聖人様を祀る会
A4大陸のぬいぐるみ事件。
その事件からもうじき一ヶ月が経とうとしていた。
度々様子を見に来てくれるキララの話によると、A4大陸の人間たちは無事に人間の姿を取り戻したらしい。今は以前と変わりなく平和に過ごしているようだ。
それは非常に喜ばしいことだが、アルの心には未だしこりが残っていた。
A1大陸からの帰り道。
その日の空模様はあまり良いとは言えなかった。分厚い雲が太陽を覆い隠し、夕暮れの光は地上へと落ちてはこない。アルの小船と並行して泳ぐポニーも、ほんの少しだけ元気がないようだ。
アルは羽空を信じている。
アル自身と、ヒスイとサンゴ、A1大陸の人間たちを救ってくれた羽空のことを信じている。冷たい氷のような瞳の奥に、確かに見え隠れする優しさを知っている。
だからこそ、どうしても脳裏から消えてくれない。羽空が猫耳男を殺した、あの光景が。
アルは嘆息し、空を見上げた。燃えるような橙色の空には、産まれたばかりの子猫が数匹飛び回っている。子猫は甲高い鳴き声を上げながら、更に上空へと飛んでいった。おそらくA1大陸の猫なのだろうが、島からだいぶ離れたこんな僻地——壁海?までやってきて大丈夫なのだろうか、とアルは眉尻を下げた。
ひとつ、瞬き。
子猫のすぐ真横に人が座っていた。
長い白髪の髪を一つに束ね、毛先はくるりとハートの形になっている。根本のほうは白色だが、毛先につれて段々と赤くなる、美しいグラデーションの髪色をしていた。
片足を立て、その膝に頭を預けている姿から、睡眠中であることが窺える。
目を引いたのはその頭と腰。頭には大きなウサギの耳が生え、同じく腰にはウサギの丸い尻尾が生えていた。
頭から足の先に至るまで、服装は全て白色でコーデされている。
彼は、人間が普段着る服装とは違い、聖人が着ている服装に近かった。
……既視感。この光景を、アルは以前にも見たことがある。
「次元のうさぎ、様……?」
記憶から引っ張り出したその名を呼ぶ。
本名か否かは分からないが、彼は呼び声に反応してゆっくり目を開けた。
炎のような真っ赤な瞳。
以前とは違い、今は恐怖心はない。しかし、その深紅の瞳に見つめられていると、なぜかそわそわしてしまう。
次元のうさぎは無表情だ。瞳の奥に優しさが滲む羽空とは違い、彼の瞳の奥は無機質だった。彼はアルをゆっくりと凝視したあと、やがて感情の乗らない言葉を口から吐いた。
「アリス。前に、会ったことがあるような気がする」
「あ、ありす……?」
聞きなれない単語にアルが首を傾げると、次元のうさぎはゆっくりとアルを指さした。「アリス」そして、自分を指さす。「うさぎ」
……どうやら、アリスというのは彼の二人称のようだ。
アルが納得して頷くと同時に、次元のうさぎは再び口を開いた。
「この世界には三つしか存在しない。うさぎ、アリス、そして——ワンダーランド《星》」
「わんだーらんど……」
「現在の危険指数はハート一個分。うさぎが介入する必要はなし」
「きけんしすう……はーと……?」
「アリス。前に会ったことがあるような気がする」
会話は冒頭に戻る。ではないけれど、なんというか支離滅裂で言葉のキャッチボールができない。アルは助けを求めてポニーを見る。しかし彼は、呑気に泡を噴いて遊んでいた。
「……前に会ったことがあるような、というか、実際に前に会ったことあるんすよね。ええっと、ほら。ちょうど一カ月くらい前なんすけど」
初対面の出来事を説明しようと、アルはしどろもどろになりながら口を開く。しかし、次元のうさぎは否定するように首を横に振った。
そして、その真っ赤な瞳でアルを見つめる。何かを探るように、深く。
「——ああ、」
やがて、彼は納得したように目を細めた。
「アリス、似ている。——セイレンに」
「え?」
セイレン……初めて聞く言葉だ。しかし、なぜだろう。妙に頭に残る単語。妙に心に突き刺さる単語だ。
アルの呼吸が僅かに乱れる。しかし、次元のうさぎは気にも留めていない様子で「最近、どこの大陸も騒がしい」と呟いた。
