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第百五十七話「封筒の中身①」


洗面所から戻った春馬の前に置かれていたのは、一冊の古びた大学ノートだった。

表紙には、母親の少し丸みを帯びた筆跡で、誇らしげに『春馬ノート』と記されている。


「……何だ、これは。俺の個人情報の集積体か?」

春馬が怪訝そうに眉をひそめると、春那は穏やかな、けれどどこか遠くを見つめるような瞳で頷いた。

「そうよ。あなたが生まれたあの日から、あなたが『自分を論理で固める』ことを選ぶまで。そして、そんなあなたが蒼奈ちゃんと出会って、どう変わっていったか……。私が見てきた『箕島春馬』の全てを書き留めた、母さんの観察記録よ」


春那が静かにページをめくる。

そこには、今の冷徹な「研究者」としての春馬からは想像もつかない、色彩に溢れた日々が綴られていた。


ノートの最初の数ページには、幼い春馬の無邪気なエピソードが、溢れんばかりの愛情と共に記されていた。

当時の春馬は、世界を「論理」で解釈しようとはしていなかった。

むしろ、世界が放つ輝きを、その大きな瞳でそのまま受け入れる、誰よりも感受性豊かな子供だった。


4月7日(春馬・四歳)

今日の春馬は、庭で見つけた小さなアゲハ蝶の死骸を手に取って、一時間も泣き続けていた。「どうしてお空を飛べなくなっちゃったの?」と聞く彼に、私は「お星様になったのよ」とありきたりな答えを返してしまったけれど、春馬は首を振ってこう言ったの。


「違うよ。きっと、お空を飛びすぎて、疲れちゃったんだね。だから、土の中でゆっくりお休みさせてあげなきゃ」

彼は小さな砂場に穴を掘って、蝶を埋めると、一輪のタンポポを供えて手を合わせていた。その時の彼の瞳は、どんな宝石よりも澄んでいた。


ノートの中の春馬は、人の心の痛みに敏感で、他人の不幸せを自分のことのように悲しむ、優しすぎるほどの少年だった。

雨が降れば、「お花が溺れちゃう」と心配して傘を差し出し、道端の石ころにさえ「誰かに踏まれたら痛いかな」と声をかける。

そんな彼にとって、世界は「合理性」ではなく「優しさ」で回っているはずのものだった。

4月7日(春馬・六歳)

入学式。春馬は新しいランドセルを背負って、期待に胸を膨らませていた。「友達、いっぱい作りたいな。みんなで笑って遊びたいな」と。

彼にとって学校は、論理的な学習の場ではなく、心の通い合う理想郷に見えていたみたい。近所の年上の子にいじわるをされても、「あのね、きっとあの子も寂しかったんだよ。だから、次は僕が笑いかけてあげるんだ」なんて言っていたわ。

そのあまりの純粋さに、親の私の方が不安になってしまうくらい。この子の心の白さは、いつかこの汚れた世界で、傷ついてしまうのではないかしら。


ノートを読み進める春馬の指が、微かに震える。

自分の中に、これほどまでに「無防備」な時間が存在したこと。

世界を疑わず、人間を信じ、善意がそのまま返ってくると信じていた、あの頃の自分。

今の彼が構築した「論理の壁」は、このノートに記された「あまりにも無防備な純粋さ」を、二度と傷つけられないように守るための、厚い装甲に他ならない。

当時の春馬は、バレンタインにチョコをもらえれば本気で喜び、文化祭の準備ではクラスのために寝食を忘れて働き、裏切られることなど露ほども考えていなかった。

5月18日(春馬・九歳)

小学校の運動会。春馬はリレーの選手に選ばれたけれど、本番で転んでしまった。チームは最下位。

それでも、彼は泣きじゃくる同じチームの子の肩を抱いて、「君のせいじゃないよ。僕がもっと速く走ればよかったんだ。ごめんね」と謝っていた。

自分の膝の擦り傷からは血が出ているのに、彼はそれを隠して、ずっと友達を励ましていた。

春馬、あなたはいつだってそう。自分を二の次にして、誰かのために光ろうとする。その光が、いつか誰かの影によって、消されてしまわないことを祈るばかり。


ノートの文字は、次第に切なさを帯びていく。

春那は、予感していたのだ。

この真っ白な少年が、これから直面する「冬」の冷たさを。

そして、その「冬」によって、彼が自らの心に分厚い氷を張り巡らせ、二度と他者を踏み込ませない「論理の暴君」へと変貌していく、その悲劇的な転換点を。


「……これが、俺か」

春馬は、掠れた声で呟いた。

記憶の奥底に封印していた、あまりにも温かくて、脆かった自分。

今の彼が「非論理的だ」と切り捨てるはずの、無償の愛と信頼に満ちていた少年。


「ええ。あなたは、世界を誰よりも愛していたのよ、春馬。……だからこそ、あの日、世界に裏切られた時の痛みに、耐えられなかったのね」

春那は、ノートのページをさらにめくろうとする。

そこには、純粋な春馬が「雑巾」と呼ばれ、徹底的に破壊される、あの小学校時代の惨劇——「論理の誕生」の記録が待ち構えていた。

春馬は、そのページが開かれるのを、ただ無言で見つめていた。

今の彼を形作った「冬」の正体。

そして、そんな凍てついた世界に、突如として春の嵐のように現れた若宮蒼奈という存在。

母の目から見た「箕島春馬の再定義」は、ここから、さらに深く、残酷で、けれど希望に満ちた物語へと足を踏み入れていく。

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