第百四十九話「第一期末テスト終了⑫」
放課後を告げるチャイムが、いつもより低く、湿り気を帯びて校舎に響き渡った気がした。
期末テストの結果掲示に沸き立ち、あの「不条理な暴力」に襲われたあの日から、正確に一週間が経過している。
箕島春馬は、窓際の自席で一人、スマートフォンのバックライトに照らされていた。画面に躍るのは、全国規模のネットワークを持つ大手ニュースサイトの見出しだ。
【独自】「極上スイーツ」隠語で女性物色か SNS囮捜査でグループ20数名を一斉検挙
記事には、あの日春馬が警察署の取調室で提示した「論理的誘い込み(ハニートラップ・ロジック)」の成果が、無機質な数字となって並んでいた。春馬が男たちのスマホから放った一通の「餌」に食いつき、指定の場所にのこのこと現れた不純物たちが、網にかかった魚のように次々と拘束されたのだ。
「……計算通りだ。社会の自浄作用としては、及第点と言えるだろう」
春馬は低く呟き、スマートフォンの電源を落とした。液晶が暗転し、そこに映り込んだ自分の顔は、一週間前よりもどこか削げ、酷く疲弊しているように見えた。
ニュースの熱狂とは裏腹に、春馬の周囲には、ぽっかりと穴が開いたような静寂が横たわっている。
視線を右にずらせば、そこにあるのは主を失った無機質な机だ。
若宮蒼奈は、あの日以来、精密検査と精神的ケアのために市内の総合病院に入院している。身体的な外傷は軽微だったものの、劇物使用の疑いと急性ストレス反応の懸念から、医師が下した判断は「完全な静養」だった。
春馬は椅子の背もたれに深く身を沈め、この一週間の「非効率な日常」を脳内で反芻し始めた。
若宮蒼奈が隣にいない。
その事実は、春馬の学校生活における「ルーチンワーク」を、微細ながらも確実に狂わせていた。
最も顕著だったのは、毎朝のホームルームや各授業の冒頭で行われる「配布物」の処理だ。
この君我学園の教室において、プリントの配布は最前列から順に後ろへと手渡していくという、前時代的だが強固なシステムが採用されている。
通常、春馬の前席から回ってきたプリントは、春馬が自分の分を取り、右隣の蒼奈へと手渡す。そして蒼奈がそれを後ろの席へと流す。それが最適化されたフローだった。
しかし、今は違う。
「……あ、箕島。これ、後ろに」
前の席の生徒が、いつものようにプリントの束を春馬に差し出す。
春馬は自分の分を一枚抜き取る。だが、その右側には、それを受け取るべき「予測不能な少女」の手がない。
(……チッ)
春馬は無意識に舌打ちを飲み込み、椅子を僅かに引いて、蒼奈の机を跨ぐようにして彼女の後ろの席の生徒へ腕を伸ばさなければならない。
「……ほら」
「あ、悪いな、箕島。……若宮、まだ休みか?」
「…………。見ての通りだ」
後ろの生徒との短いやり取り。それ自体が、春馬にとっては余計なノイズだった。
さらに、蒼奈の分として余った一枚のプリント。
春馬はそれを、彼女の主のいない机の上に置く。放っておけば風で舞い、床に散らばる不純物となる。彼はそれを、蒼奈の机の中に丁寧に、かつ「整然と」収めなければならなかった。
一日に数回、繰り返されるこの動作。
プリントの端が折れないように気を配り、彼女の教科書や筆箱が乱雑に置かれた(彼女がいれば、それは『躍動感』と呼べたかもしれないが)机の隙間に、その日の学習内容を流し込む。
「(……非効率だ。……たった一人が欠けただけで、この列の通信プロトコルはこれほどまでに鈍化するのか)」
春馬は心の中で毒づく。だが、その「毒」の正体が、作業の面倒臭さではなく、プリントを手渡す瞬間に感じる「右側の空白」に対する拒絶反応であることに、彼は気づかない振りをしていた。
休み時間の喧騒も、今の春馬にとっては耐え難いものだった。
以前であれば、彼がどれほど「一人になりたい」と願っても、隣の席から「ねえねえ、春馬くん!」という、論理を無視した周波数の声が飛んできた。
その声をいかにして論理的にシャットアウトするか、あるいはいなすか。それが春馬にとっての「日常の課題」だったのだ。
