彰考館
寛政九年、立原翠軒と藤田幽谷の師弟間に対立が生じました。彰考館の一館員に過ぎない幽谷が、彰考館総裁に無断で藩主治保公に上書したのです。上書とは意見具申のことです。幽谷の上書は「丁巳封事」と呼ばれます。丁巳とは寛永九年の干支、封事とは古代中国で上書を意味する言葉です。その内容は、大日本史の編集方針に関する意見から藩政改革論、はては藩主の修学態度にまで及んでいました。藩政府は幽谷を不敬とし、彰考館員を免職にしました。面目を失った総裁の立原翠軒は幽谷を破門とし、師弟関係を断ちました。このとき幽谷は十九才に過ぎません。この後、翠軒は死ぬまで幽谷を許さず、幽谷から季節の進物や手紙が届いてもいっさい無視しました。
当時、彰考館の大日本史編纂作業に関しては、三つの大きな論点がありました。大日本史の三大議といわれます。ひとつは「大日本史」という表題に関する議論です。幽谷は、支那および日本の歴史を詳細に考証し、「史稿」という表題がふさわしいと結論づけました。しかし、翠軒は従来どおり「大日本史」で良いと主張しました。ふたつ目の論点は志表に関するものです。大日本史は、本紀、列伝、志、表の四部から成っています。このうち本紀とは、歴代王朝の事績を記述する部分であり、列伝とは個々の人物に着目して記述する部分です。本紀と列伝をあわせて紀伝といいますが、紀伝の部はすでに一応の完成をみており、校正段階にありました。問題の志表とは、天文、地理、制度、軍事、文化などについて記述する志と、歴史年表である表とからなります。この志表の部の編纂が思うように進んでいませんでした。そのため翠軒は、これを中止すべきだと主張しました。これに対して幽谷は継続すべきと主張しました。第三の論点は論讃に関するものです。論讃というのは評論というほどの意味です。大日本史の中に評論的な記述を加えるべきか否かが議論されていましたが、この点でも翠軒と幽谷は意見を異にしました。
こうした議論は彰考館内で盛んに行なわれ、青山延于も機会があれば大いに論じました。そして、志表の部に関しては作業を継続すべきだという意見を持ち、この点では幽谷に賛同していました。しかし、延于は自分の意見を言い、人の意見を聞き、議論に参加することで十分に満足していました。さらにいうならば、彰考館員としての地味な作業に自分なりの意味を見出して満足してもいました。修史作業というものは、資料を写本したり、すでに完成した文章を校正したり、疑問を感じる部分があれば出典にあたって確認したりするというような地味なものです。厖大な蔵書の中から目指す文章を探し出すのはいちいち時間がかかります。歴史に間違いがあってはならず、自分の記憶に自信があっても念のため出典の文章に立ち返って誤りのないことを確認せねばならないのです。そういう日常に延于は疑問も不満も持ちませんでした。
幽谷とて、彰考館館員として同様の作業に従事していたのですが、それだけでは満足できず、三大議に決着をつけるべく上書を認めて意見具申したのです。三大議については治保公から彰考館総裁立原翠軒に対して諮問が行なわれており、幽谷が総裁の頭越しに上書して良いはずがありませんでした。度胸がいい、というより無謀でした。
彰考館は、江戸と水戸とに置かれていました。それぞれを略して江館、水館といいます。総裁の立原翠軒は主に江館に詰めていたので、突然の幽谷の上書には驚かされました。さらに、かつての弟子である幽谷の性格も知り抜いていたことから、徒党を組んでいるに違いないと疑心暗鬼を生じ、幽谷のまわりにいた若手館員までをも免職としました。とばっちりで青山延于も免職になりました。
(師の顔に泥を塗りおって)
というのが翠軒の感情です。いったい誰が古着屋の次男坊を推挙してやったと思っているのか。免職された青山延于にとっても青天の霹靂です。延于はたしかに志表を継続して作業するべきだと意見しましたが、まさか幽谷が総裁の頭ごしに上書するなどとは夢にも思っていませんでした。
(熊之介さんは何をそんなに急ぐのだ)
幽谷に面と向かって怒鳴りたくもなりましたが、同時に、幽谷が危険人物であることを身に染みて知りました。たしかに幽谷の学識、才気、胆力は水戸藩内でも抜群ですが、あのように過激なやり方では藩内に波風を立てるだけです。実際、今回の事件によって江館対水館、立原派対藤田派という学派対立が生じてしまいました。
この学派対立は根強く水戸藩内に蔓延り、人事や人心に多大な影響を与え続けます。この事件の三十六年後、天保三年に豊田天功が上書した「中興親書」にも学派の弊害が指摘されています。
「水戸ニ立原、藤田学派ノ同異ゴザ候テ、ソノ余毒今ニ絶エ申サズ」
その深刻さがわかるというものです。
