藩政混乱
斉昭公が藩主となって後、二百石以上の藩士に馬を飼うことが義務づけられました。そのため青山延于は五十の手習いで馬に乗らねばならなくなりました。天保十一年からは追鳥狩が始まりました。いわゆる鷹狩りですが、これは名目であり、実質は軍事演習です。そのため水戸藩士はその石高に応じた軍装軍役を整えねばならなくなりました。軍装軍役に不備があれば、罰が与えられます。罰則は厳しく、怠ければ家禄没収にもなりかねません。多くの藩士は長年の貧乏暮らしに耐えかねて、家重代の鎧兜を質屋に入れていましたが、それを無理に借り出して、やっとの思いで軍装を整えました。延于も軍装を整えて追鳥狩に参加するため、馬術を練習せねばなりませんでした。しかし、年をとりすぎていたためか馬術は上達しませんでした。
ある日、延于は馬に乗って弘道館に出仕しました。門をくぐろうと馬を進めると、何に驚いたか、馬がにわかにさお立ちとなりました。延于は後ろに飛ばされ、門の鴨居に頭をしたたかにぶつけました。それ以来、軽い中気になりました。
別の日、延于の門人四、五人が連れ立って歩いていると、街道の向こうから濛々たる砂煙を上げて駆けてくる単騎があります。皆、道の脇へ身を避けました。よく見ると年配の侍が馬のたてがみにしがみついています。すれ違う際にそれが青山延于だとわかりました。
「青山先生、どちらへ」
門人が呼びかけると、延于は答えました。
「馬に聞いてくれ」
そのまま疾走し去りました。天保十四年春、水戸城下に火事がありました。真夜中であったにもかかわらず、延于は馬を飛ばして火事場へ駆けました。彰考館の蔵書群が気になったのです。現場に着くと延于は落馬し、戸板に乗せられて帰ってきました。それ以来、半身マヒの状態になり、一ヶ月にわたる湯治もあまり芳しい効果をあげませんでした。その年の九月六日、青山延于は死にました。六十七才でした。斉昭公が藩主となって十三年、まさに急進的な藩政改革が強引に進められている真っ最中でした。
この翌年、つまり弘化元年五月、斉昭公は幕府から突然の譴責をうけて隠居謹慎を命ぜられ、藩政への関与を禁じられてしまいます。斉昭公により逼塞させられていた諸生党が水戸藩政に復帰し、藩を支配しました。斉昭公に抜擢されていた天狗党の者たちは左遷、謹慎などの処分を受け、斉昭公の藩政改革は一頓挫します。天狗党と諸生党の政争による幕末水戸藩の混乱の始まりです。
五年後の嘉永二年、幕府の嫌疑がやっと解けて斉昭公の藩政関与が許されると、再び天狗党が藩政の実権を握ることになります。ところが九年後の安政五年、安政の大獄によって斉昭公は再び蟄居謹慎の処分を受け、藩政の揺り戻しが起こります。こうして政権交代のたびに報復人事が繰り返されました。
はじめて血が流れたのは安政三年です。かつて執政をつとめた結城寅寿が殺されました。結城は、斉昭公が幕譴を受けて蟄居させられている間、水戸藩執政として実権を振るった諸生党の首領です。藩政復帰を果たした斉昭公はただちに死賜により報復しようとしましたが、それを止めたのは藤田東湖です。結城は監禁処分となりました。しかし、藤田東湖は安政二年の大地震であっけなく圧死してしまいました。牢中で東湖の死を知らされた結城寅寿は、自分の死を予想して人に語りました。もはや斉昭公の復讐心を止める者がいなくなったのです。
結城は、郊外の長倉にある陣屋に監禁されていました。そこへ三人の武士がやってきました。棺桶をかついだ人足を伴っていました。三人の武士は二人の牢番を呼びつけ、今からここで起こることを絶対に口外するなと言いつけました。武士たちが牢へ入るとしばらくして結城の大声が牢番の耳に聞こえてきました。
「ただ一度のご詮議もなく。執政まで仰せつかったこの私にただ一度のご詮議もなく」
その声は明らかに抗議の意志を訴えていました。急にドタバタと人々が動き回る物音が聞こえ、やがて静かになりました。牢から出てきた武士は牢番二人にそれぞれ五両を与えて言いました。
「絶対にしゃべるな」
結城の遺体は、身分の低い死者が入れられる居棺に身体を屈して入れられ、どこかへ運ばれていきました。この結城事件以後、水戸藩内に暗殺が横行するようになり、藩は徐々に統治能力を失っていきます。斉昭公を継いで第十代藩主となった慶篤公は「よかろう様」という渾名がつくほどに無定見でした。そのため天狗党と諸生党の争いがやまず、明治維新の頃には天誅事件が横行する無政府状態になってしまいました。血で血を洗う悲惨な水戸藩の内乱状態を見ることなく死んだことは、延于にとって幸いだったかもしれません。
青山延于の死後、幕末に向かうにつれ、「皇朝史略」が全国的に読まれるようになりました。「皇朝史略」は青山家で印刷製本されていました。製本用の版木はすべて青山家の倉庫に積まれています。注文が入ると、四男延寿が活躍します。延寿は、父延于のような癇癪持ちでもなく、長男延光のような韜晦的人格でもなく、快活明朗な人物で、身体を動かすことが大好きでした。延寿は、一枚一枚手ずから和紙を木版にあてて刷り、一冊一冊和綴じに製本しました。時には連日百冊以上を製本したこともありました。
「皇朝史略」は維新後も初学者向けの日本通史として重宝されました。延寿の娘の千世は維新後、東京に出ました。勉学に志した千世は、明治八年七月、お茶の水女子師範学校の入学試験を受けました。その試験科目の中に漢文があり、「皇朝史略」の一節が出ました。漢文は満点の出来でした。
千世の娘、山川菊栄は水戸の故老の談話を収集し、「幕末の水戸藩」、「武家の女性」、「女二代の記」などを著わしました。
水戸藩が気の遠くなるような時間と労力とを投入して編纂した大日本史全三百九十七巻が完成したのは明治三十九年です。




