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水戸の日々

 三十才で水戸三十五万石の藩主となった斉昭(なりあき)公は、改革の志篤く、蛮勇をふるって矢継早の藩政改革を断行しました。藩庁首脳の人事を刷新すると、出自にとらわれず名門旧家からも、上士・平士からも、百姓町人からも有能の士を抜擢しました。藩政改革は多方面にわたりました。地方行政の改革、検地、軍政改革、藩校弘道館などの教育政策、財政改革、倹約令、奢侈禁止令などです。社会福祉施策も実施されました。多子家庭への育子料支給や、飢饉対策の常平倉および稗倉です。偕楽園建設という大規模工事には財政的観点から反対意見も多くありましたが、斉昭公は断行しました。後世、批判の対象となった政策もあります。仏教排斥、神教と儒教による思想統一、大砲鋳造のための銅像梵鐘供出などです。

 青山延于(のぶゆき)の生活も大きく変わりました。財政緊縮のため、江戸と水戸に分置されていた彰考館は水戸彰考館に合併されることとなり、延于は江館総裁を致仕となりました。

「これはあくまでも財政立て直しのためだ。そちの働きに不満があるわけではない。いずれ重用するから待っておれ」

 斉昭公はわざわざ延于に声をかけてくれました。江戸在勤藩士のうちおよそ百名を水戸に戻すこととなり、家族も含めておよそ五百名が水戸に戻されました。耐火式土蔵造御文庫の完成以来、健康を取りもどし、江戸の生活を楽しんでいた延于は未練を残しつつ、七年ぶりに水戸に帰りました。水戸に戻った延于は書院番に累進し、彰考館編修員の勤めと私塾経営で日を過しました。天保三年には小姓頭に進みます。

 天保四年、藩主斉昭公は水戸に就藩しました。水戸藩主が水戸に入部するのは実に二十六年ぶりです。というのも御三家の一角である水戸家には江戸在府という特権があり、参勤交替の義務がなかったのです。

 斉昭公は好奇心のままに行動する人で、藩士の屋敷に前ぶれなく入りこみ、あれこれと屋敷内を見て回りました。留守中の奥方や女中が驚いて平伏するのもかまわずに動き回り、時に台所の鍋のフタを取って中を見たりもしました。青山家にも来ました。翌日、城中で延于をつかまえて斉昭公は言いました。

「そちの家は厩のようだなあ」

 延于の方も遠慮せずにものを言いました。たとえば長男延光の処遇についてこう言ってのけます。

「せがれのお給金はあまりにも安うございましょう。延光がいま他藩で新規御召し抱えとなれば、二百石は下りますまい」

 斉昭公は苦笑いするしかありません。また、四男延寿に三千石の旗本から養子の申し入れがあったとき、斉昭公の許可が下りずに実現しませんでした。後日、延于は斉昭公に向かって嫌味を言いました。

「あれは四男のことですから、さしあたり百五十石でよろしうございましょう」

 斉昭公は好悪の情が激しく、嫌いとなれば容赦なく遠ざけましたが、青山家にとって幸いなことに延于は気に入られたようです。

 天保十年頃、青山延于の私塾には七十余人の塾生が通っていました。延于の次男延昌は画をよくし、後には画力を買われて本草学者佐藤中陵の養子となりました。その延昌がまだ部屋住の頃、お塾の子どもたちに声をかけては似顔絵を描いてやりました。それを渡してやると子供は喜んで持ち帰ります。一人ひとりの顔の特徴を的確に捉え、紙面に描出していく技に子どもたちは驚嘆します。延昌は全塾生の似顔絵を描き残しました。また延于の塾長ぶりをも書き残しています。塾生たちは延于のことを「先生、先生」と慕いました。延于が座の中央にいるあいだは誰もが真面目に勉学に励みます。

「ヒトタビ之ニ教ウルヤ、則チ群童皆ナ恐懼、左手ニ墨ヲ執リ、右手ニ筆ヲ執リ、案ニ憑リ、書ヲ学ブコト終日ニシテ倦マズ。マタ一言ヲ出スモノナシ」

 と延昌は書いています。延于の癇癪は子どもたちにとって脅威の雷でした。ところが延于のいない日は様子が違います。塾生たちは勉強に飽きると本来の子供らしさを遺憾なく発揮し始めます。

「語ルモノアリ、笑ウモノアリ、喜ブモノアリ、怒ルモノアリ、啼クモノアリ」

 という状態になります。ある時、塾生たちの悪ふざけがあまりに過ぎているのを見るに見かねて延昌が叱責しました。

「何スレゾ書ヲ学バザル、吾必ズ之ヲ罰セン」

 ところが悪童たちはいっこうに畏れません。むしろ逆襲してきました。

「子ハ先生ニ非ズ、先生ニ非ズ、黙々タル可ナリ」

 先生でもないのに口を出すな、黙っていろというのです。見事な口答えというべきです。

「吾等先生ノ命ニアラズンバアエテ筆ヲ執ラズ」

 延于先生の言うことしか聞かないぞ、と子供達は言い張ったのです。延昌は、蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)たる悪童たちを前に、引き下がるしか術がありません。延昌は父を見直して書いています。

「三尺ノ童児ト呼ブモ、ナオ法度賞罰ニアラズンバ能クコレヲ制スル能ワズ。師ノ弟子ヲ制スル、天下国家ヲ治ルニ類ス」


 天保十一年、延于は会沢安とともに藩校弘道館初代教授頭取となりました。斉昭公は学派抗争を避けるため、この二人を常に同格としました。教授には青山延光と杉山忠亮が任命されました。弘道館教授頭取と彰考館編修を兼ねた延于は、本禄百五十石、お役料二百石、併せて三百五十石の収入になりました。この前年、延于は妻を亡くしていました。長年にわたり貧乏儒官の生活を連綿たる労働で支え続けてくれた妻を偲んで延于は文章を残しました。

「余若クシテ貧困、君夙夜辛勤ツブサニ艱難ヲ嘗ム・・・余晩歳盛時ニ遭イ、食禄余リアリ。君ソノ艱難ヲトモニシテ、ソノ佚楽ヲ受クル能ワズ。命ナルカナ」

 早朝から深夜まで働きつづけた妻は、多少の贅沢さえ知らずに亡くなってしまいました。この妻はいたって温厚な性格で、癇癪持ちの延于に怒鳴られた人を気の毒がり、ひたすら頭を下げてわびてまわるような人でした。この妻の性格は長男の延光に受け継がれたようです。



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