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第百五十五話「一週間ぶりの下校」


西日に照らされた並木道。

アスファルトから立ち上る熱気は、昼間の勢いを保ったまま、二人の足元を包み込んでいる。

一週間。

物理的な時間としては僅か百六十八時間に過ぎないが、その間、この並木道を一人で歩き続けた春馬にとって、隣から聞こえてくる一定のリズムの足音と、衣服が擦れる微かな音は、脳内の「日常」というフォルダに強引に再編入されるべき、強烈な異物だった。


「……ふふ、やっぱり一週間ぶりの下校は格別だね、春馬くん」

蒼奈は、ブラウスの袖を少し捲り上げ、開放感を全身で享受するように歩幅を弾ませている。


「春馬くん、この一週間、どうやって帰ってたの?」


「……どうやって、とは何だ。徒歩下校だが。経路も手段も、この学園に入学して以来、何ら変更する動機は発生していない」

春馬は前を向いたまま、事務的なトーンで答えた。


「もー、そういう物理的な話じゃないよ。誰かと一緒に帰ったりしてなかったのかなって。私のいない間に、他の女の子と仲良くなってたりして?」

蒼奈が、探るような、それでいて確信犯的な笑みを浮かべて覗き込んでくる。

春馬は、鼻で笑うことすら億劫だというように首を振った。


「一人だ。当然だろう。俺に、他者と歩調を合わせ、貴重な下校時間というリソースを共有する理由リーズンがある人間など存在しない。……お前だって、第一期末テスト終了後の『予測不能な事態』からの連鎖的な流れで、今こうして隣にいるに過ぎない。本来、統計学的な『普通』の観点から言えば、俺たちが一緒に下校するという選択肢は、宇宙のちりほどの確率すら持たないはずだったんだ」


「えー? それって、つまり……私はそれだけ『特別』だってことだよね!」

蒼奈は、春馬の「論理的な拒絶」を、まるで自分への賛辞であるかのように瞬時に変換コンバートした。そのポジティブすぎる脳内フィルタに、春馬は僅かな眩暈を覚える。


「……自分から『一緒に帰ろう』と誘っておいて、よくもそう厚顔無恥な解釈ができるものだ」

春馬は立ち止まらず、吐き捨てるように続けた。


「お前のその言動は、特定のアトラクションに対して法外な対価を支払い、何度も指名を繰り返し、挙句の果てに『彼にとっての本命は私に違いない』と周囲に吹聴して回る、重度のホスト中毒患者の論理構造と同じだ。……自らが意図的に構築した状況シチュエーションを、あたかも運命的な相互作用であるかのように誤認している」

静まり返った並木道に、春馬の毒のある「例え」が響き渡った。

蒼奈は一瞬、きょとんとした表情で目を丸くした。


「……春馬くん。今、何かすごく具体的な例えをしてくれたみたいだけど。……ホストクラブ、行ったことないよね?」


「当たり前だ。俺は未成年だ。……それに、あのような感情の卸売市場マーケットに、俺の貴重な資産を投じるなど、投資効率の観点から見ても、狂気の沙汰としか言いようがない」


「俺は、あくまで社会学的、および心理学的な『事象』として、その構造を把握しているだけだ。SNSやドキュメンタリー、あるいはネット掲示板の嘆きの中から抽出された、純度の高い『人間の愚かさ』のテンプレートを引用したに過ぎない」

蒼奈は、お腹を抱えるようにして笑い始めた。


「あはは! 面白すぎるよ、春馬くん! ……でも、珍しいね。春馬くんっていつも、『自分が観測したもの』しか信じないって感じなのに。自分が未体験のジャンルで、そんな勢いのある『たとえツッコミ』みたいな返しをするなんて」


「……ツッコミではない。状況の厳密な定義だ」


「ううん、あれはもう立派なツッコミだよ。……しかも、ホストに貢ぐ女の人って……。春馬くん、私のことそんな風に見てたの? 私は春馬くんに貢いでるつもりはないけど……。あ、でも、あのアイスのカードは、私にとってはある意味『指名料』以上の価値があったかな!」


「……っ! その話は、もう、時効だと言ったはずだ!」

春馬の顔が、西日のせいだけではなく、一気に赤く染まった。

自分の紡いだ言葉が、いつの間にか彼女の中で「特別なリワード」としてファイリングされ、事あるごとに引き出される。その防ぎようのない「過去の自分の不始末」に、春馬は逃げ場のない憤りを感じる。


「……とにかく。お前の言う『特別』という概念は、単なる主観的なバイアスだ。俺は、お前という個体の異常性を、隣の席という物理的制約から、やむを得ず監視しているに過ぎない。……ホストを指名する客が、ホストの管理下に置かれているのと同様にな」


「ふふっ。じゃあ、私は春馬くんの一番の『上客』ってことだね。……これからも、毎日しっかり『指名』させてもらうからね、研究者さん?」

蒼奈は、いたずらっぽくウインクをして、少し先を走り出した。

ブラウスの背中が、夕日に透けて眩しく光る。

春馬は、自分のペースを崩さぬように歩きながら、ふと、自分の放った言葉のブーメランを意識した。

貢いでいるのは、どちらだ。

この一週間、彼女のいない席を気にかけ、プリントを整理し、彼女のための「定義」に悩み、挙句の果てには紛失したカードを求めて地面を這いずり回った自分。

費やした時間。思考のリソース。精神的な摩耗。


「(……俺の方が、よほどあの界隈の用語で言うところの『ぬま』に嵌っているのではないか……?)」

その仮説が脳裏をよぎった瞬間、春馬は激しく頭を振ってそれを抹消した。

「……否だ。……俺は、あくまで、研究を行っているだけだ。……研究対象への投資は、必要経費に過ぎない。……指名料でも、貢ぎ物でもない!」

自分に向けた、必死の弁明。

だが、その声は、前を歩く少女の明るい笑い声に、いとも容易くかき消されてしまった。

一週間ぶりの下校。

並木道を流れる空気は、あの日よりも確実に、湿度と熱を増している。

春馬は、自分の「論理」という名の財布が、彼女という名の特異点によって、じわじわと、しかし確実に空っぽにされていく感覚を覚えながら、重い足取りで彼女の背中を追いかけた。


「……若宮、待て。……歩幅が広すぎる。……エネルギーの浪費だ」


「いいの! 今日の私は、最高に『特別』なんだから!」

夏の入り口。

未踏の地の知識を借りてまで、必死に彼女を「一般化」しようとした春馬の試みは、結局のところ、彼女の放つ「特別」という名の、たった一言の輝きの前に、脆くも崩れ去る運命にあった。

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