第三話 6.名前
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雲ひとつ無い、とはいかないが真っ青な快晴の空が広がっている。ダンジェはそれこそ雲ひとつ無い青空が好きだと言っていたが、アスタ自身はゆったりとした白い雲が浮かぶこんな空が好きだった。ぼうっと時間を忘れて風によって形を変える雲を眺めているのが好きなのだ。そう言うと「ジジくさい」と返されたものだが。
そんなことを思い出し、馬上で一人頬を緩める。すると鈍い痛みが左頬に走った。手加減知らずのダンジェの拳はあの後すぐに冷やしてもそう簡単に治るものではない。だが、それで良かった。彼との絆を持ち続ける為に受けるべき断罪だったのだから。
いつもとは違いゆったりとした歩を進めて丘を下る。ここを道なりに進めば街道に出て、そこから北上を続ける。半月もあればシブネルに着くだろう。一人身のアスタは荷物も少なく身軽なものだ。腰に刷いた馴染みの剣は持ってきたが鎧は置いてきている。戦時中ではないのだ。異動先で調達しても同じだろう。
残った家はロニに譲った。彼は今まで詰め所で寝泊りしていたから丁度いいだろう。元々大きな家ではないから持て余さないだろうし。唯一の不安は寝坊の多いロニが詰め所から離れてちゃんと遅刻せずに通えるかどうかだ。
そこまで考えて同時に思い出す顔があった。ウィズだ。どうやら二人はあれから話をしたらしく、その内容をこっそりウィズが教えてくれた。そして改めて礼を言われたのだ。アスタがいてくれて良かった、と。そう思ってくれたのならアスタとしてはお節介で終わらずに良かったと思う。アーロンとザックの事にしてもそうだ。二人には穏やかな親子生活を送ってもらいたい。
(俺はいつからこんな・・・)
隊員達の私生活にまで口を出すようになったのだろう。そう思うけれどその答えは見つからない。お人良しだとダンジェには言われるが、アスタはそうは思わない。戦争で家族を失ってしまった自分は他人が幸せでいてくれることに安心するのだ。自分と同じように失ったものに絶望するのではなく、今あるものを大切にすることがグラン=ハンバットの教えであったから。アスタ自身が穏やかに生活する為に周囲の人々の幸せが欠かせないものなのだ。
イルの街を離れながらアスタは周囲の景色に目を向けた。急ぐ旅路ではないのだし、せっかくだから色々な場所を見て行こう。そう思い、馬を走らせようと手綱を握る。そこで駆けてくる足音が聞こえた。
「アスタさん!!」
頭で考えるよりも先に体が動く。振り返ったその先にいたのは黒い髪を靡かせた女性。冬へと向かうこの季節にコートも羽織らずこちらに駆けて来る。
「・・シンガー。」
アスタは馬を止め、そこからひらりと飛び降り彼女を出迎えた。街からここまで走ってきたのでは相当の距離だっただろう。アスタの前まで来ると、シンガーは肩で息をして呼吸を整える。すぐには言葉が出ないようで、けれどそれは彼女を目の前にしたアスタも同様だった。
「アスタさん・・・。私・・・」
シンガーの顔が上げられ、アスタの目を見る。彼女からの答えを受け取ったあの日覚悟を決めたけれど、それでも彼女に触れたくなる気持ちが溢れてくる。アスタはそれを必死に抑えた。
「私、あなたに一つだけ嘘をついていました。」
「・・嘘?」
意外な言葉にアスタは目を丸くする。シンガーは神妙な面持ちでゆっくりと頷いた。そして何度が息を吐いた後、覚悟を決めたようにぎゅっと胸の前で両手を握る。
「私の、名前です。」
「名前・・・。」
シンガーという名前は確かにユフィリルでは聞いたことが無い珍しいものだ。だがそれは異国出身だからだと思っていた。
「シンガーは偽名です。私の故郷の言葉で歌手のことをそう言うんです。・・・。私の、本当の名前は沙樹、と言います。」
「サキ・・。」
アスタはそれを確かめるように何度も呟く。言葉にすればするほど彼女に馴染む、不思議な音の名前。嘘を付いていた事への不安からか、顔を曇らせる彼女に向かってアスタは微笑んだ。
「サキ。音の綺麗な名前だな。」
その笑顔を見て、くしゃっとシンガーの表情が歪む。そしてポロポロと両目から涙が溢れ出した。思わず俯いてしまう彼女の頬に手を沿え、アスタは優しくその名を呼ぶ。
「サキ。」
「・・はい。」
そっとそっと彼女の涙を両手で拭う。その手が暖かくて、優しくて、増々彼女の涙は止まらなくなる。
「ありがとう。・・俺は、君に出会えて良かった。」
「アスタさん・・。」
溢れる涙を止められぬまま彼女は微笑んだ。細められた両目から次々と雫が零れる。それが太陽の光に反射して、アスタの目に焼きついた。
「私もです。」
アスタは彼女の左手をとり、その細く白い指に口付けをした。願わくば、自分の愛したこの女性が未来永劫幸せな光に包まれることを祈って。
そしてその手を離すと満面の笑みを湛えた。
「元気で。」
「はい。アスタさんも。」
また会おうとは言わない。言えない。
最後に彼女の姿を両目に焼き付けて、アスタは再び馬に乗った。そして迷うことなく手綱を引いて走り出す。もう一度も振り向かなかった。彼女の本当の名前を胸に、前だけを見て未来へ進もう。彼女が贈ってくれたあの唄のように。
シンガーはその後姿を一人見つめていた。段々と小さくなっていくアスタの背中。流れるがままの涙がその形を滲ませる。
『サキ。』
名前を呼んでくれたアスタの声が耳から離れない。もはや彼だけが知っているシンガーの本当の名前。
(どうして話してしまったんだろう。もう会えない人なのに。)
シンガーはやがてアスタのいなくなってしまった景色を前に佇んでいた。
どこまでも真っ直ぐなアスタに嘘を付きたくなかった。初めて自分を愛していると言ってくれた人だから、初めて自分が愛していると思った人だから。だから少しでも本当の自分を知っていて欲しかったのかもしれない。別れを選んだのは自分のくせに、覚えていて欲しいなんて勝手な我侭だと分かっているけれど。
(私も、先に進もう。)
涙を拭いてシンガーは道を歩き始めた。
後悔していないと言ったら嘘になる。それでもアスタとの日々は自分の人生の中で輝いている。この思い出があれば、また独りで旅を続けられるから。
彼に恥じることのないよう、彼の想いを無駄にしないよう、自分は選んだこの道を進み続けなくてはならない。いつか、この旅の目的を果たすまで。
“私は船の上にいた――”
自然と口から零れる歌の一節。その微かな歌声は誰の耳にも届かない。けれどそれでいい。他の誰でもない、この歌はシンガーがシンガー自身に聞かせるためのものだから。
“段々離れる二つの小舟 あなたは笑って手を振った
海の向こうから昇る朝日が 二人の道を照らしてる”
丘を吹き抜ける風が冬の空気を運んでくる。その風がシンガーの頬に触れて涙を乾かした。空はどこまでも高く遠いけれど、きっと繋がっている。アスタの元へ。そしてシンガーの旅路の果てへ。
“私は光の中にいた
あなたと私が選んだ道は 暖かな未来へ繋がっている
胸の奥にしまった名前を 御守りにして先へ進もう”
完
アスタ主人公の『歌うたいの恋人』はここでお終いです。
ですが二人の話はまだ終わりません。もし二人の未来が気になる方がいらっしゃいましたら続編をお待ちいただければ幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。