象徴するような存在だった。四年生になってもその思いは変わらず、春馬は純粋に、彼女と話す時間を宝物のように思っていた。
「ねえ、今の話面白いね!」
「本当? 良かった。また明日も話そうよ」
そんな他愛のない会話。春馬は彼女を「友達」だと信じ、いつかこの思いを伝えたいと願っていた。当時の彼は、「運命の人」という言葉を信じ、大人になったら彼女と結婚するのだと、本気で夢見ていたのだ。
そんなある日、運命の歯車を狂わせる「奇跡」が起きた。
クラスの席替え。春馬が引き当てた番号は、彼女の隣だった。
「(……運命だ。神様は、本当にいるんだ!)」
胸を高鳴らせ、自分の机を彼女の隣へと運ぶ。期待に胸を膨らませ、満面の笑みで「これからよろしくね」と言おうとした。だが、彼が椅子を引くよりも早く、隣から聞こえてきたのは、冷淡な、あまりにも冷酷な「音」だった。
「……はぁ、最悪」
彼女は、クラス中に響き渡るような大きな溜息を吐いた。
春馬の動きが止まる。
彼女はさらに、追い打ちをかけるように「チッ」と鋭い舌打ちを鳴らすと、自身の机を、春馬から三十センチ以上も離したのだ。
「ちょっと、みんな聞いてよ! 私、こいつの隣になっちゃった。最悪だよね~? 運命とか言われたら吐き気がするんだけど!」
彼女は、目の前に春馬がいることを完全に無視し、周囲の女子とゲラゲラと笑い始めた。
春馬は呆然と立ち尽くしていた。
(……え? 何か、僕、悪いことしたのかな? 機密を漏らした? それとも、彼女の体調が悪いのかな?)
当時の春馬は、まだ「悪意」というものを正しく認識できていなかった。余裕があるフリをして微笑もうとしたが、視界は急激に歪み、溢れ出る涙を止めることができなかった。
それでも、彼は信じたかった。
何かの間違いだ、彼女は照れているだけだ。そんな狂気的な「善意」が、彼をさらなる地獄へと突き落とす。
数日後。春馬は決意を固めて登校した。
今日こそ、思いを伝えよう。だが、教室のドアを開けた瞬間、空気の異常に気づく。
女子たちが塊になってこちらを指差し、ひそひそと、けれど確実に聞こえるボリュームで嘲笑していたのだ。
「おはよう!」
いつものように挨拶をして入室した春馬。
だが、返ってきたのは「おはよう」という言葉ではなかった。
「……お前は、無理。近寄らないでくれる?」
彼女の声だった。教室の中央で、取り巻きの女子を引き連れた彼女が、蔑みの視線で春馬を射抜いた。
春馬の思考は停止した。
告白すらしていない。手紙も渡していない。なのに、彼はクラス全員の前で、勝手に「振られて」いたのだ。
「え……? 振られた……? 僕、まだ何も……」
「言い触らしてるでしょ? 私のことが好きだってさぁ。女子同士の会話って、すぐに広まるんだよ? 知ってた?」
数日前、盛り上がった女子グループとの会話の中で、信頼していた友人に打ち明けた「好きな人の名前」。それが、彼女へのステータス向上のための道具として、最悪の形で利用されたのだ。
「あのさ、勘違いしないでね。私がアンタと仲良くしてたのは、多くの男子から『性格がいい子』だと思われたかっただけだから。アンタみたいなパシリにちょうどいい奴と話してると、私のポイントが上がるの。友達だと思ったことなんて、一秒もないから」
「…………」
その一言で、春馬の「世界」は音を立てて崩壊した。
あまりの衝撃に、彼はその場で崩れ落ちそうになった。だが、記録によれば、当時の春馬は絞り出すような声でこう言ったらしい。
「……そっか。……それなら、これからも友達のままでいようよ」
小学生離れした、あまりにも悲しい「縋り付き」。
だが、返ってきたのは、慈悲のない「トドメ」だった。
