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第百六十話「呪いの解き方」


洗面所の鏡の前で、春馬は蛇口から流れる水の音を遠くに聞いていた。

指先に触れる冷たさが、脳内に渦巻く熱をかろうじて冷却している。先ほど読み終えた『春馬ノート』の感触が、まだ掌に残っているようだった。


「……ふぅ……」

春馬は大きく、肺の形が変わるほど深く息を吸い込み、そして吐き出した。

その呼吸は、彼の中に長年溜まっていた「おり」を、論理という名のフィルターで濾過ろかし、本質へと辿り着こうとする儀式のようなものだった。


「(……俺は、致命的な計算違いをしていた。いや、計算を『間違え続けていた』のだ)」

春馬は、鏡の中の自分を、かつてないほど客観的な、冷徹なまでの観察眼で見つめた。

そこには、自分を「論理的」だと信じ込み、その実、最も非論理的な「呪い」に支配されていた少年の姿があった。


春馬の女性不信。その特異点は、間違いなくあの小学校時代の「初恋」と、それに続く凄惨な「いじめ」にある。

だが、春馬は今、その痛みの根源を再解釈し始めていた。


「(……俺をいじめた連中には、確かに女子が多かった。だが、全員ではなかったはずだ。男子だっていた。もし、その出来事の『悪意』そのものが原因なら、俺が陥るべきだったのは『女性不信』ではなく、全人類を対象とした『人間不信』であるべきだった)」

では、なぜ自分は「女性」という一点にのみ、これほどまでに強固な防壁を築いたのか。

春馬は自嘲気味に口角を上げた。それは「不敵な笑み」ではなく、己の弱さを認めた者の、震えるような笑みだった。


「(……呪いだ。俺は、あの日の絶望を呪いとして自分にかけ、その呪縛に自らを繋ぎ止めていた。……母さんの言う通りだ。俺は『女性』というフィルターを通し、世界を歪めて観測していた。……なぜか? それは、俺が自分を守るために、主語を大きくしたからだ)」

人生において出会った女性の多くが、自分に対して「いじめ」に該当する行為を働いた。それは事実だ。

だが、春馬はその「多く」を「全員(All)」へと強引に置換した。


「女は計算高く、裏切るものである」という命題を打ち立てることで、次に現れるかもしれない誰かに期待し、そしてまた裏切られるという精神的損耗を、あらかじめ回避しようとしたのだ。

それは、弱者が生き残るための「防衛本能」であり、生存戦略としては一定の合理性があった。

そして、その不信感を払拭するような存在も現れなかったことで、彼はその偏ったデータを「揺るぎない事実」としてシステムに固定してしまった。


だが、若宮蒼奈が現れた。

彼女は、春馬が構築した「女はこうあるべきだ」という計算式を、その一挙手一投足でことごとく破壊していった。


「(……若宮と過ごす中で、俺は何度もエラーを吐き出した。彼女の行動は、俺の持つ『女性』の定義に反していたからだ。……だが、俺は認識を変えなかった。バグとして処理し、彼女を『解析不能な特異点』という例外フォルダに放り込んだだけで、自らの前提条件を疑おうとはしなかった)」

なぜ、そこまで頑なに認めなかったのか。

その核心に辿り着いた瞬間、春馬の喉の奥が熱くなった。


「(……気が付きたくなかったんだ。……もし、彼女という事実を認めてしまえば、俺がこれまでの人生で守り続けてきた『論理』が、ただの臆病な言い訳だったことの証明になってしまう。……俺が間違っていたと、認めざるを得なくなるからだ)」

春馬は、膝をつきそうになるのを、洗面台の縁を掴んで耐えた。

彼は気がついた。自分は女性を「面」として捉えていたのだと。

「女性」という巨大な集合体として、一括りに断罪していた。

だが、事実は違う。


「(……女を『面』で捉えるのは間違いだ。……そんな『面』など、最初から存在しない。……若宮のような個体もいれば、俺をいじめた卑劣な個体もいる。……どちらも存在するのだ。……つまり、女とは『面』ではなく、バラバラに散らばった無数の『点』でしかない)」


春馬の瞳から、一筋の雫が零れ落ち、洗面台の白に吸い込まれた。

それは、あの日「雑巾」と呼ばれた少年の時から、ずっと凍りついて止まっていた感情が、融解し始めた合図だった。 


「……解けたぞ。……呪いの、解き方が」 


春馬は、震える声で独白した。

「入り方を、改めればいいんだ。……初めから『女性』という属性を前提にして見るのではない。……まず、目の前にいる『一人の人間』という場所から入る。……そして、相手がどのような性質を持った個体であるかを、ゼロから観測する。……その順番が、何よりも大切だったんだ」

もし、その順番で入った結果、出会った相手が人をいじめるような、ステータスに固執する人格破綻者だったとしても——。


「……その時、俺はもう『やっぱり女は……』などという、主語の大きな逃げ道は使わない。……それは、単に『○○○○○』という名前を持った、その特定の個体の問題だ、と切り離す。……属性で括るのではなく、名前で、個で、その罪を、あるいは美徳を認める。……それが、俺が女性不信という呪いから抜け出し、本当の論理に辿り着くための、唯一の道だ」

春馬は、顔を上げた。

鏡の中の自分は、ボロボロに泣いていた。

不器用に、感情を露わにして、声を殺して。


「……俺は、間違っていた。……臆病だった。……若宮。……お前が俺に教えようとしていたのは、この『世界の多層性』だったのか……?」


春馬はリビングへと戻った。

そこには、全てを察したような顔で、穏やかに待っている母・春那の姿があった。


「……母さん」

春馬は、赤くなった目で、真っ直ぐに母親を見据えた。


「……今の俺が辿り着いた結論を、報告する。……俺は、女性不信という武装を解除する。……いや、解除せざるを得ない。……あいつが……若宮蒼奈という存在が、俺の拙い計算式を、完膚なきまでに書き換えてしまったからだ」

春那は、何も言わずに頷いた。その瞳には、かつて「お空を飛びすぎた蝶」を埋めて泣いていた、優しい少年の面影が重なっていた。


「俺は、これからあいつを見る時……そして、他の誰かを見る時も、属性ではなく、一人の人間として向き合う。……それは、今までよりもずっと傷つくリスクが高い、非効率な道かもしれない。……だが、それが俺の、新しい最適解だ」 


春馬の頬を、再び涙が伝う。

それは、彼が「論理の暴君」として君臨していた間、決して流すことのできなかった、純粋な、生きた人間の涙だった。

あの日、校門の前で捨てられた感情。

教室で「雑巾」と呼ばれ、泥を塗られた尊厳。

それらが今、若宮蒼奈という「点」を通じて、新しい形を持って春馬の中に還ってきた。


「……さあ、春馬。ハンバーグ、冷めちゃうわよ。……今日は、美味しいって、ちゃんと言いなさいね?」


「……ああ。……栄養素の補給ではなく、味覚による快楽の追求として……認めよう」

春馬は、不器用に笑った。

それは、不敵な笑みでも、歪んだ笑みでもない。

十六歳の少年が、初めて「本当の自分」として笑った、夏の夕暮れの、小さな、けれど確かな一歩だった。

止まっていた時計の針が、今、力強く時を刻み始める。

呪いは解けた。

新しい物語の、幕が上がる。


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