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耐火式土蔵造御文庫

 皇朝史略の刊行が決定したことは延于(のぶゆき)の気持ちを多少は軽くしましたが、あいかわらず不眠がつづき、火災に対する極度の心配からくる心労が蓄積していきました。政治的には無能に近い延于は、ただただ愚直に正論を訴えることしかできません。しかも癇癪を爆発させながら主張するので、相手をみんな敵に回してしまいます。裏工作をするには常日頃からそれなりの用意や人脈づくりが必要になりますが、延于にそんな準備はないし、できもしないのです。結局、何一つ事態は動きません。

(おれは軽々しく騒ぎすぎたのかもしれぬ)

 若い頃、師の立原翠軒が親身になって忠告してくれたことを延于は思い出しました。いい年をして反省せざるを得ません。延于はしばらくの間おとなしくすることに決めました。不眠つづきで疲れきっていたので、人に会って話すことさえ億劫になっていました。その意味でもちょうどいい休息です。

(敵をつくっては意味がない)

 延于なりの精一杯の知略です。延于は黙りました。江戸家老や勘定奉行などは、遠目に延于を見つけるだけで警戒するようになっていましたが、顔を会わせても延于が一向に口を開かないので、やや意外の感を持ちました。しかし、そうなってしまえばそれが当たり前の日常になりました。延于にとって沈黙を守るということは実に腹ふくるる業でしたが、とにかく耐えました。

 延于は意識して遊ぼうとしました。幸いにも町人文化が真っ盛りの時代です。青山家の女子どもたちと連れだって小石川橋のそばから舟に乗り、芝居見物や踊り見物に出かけます。もともと江戸の生活が気に入っていた延于ではあるのですが、極度に疲労している今の延于には娯楽さえが苦痛です。芝居も踊りも酒も花見もいっこうに楽しくない。延于は、自分がよほど疲れていると自覚しました。娯楽というものは、心身が健康な者にとってこそ悦楽になりますが、不健康な者にとっては苦の種でしかありません。そもそも心身の苦痛と常に闘っているのですから、楽しむだけの心の余裕がありません。延于は、楽しみのために出かけても、ただただ疲弊して帰るだけでした。

 そんな頃、水戸では大事件が起きていました。水戸藩領大津浜に英国船員十二名が上陸したのです。藤田幽谷の私塾青藍舎に学び、水戸彰考館の館員を勤めていた会沢安は筆談役として折衝の場にありました。かねてよりロシアの北方経略に関心を持っていた会沢は危機感を強くし、翌文政八年に「新論」を著わして藩主斉脩(なりのぶ)公に献上しました。「新論」は攘夷論者のバイブルとして後に広く読まれますが、まずは水戸藩内に普及していきました。攘夷というのは、思想というよりも、むしろ保守的な土着感情です。余所者に対する排他的な感情が基礎です。その感情にまがりなりにも思想としての形を与えたのが会沢の新論だったといえます。元型が素朴な感情であっただけに、攘夷思想の浸透力は強力でした。


 その数日後、小石川江戸藩邸五十間長屋の青山延于(のぶゆき)は、火事を知らせる半鐘を耳にしてガバと跳ね起きました。ズカズカと不寝番部屋に向かいます。のんびりしている不寝番を延于は怒鳴りつけます。

「火事は近いぞ。備えは大丈夫か」

 不寝番は怪訝な顔をして聞き返します。

「火事?と申しますと」

 延于はイライラして持ち前の癇癪を破裂させます。

「その方らには、あの半鐘が聞こえぬか」

 一同、耳をすませました。

「?」

 何も聞こえません。

「青山総裁、どうなされました」

「騒がせてすまん、なんでもない」

 延于はバツの悪そうな顔をして立ち去りました。

(なんということだ)

 部屋に戻った延于は大きく溜息をつきます。自分が情けなくてしかたがありません。確かに半鐘が聞こえたのです。が、空耳でした。延于は追い詰められていました。もはや自己制御が効かなくなっているのです。

 数ヶ月間おとなしくしていた延于は、再び耐火式土蔵造御文庫の建言を口喧しく主張し始めました。その目は異様に据わっていて凄みがあります。

「また始まったか」

 建言を聞かされる方は、いつものこととして片付けようとしました。江戸家老はいつもどおりに返答します。

「意見はわかっておる。しかし、緊急の仕事は山ほどある。儒者は儒者らしく本を読んでおればよい」

 延于がさらに口答えするのはいつものことですが、江戸家老が驚いたことに、延于は脇差しの柄を握っています。延于がすっぱ抜けば無傷ではすみません。儒官とてひととおり剣術の心得はあるのです。

「無礼であろう、悩乱したか」

 江戸家老は叱りつつ、逃げるように立ち去りました。延于はなおも大声を張り上げます。

(あの馬鹿、どうしたというのだ)

 家老は冷や汗をぬぐいます。勘定奉行のほか数名の高官もまったく同じ目に遭いました。青山延于の言動には、ただならぬ気迫、というより狂気がありました。誰もが身の危険を感じました。藩官僚たちは事なかれ主義です。問題が起こらぬ前に手を打ってしまいたいと考えます。

