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第百五十三話「第一期末テスト終了⑯」


病室の空気は、四月の夕暮れ時特有の、柔らかくもどこか感傷的な橙色に染まっていた。

一週間という時間は、高校生の日常においては誤差のような短さであるはずだ。しかし、目の前に座る若宮蒼奈という存在と対峙した瞬間、春馬の脳内の時間軸は、不条理なまでに引き伸ばされたような錯覚に陥った。


「……忘れ物、だと?」

春馬は、努めて無機質な声を出し、聞き返した。

手には、コンビニの袋。中には二つのバニラアイス。

蒼奈はベッドの端に腰掛け、白の病衣の上にパーカーを羽織った姿で、その長い睫毛を悪戯っぽく震わせている。その口角の上がり方は、春馬が最も警戒すべき「完全勝利を確信した捕食者」のそれだった。


「そう、忘れ物。春馬くんが警察署でうっかり落としていっちゃった、とーっても大切なものだよ?」


「(……嫌な予感がする。……いや、これは予感ではない。事象の推移から導き出される、確定的な恐怖ワーストシナリオだ)」

春馬は、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。

なぜ、彼女は俺が紛失したものを「拾った」という事実だけで、これほどまでに愉悦に満ちた表情をしているのか。もしそれが、単なる学生証や筆記用具であれば、彼女のこの「攻め」の姿勢は説明がつかない。


「……若宮。なぜお前は、俺が落とし物をしたという些細な事象に対して、それほどまでに攻撃的……いや、からかうような表情を見せるんだ? 遺失物の返還は、法治国家における市民の義務であり、娯楽の種にするようなものではないはずだ」

春馬の精一杯の防衛的弁論。

だが、蒼奈は首を少し傾げると、その澄んだ瞳で春馬を射抜くように見つめ、人差し指を唇に当てた。


「ふーん……。春馬くん、それを聞いちゃっていいのかな? 世の中にはさ、『知らないほうが幸せなこと』ってあるけど。……今の春馬くんにとって、それはまさに『それ』かもしれないよ?」


「…………っ!」

春馬の論理回路が、一瞬でショートを起こしかけた。

当たっている。

俺が一番恐れていた、あの「バニラアイスの定義」が記されたカード。

それが、何らかのバグのような確率を経て、彼女の手に渡っている可能性が、今、九十九・九パーセントの確定値へと跳ね上がった。


(……警察官め。……余計な『親切心』を……!)

