第百五十四話「若宮蒼奈の復帰」
その朝、春馬が教室の引き戸を開けた瞬間に、彼の網膜が捉えたのは「光」だった。
一週間の空白を経て、隣の席に「主」が戻っている。それだけであれば、春馬の論理回路は想定内の事象として処理しただろう。しかし、彼の演算を狂わせたのは、彼女を取り巻く空気の変化、そして何より——視覚情報の決定的な差異だった。
「わあ、蒼奈ちゃん! 復活おめでとう!」
「一週間、マジで寂しかったよー。……っていうか、今日からだよね、それ!」
クラスメイトたちの称賛と歓迎の声が、彼女を中心に渦巻いている。その中心で、若宮蒼奈は照れたように、しかしどこか誇らしげに笑っていた。
春馬は自分の席へ向かいながら、猛烈な違和感に襲われた。
(……何だ。……この視覚的ノイズは。……若宮の、服装が……)
彼女は、いつもの紺碧のブレザーを脱ぎ捨てていた。
真っ白な、糊のきいたブラウス。柔らかな肩のラインを強調し、夏の予感を感じさせるその装いは、彼女の持つ透明感をより一層、鋭利に引き立てている。
春馬は反射的に胸ポケットからスマートフォンを取り出し、日付を確認した。
七月十二日。
「(……そうか。……今日からだったか)」
春馬は、己の不覚を呪った。
通常、日本の教育機関における「衣替え」は六月一日をもって施行されるのが一般的だ。それが合理的であり、気象統計学的にも妥当なラインである。
しかし、この君我学園には、創立以来続く「呪い」のような伝統が存在する。七月十二日。中途半端を通り越して、もはや真夏に片足を突っ込んだこの時期に、ようやくブレザーを脱ぐことが許されるのだ。
かつて一年生だった頃、春馬はこの非論理性について校長室に乗り込み、改善を要求したことがある。その際に返ってきた回答は、今思い出しても眩暈を覚えるものだった。
『——君、この日はね、学園の理事長と奥様の結婚記念日なんだよ。彼らにとって最も「熱い」日こそが、夏服の解禁に相応しいと思わないかね?』
(……意味が分からない。個人のノスタルジーを、数百人の生徒の体温調節機能に優先させるなど、組織運営の根幹が腐っている証拠だ……)
そんなことを思考の海で反芻していたため、春馬は自分が「上着を脱ぎ忘れている」ことに気づかなかった。周囲を見渡せば、男子は半袖のワイシャツ、女子はブラウス姿。その中で一人、春馬だけが律儀に冬の装束を纏ったまま、石像のように立ち尽くしていた。
「……春馬くん?」
鈴の音のような声が、至近距離で響いた。
気がつくと、隣の席の蒼奈が、椅子の背もたれに腕を乗せ、小首を傾げて春馬を見上げていた。
「そんなにじーっと私のこと見て、どうしたの? ……もしかして、一週間ぶりの私のブラウス姿に見惚れちゃった? どう? 似合ってる?」
蒼奈は、からかうように目を細め、いたずらっぽく笑った。ブラウスの薄い生地越しに見える彼女の輪郭は、あの日病室で見た時よりも、ずっと生き生きとして、眩しい。
春馬は即座に視線を逸らし、自分の席にカバンを叩きつけるように置いた。
「……自意識過剰だ、若宮。誰もがお前の服装を注視しているわけではない。俺が思考していたのは、この学園の衣替えに関する意思決定プロセスの欠陥についてだ」
「えー? でも、目はしっかり私のことロックオンしてたよ? ほら、顔、ちょっと赤いし」
「……これはブレザーによる熱の籠留だ。……仮にだ、万が一、俺がお前の姿に意識を割いたとするならば。それはお前個人への興味ではなく、『ブラウス』という特定の衣服が持つ、人間の視覚野を強く刺激するポテンシャルについての理論的証明に過ぎない」
春馬は、上着のボタンに手をかけながら、早口でまくし立てた。
「ブラウスの白さが光を乱反射させ、顔色を数トーン明るく見せる。さらに、ブレザーという重量物を排除したことによる『解放感の演出』。……これは、お前が可愛いからではなく、単なる光学と色彩心理学の合致だ」