「いっそ青山のいう土蔵を造ってしまえば、あの馬鹿も大人しくなるのではありますまいか」

 衆議一決しました。それまで斉脩(なりのぶ)公から指示があっても面従腹背で先送りしていた耐火式土蔵造御文庫について、江戸家老が藩侯に許可を願い出ました。

「よきにはからえ」

 斉脩公の一声で新文庫の建造が決まりました。青山延于は欣喜雀躍しました。小さな子供が大喜びしてピョンピョン跳ねる様を水戸の言葉で「ひょんこばね」といいますが、延于はいい年をしてひょんこばねをしました。広大な上屋敷内のどこに建てるか、どんな設計にするか、さっそく作事方に乗り込んであれこれ口うるさく催促し始めました。あいかわらず大声で癇癪を破裂させるのですが、その顔には喜悦が充溢しており、怒っているというより喜んでいるようにしか見えません。そのため怒鳴られる方もそれほど悪い気がしませんでした。

 御文庫の建造となれば作事方が彰考館総裁の意見を聞くのは当然です。青山延于は大喜びで意見を言い言いします。耐火性を高めるためには、周囲の木造建築物から離れた敷地を選ばねばなりません。飛び火による延焼を防ぐために屋根は瓦葺きとし、厚さ一尺つまり三十センチにもおよぶ土壁で四周を囲います。耐火性を増すために窓や出入り口は小さくします。万が一の事態に備えて目塗台を設け、用心土を準備しておきます。いざ火事という場合、窓や入り口をすべて閉じ、その隙間に用心土を詰め込んで火を防ぎます。目塗りです。目塗り作業を容易にするため窓の下には目塗台を設けておきます。やがて、既存の木造御殿や長屋から十分な距離を置いた空地に独立棟の土蔵を建設することが決まり、間取りなどの設計についても詳細が固まっていきました。喜びは心身の健康によいものらしく、あれほど延于を苦しめた不眠が徐々に治っていきました。そんな頃、部屋住の敬三郎殿から声がかかりました。

「量介、その方、なかなかの役者だな。刀の柄に手を掛けるなど上手い演技だ。しかし、尻の重い役人どもを動かすにはその程度のことをせねば動くまい。おれは話を聞いて感心したぞ」

「いや、その」

 延于には演技をしたという意識がありません。ただ無我夢中だったのです。いや、実際に狂っていたのかも知れません。

(おれは刀の柄に手を掛けていたのか)

 馬鹿な話で、言われてみてはじめて気がつきました。

 やがて設計がすむと建設が始まりました。延于は暇さえあれば現場を訪れ、うれしげに督励しました。あいかわらずの癇癪持ちではありましたが、上機嫌な癇癪です。

 文政十年春、待望の御文庫と附属の仕事部屋が完成しました。引っ越しは早い方がいい。延于は待ちかねたように江戸彰考館の蔵書の移動を命じ、数日のうちに完了しました。この年には皇朝史略も刊行され、延于にとってはよい年となりました。


 その年末、水戸藩上屋敷の御殿屋敷が火災のため焼失するという事件が起こりました。その夜、延于は脱兎のごとく御文庫に向かって走り、その無事を確認すると、燃えあがっている御殿屋敷へ走りました。かつて江館のあった辺りは濛々たる煙に巻かれ、炎がチロチロと顔を出しています。

(目にものを見よ)

 御文庫の建造を嫌がった藩官僚どもに言ってやりたいと思いました。延于は感謝したいような気持ちになりました。もし耐火式土蔵造御文庫の完成が遅れていたら、江館総裁たる延于は腹を切らねばならないところでした。とにかく日本の宝とも言うべき彰考館の資料群は無事です。

(天の助けだ)

 延于は心の中で快哉を叫ぶと、藩主斉脩公のご所在を確認すべく走り回りました。畏れ多いとは思いましたが、延于は奥にまで駆け入りました。奥のお庭に斉脩公は床几を据えておられました。お側には奥女中ばかりで不用心だったので、小姓に命じて人を呼びにやらせました。そこへ江戸家老がやって来ました。延于の姿を認めると、江戸家老は意外にも延于を叱責しました。

「奥御殿のお庭に入るとはもっての外、ここはご禁制である。即刻退散せよ」

 延于は持ち前の癇癪を破裂させました。

「ご禁制は平生のことでございましょう。今は非常時、殿とご女中様方ばかりで放っておけましょうや」

 延于は江戸家老を睨みつけました。その目に狂気はありません。翌日以降、幕府や各藩の儒官、在野の儒者などから火事見舞いとともに、御文庫は無事かという問い合わせが殺到しました。江戸彰考館総裁青山延于は、その都度「心配ご無用」と胸を張って答えました。かつて延于にさんざん凄まれて、しぶしぶ御文庫建設に同意した藩官僚らには延于の得意面が面白くありません。腹立ちまぎれに陰口をたたきあいました。

「あいつは本の虫だから、本の虫が知らせたのだろう」


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