第百四十八話「第一期末テスト終了⑪」
夏の午後の静寂は、遠くから近づくサイレンの音によって、物理的な「終焉」を告げられた。
校門前の荒いアスファルトの上には、先ほどまでの醜悪な欲望と暴力の残骸が、三人の男という形で無様に転がっている。春馬は、自身の右拳に走る微かな鈍痛を無視し、まず第一に優先すべき「観測対象」へと歩み寄った。
「……若宮」
蒼奈は、校門の影で震える肩を抱き、膝を抱えるようにして座り込んでいた。その瞳は焦点が合わず、彼女という予測不能な少女を構成していた輝きが、恐怖という名のノイズによって著しく減退している。
春馬は一切の迷いなく、手元のスマートフォンを操作した。
「救急車を要請した。……若宮、バイタルデータに異常はないか? 意識は混濁していないか? 外傷の有無、および視覚的なショックによる急性ストレス反応の可能性を考慮し、専門家による診断が必要だ」
論理的で、あまりにも事務的な声。だが、その響きには、凍てついた冬を溶かす春の日差しのような、切実なまでの「守護」の意志が宿っていた。
数分後、赤色灯の光が校門前の白い壁を不規則に舐め、数台のパトカーが急停車した。
「……動くな! 警察だ!」
車から飛び出してきた警察官たちが、倒れ伏した男たちと、その中心に立つ制服姿の少年を包囲する。春馬は両手をゆっくりと上げ、自身の無実を証明するための冷静なプロトコルを開始した。
「……所轄の警察署に通報した箕島春馬です。……容疑者は、路上に横たわっている三名。罪状は強制わいせつ未遂、致傷、および薬物使用予備。……証拠となる全プロセスの録画・録音データは、この端末内に格納されています」
春馬は、自身のスマホを証拠品として差し出した。警察官の一人がそれを受け取り、画面を確認した瞬間、その表情が戦慄に変わる。そこには、男たちが蒼奈を「極上のスイーツ」と称し、蹂躙しようとした瞬間の、言い逃れのできない記録が収められていた。
「君……これ、全部一人でやったのか?」
「……正当防衛の範囲内における、最小限の物理的排除です」
春馬は視線をパトカーの奥……、男たちが拘束される様子へと向けた。
だが、春馬の「研究」はここで終わりではなかった。
「……警官の方。一つ、提案があります。……いや、これは市民としての『協力』と捉えていただきたい」
春馬の声に、現場の指揮を執っていたベテランの警部補が足を止める。
「提案?」
「ええ。……この三人の供述を待つまでもなく、彼らの行動原理は典型的な『集団による常習性』を示唆しています。……このような社会の不純物は、氷山の一角に過ぎない。この一件を、単なる三人の逮捕という小規模な処理で完結させるのは、公共の安全という観点から見て、著しく非効率です」
春馬の瞳が、暗い知性を湛えて光った。
「……容疑者三名のスマートフォンを、即座に押収してください。そして、彼らのメッセージアプリを確認すれば、同種の思考回路を持つ『仲間』のアカウントが芋蔓式に見つかるはずだ。……その全アカウントに対し、彼らの端末から一斉に送信するんです。——『イイ女捕まえたから紹介したい。今すぐ集まれ』と」
「……おとり捜査まがいのことをしろと言うのか?」
「『誘い込み』です。……彼らの論理階層において、この手のメッセージは強力なトリガーとして機能する。……集まってきた個体を一網打尽にすれば、このエリアの潜在的な犯罪発生率を、一気に数パーセント単位で引き下げることが可能だ。……効率的だと思いませんか?」
春馬の提案は、もはや高校生の域を超えていた。SNSの深淵で、悪意に満ちたアカウントを論理的に追い詰め、消滅させてきた彼にとって、これは単なる「デバッグ作業」の延長に過ぎなかった。
警部補は、春馬の冷徹な正論に一瞬気圧されたように黙り込み、「……検討に値するな」と短く答えて、部下に指示を飛ばした。
その時、アスファルトの熱を切り裂くように、救急車のサイレンが目前で停止した。
白い防護服を着た救急隊員たちが、蒼奈の元へと駆け寄る。
「大丈夫ですか? どこか痛いところはありませんか?」
隊員の問いかけに、蒼奈はようやく視線を上げ、春馬の方を振り返った。その瞳には、少しずつ生気が戻り始めていたが、まだ唇は微かに震えている。
「……春馬、くん……」
「……行け。検査が必要だ。……俺は、警察への任意同行とデータ提出が終わり次第、追いかける」
春馬は努めて冷静に、彼女を安心させるための一定のトーンで告げた。
蒼奈がストレッチャーに乗せられ、救急車の後部ドアが閉まる。その瞬間まで、彼女は春馬の姿を目に焼き付けようとしていた。
サイレンが遠ざかり、現場に再び、警察官たちの無線機から漏れるノイズと、夏の終わりのような虚脱感が漂い始める。
春馬は、自分の足元に置かれたレジ袋を、ふと思い出した。
「(……そうだ。……リワードの提供が、まだ完了していない)」
彼は、アスファルトの上に放置されていたレジ袋を拾い上げた。
袋の底には、冷たい液体が溜まっている。
春馬が袋を開け、中を確認すると——そこには、先ほどまで白銀の輝きを放っていたはずの二つのバニラアイスが、無惨な姿で横たわっていた。
「…………」
太陽の熱。
そして、男たちの排除に費やした、血の通わない論理の時間。
その代償として、アイスクリームは形を失い、ドロドロの白い液体となってコーンの隙間から溢れ出していた。
それは、彼が先ほどベンチで書き上げた「純潔な姿」や「溶けていく姿さえ綺麗」という定義を、嘲笑うかのような崩壊ぶりだった。
「(……熱力学的な法則からは、逃れられないということか)」
春馬は、溶け崩れたアイスを見つめながら、自嘲気味に呟いた。
だが、袋の底、液体の海に浸かりながらも、一つだけ形を保っているものがあった。
——真っ白な、メッセージカード。
春馬が慌ててそれを取り出すと、厚手の紙はアイスの水分を吸って少し撓んでいたが、そこに刻まれた「春馬独自の定義」は、製図用シャープペンシルの硬い芯によって、消えぬ傷跡のように、はっきりと刻まれていた。
形のあるものは、いつか溶ける。
論理で固めたアイスクリームも、若宮蒼奈がくれた穏やかな午後も、暴力によって一瞬で損なわれる。
だが。
「(……芯は、残っている)」
春馬は、湿ったカードをポケットにしまい、警察官に促されるままパトカーのシートに深く身を沈めた。
車窓を流れる景色は、夕暮れ前のオレンジ色に染まり始めている。
溶けてしまったアイス。
消えなかった言葉。
そして、彼が守り抜いた、一人の少女の「不条理な笑顔」。
春馬は目を閉じ、これから警察署で繰り広げるであろう、法と論理の戦いに向けて、脳内の思考エンジンを再び再起動させた。
溶けてしまったバニラアイスの甘い香りが、密閉された車内の中で、いつまでも微かに漂い続けていた。