「はぁ? 意味わかんない。さっき言ったじゃん。最初から友達じゃないって。これ以上、私のステータスを汚さないで。消えてよ、雑巾」
その日から、春馬の名前は消失した。
彼はクラスで「雑巾」と呼ばれるようになった。
汚れを拭き取り、使い捨てられ、触るだけで忌み嫌われる存在。
隣の席になった女子が、彼と一メートル以上距離を置くことは「恒例行事」となった。
春馬が授業中に挙手をしても、先生さえも見て見ぬふりをした。
ある日の昼休み。
春馬はあまりの精神的疲労に、机に突っ伏して眠っていた。
その時、後頭部に、頭蓋骨が砕けるような衝撃が走った。
「……死ねよ、雑巾!」
笑い声と共に、女子生徒が工作用のハンマーで彼の後頭部を叩いたのだ。
痛みよりも、背後から襲われるという恐怖。
誰を信じていいのか分からない。視界に入る全員が、自分を「汚物」として見ている。
卒業すれば変わる。
中学に行けば、この地獄は終わる。
そう願っていた春馬に待っていたのは、さらなる絶望の再生産だった。
バレンタインデー。
クラスの男子全員に義理チョコを配ると宣言し、聖母のように振る舞っていた女子がいた。
男子たちが歓喜に沸く中、配られたチョコは、春馬の席の直前で綺麗に無くなった。
「あ、ごめん。春馬くんの分、忘れちゃった。まあ、雑巾には必要ないよね?」
文化祭。展示の受付係を決めるとき。
春馬は立候補すらしていなかった。ただ席に座っていただけだ。
それなのに、女子の代表が彼の前まで歩み寄り、冷たく言い放った。
「君だけは、絶対にNGだから。 受付にいたら、お客さんが不快になるでしょ?」
「……あはは……あはははは!」
耐えられなくなった春馬の心の中で、何かが壊れた。
心身が限界を超えたとき、彼はなぜか笑うようになった。
苦しければ苦しいほど、声が出て、顔が歪み、笑いが止まらなくなる。
それは、彼が獲得した「防御本能」だった。
「(……分かった。……理解したぞ。……感情など、ノイズだ。……人間の善意など、自己満足のための計算に過ぎない。……誰も、信じてはいけないんだ)」
彼は、感情を捨てた。
誰にも傷つけられないために、自分を「論理」という鋼鉄の鎧で固めた。
現実の世界で正論を吐けば、さらに孤立する。それは既に学習済みだ。
だから彼は、戦いの場所をデジタルへと移した。
SNSという、顔の見えない戦場。
そこでは、論理こそが正義であり、感情論は敗北の象徴だ。
小学生を卒業してすぐ、彼は「レスバ」という名の聖域を見出した。
愚かな人間を論理で解体するたび、彼は自分の存在を証明できる気がした。
「……俺を好きになる人間など、この宇宙には存在しない」
「恋愛というステージ? そもそも、俺は人間というカテゴリーから除外された『雑巾』なのだから、その資格さえない」
そんな「迷言」を呪文のように自分に言い聞かせ、彼は感情を摩耗させていった。
回想が終わり、春馬は「春馬ノート」のページから目を上げた。
視界が霞んでいる。
ノートを握る拳は白くなり、全身が小刻みに震えていた。
「……これが、俺の正体だ。母さん」
春馬の声は、ひび割れた硝子のように脆かった。
「感情は脆く、女性は計算高く、世界は不条理に満ちている。……俺を守ってくれるのは、この冷たい論理だけなんだ。……それを、今更……なぜ……」
春馬の言葉が途切れる。
ノートの次のページには、そんな彼が「若宮蒼奈」という、論理を嘲笑うかのような光に出会った日のことが、母の優しい視点から綴られようとしていた。
過去の暗闇が深ければ深いほど、隣で笑う少女の「白」が、今の春馬にはあまりにも眩しすぎて、直視できなかった。