延于は、ついひと月前のことを思い出していました。この年の八月、延于は立原翠軒総裁に呼ばれて江戸へ上りました。水戸では江戸へ行くことを南上といいます。延于にとっては生まれてはじめての江戸でした。水戸から江戸までは大人の足で三日二晩かかります。延于は足取りも軽く南上しました。初めて見る江戸はまるで異国でした。見るもの聞くものが珍しく、若い延于は昂揚しました。延于が小石川の水戸藩上屋敷の長屋に腰を落ち着けると、翠軒は機会あるごとに延于を連れ出し、各藩の儒官に紹介してくれました。また、藩主治保公に侍講する機会まで与えてくれました。侍講とは、君主に対して学問を講義することであり、儒官にとってはこの上ない名誉です。
暇な日には江戸市中を歩いて廻りました。ある日、延于は湯屋というものに入ってみました。初めてなので勝手がわかりません。見よう見まねで座っていると、見知らぬ男が延于の背中を流してくれました。
(江戸の人はこんなにも親切なのか)
延于が感激していると、その男は延于に手拭いを渡して背中を向けました。当然、延于はお返しに背中を流してやらねばなりません。ところが、人の背中を流したことがなかった延于は、遠慮しておそるおそる流しました。
「おえ、おさむれえさんよ、コンニャクの背中じゃあるめえし、もっと力を入れねえかい」
言われてしまいました。普段の延于なら黙っていないところですが、そこは勝手のわからぬ田舎者の悲しさで文句のひとつも言い返せませんでした。そんな江戸の思い出がまだ生々しい。延于は翠軒先生に感謝こそすれ、叛意などまったくありません。
(先生に会わせる顔がない)
延于は、幽谷から距離を置くべきだと思いました。
(しかし、熊之介さん方が放っておいてくれるかどうか)
彰考館を免職になるとお役料がもらえなくなります。しかし、青山家の長男である延于には食いっぱぐれる心配はありません。お役料とは職務に対する手当であり、これとは別に家禄があるのです。家禄は当主である一之進が受けとっており、いずれは延于がこれを引き継ぎます。御役御免になった延于は小普請組に入れられました。無役なので時間があります。延于は、父の私塾を手伝ったり、読書をしたり、剣術修行をしたりして過しました。青山家の家計はあいかわらず火の車でしたが、女たちの働きのおかげで食うに困るということはありませんでした。
五年が過ぎた享和二年、延于は二十六才になりました。この年、治保公の意向で五年前に免職とされた若手館員が彰考館に戻されました。延于も戻りました。一之進、延于の父子は大いに喜びました。すでに病床に臥せっていた一之進を安心させるため、延于はこの年に結婚しました。それに安堵したわけでもないでしょうが、一之進は間もなく亡くなります。亡くなる直前、父は延于を枕頭に呼んで告げました。
「お前の生みの母は黙って勝手にこの家を出て行きおった。今は湊の二川屋にいる。わしとしては、あの女のわがままな振る舞いを許すことはできぬ。しかし、それもわし一代のこと。お前は母をこの家へひきとり孝養を尽くすがよい」
十九才で突然に青山家を出奔した娘も、すでに四十半ばの年令に達しているはずでした。二川屋に出戻った娘は、再婚するわけでもなく、親元で気随気ままな生活を楽しんでいました。商家の生活がよほど性に合っているらしく、ほどほどに仕事も家事も手伝いながら、遊ぶときは派手に遊びました。この娘が仕事場や台所で元気な声を張りあげると、家中の雰囲気が明るくなり活気が出ました。この出戻り娘は決して厄介者でなく、一種の客分的存在として奉公人にも取引先にも一目置かれる存在になっていました。当初、このわがまま娘をもてあましていた両親も、好きにさせるしかないとあきらめました。
延于の使者が二川屋に迎えに来たとき、さすがに二川屋の娘には感慨が湧きました。うれしくないわけではありませんでしたが、すでに思いきったことです。
「せっかくのご厚意は本当にありがたいと思います。しかしながら、わたくしには武家屋敷の生活は無理でございます。わたくしは湊の商人の空気の中でしか生きられません。ここが極楽なんです」
使者にそう言い、娘は二川屋に頑としてとどまりました。この時代、二川屋の娘の言語振舞は、おおげさにいえば婦人道に対する侮辱でした。ですが、武家社会の者たちが何と非難しても、彼女の勇気と二川屋の経済力とが娘を守りました。商人仲間は快哉を叫びました。
ちなみに青山延于の悪いところ、つまり、ひとたび議論となると相手構わずズケズケと傍若無人な直言をしてのける性質は、いつまでたっても直りませんでした。そのため事情を知る人々は、「延于のあの性格は二川屋の娘から受け継いだものだろう」と噂しました。




