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斉昭公

 文政十一年二月と文政十二年三月、江戸に大火がありました。いずれも神田から出た火が延焼したものでしだが、幸い小石川の水戸藩邸に被害は及びませんでした。青山延于(のぶゆき)は、自慢の耐火式土蔵造御文庫をたのみ、自信に満ちた顔で火事の情報に耳を傾け、万一の事態に備えました。

 万事順調だった延于のもとへ、突然、水戸彰考館総裁代役の藤田東湖からの質問状が届きました。「青山総裁に与えて館中五事を論ずる」という激烈な弾劾文です。延于にしてみれば青天の霹靂でした。

 去る文政九年に藤田幽谷が亡くなると、藤田東湖が家禄を継ぎ、彰考館勤めになっていました。東湖は弱冠二十三才ながら水戸彰考館総裁代役です。東湖の質問状の主旨は、延于の同僚たる水館総裁川口長孺を罷免し、会沢安を総裁に戻せと要求するところにありました。

 これより先、川口長孺が水館総裁に就任すると、これに不服な会沢安が水館総裁を辞していました。会沢は川口と肩を並べるのが嫌だったようです。江戸育ちで根っからの江戸っ子である川口と、骨の髄から水戸っぽの会沢との相性が極端に悪かったのです。川口長孺は儒官としてすぐれた学識を持ち、書をよくしましたが、江戸っ子だけに遊びも風流も心得ていました。社交に長け、駄洒落や冗談もよく言いました。川口のこうした都会的なところが水戸人気質の会沢には嫌味に見えたようです。会沢が青藍舎の塾生であったことから、青藍舎出身の彰考館員たちは会沢に同調し、その雰囲気が水戸彰考館の与論を形成しました。彼らには川口の一挙一動が汚行、失行にみえ、気障で気取りで鼻持ちならない男に見えたのです。

 ただ、それだけのことだと笑ってもよさそうなものでしだが、東湖の文章は、この些細な感情的軋轢を天下の一大事であるかのように、天馬空を行くがごとき名調子で滔々と述べ立てています。さらには延于がかつて担当した「東藩文献志」にまで難癖をつけています。

(やれやれ、親も親なら子も子だ)

 延于は失笑とともに溜息をつきました。藤田父子はまことに瓜二つでした。

「藤田ハ先輩ノ非ヲ挙ゲテ破ルコトヲ好メリ」

 一部の人々からそのように評されていた幽谷の諌言癖と改革熱は東湖にも受け継がれているようでした。後のことになりますが、東湖の四男小四郎も目から鼻に抜けるような才子でした。極論すれば、藤田三代が幕末の水戸藩の鼻面を引っかき回したと言えなくもありません。

 東湖からの質問状を受けとった延于は、ちょうどその頃、斉脩(なりのぶ)公の御容態が悪化していたこともあり、答えずに放っておきました。

(それにしてもおかしなものだ)

 延于が思うのは、わが長男のことです。名を延光といいます。青山家の惣領息子たる延光は、延于とはおよそ正反対の性格に生まれつきました。議論を好まぬおだやかな性格で、水戸藩士には珍しく茫洋たる人格を備えています。水戸藩士が頭に血を上らせてはげしく甲論乙駁しあい殺伐たる雰囲気になっているような場合でも、そこに延光が現れると場の空気が一変しておだやかになるのです。薩摩藩に生まれておれば一軍の将に推されていたかも知れません。あまりにも大人しすぎ、自分の意見をめったに言いません。そのため誤解を招くこともありました。嘉永四年に吉田松陰が水戸を訪れた際、延光は会沢安と共に松蔭に会いました。延光は例によってニコニコしているだけで松蔭の問いかけに答えませんでした。そのため松蔭は延光の印象を「コンニャク党の類なるべし」 と日記に書きました。コンニャク党とは、つかみ所のない者、あるいは自分の意志を表明しない者といったほどの意味です。つまり、馬鹿者だと思ったのです。

 九月になると斉脩公が重態となり、藩内では後継問題が焦眉の急となりました。斉脩公には子がなかったため、順当に考えれば弟君の敬三郎殿が後継することになります。しかし、水戸藩中枢には別の動きがありました。斉脩公の正妻峰姫は、第十一代将軍徳川家斉の娘です。この峰姫の弟君清水侯を水戸藩主に迎え入れれば、幕府から十万石の加増を受けることができるのです。この加増よって藩財政を再建しようという魂胆でした。

 一方、敬三郎殿の人品骨柄に信頼を寄せ、この人を藩主に推そうとする一団もいます。藤田東湖を中心とした青藍舎派がそうです。おそらく藩政改革への志が一致したようです。東湖は侍講のたびに敬三郎殿の非凡な資質を感得し、この人の下でこそ働きたいと願いました。延于も江戸藩邸で敬三郎殿に接する機会を得、その藩主就任を願いました。政治に無関心な延于もこのときばかりは政治的に動きました。

 話はさかのぼりますが、斉脩(なりのぶ)公の信任厚かった岡井蓮亭は、いずれ起こるであろう後継問題を心配していました。蓮亭は斉脩公に懇願し、弟君の敬三郎殿を世子とする旨の自筆の手紙を書いていただき、それを厳重に保管しました。蓮亭は文政九年に死去しますが、死の床に彰考館編集員の根本三十郎を呼び、その手紙を托しました。斉脩公の重態が伝えられると、根本三十郎はその手紙を江館総裁である青山延于に渡し、事の次第を説明しました。敬三郎殿を推すことに決めていた延于は驚くとともに、勇気を得ました。

 斉脩公いよいよ重篤、との報に接した延于は、水戸の藤田東湖に斉脩公の危篤を急報すべく自分仕立ての飛脚を発足させました。同時に水戸藩上屋敷に江戸家老を訪ね、清水侯擁立の非を鳴らし、その運動の真偽をただし、斉脩公自筆の手紙を大声で読み上げ、敬三郎殿こそが後継たるべき旨を主張しました。清水侯擁立派の江戸家老は延于を叱責します。

「儒官たる者が政治向きのことに容喙するな、この出過ぎ者め。儒官は書物を読んでおればよい」

 延于は屈せず、鷹のような眼光をますます鋭く光らせ、この時ばかりは意識して脇差しの柄に手を掛けつつ、斉脩公の手紙を示し続けました。激論数十分の後、江戸家老はついに言いました。

「清水侯擁立の話はいったい誰が画策しておるのかわからぬが、調べよう。また、この場で約束はしかねるが敬三郎殿のこと衆議によって諮りたい」

 延于は納得して引き下がりました。一方、水戸では藤田東湖を中心として敬三郎殿擁立のための南上運動が始まっていました。敬三郎殿擁立派の水戸藩士、またその藩士ゆかりの町人や百姓までが集団となって江戸へ上ります。無願出府は御法度ですが、これは一種の示威運動でした。士分以下の者は松戸の関所で足止めを食いましたが、士分の者は小石川藩邸に入り、藩内藩外への工作に奔走しました。この時の働きが評価され、東湖は敬三郎殿すなわち第九代水戸藩主斉昭(なりあき)公の側近中の側近となります。十月四日、斉脩公死去。まだ三十才でした。その死とともに正式の遺書が発表され、敬三郎殿が世子と決定しました。


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