「あ、ああ……えっと、もうすぐ〝聖人様を祀る会〟が開催されるんで、どこの大陸もお祭り騒ぎなんすよ」
そう。つい先程もA1大陸の島民たちは、聖人様へ贈る品物を広場へ運んで——…。
そこまで考えて、アルはハッと目を見開いた。同時に、自分の口からまろびでる雄叫び。次元のうさぎはそれでも表情を崩さずに、興味深そうにアルを見つめた。
「次元のうさぎ様!」
「うさぎはここにいる」
「はい!知ってます!どうしましょう、オレ……!」
アルの口から出た言葉に、次元のうさぎは首を傾げる。そして、少しばかり思案すると、抑揚のない声で淡々と口を開いた。
聖人様を祀る会。
広場には祭壇が設けられ、島民たちは各々用意した供物を祭壇へと献上していた。大陸全土は花や植物で飾り付けられ、島民たちも装飾品をつけているものが多い。
視界の端で子供たちと歌の練習をしているムラサキは花冠を、祖父たちに酒宴に付き合わされているホタルは葉っぱの飾りを頭につけている。アル自身も、オースと揃いの貝殻の髪飾りをつけて、会へとやってきた。
アルの腕の中には、木箱に入った供物。どこか緊張する様子でその木箱を祭壇に捧げるアルを見て、ヒスイが訝しげに声をかけた。
「アル、供物には何を選んだんだい?」
「うわっ、ヒスイ!ビックリしただろ!」
「ごめんよ。それで?その木箱には何が入っているの?」
興味深々なヒスイに、アルは困ったように眉尻を下げる。
「……あんま自信ないから、言わない」
「逆に気になるけれど……。言いたくないならこれ以上は聞かないよ。でも、お優しい聖人様ならどんな供物であれ、喜んでくれると思うけどね」
それはそうかもしれない、とアルはぼんやりと思う。脳裏にキララの笑顔が浮かんで消えた。
唸るアルの横で、ヒスイはブルーデイジーの花を祭壇に捧げる。軽く祈るように手を合わせるヒスイの耳には、サンゴと揃いのブルーデイジーの耳飾りが揺れていた。
アルは改めて祭壇を見る。豪華絢爛に飾り付けられた祭壇には、美しいものばかりが並んでいる。その中央で、自分の捧げた木箱が所在なさげに鎮座しているのを見て、アルは梅干しのように顔を歪めた。
「ヒスイお兄ちゃーん!アルお兄ちゃーん!」
明るいサンゴの声に目を向けると、両手にご馳走を持ったサンゴが軽快に駆けてくるのが見えた。二人の前で勢いよく足を止めたサンゴは「はい、これ!」とキウイフルーツとメレンゲクッキーを差し出す。キウイフルーツはヒスイの、メレンゲクッキーはアルの好物である。
サンゴの後ろから、ムラサキとホタルも遅れてやってきた。
「アルくん、その貝殻の髪飾りとてもよくお似合いです」
「おお、ありがとな!ムラサキの花冠もすっげえ似合ってる!」
「ありがとうございます」
はにかむムラサキに、アルも自然と笑顔になる。
ホタルはどこか疲れた様子で、祭壇に寄り掛かった。
「ホタル、さっきじいちゃんたちの飲み会に巻き込まれてただろ?」
どこか楽し気なアルに、ホタルは鋭い視線を向ける。
「……代わってくれても良かったんだぜ?」
「いや、それはちょっと……」
酒宴で揉みくちゃにされたのか、ホタルの髪も、着用している葉の髪飾りもぐちゃぐちゃに乱れていた。隣のヒスイがさり気なく、それを整える。ムラサキも「どうぞ、召し上がってください」とホタルの好物が入った器を手渡した。
年に一度の聖人様を祀る会は、今年も賑々しく催されている。
人々は和気藹々と飲食をし、踊るものや歌うもの、走り回る者など様々だ。タカラは広場の中心で、愛犬たちと何か芸をやっている。それが終わると同時に拍手を送ると、タカラと入れ替わるように、オースが広場の中心に立った。
「A1大陸の同胞たちよ。今年も、聖人様の庇護のもと、我らは生き永らえている」
オースの言葉と共に、広場は静まり返る。
聖人様を祀る会では、会の終盤で代表者が挨拶することになっており、その代表者は毎年順繰りだ。今年の代表者はアルの祖父、オース。彼の厳格な声は広場の島民全員の姿勢を正した。
「聖人様に感謝し、共に聖歌を捧げよう」
それを合図に、オースは聖歌の始まりの一節を口にする。その一節に続くように、島民たちも口を開き、聖歌を合唱した。