春馬は、自身の失態を呪うとともに、この場を支配し始めた「致命的な気恥ずかしさ」から逃れるべく、強引に話題を転換ピボットした。


「……話を変えよう。……若宮、体調はどうだ? 医師の診断による退院許可が下りたということは、身体的・精神的変数は安定したと見ていいんだな?」


「あはは、露骨に話題逸らしたね! ……うん、私はもうバッチリだよ。春馬くんが守ってくれたからね」


「……そうか。ならば、これを。……退院見舞いの品だ。……バニラアイスクリームだ。あの日、物理的熱量によって融解ロストしたリワードの、再提供だ」

春馬は、逃げるように袋からカップアイスを取り出し、蒼奈に差し出した。

これでいい。

これを食べさせて、口を塞いでしまえばいい。

アイスの冷たさが、彼女の「攻め」の熱量を奪ってくれることを願う。

しかし、蒼奈はアイスを受け取ろうとはしなかった。

代わりに、彼女がサイドテーブルの引き出しから取り出したのは——少し撓み、水分を含んだ形跡のある、あの真っ白なカードだった。

春馬の時が、止まった。


「……あ、あの……若宮、それは……」


「読むね」 


「待て! 中断しろ! 読むな! それは未完成のドラフトであり、他人の目に触れることを前提とした公開データでは——」

蒼奈は、春馬の必死の静止を、涼風のような微笑で受け流した。

そして、彼女の透き通った声が、病室の静寂の中に、春馬が最も隠したかった「言葉の結晶」を解き放った。


「『その存在は、厳寒の論理さえも融解させる、無垢なる白銀の結晶。……溶けゆく姿さえもが不可逆な美学を孕み……』」 


「やめろ!!」

春馬は、顔が発火するのではないかと思うほどの熱量に襲われた。

自分の声。自分の紡いだ、あまりにも詩的で、あまりにも「若宮蒼奈」という個人に特化した、裸の言葉。

それが、当の本人の口から、音読デバッグされている。

これ以上の公開処刑が、この世にあるだろうか。


「『——故に、彼女は予測不能な、至高の特異点である』」

読み終えた蒼奈は、カードを胸に抱きしめるようにして、顔を綻ばせた。


「……ねえ、春馬くん。春馬くんって、私の誕生日だったり、この前の炭酸ジュースたったり、プレゼントとかメッセージに、ものすごーく力を入れてくれるよね。……私、知らなかったよ。春馬くんって、実はとびきりのロマンチストなんだね!」


「……ち、違う!!」

春馬は、激しく動揺しながら、脳内の語彙力を総動員して反論を構築した。


「それは、俺個人の情緒的傾向がどうこうという話ではない! ……プレゼントという交換行為において、対象が何であるかを明確に定義し、受給者にその価値を認識させることは、コミュニケーションにおけるコストパフォーマンスを最大化させるための、合理的な手段だ! 世論においても、『贈り物は明確にそれと分かるものが好ましい』と定義されているからこそ、俺はその手段を……つまり、言語による価値の可視化を選択したに過ぎない!」


「えー? じゃあ、この『不可逆な美学』とか『心を溶かす』っていうのは、ただの『可視化』なの?」

蒼奈が、さらに顔を近づけてくる。

彼女の瞳が、春馬の動揺を余さず観測し、楽しんでいる。

春馬は、一歩後退り、壁際に追い詰められた。


「……それは……その、表現の精度を追求した結果だ。……正確な記述を目指せば、必然的に語彙は先鋭化する。……それだけのことだ!」

春馬は、荒い呼吸を整えるために一度、深く息を吐いた。

もはや、言い逃れはできない。

カードの内容は完全に共有され、彼が彼女に対して抱いている「特別な観測結果」は、白日の下に晒された。

ならば、せめて最後は、研究者としてのプライドを持って、この事態を収束クローズさせる。


「…………要約するとだ」

春馬は、真っ赤な顔のまま、蒼奈の視線を真っ向から受け止めた。


「俺は、若宮……お前に、感謝を伝えたかったんだ。……この一学期、お前という『予測不能な変数』が隣にいたことで、俺の日常は確かに、計算不能な刺激に満ちていた。……あの事件の際、お前を守るために動いたことも、このカードを書いたことも、全ては俺の意志だ。……その一点だけは、論理的に確定している」


「……春馬くん」


「……そんなことよりもだ! 早くこのバニラアイスを食べろ。……今度こそ、また溶けるぞ。……俺が計算した『若宮蒼奈の構成要素』であるバニラを、溶けて形を失う前に、お前の体内に取り込んで、その熱量を安定させろ」

春馬は、投げ捨てるようにしてアイスとスプーンを蒼奈の手元に置いた。

蒼奈は、そんな春馬の「精一杯の強がり」に、これ以上ないほど優しい、そして愛おしげな笑みを返した。


「……うん。……いただくね、春馬くん」

彼女が、カップの蓋を開ける。

中から現れたのは、まだ少しも溶けていない、真っ白で完璧な、白銀の結晶。

二人は、夕焼けの病室で、並んでアイスクリームを口にした。

冷たさが、春馬の熱い頬を僅かに鎮める。

甘さが、蒼奈の震えていた心を満たしていく。


「美味しいね」


「……ああ。……糖分濃度は適切だ」

あの日、校門前で奪われた「平和」が、今、この病室で、一口のアイスクリームと共に再構築されていく。

春馬の論理は、確かに彼女によって融解させられた。

だが、その後に残ったのは、決して折れることのない、新しい「日常」への確信だった。


「春馬くん。……明日、学校。……隣の席、またよろしくね?」


「……フン。……配布物が山積みになっている。……覚悟しておけ」

春馬は、窓の外の夜の帳を見つめながら、小さく笑った。

予測不能な日々は、まだ、始まったばかりだ。

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