だが、今の休み時間は、完璧なまでの静寂(あるいは、彼に関係のない他人の雑談)に支配されている。
邪魔をする者は誰もいない。
誰にも思考を遮られることなく、SNSのレスバに興じることもできる。
理想的な環境のはずだった。
「…………」
春馬はペンを回し、白紙のノートを見つめる。
進まない。
対抗すべき「不条理」が隣にいない世界では、彼の「論理」は研ぎ澄まされるどころか、その刃を向けるべき対象を見失い、空回りしているようだった。
「(……配布物が溜まっていく。……あいつが戻ってきた時、この未処理のタスクの山を見て、どんな顔をするつもりだ。……『わあ、春馬くん、私のために整理してくれてたんだ! 愛だね!』などと、また根拠のない妄想を口にするに決まっている……)」
春馬は、机の中に積み重なったプリントの束を思い浮かべ、小さく溜息を吐いた。
それは、彼が彼女の代わりに守り続けている「日常の断片」だった。
ふと、春馬の脳裏に、あの日——暴力の嵐が吹き荒れた、あの午後の記憶が鮮明に蘇った。
アイスクリームの屋台。
溶け出したバニラの甘い香り。
そして、自分が震える手で書き上げた、あの「カード」。
『バニラアイス(まるで純潔なような姿が心を溶かし、溶けていく姿さえ綺麗で、なくなったと思ったら、コーンが残り、形がある)みたいな』
今思い返しても、内臓が裏返るような羞恥心に襲われるメッセージだ。
警察署での取り調べ中、パトカーの中、そして病院の廊下。
春馬は確かに、あのアイスの水分で少し撓んだ白いカードを、制服の右ポケットに収めたはずだった。
「(……あれは、渡すべきものだ。……いや、あんな破廉恥な内容、渡さない方が本人のため、あるいは俺の尊厳のためかもしれないが。……だが、俺の観測結果としての『定義』だ。破棄するわけにはいかない)」
春馬は、一週間ぶりにその「物理的証拠」を確認しようと、スラックスの右ポケットに手を差し入れた。
指先に触れるのは、微かな布の摩擦。
そして、スマートフォンの硬質な感触。
「…………?」
春馬の手が止まる。
彼はポケットの奥まで指を伸ばし、裏地をひっくり返すようにして探った。
何もない。
左のポケット。
制服の胸ポケット。
学生カバンの隅々。
「(……ない。……なぜだ。……計算に合わない)」
春馬の顔から、血の気が引いていく。
あのカードは、濡れていた。だからこそ、ポケットの中で乾き、独特の「硬さ」を持って存在し続けているはずだった。
「(……落としたのか? ……あの乱闘の最中にか? ……あるいは、警察署で……?)」
もし、あのカードが警察の証拠品として受理されていたら。
もし、あの「むず痒いメッセージ」が、厳格な警察官たちの手によって読み上げられ、捜査資料としてファイリングされていたら。
あるいは。
もし、あの場所——校門前のアスファルトの上に、今も無惨に転がっているのだとしたら。
春馬は、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
放課後の教室に、ガタンという大きな音が響き、数人の生徒が驚いたように彼を振り返る。
だが、春馬はそんな視線を気にする余裕もなかった。
「(……不味い。……あれは、俺の『論理』の敗北宣言のようなものだ。……あんなものが第三者の目に触れるなど、社会的死に等しい……!)」
冷や汗が、背中を伝い落ちる。
一週間、蒼奈がいない寂しさを「配布物の処理」という義務感で誤魔化してきた春馬の平穏が、一瞬にして崩壊した。
彼はカバンを掴むと、脱兎のごとく教室を飛び出した。
向かう先は、あの日、全てが始まった校門前か。
それとも、彼女が眠る病院か。
春馬の頭の中では、紛失した「定義」の行方に関する最悪のシナリオが、幾千ものパターンとなって高速で演算され始めていた。
「(……若宮。……お前がいない間に、俺の日常は……これほどまでに、瓦解していたというのか……!)」
夕暮れに染まり始めた廊下を、春馬は走り抜ける。
その右ポケットは、残酷なほどに軽く、空っぽのままだった。