いつからか、人々は自然とこの曲を歌えていた。誰に教わったのかは分からない。しかし気づけば、この歌を口ずさむようになっていた。どこか悲しく切なく、けれども温かいこの聖歌を。
聖歌が終わると、島民たちは祭壇に祈りを捧げ、自然と帰路へ着く。
この特別な日は、アルとオースも大陸に留まり一夜を過ごすことになっている。それは毎年のことなので構わないのだが、大陸のすぐ近くにはポニーがきている。普段は温厚なのだが、アルの姿が一晩見えないと不安から海を荒らしかねない。アルはオースに一言告げ、ポニーの様子を見に行くことにした。人語を理解できる彼のことだ。一晩大陸に泊まる、と伝えれば納得してくれるはずだ。
友人たちの目を掻い潜って、こっそりと浜辺へ向かう。
真っ黒な海とポニーの大きな頭が見えたところで、アルは足を止めた。
見えたのだ。ポニーの瞳の横を撫でている、羽空の姿が。
月の光に照らされて、彼の白銀の髪が揺れる。透き通るような肌は、月光を優しく受け止めていた。羽空は背中を向けている。表情は分からない。
アルは引き寄せられるように、一歩また一歩と足を踏み出した。
「意外だった。おまえ、結構歌が上手いんだね」
振り返った羽空に、アルは思わず姿勢を正す。
久しぶりに見た羽空は、やはり、この世の美しいもの全てを凝縮させたような、そんな顔をしていた。
「オレだけじゃなくて、A1大陸の島民たちはみんな歌が上手いっすよ」
かろうじて絞り出した言葉に、アルは脳内でツッコミをいれる。ありがとうございます!とか、とんでもねえっす!とか、もっと可愛い返事が出来れば良かったのに。
しかし、羽空はたいして興味がないのか「ふうん」とだけ返す。
暫しの沈黙。アルは何か話題を振ろうと必死に頭を回転させる。
羽空はゆっくりと海面を歩き、今にも深海へ帰りそうな雰囲気だった。
「あ、あの……羽空様!」
「なあに」
「えーっと、もしかして……〝聖人様を祀る会〟を見に来てくれたんすか?」
アルの質問に羽空は答えない。
ただ真っ直ぐと海面を歩き続ける。
その時、アルは気が付いた。羽空の片腕に、見覚えのある木箱が抱えられていることを。
「羽空様……それ……」
「今年は、怪我人が出なくて良かったね」
「え、」
「じゃあね」
それだけ言って、羽空は海中へと姿を消す。
残されたアルはぼうっと海を眺め、ポニーは楽し気に泡を噴出した。
……今年は怪我人が出なくて良かった?
確かに去年はタカラが怪我をして大変なことになってしまったけれど、なぜそれを羽空が知っているのだろう。……そんなこと、深く考えなくても分かる。去年も羽空はきっと見に来ていたのだ。聖人様を祀る会を。いや、去年だけじゃなくて、きっと、アルが産まれる前からずっと——…。
「っ……」
アルの胸に、形容しがたい感情が広がる。同時に、目頭が熱くなった。
「羽空様――――――!オレ、羽空様のこと信じてますっ!信じてますから!」
いつか、羽空とキララに感謝を告げたように、アルは再び海に向かって声を上げた。
きっとこの声は羽空に届く。根拠はないけれど、なぜか確信があった。
月の輝く真っ暗な海。全てを飲み込む闇のように、深くて恐ろしい。けれども、今日の海はなんだか優しい色をしていた。
深海。《絶唱》の洋館。
純白なテーブルの上で、羽空は木の玩具を動かしていた。玩具の形は音符や花、月や星、様々だ。削りは荒いが、どれも木の欠片で怪我をしないように配慮されている。
紅茶を持ってきた海愛は、玩具の隣にそれを置くと、羽空の頬に人差し指を埋めた。
「羽空、なんだか楽しそうだね」
「そう?」
柔らかく笑った羽空は、海愛が淹れた紅茶に手を伸ばす。海愛は木の玩具を注意深く見ながら「ボードゲーム?」と首を傾げた。
「うん。対戦できるみたいだから海愛も一緒にやろう?」
「ふふーん、いいよ!」
明るく笑った海愛は羽空の隣に腰掛ける。羽空は、お世辞にも綺麗とは言えない文字の説明書を手に取って、隣で微笑む片割れのように、そっと口角を上げた。