蒼奈は、春馬の必死の抗弁を聞きながら、楽しそうに笑い転げた。
「あはは! 一週間ぶりの学校でも、春馬くんは全然変わってないね! ……ねえ、そんなに暑いなら、春馬くんも早くワイシャツ姿になればいいんじゃない? ブラウスのポテンシャルの証明にはならないかもだけど、『春馬くんのワイシャツ姿』がどれくらい人を惹きつけるか、参考記録として測る価値はあると思うなー」
「……それはできない」
春馬の手が止まる。彼は頑なに、ブレザーの襟を正した。
「ともかく、それを試す必要はない。理由は、誤差でしかないからだ」
「誤差?」
「そうだ。……俺とお前では、比較対象としての前提条件が違いすぎる」
春馬は、真剣な表情で蒼奈を見つめた。
そこには、自分を卑下する暗さはなく、ただ圧倒的な「客観的事実」を突きつける学者のような静謐さがあった。
「いいか、若宮。……ここに二枚の雑巾があるとする。一方は新品で、真っ白で、美しい。もう一方は、長年の酷使により真っ黒に汚れ、ボロボロになっている」
「……例えが極端だね」
「論理を明確にするための極論だ。……さて、この二枚を並べて、『どちらがより汚れを拭き取れるか』を比較することに意味はあるか? ……答えは否だ。真っ黒な方は、既にこの世界の汚れを一身に引き受けてきたからこそ、その色になっている。対して、真っ白な方は、実は表面に強力な撥水コーティングがされていて、一切の汚れを受け付けない(清廉潔白な)存在かもしれない。……元から汚れを知る者と、光の中にいる者を、同じ土俵で比べること自体がナンセンスなんだ」
春馬は、一呼吸置き、トーンを落として続けた。
「……お前は、光側の存在だ。一週間の不在を経て、ブラウスという白を纏って戻ってきたお前は、この教室における『美』の最大値だ。……それを、俺のような、捻じ曲がった思考とレスバの泥に塗れた『汚れた雑巾』と比較して、参考記録を取るなど、データの汚染でしかない」
蒼奈は、春馬の言葉を黙って聞いていた。
「(可愛い奴は、可愛い奴と比べろ)」
春馬が言いたいのは、そういうことだった。自分を比較対象に置くことすら、彼女という存在の価値を損なう行為だと、彼は本気で信じている。
「……春馬くん。……それって、遠回しに私のこと、すごく褒めてるよね?」
「……違う。……これは、適切なサンプリングの重要性を説いているだけだ」
「ううん、違うね。……『光の中にいる』なんて、そんな格好いい表現、春馬くんの中で私がどれだけキラキラしてるか、教えちゃってるようなもんだよ?」
蒼奈は、椅子をさらに春馬の方へ引き寄せた。ブラウスの白い袖が、春馬の紺色の袖に触れる。
「……私は、綺麗な雑巾でも、コーティングされた白でもないよ。……春馬くんの隣で、一緒に笑って、時々一緒に汚れちゃうような、普通の女の子になりたいんだけどな」
「…………」
春馬は、何も答えられなかった。
彼女のブラウスが、あまりにも眩しくて。
自分が着ているブレザーが、あまりにも重苦しくて。
結局、春馬はその日の午前中、意地を張ってブレザーを着続けた。
じわりと滲む汗は、夏の熱気のせいか。
あるいは、隣から放たれる「白」という名の、無敵のポテンシャルのせいか。
君我学園、七月十二日。
非論理的な記念日に始まった衣替えは、春馬にとって、隣に座る少女の「不可逆な輝き」を、改めて突きつけられる残酷で、甘美な一日となった。
「……若宮」
「なーに?」
「……プリント、三枚溜まっている。……早く机の中に入れろ。……汚れるだろ」
「……ふふっ。はーい、研究対象さん!」
「久々に言った気がする!」
二人の日常が、再び、回り始める。
熱力学的均衡を無視した、あまりにも熱い、夏が始まろうとしていた。




