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第百五十二話「第一期末テスト終了⑮」


放課後の校舎。終礼のチャイムが鳴り響くと同時に、春馬は誰よりも早く教室を後にした。

背後でクラスメイトたちが「あ、箕島、またすぐ帰るのかよ」と囁き合う声が聞こえたが、今の彼にとって、クラス内の矮小な人間関係の維持に割くべきリソースは、一ミクロンも残されていない。


(……一週間ぶりの直接対決だ。……若宮蒼奈という個体が、隔離環境(入院生活)を経て、その思考アルゴリズムにどのような変化、あるいは劣化を来しているかを確認する必要がある)

春馬は、駅から病院へと続く緩やかな坂道を、計算された歩幅で進んでいた。


時刻は午後四時三十分。外気温は二十八度。湿度は六十パーセント。

あの日——暴力が全てを中断させたあの午後に比べれば、幾分かは過ごしやすい。だが、春馬の胸の奥におりのように沈んでいる不快感は、気温のせいではなかった。


(……若宮さんは「何か持っていけ」と言った。……だが、何をだ?)

春馬の脳内では、病院見舞いにおける「推奨される贈答品リスト」が高速でスクロールされていた。

花。……却下だ。あの日、花屋で「既存の定義」に絶望した記憶が新しすぎる。

果物。……凡庸だ。栄養補給という観点では合理的だが、彼女への「リワード」としては記号性が不足している。

本や雑誌。……彼女の予測不能な感性を満足させる一冊を選定するのは、確率論的に困難を極める。


「(……やはり、あの日、俺が選択した『ソリューション』を再遂行する以外にない)」

春馬は、駅前のコンビニエンスストアの前に立ち、自動ドアを潜った。

向かう先は、店内奥のアイスクリーム・コーナーだ。


(……バニラアイスクリーム。……これだ)

春馬は、冷凍庫の冷気が立ち上る中、真っ白なパッケージのカップアイスを手に取った。


(……論理的に考えれば、今の俺がこれを彼女に渡すことには、何の意味も存在しないはずだ。……あの日、アイスを選択したのは、あの『メッセージカード』という定義を補強するための、あくまで物理的媒体としての役割を持たせていたからだ)

春馬は、冷凍庫の透明な蓋に映る自分の顔を、厳しく見据えた。


(……だが、あのカードは紛失ロストした。……おそらく警察署か道端で処分され、既にこの世界には存在しない。……であるならば、カードを失った今、単なる『アイス』を渡す行為は、ただの低血糖防止、あるいは暑さ対策という、極めて単純な生理的支援の域を出ない。……そこに情緒的な『意味』は混入し得ないはずだ)


そうだ。

カードが見つかっていない以上、彼女は、俺があの日「バニラアイス」に込めた「純潔な姿が心を溶かし、最後には芯が残る」という、あの血の気が引くような詩的な定義を知る由もない。

知らなければ、からかわれることもない。

知らなければ、俺の尊厳は保たれる。


「(……今の俺は、ただ暑い日に、退院祝いで、冷たいものを差し入れるだけの『善良な隣人』という仮面を維持できる。……完璧な偽装カムフラージュだ。……カードが消えたことで、むしろ俺の行動の自由度は増したと言える)」

春馬は、レジで会計を済ませた。

コンビニの店員が「スプーンお付けしますか?」と尋ねる。


「……二つ、入れてくれ」

その言葉を口にした瞬間、春馬の胸を、言いようのない「むず痒さ」が再び走り抜けた。

二つのスプーン。

それは、病室で彼女と一緒にそれを食すという未来予測を、確定させてしまう行為に他ならない。


(……あくまで、衛生的な予備としてだ。……一本が破損、あるいは汚染コンタミネーションした場合の予備に過ぎない)

春馬は自分にそう言い聞かせ、保冷剤と共に丁寧に袋詰めされたアイスを抱えるようにして、病院への道を急いだ。

歩きながら、春馬は思考を深めていく。

あの一週間の、蒼奈のいない隣席。

溜まっていくプリント。

静まり返った休み時間。


(……あいつが戻ってくれば、またあのノイズが始まる。……俺の論理的な思考は妨げられ、日常は不条理に浸食されるだろう。……だが)

春馬は、袋の中の冷たさを掌で感じながら、ふと、校庭でカードを探し回っていた自分を思い出した。

見つからなくて、内心で「ホッとした」はずの自分。

だが、その「安堵」の裏側で、自分の言葉が誰にも届かずに消えてしまったことに対する、名付けようのない「欠落感」があったことを、彼は否定できなかった。


(……もし。……万が一。……もしカードが見つかっていたら、どうする?)

春馬の足が、病院の正門前で一瞬、止まった。


(……いや、あり得ない。……警察官は公務員だ。落とし物を勝手に読むようなことはしないし、したとしても、あんな怪文書を本人に手渡すような真似は——)

春馬は、自分の頭を激しく左右に振った。

そんな不確実な確率に思考リソースを割くのは、非効率の極みだ。

今は、目の前の「退院祝い」というタスクを完遂することだけに集中すべきだ。


(……若宮蒼奈。……お前の予測不能な攻撃を、俺は再び、この論理という名の盾で受け止めてやる。……アイスが溶ける前に、お前の元へ辿り着く。……それが今の俺の、唯一の行動原理だ)

春馬は、消毒液の匂いが漂う病院のロビーを、決然とした足取りで進んだ。

エレベーターのボタンを押す。

四階へ。

彼の手の中にある「バニラアイス」は、もはや単なる食品ではなく、彼が彼女に伝え損ねた、しかし確かに存在した「定義」の代替品プロキシとして、冷たく、静かに、その時を待っていた。

袋の中で、保冷剤がかすかに音を立てる。

春馬は、四〇二号室の扉の前に立った。


(……よし。……呼吸、正常。……脈拍、やや上昇しているが許容範囲内。……表情、不自然さはない。……準備は整った)

春馬は、一呼吸置き、右手をドアにかけた。

あの日、救急車を見送った時の「借り」を返すために。

そして、一週間分の「静寂」に終止符を打つために。


「…………失礼する」

春馬が扉を開けたその瞬間。

窓際から差し込む夕焼けの光の中で、一週間ぶりに目にするその少女は、彼の予測を遥か彼方へと吹き飛ばすような、狡猾で、愛おしげな、至高の笑みを浮かべて待っていた。

春馬のポケットは、確かに空っぽだった。

だが、その一秒後、彼は知ることになる。

自分が「処分された」と信じていたあの言葉たちが、実は最も届いてほしい場所で、最も恐ろしい輝きを放ちながら、彼を待ち構えていたことを。


「……待ってたよ、春馬くん。……忘れ物、ちゃんと届けてもらったからね?」

その一言が、春馬の構築した全ての防壁を、バニラアイスよりも早く、完膚なきまでに溶かし去った。

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