第百五十六話「帰宅後の尋問」
「ただいま」
玄関の重い扉を閉めると、校舎や並木道に満ちていた真夏の熱気が、遮断された冷気によって一気に霧散した。
春馬は靴を揃え、いつものように規則正しい動作でカバンを置く。だが、その背中にかけられた声は、彼の安息を許さないほどに弾んでおり、かつ鋭利な好奇心を含んでいた。
「おかえりなさい、春馬! さあ、立ち話もなんだから。まずは『報告』を聞かせてもらおうかしら?」
リビングの入り口に立っていたのは、母親である箕島春那だった。彼女はエプロン姿で腰に手を当て、さながら有能な検事か、あるいは不祥事を嗅ぎつけた週刊誌の記者のような、爛々とした瞳で息子を見据えている。
「……報告? 何の話だ。俺は今日、予定通り全てのカリキュラムを消化し、適切な下校時刻に帰宅した。特筆すべき異常事態は発生していない」
春馬は、母親の「地雷」を察知し、あえて事務的なトーンで防衛線を張った。だが、春那にとってその程度の回避行動は、織り込み済みである。
「すっとぼけないの。分かってるでしょ? 蒼奈ちゃんよ、蒼奈ちゃん! 今日から学校に復帰したんでしょ? ……さあ、詳細な観測データを出しなさい」
春那は、春馬をリビングのソファへと促す(というより、無言の圧力で追い込んだ)。
ここからが、箕島家における「尋問」という名の、春那による徹底的な情報収集ターンの始まりだった。
「で、蒼奈ちゃんの顔色は? 一週間も入院してたんだから、少しは痩せちゃったり、顔色が悪かったりしなかった?」
春那はソファの対面に座り、身を乗り出すようにして問いかける。
「……特に変化は見られなかった。むしろ、病院という管理された環境で規則正しい生活を送っていたせいか、肌のツヤに関しては、入院前よりも数パーセント向上しているように見受けられたが。……少なくとも、健康上の懸念を抱かせるような負の変数は観測されなかった」
「肌のツヤねぇ……。よく見てるじゃない、春馬。……で、足取りは? どこか痛そうにしてたり、歩くのが遅かったりしなかったかしら?」
「下校時の歩行速度は、平均して時速四キロメートル。これは彼女の平時の移動速度と合致する。……むしろ、無駄な跳躍を混ぜるなど、過剰なエネルギーの消費が見られたほどだ。肉体的な後遺症は皆無と断定していいだろう」
「そう……よかった。……じゃあ、次は『中身』の話よ。あんなに怖い思いをしたんだもの。……性格が変わっちゃったり、ちょっと塞ぎ込んだり……。春馬、彼女の『心』はどうだった?」
春那の瞳が、少しだけ真剣な色を帯びる。母親としての、蒼奈を案じる優しさだ。
だが、春馬の回答は、彼女の心配を根本から破壊するものだった。
「……変質という点では、確かに見られた。だが、それは『塞ぎ込む』といった負の方向ではなく、むしろ『攻撃性の増加』と『羞恥心の欠如』という、極めて厄介な方向への進化だ」
「攻撃性?」
「ああ。……彼女は、俺が紛失したはずのメッセージカード……例のアイスクリームに関する記述を、警察経由で入手していた。それをあろうことか、本人の目の前で朗読し、さらには『ロマンチスト』などという、事実に反するレッテルを貼って執拗にからかってきた。……精神的なダメージどころか、彼女は自身の被った被害を『俺を攻撃するための燃料』に変換して、さらにパワーアップして帰還したと言わざるを得ない」
春馬は、思い出しただけでも顔が熱くなるのを抑えるように、吐き捨てるように言った。
それを聞いた春那は、一瞬の沈黙の後、耐えきれないといった様子で吹き出した。
「ふふ……っ、あはははは! 蒼奈ちゃん、最高じゃない! さすが私の見込んだ女の子ね。春馬をそこまでボコボコにできるなんて、大物だわぁ」
「……笑い事ではない。俺の尊厳に関わる問題だ」
「いいのよ、春馬。尊厳なんて、好きな子の前ではいくらでも捨てちゃいなさい。……でも、そう。……元気だったのね。本当に、元気だったのね……」
春那は、笑い終えると、ふっと柔らかな表情を浮かべた。
「よかったわ。……本当に、よかった。……蒼奈ちゃんが、また笑って、春馬の隣にいてくれて」
その言葉には、親としての、そして一人の人間としての、安堵の重みが込められていた。
春馬もまた、母親のその表情を見て、自身の胸の中にあった「トゲ」が、少しだけ丸くなるのを感じた。
「……ああ。……特に変化は見られなかった、と言っただろう。……あいつは、あいつのままだ」
尋問という名の嵐が過ぎ去り、リビングに穏やかな夕食の準備の匂いが漂い始める。
春那は立ち上がり、キッチンのタイマーを止めた。
「……さて。蒼奈ちゃんの無事が確認できて、私も安心したわ。……でも、春馬。……安心するのは、ここまでよ」
春那の声が、先ほどまでの明るいものから、一点して静かで、重厚なものへと変わった。
春馬は、椅子の背もたれから身を起こし、母親の背中を見つめた。
「春馬。……ちょっと手を洗ってきなさい。……そして、席に戻ったら……。今のあなたにとって、いえ、これからのあなたにとって、避けては通れない『大切な話』があるわ」
「……大切な話?」
春馬の論理回路が、一瞬で緊急事態を宣言する。
母親がこのトーンで話す時、それは決まって、春馬の想定外の領域から「不条理」が飛んでくる前触れだ。
「……家族のこと? それとも、学業に関することか?」
「……もっと、根源的な話よ。……箕島家の、そして春馬。あなたの『名前』に関わることかもしれないわね」
春那は、振り返ることなく、淡々と告げた。
その背中には、いつもの饒舌な彼女とは異なる、どこか遠くを見つめるような、寂しげで、決然とした気配が漂っている。
「……わかった。すぐに戻る」
春馬は、リビングを出て洗面所へと向かった。
蛇口から流れる冷たい水が、指先の熱を奪っていく。
石鹸の泡を洗い流しながら、春馬は鏡に映る自分の顔を見つめた。
一週間ぶりの蒼奈との再会。
衣替え。
ホスト理論による下校。
そして、母親からの「大切な話」。
(……今日は、どうやら一筋縄ではいかない一日のようだ。……若宮蒼奈という変数が戻ってきた途端、世界の『不確定性』が加速度的に増している……)
春馬は、丁寧にタオルで手を拭き、リビングへと戻った。
そこには、食卓の椅子に腰掛け、一通の古い封筒のようなものを手元に置いた春那が、静かに待っていた。
「……座って、春馬。……これ、今のあなたに見せておくべきだと思ったの。……本来なら、もっと大人になってからでもよかったのかもしれないけれど。……今のあなたには、もう、これを知る資格と、責任がある気がするのよ」
春那がテーブルの上に置いたもの。
それは、長い年月を経て少し黄ばんだ、けれど大切に保管されていた「ある記録」だった。
春馬の「論理」という名の盾が、再び試されようとしていた。
それが、自分自身の根源に触れる、避けて通れない運命の扉であることを、彼はまだ、知らない。




